10.食器洗い
翌朝、霧のかかる早朝から町を出てみた三人だったが、魔物と呼ばれそうな生物に遭遇することもなく、周辺を探索するも周囲には何も居なかった。
「………。なんでどこにも居ないんだよぉ」
歩きつかれた透は丘陵が続く草原に、崩れるように腰をおろした。それでも、あたりに目標となる魔物がいないか探してみる。
だが、あたりには草原が広がっているばかりで、時折涼しげな心地よい風を吹かせるだけである。
透は、もう一度あたりを見渡すと仰向けに寝ろんだ。草原だけあって、空がとてつもなく広く、そして高い。雲がまばらな塊となって、晴れと曇りの間のような天気だ。
晴れの日のように空は霞まず真っ青で、雲は巨大な塊がまばらに流れていき、草原に大きな影を落としている。時折天使のカーテンと呼ばれる雲の隙間から見える光が壮大な景色…と透は思った。見ていてこんなに清々しい天気も珍しい。
今はちょうどいい具合に涼しいが、大きな塊の雲が流れていくと言うのを考えると近いうちに雨が来そうな天気だ。
気の所為か、雲の密集率が多くなってきているようだ。
「明日か明後日には雨が降るかな?………にしても、空にはもうあんなに高く日が上ってるしさぁ」
透が嘆いていると、腹に住み着く食欲旺盛な虫が鳴いた。
しかし、現実の世界の体の時とは違い「グゥ〜」ではなく、「クゥ」と短く少し高い。体調の影響なだけだろうが、妙に悲しい気持ちになった。
「………腹減った〜。一度戻ろうよ、由久〜。…ヨォシィヒィサァァァアアッ!!!」
大声で泣き叫びに近い声を出すと、丘が連なる草原に突如、出現するかのように向こうの丘から金髪の頭が見え、由久が顔を出した。
――こいつの顔は大体がしかめ面だから面白くないな…。
起き上がりつつ、由久は相変わらず無表情に近い顔をしているので、透は何気なく思った。眉間にしわを寄せ、微妙に鋭い目線を放ち続ける。 悪く言えば、不機嫌に気だるそうな表情だ。
「それもそうだな………。お店のオヤジさんに頼るのは乗り気じゃないが、仕方ない。一度戻っか。――マツオーッ!帰るぞー!」
先ほど透が叫んだ声を上回る大声で辺りに叫ぶと、ほどなくして松之介が、透の後ろにある丘の方から汗ばんだ面を下げてだるそうに歩いてきた。
「どうする?勝手な考えだけど、オヤジさんのお店で、日替わりで手伝わさせてもらおうか。一人がお店、二人が魔物狩りにってさ」
松之介が会話の聞こえるくらいの距離まで来たとき、立ち上がりながら透が提案した。
「いい考えだが、その手伝いと狩りに行く奴はどうやって決めるんだ?」
松之介が聞き返した。先ほどの見た目に反して、結構元気が残っているようだ。透が立ち上がったのを確認すると由久が歩き出す。松之介が透の横をすぎて由久を追っていく。
「交代交代さ。やっぱ、これもジャンケン?」
「いや――」
透がにやりと笑うが、由久が真剣な面持ちで首を振った。
「いや、これは話し合いで決めよう。それより、まだ手伝わせてくれるかどうか決まっているわけじゃないんだ」
その後、街向かって三十分ほど歩き――あたりが草原で遮蔽物がないので、一見近いように見えるが、結構距離があったのだ――街に入った後も魔物の居場所の特定にいろいろ話しながら宿屋に戻った。
しかし、宿屋の前まで来たところで透が待ったをかけ、代表を選ぶことにした。選ぶ方法は結局のところじゃんけんだったが、見事透は一度目で負け、泣きのもう一戦も相子の激戦の後、あっけなく敗れ去った。
由久曰く、「言いだしっぺは負ける」らしい。
「手伝わせて欲しい?」
負けたために、渋々一人で厨房からオヤジさんを連れ出すと、透が率直にお店を手伝わせてほしいと申し出た。それを聞いて、店長であるスティルの父「オヤジ」は声を裏返させた。
「あ、はい。あの、ハンターとして、要請とか、魔物が居る所を見付けるまでで良いんですけど………」
驚いた表情のオヤジに当惑している透は、気まずそうに顔を赤らめた。 あれは多分、冗談のつもりでいったもので、きっと次の瞬間には困った顔をされる、と透は思っていた。だが…
「それはいい!丁度良かった!」
