第八話 財政危機
この日は実に良く晴れていた。薔王は政務の疲れを癒そうと、久々に王宮の裏庭に散歩しに出てきた。
常緑樹の植えてある区画を過ぎて、落葉樹の小道を歩く。小道にはもう落ち葉すらなく、寂しい木の枝が空に向かって伸びていた。
こういうのもなかなか気持ちが良い。
小道を過ぎると、石造りのテラスがある小さな広場にでる。春になれば花に囲まれた非常に情緒のある場所なのだが、今の時期は土と枝しかなく殺風景で、しかも剣のぶつかり合う音が響いている。
典臨が、無虎に武術の指導を受けていた。
「がんばっているな」
2人に声を掛けると、薔王はテラスの石の椅子に腰を降ろした。すぐに安霊がお茶を取りに調理室に走る。近衛兵はテラスの外で警備に当たった。
「姉上!」
典臨がテラスに駆け込んだ。汗を垂らして片膝を着く。その頭を、薔王が愛おしそうに撫でた。
「薔王様」
無虎はテラスの外で跪いた。
「2人とも立て。典臨の指導ご苦労だ、無虎。私を気にしないで訓練を続けるといい」
薔王が穏やかに目を細めて言う。
典臨が再び広場で剣術の訓練を受け始めると、薔王は石の机に肘を着いてそれを眺めた。
安霊が戻って来た。
「海麓がお会いしたいそうです」
お茶を机の上に置くと、薔王の耳元でそう言った。
「ここに通せ」
薔王の返答を受けて、またテラスを出て行く。
しばらくすると、典臨たちも休憩に入った。無虎も無礼を詫びてからテラスに座る。そこへ海麓がやって来て跪く。
「薔王様」
「立て。どうした、海麓。急用か?午前の報告書はもう全部見たはずだが」
「ええ。実は、前々から言おうとは思っていたのですが……。そろそろ正式に後継者を指名なさったほうがよろしいかと思いまして。戦争が、多いですから」
海麓が言わんとする所は薔王にもすぐ分かった。戦争が多いと言うことは、いつ死んでもおかしくないということだ。そしてそれは王でも同じだ。
「必要か?私に子はいない。どう見ても後継者は典臨しかいないではないか」
「私の記憶に間違いがございませんでしたら、たしか、快北に叔父上と従兄弟殿がございますよね」
「……ああ」
薔王は不快を隠さなかった。
王族でありながら父王を裏切って暴動を起こした叔父を、薔王はこれまで一度も口にしなかった。その名前すら口にしたくないほど、嫌っていた。
「その方達が、王位を狙わないとも限りませんよ。典臨様はまだ、未成年ですから」
薔王が机に肘をついて、その手の指に額を乗せた。目を瞑って、眉をしかめている。
「ですから、正式に指名して通告なさったほうがよろしいかと思いますよ。薔王様」
主の明らかな不快にもめげず、海麓は口元に微笑みを湛えたまま言葉を続けた。
「……そうか。ならば、明日の朝会で指名しよう。他には?」
少しだけ間を空けて、薔王が言った。さすがに王だけあって、判断に私情を挟むようなことはなかった。
「いいえ、以上ですよ。では薔王様、私はこれで失礼致します」
海麓が一礼して裏庭から帰って行った。
「姉上」
典臨が立ち上がって、薔王の傍に歩み寄った。心配そうに薔王を見上げる。
「大丈夫だ。私のことは心配ない。典臨、明日からおまえは私の正式な後継者だ。勉学も武術も怠るなよ」
薔王は優しく典臨の髪をかき上げながら言った。
「はい、姉上。では、訓練をしてきます」
典臨は軽く頭を下げると、テラスから出て行く。無虎も一礼して着いて行った。
無虎が再び典臨に剣術を教え始めると、薔王はすっかり冷めてしまったお茶を喉に流し込んだ。
「さて、そろそろ午後の政務に取り掛からないとな。しかし、私はなかなか休めないな。なあ、安霊よ」
椅子から立ち上がって、グッと背伸びをして言う。その横で、安霊が小さく頷いた。
ゆっくりと、薔王は執務室への道を歩む。
王とは休めないものだ。臣下は交代で休養に入れても、王には代わりが居ないのだから。
叡国暦339年11月9日
薔王が正式に朝会で典臨を後継者に指名した。これはあまりにも予想可能すぎて、特筆するに価しない。重要なのは、その後に出てきた案件だ。
宰相が一人増えて、政務の担当を分けることになった。互いの才能と得意分野を考えて、相談の結果、海麓が財務部、外交部、人事部を、龍奇が礼部、刑部、工部を統括することにした。
仕事を分担したことによって効率は飛躍的に上がり、今まで隠れていた問題が浮上した。
