第七話 西洛領主
安霊が薔王のもとに戻った夜は、両軍の間で感情の差がもっとも大きい夜であった。
西洛側では主将がいなくなったことによって軍心が大いに乱れ、領主官邸ではその対処に慌しかった。
一方で、薔王側では安霊を歓迎するための宴会が開かれていた。
「随分と新しい顔が多いだろ」
溢れんばかりに酒が注がれた杯を傾けて、薔王は悪戯っぽく安霊に語りかけた。
「はい」
「皆、良き仲間だ」
薔王は、穏やかに微笑んだ。宴会の空気がより一層、暖かくなった。
酒が進むといきなり幡然が泣き出して、みんなが呆気にとられているうちに、今度は兆火が歌い出した。それを見た誰かが噴き出して、愉快そうな笑い声がテントの中を木霊する。
宴会が終わったのは、夜中も近くなった頃である。
奇襲の可能性を憂えた渓円が、念のため一足速く宴会を抜けたが、もちろん、奇襲などはなかった。
「安霊、頼みたいことがあるんだ」
さわがしい宴会の後。簡易なベッドの上に横たわった薔王は、同じベッドの隣に寝かせた安霊に声をかけた。
久々の再会ということで、この最初の一晩だけ、薔王はただの友人として安霊と過ごすことにしたのだ。
明日になれば、そこには君臣の分が生まれる。
「何でも言って下さい」
「明日、おまえの部下達に投降するよう呼びかけてくれないか?これ以上人が死ぬのも、忍びないだろう」
「はい」
昔と同じように、安霊は頷くことしか知らない。
でもその了承が心からのものだと、薔王は知っていた。勘と言うか、幼馴染としての付き合いから来る理解だ。
「これを、おまえの言葉にしてくれ」
薔王は枕の下から一枚の紙を取り出して、安霊の手に握らせた。
叡国暦399年10月25日
正午。前線では、両軍がお互いの陣地で整然と並んでいる。
「さすがだな」
渓円は、主将不在の軍隊が、ここまできちんと列を成すことができることに対して感心していた。
「ここからは、安霊の見せ場だな。無口な子に、なかなかの難題を押し付けてしまった」
今日も、薔王は前線に出て来ていた。渓円の側で、馬に跨って成り行きを見守っている。
渓円に、西洛軍と刃を交わらせるつもりがまったくもってない証拠だ。
安霊は馬をゆっくり歩かせて、両軍の中央まで進んで行った。
「心配を掛けましたね。私は無事です」
安霊の姿を認めると、途端に西洛軍はざわつき始めた。
「あなたたちも、おかしいと思っているのでしょう?兵士の親のほとんどは農民。私たちが城南で農民を痛めつけているように、城北、城西、城東で、私たちの親兄弟が他の兵士に痛めつけられている。私たちは、自分で自分の家族を苦しめているのです。おかしいと思わないのですか?」
少しの沈黙の後、至る所で頷く声が聞こえた。誰も言わなかっただけで、違和感はみんな持っていたのだろう。
薔王にも、西洛軍の忠誠心が大きく揺らぎ始めたのがわかった。
「正直、ここまで上手くいくとは思っていなかった」
薔王が真直ぐ目を安霊に向けたまま、渓円に言った。
「私からしたら、予想通りですね」
渓円は、不敵に笑った。
「武器を捨てましょう。薔王様は労働を強制しない。私を信じますか?」
安霊がさらに続ける。
「薔王は何を約束してくれるんです?」
すると、列のどこかで、1人の兵士が叫んだ。
安霊の動きが止まった。この質問の答えは、用意されていない……。
「私は何も約束しない!」
凛とした声が、後ろから響いてきた。
薔王の声である。薔王は馬の腹を軽く蹴って、安霊の横に進み出た。
「おまえたちの主は、作物上納の撤廃を約束したのだろう。だが、私は何も約束しない。おまえたちは、叡国の定める法規の範囲の中で、自由だ。農業を続けるか、商売に身を投じるか、そして今日私のもとに降るかどうか。すべてを決めるのは、おまえたちだ」
再び、西洛軍の中にざわつき起こった。
薔王は、落ち着いた動きで馬から下りると、おいで、とでも言うように、敵の兵士に向かって手を差し出す。
「もちろん。希望から言えば、私は皆に来て欲しいと思っているよ」
優しく、穏やかな微笑みを浮かべた……。