オヤジは上機嫌な様子で手をたたくと、大きい声でそう言った。そのあまりの声に透は驚いて小さく飛び上がった。
「昨日、このレストランに働きに来ていた奴が隣町の実家に帰っちまって、人手が足らない所だったんだ!なぁに、仕事が出来るまでとは言わずにずっと働いてくれたっていいんだぞ?」
陽気に笑って、申し出た透の頭を撫でた――つもりなのだろうが、わしわしとやられ、意外と痛い。 どうやら、男気のある撫で方は、相手の頭部にダメージを与えるようだ、なんて透はふざけた考えを巡らせていた。
軽く乱れて、視界の邪魔になる髪の毛に手串を入れつつ部屋に戻ってみると、二人は窓際にあるソファーに向かいあって座っていた。
二人にオヤジとの会話を報告すると、思った以上に順調に進んだ話に喜んでいた。
「早速、当番を決めたいんだけど、オヤジさんがさっき、早速今日の午後から働いてもらいたいってさ」
透が言うと、歓喜の声がすっと消え、三人は考え込んで黙った。
――今日、やれば、午後だけですむ。楽って言えば楽なんだけど………。
透は悩んでいた。今日やってしまえば、午後がしか無いから他の日よりは楽だろう。でも、街の外に出て、探しに行きたいのも事実。
店の手伝いをさせられるゲームより、魔物と果敢に戦っていくゲームの方が、断然楽しいはずだ。だが、店の手伝いもやらなくてはいけないことだ。
このままでは、旅に出ても餓死して死んでしまう確率が高い。透はどちらかといえば、万全な準備で旅をしたい。途中で空腹に悩みながら倒れることだけは何よりも避けたかった。
――どっちを取るかだよな………。
その事については三人とも同じく悩んでいた。互いに黙り込み、話が進まず刻々と手伝う時間が迫ってくる。
「………。」
「………え、えっと…、んじゃ、今日は俺が手伝いに行くよ」
もじもじと言い出したのは透だった。言葉に出している最中、透が五回は確実に後悔した。だがその度に、半日の方が楽、と自己暗示をかけた。
「一番にやっちゃえば、後は気持ち的に楽だから」
緊張で強張った笑顔でそう言うと席を立ち、昼食が置かれている脚が高い円形のテーブルに移動した。由久と松之介も後に続く。
「そうか、それじゃぁ明日は俺だ」
ちょうど透が椅子を引いて席に着いた時に、由久が言った。
「二番手は良いもんだぜ」
由久も、椅子を片手で引きつつ、体を滑り込ませるように座った。彼の言葉に透の決心が音を立てて揺らいだ。
「で、三番目は松之介だね」
その、心の中に響く軋んだ音を振り払うために、わざと演技じみた明るい声で言った。 松之介も椅子に座ろうとして居たところで、彼が頷くのを横目に見ながら、フォークでフライドポテトを突き刺して口に運びながら言った。
今日の昼食は、パンに生ハムとハンバーグ、フライドポテトとサラダにコンポタージュだ。
「ん――でもさ」
コンポタージュを口に流し込み、呑み込んでから透が言った。食事の手を休める。
「手伝いって一体なにをするのかな」
二人は構わず、しばらく黙って食べつづけると、
「ここは、皿洗いがベタじゃないか?」
ハンバーグの一切れを頬張りながら、由久が答えた。
「もしかしたら、接客だったりしてな」
「無理無理。姿はこれでも、やっぱり中身は変わんねーから」
松之介の言った事に由久が突っ込み、二人して違いないと笑い出した。
「それはそうだが、なんだ?俺ができないって、いつ、誰が決めた?」
透は二人の酷い言い様に憤慨した面持ちで言い返した。これでもバイトで接客には一応に慣れたつもりだ、と。
そうこうしている内に、誰かがドアをノックしてきた。一番に気付いた透が「はい」と答えて立ち上がり、ドアを開けると、そこにはスティルが相変わらず愛想の無い表情で立っていた。
「手伝う人を呼んで来いって言われたんだけど――」
スティルは透の横を通り過ぎて部屋に三歩ほど入り、軽くため息をつきつつ疲れたように言うと「――で、手伝う人は誰?」ソファーに座っている二人を見た。
「あ、おれ」
透は小さく手を上げると、スティルは横にいる透に視線を移した。
「………じゃ、ついて来て」