叡国の財政に問題が出ていたのだ。
短期間に繰り返された戦争のために消費された軍費と、文官と兵士の増員に伴う出費の増加。それが叡国の財政を圧迫していた。
「叡国の税収は、暴動の後に急激に減少しておりました。それにもかかわらず、最近は出費が多く、このままでは赤字になってしまいましょう」
海麓がそう報告すると、大広間が騒然となった。
「立て直す方法は?」
薔王の凛とした声が騒音を切り裂いく。大広間が静かになった。
海麓に焦点が集まる。が、海麓は少し申し訳無さそうに微笑んで静に首を振った。
「商人が多く集まった広天を手に入れられれば、税収は格段に増加しますが……。財政的に、すぐに次の戦争に打ち出せるほどの余裕がないのですよ」
「じゃあ、戦いで戦いを養いましょう」
渓円が、一歩前に進み出た。
「戦いで、なんだって?」
「戦いで戦いを養うんです。深上は暴動の後に内乱があって、軍力がかなり弱ってます。まずは、深上を落としてそのお金で広天を落としにいくんです」
「なるほど。だから戦いで戦いを養う、か。海麓はどう思う?」
海麓は険しい顔で答えた。
「いくら弱くても、深上の軍勢は一万ですよ。しかし我々の財政状態では、五千の兵を動かすのが精一杯なのです。少し、無理があるかと思います
「兵士の給金を先延ばしにすればいいんですよ」
渓円が涼しい顔で言った。
「先延ばしですか?兵士はそれでもいいのですか?」
渓円の答えはあまりに意外で、海麓も珍しく驚きを露にしている。
「必ず支払われれば、大丈夫ですよ。戦死の場合は親元に慰問金を支払うと約束すればいいです。薔王様は一度も給金を滞ったことないから、信用がありますよ」
この兵士と王の信頼関係こそが、戦いで戦いを養うことの大前提なのだ。
「でしたら、なぜ最初に広天を落としに行かないのですか?」
海麓が訊いた。もっともな質問だ。
「虎骨軍はまだ薔王様に仕えて時が浅いですから。より信頼し合っている龍鱗軍だけを動かせる深上がいいんですよ」
海麓は深く頷いた。大広間の上座、王座の上では、薔王も小さく頷いていた。
海麓は説得されたが、他の臣下は全員が賛成というわけではないようだった。その結果、大広間では激しい討論が繰り広げられた。
反対派の意見は主に二つだ。給金の先延ばしなんて破天荒な前例を創ってもいいのかどうか、そしてもし深上に期待した貯蓄がなかった場合にどうすればいいのか、だ。
薔王は澄ました顔でその討論を眺めていた。その表情からは、賛成も反対も読み取れない。
しかし渓円は薔王が賛成しているような気がした。自分の話しに頷いていたのだから、少なくともある程度納得はしてくれたはずだと思っていた。
海麓は、自分に意見を求めた薔王は臣下の大多数を説得できれば、必ず賛成してくれると思った。
龍奇はまったく薔王の気持ちを推し量れず、より多くの判断材料を提供できるよう、誰よりも積極的に発言した。
「龍鱗軍の薔王様への信頼度はどれくらいだ?」
子棋が冬涯に向かって囁いた。
子棋には、薔王が完全に渓円の案に賛成しているのだと分かっていた。
「相当なものだよ。特に王都防衛戦で薔王様と共に戦った後からは、正直熱狂的だよ」
冬涯もこっそり子棋に囁き返した。
「じゃあ、先延ばしは出来そうだな」
「ああ。で、おまえは薔王様が賛成だと思ってるのか?」
「確実に賛成だよ」
「どこで分かったんだ?」
子棋がどうやって薔王の心の機微に気づいているのか、予てから訊きたかったことだった。
「渓円軍師の話しに頷いていらした。それに、ほら。肘掛に肘をついて手を組んでらっしゃる」
子棋が薔王の手元を軽く顎で示した。
「手を組んでると賛成なのか?」
それでも冬涯は理解できない。再び訊こうと口を開きかけた時、薔王がスッと手を上げるのが見えた。
薔王の手を見たものから沈黙していく。大広間に、だんだんと静けさが戻ってきた。全員の視線が、薔王に注がれる。
「討論はここまでにしようか。海麓、明日までに深上の内部情報を出来るだけ詳しく集めて来い」
はっきりとした意思表示だ。恐らく、龍奇以外の全員がその意味を分かったはずだ。
薔王は、深上を攻撃するつもりだ、と。
翌日。朝会の場で、海麓はまた長々と調査報告をし始めた。今度は薔王も手馴れたもので、咳払い一つでそれを遮った。
