第五話 叡国軍師
高京は、王都から見て西に位置する都市である。元々、鍛冶屋や武器職人が多く住む都市であり、大きさで言うならば、王領内では下から2番目で、守備軍もそれほど多くなかった。
その高京を、渓円という男が支配してからは、見る見るうちに武力が成長し、今やその軍力は王都にも劣らない。
軍力が伯仲すれば、試されるのは戦術である。
ところが、今回高京への進攻軍を率いる冬涯は、正攻法しか知らない真面目な男である。しかも海麓によれば、渓円は軍師の才を持つ男だ。
というわけで、今回の進攻は、かなり無理をしている。
叡国暦339年9月17日
早朝。高京との領境にある軍営の薔王のテントの中には、龍鱗軍と近衛軍の将軍と副将が集まっていた。
「戦術で負けているのなら、少なくとも、戦力を減らすわけにはいかないだろう」
「だからといって、薔王様を無視していいはずがありません!」
まだ日も昇りきらない、肌寒い時分だというのに、テントの中は激しい議論のせいで、今にも湯気が立ちそうだ。
「無視しろ、とは言っていない。近衛軍も前線に行け、と言っているだけだ」
薔王は諭すように、ゆっくりと言った。
「同じことです!」
熱くなった冬涯は、ついつい前に出すぎてしまった。子棋が、後ろからその鎧を掴まなければ、薔王に手が届いてしまうところだった。
「そういう真面目なところ、嫌いじゃないぞ」
「っ!申し訳、ございません」
冬涯はしゅんと肩を落として、後ろに下がった。
近衛軍が前線に行くか、薔王の側に残るか、そんな議論が、もう数十分に渡って行なわれている。薔王は前線に行かせたがり、冬涯は残らせたかった。
議論の対象であるはずの近衛軍の将軍は、これまで一言も意見を言っていない。残りたいのは本当だし、だからといって、薔王の気持ちにも逆らいたくない。ということで、沈黙を保っているのだ。
「まあ、聞け。そもそも、お前達がしっかり戦って勝ってくれれば、危険など、どこにもない。反対に、もし負ければ、たとえ近衛軍が傍に張り付いていようと、安全はない。違うか?」
これには、反論のしようがない。その隙に、薔王はサッと席を立った。
「決まりだ。近衛軍も前線に出る。さっさと準備を始めろ!昼前には、攻撃を開始する」
そう言い放つと、テント布を手で払って外に出た。
テントの前に立つ薔王の背中を、諦めた冬涯が、副将の無虎を連れてすり抜けていく。
「薔王様」
同じようにテントから出てきた子棋は、心配そうに、薔王に声を掛けた。
薔王は、振り返らなかった。
「一応、言っておこう。もし、私が敵に捕らわれたら、その時は、夜を越すなよ」
透き通った青空を見上げて言う。
意味するところは、はっきりしていた。しかし、子棋は何と答えればいいのか、分からなかった。
正午。戦闘はすでに始まっている。
刃から離れた軍営の中で、10人の近衛兵に守られて、薔王は微かに聞こえてくる、剣のぶつかり合う音に耳を済ませていた。その内、馬の嘶きも混じって聞こえるようになった。戦闘が激しくなったのだろうか。
テントの中で、一見穏やかに座っている薔王だったが、心の中では、嵐が吹き荒んでいた。
薔王は聡い人だ。
薔王は、軍師の才を持つ者が、敵軍営を奇襲しないはずがないと知っていた。薔王がいることを知らなくても、物資や食料を焼却しに来るはずである。
軍営を守る衛兵は百人もいない。薔王は何気ない動作で、寝床の布団の下から、小さな短剣を取り出した。薄く鋭いその短剣を、静に鎧の胸当の中に忍ばせる。
「薔王様、大変です!」
軍営の外がざわついて、衛兵が斬られる音がした。一人が駆け込んできたが、危機を伝えるだけで崩れ落ちた。背中が斬り裂かれていた。
近衛兵が、一斉に剣を抜いた。
「しまえ!」
薔王の声が、鋭く響いた。胸を張って立ち上がり、テントの外に進み出た。
物資を守るために、衛兵が必死に戦っている。