昨日と同じく、品定めするかのようにみると、素気無く言って、廊下に出ていった。 慌てて透も後を追って部屋を出る。視界の端で、二人が手を振って見送っているのが見えた。
部屋を出て廊下に曲がる際、透もそれに手を振りかえして応えた。
急ぎ足で追いつく。すると、階段の段を五段ほど降りたところで突然止まり、透の方に向き直った。
「君さ………」
彼が今、どんなふうに考えているのかはわからない。ただ、その声には少しだけイライラとしているのが読み取れた。
透は思わず固まる。すると、何を言い出すのかと思っていたら、
「お客さんの前とかで、自分の事を『おれ』って言わない方がいいよ」
「え?………。……………。あ〜…うん」
透は言われてからしばらく、理解するのに時間を食ったが、どういうことかようやく呑み込めると、沈んだ声で答えた。
「個人の時は別にいいけど、手伝いっていてっも仕事だから。あと――」
スティルは少しだけ鼻を嗅ぐわせると、ポケットから小瓶を取り出した。薄黄緑の透明な液体に、緑色の青い木の実が七〜八個沈んでいる。液体が黄緑色をしているのは、おそらく、この実から色素も抽出されたのだろう。
「さすがに少し汗臭いよ。いくら今が、汗が掻きにくい、涼しい気候だとしてもさすがに汗臭くもなる」
スティルはそう言いつつ、透に小瓶と布切れを差し出す。透は受け取りつつ、「これは?」と聞き返すと、
「その布切れにしみこませて、拭いて使うんだ。間違っても瓶から体にかけないで」
淡々とした口調で説明をすると、スティルは先に降りて行った。
透は、自分が聞きたかったのは、「これはどういうものなのか?」ということだったのに…と少し落胆しつつ、ふと、誰もいないこを確認すると襟を引っ張って臭いを嗅いでみた。
「…う………」
絶句して顔をしかめる。酷すぎて嫌になったと同時に、これはゲームなのにここまでするか?と、腹を立てた。
早速、スティルから貰った小瓶の栓を開けて布切れを口に押し付けると、引っくり返してすぐに戻した。 口の形からやや広がったシミが布切れに出来て、そこから清々しい香りと微妙に医薬用のアルコールのような臭いがした。
いささか不愉快な気持ちで体をふきつつ――拭いてみると、汗の臭いが消えて緑茶より少し青っぽい匂いがした。アルコールのお陰で拭いた所はスッと一時的にだろうが、サッパリしていく。
服の臭いを嗅ぎながらも(幸いにも服には匂いが付いていなかった)階段を降りて行くと、スティルがレストランの方に行くのが見えた。
一瞬、こちらを見ていた気がするのは、おそらく、どこに行ったか分かる程度に先行していたのだろう。透も階段に直につながっている長い廊下を、騒がしい厨房へ早歩きで歩いていく。
レストランに入るのは今日が始めてだ。
「…おお〜」
今まで、下から聞えるお客の声でいつも人が居るとは知っていた。だが、思っていた以上の人数で店の中は埋め尽くされていた。
十個の円形テーブルは満席で、多くの客の話し声や食器の擦れる音等で賑わっている。
店内は、床と壁の床から五cmは板張りで、そこから上の壁や天井などは外壁と同じく、白く明るい清潔感ある内装だった。 裏口への廊下はカウンターによって『見えない壁』があり、正面からは入れないようになっている。
「ちょっと。突っ立てないでこっちに来て」
声が聞こえ、厨房の方を見ると奥からスティルが顔を出している。
「あ、ごめん。今行く」
そう言って軽く頭を下げる駆け足でキッチンに入って行った。少し狭く感じるキッチンにはオヤジ、そしてもう一人、若い男がいた。親父さんと若い男は手を休めずに料理を作っている。
オヤジは、次の野菜を切るために隣のボールに手を伸ばしたところで、透に気付いた。
「あ、君か。手を動かしながらで悪いが――何分、お客を待たせるのはな。君、接客はやった事はあるのか?」
忙しそうに手を動かしながらオヤジが聞いてきた。雑に切っているように見えるが、腕があるからこその早さなのだろう。先ほどは二人の前で見栄を張ったが、実際のところはさっぱりだ。
「あ…………いえ、やった事がありません」
ここでも見栄を張ってみようかと思ったが、自信がない。自分に失望しつつ肩を落として答えるとオヤジさんは「そうか………」と眉間に皺を寄せる。