「質問に答えるだけでいい、海麓。深上の軍力は?」
「一万です。自都市の人間のみで編制され、内乱のために士気は著しく低いようです。民衆の支持もほとんどありません」
「財務貯蓄は?」
「王都のおよそ五倍ですよ。内乱があったというのに、想像以上でした」
「渓円、勝利の可能性は?」
薔王は答えを訊くと、すぐに渓円に顔を向けた。
「自信がありますよ。士気が低いなら、なおさら我々に有利だし、八割以上の可能性で勝てると思います」
渓円の答えに、薔王は笑った。笑って、自分の臣下たちを見下ろした。手を伸ばして、安霊からお茶を貰って口に付ける。
「……雪はまだ、降らないようだな」
叡国暦339年11月14日
この日、薔王は龍鱗軍と共に深上との領境に向かって進行した。王都を出る前、海麓に命じて外交部から使者を一人深上に送らせた。
宣戦布告だ。もちろん、これも渓円の作戦の内。まずは、心理戦である。
使者が軍営に戻ってくると、渓円は冬涯に命じて軍を深上の領地内に進ませた。
城門の前に敷いた軍陣は威勢の陣。軍の力を誇示する隙の多い陣ではあるが、強気で、ほかの陣にも変更しやすい威嚇のための陣だ。もちろん、渓円発案である。
戦鼓の激しい音が地面を揺らす。兵士たちの雄叫びが空を引き裂く。
そんな中で、深上の城門はきつく閉じられたままである。誰も応戦に出てこない。これも、渓円の想定内だ。
「二日もすれば、耐え切れなくなりますよ!」
前線へ陣の様子を視察しに来た薔王の耳元で、渓円は叫ぶようにして言った。
「戦いは二日後か」
薔王は声を張り上げなかったので、渓円には上手く聞き取れなかった。その様子を見て、薔王の後ろにいた子棋がそっと渓円に耳打ちする。
「ああ。いえ、多分深上には戦う勇気とかないんで、二日後に降服を呼びかけます!」
「なるほど。勧告書を書いて、私がサインしたほうが良いか?」
今度も子棋が通訳を務めた。
「できれば!」
「では、明日までに勧告書の草案を上げろ」
「はい!」
もう一度だけ声を上げる兵士たちに目をくれると、薔王は軍営に戻って行った。
そして二日後の朝、降服勧告が深上の城壁の内側へ矢に括られた状態で大量に投げ入れられた。
城門の前にしかれた軍陣は変わらず、ただ戦鼓と雄叫びが消えて、一面の静寂に包まれていた。兵士たちは槍と剣を握り締めて、城門が開いて敵が出てくるのを今か今かと待っていた。
そして昼。兵士たちが交代で昼食を取っている時。深上の中がざわついて、城門がゆっくりと開かれた。雪崩出てきたのは、兵士ではなく市民だったが……。
「戦わないで下さい。降服します。お許しください」
彼らは口々にそう叫びながら、城門の前で平伏した。
「渓円軍師。これは一体……」
馬に乗り、軍前で指揮に当たっていた冬涯は、戸惑いと共に後ろの渓円を振り返った。渓円は戦車に立ち、少し高いところで全てを見下ろしていた。
「海麓宰相の情報だと、投降するまでもう少し時間がかかる気がしたんだけどなぁ。市民たちはよっぽど戦いたくなかったんだね。とりあえず、相手に戦う意志がないなら手を出すな」
渓円からの指示を受けて、冬涯は攻撃されるまで手を出すなと兵士たちに命令した。
「ちょっと、おまえ。薔王様に前線にいらしてくださいと伝えろ」
渓円は横にいた兵士を一人捕まえて、軍営まで走らせた。
薔王が到着するまでの間にも、続々と市民が出てきて平伏した。中には息子と思われる兵士を引っ張ってきて一緒に平付させる者もいる。
「これはどういう状況だ、渓円?」
後ろからやってきた薔王は、兵士たちの肩の間から漏れ見える風景に完全に困惑していた。
「いやぁ~。市民の感情まで想定してなかったんですよ。まあでも、問題ないですよ」
渓円はなんでもないように言った。
「薔王様が降服を受け入れる宣言、してください。そしたら、落ち着きますから」
「何か適当だな」
「そんなことないですよ。薔王様ならできるって、信じてるだけですよ」
薔王は優しく目を細めて、渓円の自信に満ち溢れた笑顔を見た。
「そうか。おまえがそう信じるのなら、私はきっとできるのだろう。いくぞ、子棋」
穏やかに微笑んだ薔王を、子棋少し苦々しい思いで見ていた。
薔王は馬から下りて、子棋だけを連れて軍隊の前へ進み出た。
「深上の民たちよ。顔を上げよ。私は叡国が国王だ」