西洛の軍隊は陥落した。
今更だが、薔王は美しい。
だから兵士たちが薔王の言葉に惹かれたのか、それともその微笑に魅かれたのか、今となっては定かにする必要もない。しかし、私が見た景色では、少なくとも私の目には、後者のほうで映った。
武器を捨てた兵士たちの目は、明らかに薔王に向けられていた。すぐ隣に、主将の安霊がいるのにもかかわらず、だ。
薔王は、スッと手を下げて後ろを振り向いた。目線で渓円に指示する。投降軍の整理と安置をしろ。渓円も、小さく頷き返した。
西洛の城門が開かれ、渓円の指示を受けた虎骨軍が先頭を切って都市内に進入する。
薔王と近衛軍もその後に続く。
安霊は投降軍の整理を手伝うことになっていた。
「ありがとう。がんばったな、安霊」
別れの手前、薔王が優しく安霊にハグをした。
「上手くできましたか?」
「ああ。期待以上だ」
薔王に褒められて、安霊は嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
安霊と分かれて西洛に入った薔王は、虎骨軍の行動を見て少し残念に思った。
「これも、渓円の言う通りか」
西洛の県令官邸が、虎骨軍に包囲されている。つまり西洛の軍隊は投降しても、西洛自体は投降していない、ということだ。
「軍隊を失えば、諦めると思ったのだがな……。私には理解できない」
やはり、軍師は軍師だ。情報量は同じだと言うのに、まだ顔を合わせたことのない人物について、これほどまでに的確に判断している。
周りを見ていると、軍隊は軍紀に従って粛々と動いているのだが、それでも街の人はおびえて、市場が慌しく閉じられていく。
行き交う人ごみの間から、薔王は1枚の古い張り紙を見つけた。目を細めてよく見ると、税についての通告書であった。
『これより農作物上納を取りやめ、代わりに農作物売買における商業税を徴収する』
単純で、短い1文であった。
「ふむ」
薔王は口元に手も持って行って、考え込んだ。
「どうされました?」
その様子を見て、すぐ後ろで護衛任務に当たっていた子棋が声を掛けた。
薔王は少しだけ振り返って、顎で張り紙を指し示す。
「あの政令を見ろ。私的には、なかなかに考えられていると思うのだが。この政令があって、いったいどうして強制農作になってしまったのか……」
子棋は、薔王の疑問に対する答えを持ち合わせていない。だから黙っていた。黙って、薔王を見つめていた。そして、薔王が西洛の首領に興味を持ち始めたことに気づいた。
「薔王様」
投降軍の処置を終わらせた渓円がやってきた。
「安霊は?」
「彼女は元主将なんで、官邸が落ちるまでは投降軍のもとに残ってもらってます」
「そうか」
「薔王様、もしかして、何か悩んでるんですか?」
「あれだ」
薔王が指差した張り紙を見て、渓円はすぐに薔王が何に悩んでいるのかが分かった。
「海麓宰相に訊けば良いんじゃないんですか?」
「……そうだな。後で訊いてみよう」
薔王が頷くと、子棋はスッと前に進み出て張り紙を剥がして懐にしまった。
「あれを落とすには、まだ時間がかかるのか?」
「う~ん。もう、しばらくはかかると思いますよ。先に、警備兵の編成と、県令を決めた方がいいと思います」
「ああ。そうだな。じゃあ、海麓を呼び寄せろ。私は、先に休ませてもらうぞ。決着が付いたら、また知らせてくれ」
チラリと包囲された官邸に目をやって、薔王は盛大なため息をついた。
薔王は兵士の案内で都市内の旅館に向かった。もちろん、貸し切りであるのは言うまでもない。
子棋も薔王の後に続くが、少しだけ立ち止まって渓円にコソコソと何かを耳打ちした。渓円が分かったと頷くと、子棋は小走りで薔王の後ろに戻った。
海麓は、その日の夜には到着した。
食事中の薔王に挨拶だけをして、すぐに渓円と話し合いに行った。
翌朝には、安霊の元部下たちから警備兵が編制された。
同じ頃、西洛県の官邸もようやく投降した。
ほぼ全員無傷。元々食料が尽きるまでの篭城だったのだが、渓円が兵士に夜中ずっと騒ぐよう指示したため、予定より少し早く根負けしたのだ。