「投降だ!」
その声で、敵味方、双方の動きが止まった。
「私は叡国が国王、薔薇だ。全員、武器を引け!」
近衛兵が、衛兵が、仕方なく武器を下ろした。
敵兵が一人、薔王の軍営の右側にある低木林に駆け込んだ。駆け込むのと同時に、見えなくなる。
それを見て、薔王は不思議そうに眉を軽く上げた。
その兵士が戻ってきて、物資と兵士から手を引いて、薔王だけを連れて行った。
低木林の地面には深い溝があって、丁寧に草で隠されていた。その溝は、一本の地下道に続いている。
メラメラと、松明が天井を舐める。地下道を抜けると、そこは高京の中だった。
非常に丁寧に、薔王は高京の県令官邸へ連れていかれた。今、そこの主は、県令などではないが。
「大人しく投降してくれて、ありがとう」
低い、優しい声で言ったのは、高京の首領、渓円である。
官邸の広間の上座に座っているのだから、間違いないはずだ。鎧の境から、手首の発達した筋肉が漏れ見える。身体も、かなりの筋肉質なのだろう。男らしいと言えば、男らしい。なのに、薔王でも妬きたくなるほどに、美しい顔立ちをしている。
「玉砕する気は、ないからな」
怯えもせず、ゆったりとした声で、薔王はそう言って微笑んだ。
捕らわれの身でありながら、全てを受け止めるかの如く、心広く構えている薔王を、渓円は意外に思った。同時に、不思議な好意が、胸の奥から沸き起こる。
「自己紹介しようか。ぼくは、渓円。こっちは兆火と、幡然だ」
渓円が、軽く顎で左を指し示した。
広間の左側に、もう二人、武将が座っている。ごつい、野蛮そうな猛者が兆火で、端麗で、少しなよなよした若い男が幡然らしい。
兆火は始終、薔王を見下すように動かず、幡然は、紹介されると軽く頭を下げた。
渓円は、しばらく薔王を眺めた後、唐突に口を開いた。
「おまえさぁ、ぼくの女にならないか?」
薔王は、微笑を崩さないように気をつけながら、はっきりと首を横に振った。
「せっかくだが、私は誰の女にも、なるつもりはないよ」
「ふ~ん。でもさぁ、今のおまえに、断る権利があると思ってんの?」
やんわりとした警告である。
薔王は目を落として考えた。
生きる方法を、考えた。
ふと、自分の右手が視界にはいる。剣を握り、敵と戦ったその手には、いまだ薄い傷跡が残っている。いつ付いたのかさえ思い出せない傷跡だったが、その傷跡は、薔王に生き残る可能性を教えてくれた。
そっと、薔王が胸当の留め金に手を伸ばす。鎧が音を立てて、床に落ちた。そのまま平然とした顔で、薔王は内衣をも脱ぎ捨てる。
息を呑む音が聞こえた。彼らが釘付けになったのは、薔王の雪のような白い肌でも、ふくよかな乳房でもない。彼らが見つめたのは、薔王の身体を走る、幾多もの傷跡であった。
腹に、脇腹に、両腕に、くっきりと伸びる剣の傷。左肩にある盛り上がりは、矢傷のようである。
「どうだ?こんな私でも、まだ欲しいのか?」
薔王が、まっすぐ渓円を見て言った。冷ややかな声である。
渓円の腰が、自然と浮き上がった。でも、何も言えなかった。
しばらく沈黙が流れた後、薔王はまたゆっくりと、余裕のある動きで内衣を着直し、鎧を着けた。胸当の留め金が、パチリと鳴った。部屋の中は依然、水を打ったかのように静である。外だけが騒がしかった。いや、騒がしくなったのだ。
渓円が外に目を遣ると、兵士が1人駆け込んできた。
「敵襲です!」
「なんだと!王を人質に取ってるんだぞ。どうして攻められる!」
兆火が立ち上がって叫んだ。
渓円も、驚きのあまりに、広間の入り口向かって歩いてきた。つまり、薔王の近くまで歩いてきたのである。
「おそらく、近衛軍だろう。さて――」
「なっ!!」
それは、一瞬の出来事であった。
丸腰であったはずの薔王の手に、短剣が握られている。その刃先は、まっすぐ渓円の喉元に突きつけられていた。