どうやらフロアーさんが少なくて困っていたようだ。先ほど客席の方を覗いていたが、確かに一人しかいなかった。
「それじゃ、皿洗いやってくれるかい?終ったら、おれか、そこのダットていう若い奴に言って――エルフィン!サラダ六人前!三番と五番テーブルにそれぞれ三つずつだ!」
オヤジがお皿に手早く盛ったサラダを六皿、カウンターに置くと、エルフィンと呼ばれたエプロン姿の女性が慌ただしく持っていった。
「流しはこっち」
「!?」
後ろから突然、肩を叩かれたとおもったらスティルがエプロンを片手に現れた。驚いている透を余所に、スティルは透の横を通り抜けて厨房の一番奥に入って行く。
――奥と言ってもこの厨房、そんなに広くないからね…。
調味料の入った棚とオヤジに挟まれた狭い空間をヒョイっとすりぬけつつ透は思った。
「早く」
「あ、うん。今――」
透が先ほどと同じく「今行く」と繰り返そうとしたが、透は口をあけたまま固まった。そこには透の想像以上に、食器が文字通り『山済み』になっていて、壁にある窓口からまたお皿が来た。
どうやら流し台とお客が居る所とはこの窓で直結しているみたいだ。洗い手のいなかった流し台の食器は今や小高い丘のようだ。
「いつもは僕か、この前帰っちゃった人が一人でやってるんだけど………」
そう言うと長そでの腕まくりをし、スポンジを二つ取り出した。それまで持っていたエプロンとセットにしてスポンジを一つ透に渡す。
「はい、スポンジ。早く終らせないと、使える食器がなくなって酷いことになるから、テキパキとね」
スティルは流し台から少し離れた棚を指差す。そこに置かれていたであろう膨大な数の食器はなく、残りがあと少ししかないようだ。 その、残り少ない皿をダットが二枚とっていく。その後、すぐにスプーンとフォークがとられていった。
「それに次の仕事が滞って、夜中まで長引くから手早く。」
これまた素っ気無く言うと黙々と洗い始めた。量に戸惑いつつ、袖をまくって隣に立って洗い始める。 聞こえてくるのは、レストランから聞える騒音に流れ出る水の音と、スポンジが皿をこする音。 意外なことに、ここはオヤジたちの立っている場所から三メートルも離れていないのに、中々静かだった。
皿の形状は大小、底の深いものと低いものとで四種類ほどあり、最初は覚束ない手付きだったが、枚数を重ねていく毎に慣れ始め、無意識の中でぼんやりと洗っていた。
「……………。なつかしい」
機械的に手を動かしつつ、ふと透がぽつりと呟いた。感傷的になって、少しだけ目頭が熱くなる。
「…。」
「え、あ、いや、何でもないです!」
目線を感じ、横を見るとスティルが眉間にしわを寄せ、怪訝そうな顔をしたので、愛想笑いをしつつ慌てて首を振った。
再び沈黙が流れる。
――………あ〜…髪の毛、邪魔だなぁ。
皿を取ろうと屈む度に、髪が降りてきて煩わしい。先ほどの感傷的な感情は一片のカケラもなく消え去った。
「………別に怒ってるわけじゃない」
「え?」
スティルが皿の山を見つめつつ静かに言った。不意の言葉に、透は動きを止めて思わず聞き返してしまった。
「僕はもともと、こう言う言い方なんです」
そう言いつつ、水が流れ出てくる蛇口の方へ腕を伸ばして泡だらけの洗った皿をすすぐ。ふと、彼の表情が少しだけ微笑んでいるのに気が付いた。
何故、彼が笑っているのか、透にはわからない。でも、どことなく哀愁を漂わせた、悲しそうな笑みだった。 おそらく本人は、そんな笑みを浮かべているなど露ほども気づいていないだろう。
何か、声をかけなくては。そう思いつつも何と言えば分からず、しかし、相槌だけ打つというのも許せなかった。
「…〜っ!な、懐かしいって言ったのは――」
透は沈黙がたまらず、少し声を張り上げて話し始め、スティルは少し目を細めつつ眉間にしわを寄せた。
「――いや、まだ半年しか経ってないんだけど……。一人で暮し始める前は、家で毎日、家族の分の食器を洗ってたんだ。四人兄弟なんだけど――一番上の姉はもう家に居なくて、実際家に居るのは両親と、二番目の姉とお(俺)………じゃなくて僕と弟の五人。」