首領とその補佐官の3人は軟禁され、海麓から尋問を受けた。その結果、補佐官の一人が県令に、1人が県令補佐官に任命された。残りの1人は平民として生きることを許された。
県令補佐官は3人が基本。そこで、王都の文官試験で受かってきた候補生が呼び寄せられた。これで残りの候補生はあと1人である。
「また来年試験を実施すれば良いだろう。王領が復帰しつつあるわけだから、王都の政治にも、より多くの人材が必要になる」
海麓からの報告を聞きながら、任命書に印を押していた薔王が、顔も上げずにそう言った。
コトリと横にカップが置かれる。中のお茶から湯気が立った。
今までは自分でお茶を入れていたのだが、今は安霊が侍女の代わりをしてくれているのだ。
「安霊。最後にもう一度聞かせてくれ。本当に、軍に戻る気はないのか?」
薔王が、今度は顔をあげて安霊に尋ねた。
「はい」
安霊はしっかりと頷いた。
薔王は、安霊が軍隊にこそ必要な人材だと知っている。それでも親友が身の回りにいてくれるが嬉しくて、ついつい安霊の言葉に甘えてしまっているのだ。
実を言えば、安霊も同じ気持ちだった。今まで将軍だったわけだから、軍営が恋しくないといえば嘘になる。それでも、唯一の家族である父を失った今、幼い頃からの友の側にいられることが、安霊にとっての最大の慰めだった。
薔王が侍女を雇っていないことは、安霊にとって最高の言い訳であった。
任命書への捺印を終えて、程よく冷めたお茶を飲む。
隣に安霊、扉の外に子棋。この守られている感覚は、心地がいい。一息ついてリラックスした薔王は、顔を上げて海麓に向き直った。
「ところで海麓。後どのくらいで西洛は安定する?」
「後3日ほどで大丈夫でしょう。新しい県令は、西洛の人間ですからね」
海麓はまた、あの神秘的な微笑を浮かべている。この微笑にもすっかり慣れてしまった。
薔王もわざと、意味深な笑みを浮かべ返したてあげた。いい事なのか悪い事なのか、こうやって表情を作るのもすっかり上手になっている。
叡国暦339年10月29日
薔王は龍鱗、虎骨両軍と共に王都へ引き上げた。もちろん西洛の元首領も連れて……。
王都では一日中、盛大な祝功式が行なわれた。
その後に来るのは心地よい静寂。
すっかり太陽が沈んで、王の執務室にもランプが灯された。そのランプの炎がチラチラと空気を焦がして、ほのかに執務室を照らし出す。
薔王は、ゆったりとカップを傾けてお茶を口に含んだ。目の前に置かれた椅子には、海麓が座っている。
彼は西洛から持ってきたあの張り紙を読んでいる。しかし、その張り紙の内容は読むほどの長さもない。海麓はきっと、張り紙に目を落としたまま考え事をしているのだろう。
コトリと薔王がカップを机に置くと、すっと安霊の手が伸びてきて、新しいお茶を注ぎ足した。
「どうだ?」
静に、薔王が言った。
「よく、解りましたよ」
海麓が、神秘的な微笑を浮かべて答える。穏やかな空気だ。その空気はなんとも気持ちのいいもので、時を止めて、ずっとそこに居たくなる。
「この政令には、抜け穴があるのですよ。西洛は農民を囲ってしまいました。農民は商人ではありませんから、隣の都市まで農作物を売りに行く手段も、時間も、発想も、ないのですよ。ですから、農民が多ければ多いほど、農作物の値段は暴落します。商業税を払えば赤字に成りかねないのですよ。それに加えて上納作物もないわけですから、その結果――」
「自足できる量しか、作らなくなるということか」
その先は、薔王にも容易に想像できた。農民が自足できる量しか作らなければ、出回る量が少なくなり、農作物の値段は跳ね上げる。そうなってしまえば、軍隊の食料を確保するにも費用がかかりすぎることになる。
「ええ。ですから、西洛が強制農作を始めたのも、どうしようもない最終手段だったのでしょう」
海麓が同情の笑みを浮かべて言うと、薔王は、ふむ、と言って黙り込んだ。
「使えますよ」
薔王が口を開くより先に、海麓は答えを出した。