「私の身体に見惚れていたのか?私は王だぞ。敵の陵辱を受ける前に、死を選ぶくらいの覚悟はある。なぜ、何も隠し持っていないと思った?」
優雅に、ゆったりとした動作で渓円を見上げる薔王は、それだけで、何よりも妖艶に映った。時間にして数秒、渓円は薔王の瞳の中に沈み込んだ。
「兄貴!」
兆火が叫んだ。
はっとして、現実に戻った渓円は、薔王に集中したまま、ゆっくりと右手を上げた。
「手出しするな」
薔王の短剣は、寸分たりとも渓円の喉元を離れない。
兆火は、抜きかけた剣を、再び鞘に戻した。しかし、手は離さない。
「ここでぼくを殺したら、おまえも死ぬぞ」
あながちハッタリでもなかった。広間には、すでに異変を察知した兵が、雪崩れ込んできていた。横では、兆火と幡然が剣の柄に手を掛けて、鋭く薔王の隙を狙っている。
薔王は、ふっと微笑をこぼした。
「刺し違えられるなら、それでもかまわない。渓円よ。私には跡継ぎがいる。忠誠を誓ってくれる兵士もいる。私の死は、彼らの力になるだろう」
「なら、なんでさっさと殺さないの?」
渓円は冷静だった。冷静に、薔王が自分を殺さず、無駄話をしている理由を考えていた。
「投降すれば、命は助けてやるってことか?」
「いや、そういうことではない。渓円よ。おまえの才能は知っている。おまえ、私の軍師にならないか?」
その言葉に、渓円は小さく笑った。
時を少しだけ戻して、薔王が捕らわれた後の軍営を見てみた。
そこには、知らせを受け取って、急いで戻って来た子棋と冬涯が、押さえ切れない焦りで、何度もテントの中を歩き回っていた。
「おれが、助けに行く」
最初に立ち止まったのは、子棋である。テントを出て行こうとしたところを、冬涯が身体で阻んだ。
「おい!今攻撃したら、薔王様の身が危ないぞ」
「今戦わないと、薔王様は死ぬぞ」
「いや、捕らえたのなら、きっと何かを要求してくるはずだ。それを待って――」
「そう言う意味じゃない。今朝、薔王様は、もし自分が捕らえられたら、夜を越させるなと、そう仰ったんだ」
冬涯の動きが止まった。薔王の言葉の意味は、冬涯にだって分かる。
「え?じゃあ、薔王様は、捕らえられることを知ってたのかよ。それを見越して、おまえにそんなことを言ったのか。なら、絶対に、何か重大な作戦があるに違いないよ。ああ、薔王様は、軍師なんて必要としていないよ。さすがは、薔王様だ。よし、子棋将軍。高京を攻撃しよう!」
冬涯が、薔王を崇拝しているのには、うすうす気づいていた。しかし、そのあまりの盲目さには、さすがの子棋も引いてしまった。
「いや、おれたち近衛軍で――」
「そういう訳にはいかないよ。おれたち龍鱗軍だって、薔王様の作戦に入っているはずだよ。勝手に、除け者にするなよ」
ということで、近衛軍と龍鱗軍は、再び高京を攻撃し始めた。
高京の城郭に、白い旗がたなびいた。
頬を真っ赤にして、息を上がらせた子棋は、ありえないものでも見たように目を丸くした。嘘かとも思ったが、敵兵は確かに武器を下ろして、城郭の門を開けている。
迷っている時間はない。子棋は一刻も早く、薔王の傍に駆けつけたかった。たとえそれが、罠だったとしても……。
子棋は、冬涯を高京の外に残して、近衛軍を連れて、高京に入った。周りの家屋の隙間から、怯えた目玉が覗いている。
「子棋!」
名を呼ばれて、視線を正面に戻す。
薔王が、得意そうに笑って、立っていた。後ろには、武器を外した武将が3人、穏やかな、嫌そうな、納得いかない顔をして、立っている。
子棋は、転がり落ちるように馬から下りた。薔王の前に跪く。その状態でも、子棋は後ろの3人を警戒し続けた。
「落ち着け。高京の降服は本物だ。罠などではない」
子棋の腕を取って立たせながら、薔王はチラリと渓円を振り向いた。穏やかな眼差しとぶつかり合って、やんわりと微笑を浮かべる。
子棋の口元が、小さく引き攣った。