スティルは何も反応せずにただ黙々と皿洗いを続ける。ただ、聞いてくれているのは感じた。透は、何を言っているんだ、と自分で思いつつも続ける。
「ここのレストランとは違って、数は少ないんだけど、大小、形の様々な食器を一杯出してきてさ――………毎日、いやだいやだって文句を言いながら結局、全部洗う。でも元々、肌が弱いからさ、すぐ荒れてボロボロになるんだ。」
段々と落ち着いてきて少し、ため息をついた。
「でも、半年も経つとこの通り」
透が、出っ放しの水で泡を流すとスティルに手を見せた。透の手は荒れてなどなく、きれいな肌だ。
「一人暮らしを始めてから、食器を洗う機会が減ったのもそうなんだけど、数が一人前になったから…。水に触れる時間がちょっとで、全く触れない事もある。気が付くと、もう洗い終わってるんだ。」
透も汚れた食器を手に取るとまた洗い始めた。
ふと、この体は『器』であり、透の体ではないことに気が付いたが、現実の透の体の手も荒れてなどいない為、気にせずに続ける。
「そんなとき、時々思うんだよね『一人だな………』って。家に居る家族の事がふと思い出すんだよな。一人っきりでいたり、家に帰ってみて、家族と会っている時は別に懐かしさとか無いのに………食器洗いの時にふと思い出すんだよ………」
透は手に持っていた皿を目線まで持ってくると、遠い目でそれを懐かしむように眺めた。再びスポンジで軽くこすり、濯いで積み上げられた洗浄済みの皿の上にまたもう一枚、加える。
「食器洗いは嫌で嫌で仕方なかった。手が荒れるし、面倒だから……。だから、自分から家を出て一人暮らしをしたいと駄々をこねたけど………。――けれども、一人になって………」
洗うために手元を見下ろしつつ話していた透は、声に熱が入る。
「一人暮らしを始めてから漸くして、そういうことに気が付いたんだ」
「………。」
話終えた透は、その後に続く沈黙の中でハッとして、しまったという顔をした。
明らかに言いたかったことがそれてしまっている。透は途中から馬鹿で、笑えるような思い出話に入るつもりだったが、これでは…無理か。
「…あ、ごめん!意味分かんないことを――」
「…少しわかります。」スティルが手を止めて透の言葉を遮って言った。
「――え?」
透はスティルの予想外の反応に、少し驚いた顔をしてしまった。その顔を見て、スティルはまた笑った。よほど変な顔をしてしまったのだと透は思った。だが、別にどうでもよかった。
そんなことよりも透は、何でこんな笑い方をするのだろう、と疑問に思っていた。
スティルは、そのなんとも言えない笑みもすぐに退かせると、彼は話し始めた。
「僕の母さんは、僕がまだ小さい頃に亡くなった。覚えているのは、お父さんと仲良さそうに料理を作っているところがおぼろげにあるぐらいで、まだ、レストランとしてこんな人気が出る前、少しばかり来るお客さんが使った少しばかりの皿を洗うのが僕の日課だった」
スティルは少し息を吸うと上を見上げた。
「『一人だな……』なんて、思いはしなかったけど、時々母さんと父さんが笑いながら料理を作って、それを僕がお客まで持って行って、上げた皿も僕が洗って…。三人で………」
急に口ごもると視線を落とし、また食器洗いを始める。話すこともせず、そのまま黙々と洗い続けた。 気が付いてみれば、いつの間にか食器の丘は姿を消し、泡の浮いた水面下を沈んでいる数枚になった。
窓口の近くは十枚ほどの食器が積まれているが、スティルが何も言わないところを考えると、それはたまってから再び流し台に投入して洗うらしい。
「そう…お母さんが………」
透は口を開きかけたが、何を言ったら良いか分らず、必死に考えたが何も浮かばないので、情けないと思いつつも、ただ相槌をうった。
スティルは黙って泡の中から皿を取り出すと、
「………。いや、こんな話をした所で旅をするあなたに、何も関係有りませんね。忘れて下さい」
最後の一枚を洗い、優しくもどこか冷えた笑顔を作りながらそう言った。
一足早く裏口の方に消えていく彼を、透はただ心配そうに見送るしかなかった。