「あの人は恐らく、真直ぐすぎるのでしょう。それに加えて、理想過ぎる所もあるようです。しかし、今回の敗北から、ちゃんと学び取っていることもあるようですよ」
「そうか。彼を、右宰相にしたいのだが……。やっぱり一度会ってみるべきだろうか?」
薔王の左手の親指が、何度も唇を行き来する。
「それはもちろんですよ。ぜひ、ご自身の目で確かめてください」
海麓の神秘的で穏やかな微笑が、そっと薔王の背中を押す。
実は薔王、少し西洛の首領に会うのが恐かったのだ。あれほどまでに諦めが悪く、行動を理解できない人には、まだ会ったことがない。
でも、王なのだ。自分の臣下は、自分の目で確かめないと。薔王は小さく頷いた。
「……ああ。そうしよう」
そう言って薔王はまたお茶のカップを手に取った。が、口に付ける前に元に戻す。
「そういえば、食糧危機の方はどうなっている?」
海麓の微笑が大きくなった。
「もちろん、もう解決していますよ。西洛の県令官邸の倉庫に貯蔵されていた食料の半分で、今年の冬はおろか来年の冬まではもつでしょう」
「それは良かった」
「驚かれないのですね」
薔王はまたしてもカップに伸ばした手を引き戻した。
「なぜ驚く?深上よりも西洛のほうがいいと言ったのはおまえだろう。深上で今年の冬を乗り切れるのなら、西洛が来秋までもつことくらい驚くほどのことでもない。まあ、半分というのはさすがに意外ではあったがな」
そう言うと、やっとカップに口を付けた。
海麓が感心したように目を細めた。
翌日の朝。朝会の後、薔王は西洛の元首領を執務室に連れてこさせた。
その男は龍奇と言う名で、いかにも仕事が出来そうな顔をしていた。
その男に、薔王は穏やかに微笑みかける。
「はじめまして、龍奇。おまえの農民の囲い込み政策は、なかなかなものだったよ。おかげで、冬が越せなくなりそうだった」
分かりやすい皮肉だ。
薔王は龍奇を試していた。自分の政策のミスを指摘されて、激昂するか、うな垂れるかそれを見たかったのだ。が、龍奇の反応は予想外だった。
「ありがとうございます。しかし、上手くいきませんでした」
龍奇は薔王の考えがわかっていなかった。ただ真面目に自分の思う所を述べる。
薔王は表情に出さずに驚いた。ここまで真直ぐに答えられると、逆にどう対応したらいいか分からない。
「面白い男だな、おまえは」
薔王の口調はあくまでも穏やかだ。
「おまえの政策の落とした穴は、頭のある人間がいなかったからだろ。違うか?」
なんとか気持ちを立て直して龍奇を試し続ける。
「そうかもしれません。私のところでは、誰も政策に問題があるとは思っていませんでした。仕方なく行なった強制農作の危険性も、誰一人気づきませんでした」
龍奇は結局激昂するでもなく気落ちするでもなく、ただ淡々と事実を述べていく。
恐らく龍奇は人の気持ちに気づけるほど器用な人間ではないのだろう。決して、民を押さえつけて悪性を働くような人ではないようだ。
「まあ、考え自体は悪くないよ。農作物上納を商業税に切り替えることで農作の利益を上げ、農作地の拡大を期待したのだろ。政策の細部と執行の時期が悪かっただけだ」
薔王が話の風向きを一変させた。もう、試す必要はない。
「ありがとうございます。しかし、失敗は失敗です」
「間違いではないな。だが龍奇、私はおまえのそのひらめきを自分のものにしたいのだ」
「ひらめきというのは、そう簡単に身に付く物なのですか?」
薔王の言葉の意味が判らなかった龍奇は、本気で不思議がっていた。
「ハハっ。やっぱりおまえは面白い男だよ。龍奇、私の右宰相になれ」
「……今、なんと仰いました?」
「何度も言わせるな。私はおまえの才能が欲しい。だから、私の右宰相になれ、龍奇」
薔王はスッと立ち上がると、机に手を付いて身を乗り出した。じっと、龍奇の目を見据えた。
「私は本気だぞ」
龍奇が口を開く前に、薔王が言葉を続けた。断らせるつもりは甚だない。
「……お望みのままに」
薔王の気迫に押されてか、その本気に心を打たれたのか、龍奇は跪いて神妙に頭を垂れた。