5
「起きて〜。もう朝だよ〜。」
柔らかい何かにぺしぺし叩かれている感覚に耳を傾けると、少しずつ微睡んでいた意識が覚醒し始めた。
「もう後5分………いたっ」
思わずそう口にすると、頬に爪が立った。引っ掻かれた訳ではないが、痛いものは痛い。しかしそのお陰で意識が完全覚醒を遂げたので不問とする。
あっ、トイレ行きたい。
そう言えば昨日は一回もしていなかった。拙い。このままでは耐え切れない。
顔を上げると何処かスッキリしたような顔の上井さんが居た。きっと先にトイレを済ませたのだろう。猫の姿で。
……あれ?
「……秀太くん? どうしたの?」
これは…いや…でも…しかし…
決めた。
「上井さん。トイレに付き合ってくれない? ちょっとこの体だと色々不安で。」
「はぁ………良いよ。ほら、トイレはこっちだから。」
「ごめん…」
素早く上井さんは定位置(谷間)に来ると、尻尾で器用に方向を示した。
「……ありがと。」
顔から火が出そうだったが、ちゃんと覚えた。というか、無茶苦茶恥ずかしい。仮にも同級生に、仮にも自分の恥部を晒すなんて……
「良いの。………気にしないで。」
何故か顔を背けた上井さんだが、そんなの気にしてられない。
そうだ朝食。朝ご飯はどこだ。
「よぉ嬢ちゃんと黒猫ちゃん。飯ぃ用意してあっから!」
嬢ちゃん、という単語に上井さんが反応し、黒猫ちゃん、という単語に俺は下を見るという反応をした。
声を掛けてくれたオッさんは通りすがりに声をかけただけなそうで、すぐに何処かへ行ってしまった。
少しして、上井さんと目が合う。
「そうだった。私は猫だったんだ…」
何処かしょぼんと目を伏せた上井さんに、俺は慌ててフォローしようとするも、それは他ならぬ上井さんによって遮られた。
「良いの。これは仕方ないことだし、少ししか時間は経ってないけど、結構この体は気に入ってるの。」
「そう…」
俺は異性だが一応は人だから何とも言えない。
俺は思い切って飛び切りの笑顔を作った。
「そうだね。それなら、良い事だと思う。もう過ぎたことだし、だったら、受け入れた方が良いもんね。」
「………」
上井さんがそんな俺を見つめる。
「上井さん?」
と聞くと、上井さんは軽く咳払いした。
「それもそうだね。じゃあ、ご飯食べよっか。」
「ああ。」
用意されたご飯はパンと肉とスープだった。上井さんのはキャットフードっぽいのと水だ。猫用の食料なんてよく用意してたな。
椅子に座りスプーンとフォークで食べ進める。ちゃんといただきますを言うのは忘れなかった。
……まあ、美味くも無いし不味くもないっていう感じかな。
舌の肥えた日本人なら誰でもそう思うだろう。最も、俺は好き嫌いが少ない方なので食べようと思えば難なく食べれるという程度だが。
一方で、上井さんは口を器用に使ってキャットフードらしきものを食べていた。合間に水を飲む辺りが普通の猫じゃない。当然だけど。
「美味しいね。こりゃ何杯でもイケルわ。」
「ん? 珍しいねぇ。その猫喋れるのか。」
声を掛けて来たのはさっきのオッさんだった。俺の隣に座ると、物珍しそうに机の上で食事をしていた上井さんを見る。
「ええ、まあ。」
俺は曖昧にぼかした。というか、そうとしか言い様が無かった。
「名前は何て言うんだ?」
「か………ミドリです。」
危うく上井さんと言いそうになった。別にそれでも良いが、余所余所し過ぎるだろう。さん付けは。
「へぇ。ミドリ……ちゃん? で良いのか?」
「はい。」
俺は返事をする前に上井さんが答えた。体は小さいが、何処か凛とした雰囲気があるように思えた。
「そのご飯の味はどうだ? 近くの野良猫用に作ったんだが……美味いか?」
「うん。とっても。」
「そうか。そりゃあ良かった。おかわりは…って、その体じゃもう無理だな。」
その断言に上井さんは反論出来ない。微妙に悔しそうな顔をしていたから、きっとまだ食べたかったのだろう。でもこればっかりは仕方ない。
「そうだそうだ。用件を伝えに来たんだった。大蛇の件で、村長が話があるとさ。悪いが村長のとこまで行ってくれないか? あの爺さんもう年でな、小さめの旗が掛けてある所に行ってくれ。そこに居るから。」
そういうとオッさんは立ち上がり、「じゃあな。」と去って行った。
「村長か…」
「邪険にはされないと思うけど、大丈夫かな?」
「そんな偉い人に緊張しない胆力があれば…くっ…」
いくらなんでも中学生に村長はないと思う。
しかし、年か………ん? エルフって、長寿じゃなかったっけか?
上井さんも同じ考えに至ったらしく、頭を捻っていた。
それから、朝食を食べ終え、宿の受付さんに村長が居るという場所を教えてもらい、そこに向かう。
外に出ると奇異の目で見られた。うぅ。やっぱり谷間に猫は無いよね…?
「こ、ここか…」
ごくりと固唾を飲む。
さっきまでの奇異の目もあって、俺の心臓はドクンドクン脈打ってる。上井さんに気付かれていないか心配だ。
ガランゴロンとドアベルが鳴り、俺は中に入る。
「すみませ〜ん。」
恐る恐る受付さんの所まで行く間、「誰…?」「魔人じゃないか?」「一体どうして…」という声に囲まれた。うぅ。緊張で胃が締まる。なのに何故上井さんはしれっとしてるの?
「すみません。村長さんが大蛇の件で話があると聞いたのですが…」
「あ、はい。………村長〜! 例の人が来ましたよ〜!」
受付さんが後ろに向かって叫ぶと、「おぉ。もう来たか。」という声が返ってきた。声は若い。
すたすたとこちらに向かってくるダークエルフは、普通に美人だった。褐色肌に長く白い髪。顔に皺は無いし、背中も曲がっていない。さっきも普通に歩いてきてたし…どこが年なのだろう。分からない。
自然と吸い寄せられるように目線が行った先は、俺より一回り程小さかった。でも全体でバランスが取れている。
「私がここの村長のシュヴァ・フェルメルクスだ。」
「えっと、スズキ・シュータです。」
「カミイ・ミドリです。」
「………そうか。では…っと、立ち話もアレだ。外にベンチがある。そこで話をしても良いかな?」
上井さんが喋ったことに驚いたようだったが、はやり喋る猫は不思議ではないようだ。すぐに切り替えた。
俺達は外に出てすぐのベンチに腰掛けた。拳3、4個分の距離を開けて座る。それでも中学生の隣に大人の美女を座らせるのは良くないと思うんだよね。さっきから顔が赤い気がするんだけど。
「まず、ウチの者が難題を押し付けたことを詫びる。」
と、村長が頭を下げた。
「えっ、そんな、気にしないで下さい。そのお陰で宿代がチャラなんですし。」
俺は両手を横に何度も振り気にしていないと必死にアピールした。何故だろう、この年上に謝られたときの罪悪感は。
「そうか? ならお言葉に甘えるとして。…そして非常に申し訳ないが、君達の腕を見込んで、少し頼みがあるんだが…」
村長は本当に申し訳なさそうに身を捩ると、すぐにキリッとした顔になった。
「最近畑を荒らしてる猿の魔物が居てな………今は村一番の者が遠出しとるし、大抵の者では負けるのだ。……倒せとは言わない。でも、彼奴を追い払ってはくれないか。」