薔王の言葉に、市民は驚きに満ちた表情で顔を上げた。
「そんなに怯えるな。私とて戦いは望んでいない。ただ、おまえたちの領主は私を、父王を裏切って反乱を起こしたのだ。だから鎮圧しに来た。おまえたちに罪はない。おまえたちはいつも通りに過ごせばいい。兵士も、武器を捨てれば悪いようにはしない。私を信じるか?」
薔王は一言ひとことはっきりと、優しく、市民に語り掛けた。語りながら、一歩、また一歩と市民達に近づいた。最後に優しげな微笑を浮かべて、薔王は市民達の目の前でしゃがみ込んでその目を見つめた。
「あ、ありがとうございます」
市民たちは再び平伏して、薔王の足にすがりつかんばかりに感謝を述べた。
「おまえたちも叡国の国民、私の民だからな。おまえたちの暮らしを守るのが私の責任だ。さあ、家に戻れ。もう昼時だぞ。子供たちがお腹を空かせて待っているんじゃないのか?」
薔王は慈しむように一番傍にいた女性の肩を叩いた。後ろで、子棋が緊張しているのが分かる。
市民たちがぞろぞろと城郭の中に戻っていく。その後ろを、龍鱗軍の兵士たちもついて行く。
兵士たちは深上の官邸を完全に包囲していた。深上が完全に投降するのにはまだまだ時間がかかりそうだったもので、渓円は海麓と一緒に底辺の官吏体制を整え始めた。官邸にいない官吏は全て審査し直して任命し直す必要がある。
薔王は官邸を包囲している龍鱗軍を視察しに行った。官邸の周りを歩いて、出会った兵士一人ひとりに声をかけていく。
「しかし――」
その途中で、薔王は振り向きもせずに子棋に話しかけた。
「――渓円はいつ海麓を呼び寄せたのだ?確かに、海麓に渓円の連絡を待ってすぐに来いとは言ってあったが……。何の報告もなかったよな」
「はい。私も薔王様が渓円軍師から報告を受けた記憶はありません」
子棋には、はっきりと薔王が報告のないことを不満に思っていることが分かった。ここで一言足せば、渓円の立場を危うくすることが出来る。少なくとも、薔王の渓円に対する信頼を削ることが出来る。でも、子棋はそうしなかった。黙って、薔王の判断を待った。
「子棋。護衛が交代したら、おまえから渓円に警告しておけ。呼び寄せる許可は先にしてあるが、報告しなくてもいいと言った覚えはない」
「分かりました」
子棋は少しだけ後悔した。薔王の渓円に対する信頼は揺らいですらない。出なければ、自分ではなく、もっと正式に書類でもしくは朝会で叱責するはずだ。
「薔王様」
前から冬涯がやって来て、スッと頭を下げた。
「状況はどうだ、冬涯?」
「小規模な衝突が三回ありましたが、大きな動きはまだありません」
「そうか。ご苦労様」
「い、いえ!ありがとうございます」
冬涯は頭が地面に付きそうなほど深く、勢いよく頭を下げた。
「頭下げすぎだよ」
その姿がよほど面白かったのか、薔王は声に出して笑った。
深夜が過ぎて、夜が明けた。深上はついに、耐え切れなくなった。
叡国暦339年11月17日
早朝。深上の官邸に白旗が上がった。領主が官邸内の全ての官吏を引き連れて出て来る。
「投降を受け入れよう、深上の官吏たち。おまえたちの処遇は、海麓の審査の後に公表しよう。今は、休め」
薔王が言った。休め、というのはつまり、軟禁するからしばらく大人しくしていろ、ということである。
審査は三日間続いた。深上の元領主は副県令になり、海麓が呼び寄せた候補生が深上の県令になった。
「徴兵しますか?」
官邸で県令の任命が終わった後、冬涯が一歩進み出た。
「いや。深上は反乱に続いて内乱が起きているからなぁ。警備軍以外の徴兵はしないで、民たちを休ませてやろうと思う。どうだろうか、渓円」
「大丈夫だと思いますよ。今回は死傷者が出てないから、補充しなくてもいいですし」
「おまえの同意が得られてうれしいよ、渓円。海麓、王都での凱旋の準備はしてきたのか?」
薔王が問うと、海麓は常に浮かべている笑みを大きくした。
「もちろんしてきましたよ。昨日の鳩には、準備が終わったとの知らせがありました。いつ凱旋なさっても大丈夫ですよ」
「そうか。持ち帰れる貯蓄はどのくらいだ?」
「今ある兵士の三年分の給金は持ち帰れるでしょう。心配ありませんよ」
海麓の笑みにはうれしさが滲んでいる。
「では、帰ろうか」
薔王は自分を囲う臣下たちを見渡して微笑んだ。