高京の軍民が落ち着くのを待って、薔王は高京の官吏の再構築に手を付けた。もっとも、高京の官吏を再構築したのは薔王ではなく、わざわざ王都から呼び寄せた海麓なのだが……。
「投降軍の小将を中心に、高京警備兵を編成しました」
海麓から1枚の報告書が差し出された。
薔王はそれにざっと目を通して、印を押す。
「他の投降武将は、どうなさいますか?」
「そうだな。うん、彼らを軸に、新な軍を1つ編制するといい」
「よろしいのですか?投降軍の武将を、そのまま1つの軍に入れるのは、危険ですよ」
「構わないだろう。私が、直接話をつけてくればいい」
「かしこまりました」
心得たとばかりに海麓が笑うと、薔王も笑い返した。
この男、最初から問題ないと分かった上で問いかけて来たのだ。
「海麓。高京県令の件は、どうなっている?王都から、候補者を3人、呼び寄せてきたのだろう」
「ええ。ここ数日の実地訓練で、1人を選出することに成功しましたよ。明日には正式に就任できるでしょう」
そう言って、海麓は3枚の任命書を差し出した。県令の分と、2人の補佐官の分。これらに印を押して、この日の薔王の政務は、全て終わった。
次の日。兆火と幡然が、官邸に呼び出された。裏庭の、バラ園に案内される。
薔王に降ったのがよほど嫌だったのか、兆火はおざなりな挨拶しかしなかった。幡然も、当然のようにそれに倣う。
瞬き2つほどの間、薔王は黙って2人を見ていたが、この事については咎めないことにしたようだ。
「しばらくぶりだな。兆火。幡然。さて、私は回りくどいのが苦手でな。直接、本題に入るぞ」
薔王は、摘み取ったバラの花を指で弄んでいる。
「新しい軍を1つ、編制しようと思っているのだ。兆火、新軍の将軍にならないか?副将は幡然にしようと思っている」
ありえないほどに簡潔に、用件だけを述べた。
「は?敵に兵を渡すってのか?」
不可解に思った兆火の声には、侮辱の響きもある。何も知らない女が、と薔王を見下しているのである。
それを、薔王は軽く笑って流した。
「ハハ。兆火よ。私たちは、もう敵ではないだろ?おまえたちは、渓円と共に私に降った。渓円には、軍師になってもらうのだから、おまえたちに軍を1つ任せるくらい、別におかしくないだろう」
「罠じゃないだろうな」
「もちろん違うさ。兆火。幡然。おまえたちが私を拒むのは、官吏の害にあったことがあるからだろう?だから、私が民を害す悪王であることを、恐れている。だが、それは渓円も同じだろう?だから、今まで彼に着いて行ったのだろう?今や、その彼が私を王と認めたのだ。もし、おまえたちが彼を信じているのだとしたら、ついでに私も信じろ」
「兄貴は信頼してる。だが!」
花を捨て、薔王は熱くなった兆火の手を、そっと自分の右手を重ねた。左手で、幡然の手も取る。じっと、彼らの目を覗き込んだ。
薔王の冷えた手の柔らかい感触に、兆火は、身動きが出来なくなった。
ふんわりと漂ってくるバラの香りが、2人の心を落ち着かせていく。
「いつでもいい。おまえたちが、私は王に相応しくないと思ったら、その時は、いつでも反旗を翻すといい。渓円に助けを求めれば、私に勝つのは簡単だろう。だから兆火、幡然、私が国民を裏切るまで、私に忠誠を誓ってくれ」
兆火は、元々単純な男である。こうも純粋に、誠実な目で見つめられたら、断ることができない。
幡然はといえば、王が頼みに来る、という事実だけで、涙が止まらないくらいに感動している。
王族や官吏には、常に威張り散らしていて、民を見下している人が多いのである。
「忠誠を、誓います、薔王様」
同じ言葉をささやいて、跪いた。
「よろしく頼むぞ、2人とも」
嬉しそうに頬を緩めた薔王は、2人を連れて、しばらくバラ園を散歩した。
「あの、お身体の傷について、お聞きしてもよろしいでしょうか」
何を思ったのか、幡然が突然それを尋ねた。
ああ、と言って薔王は振り返ると、服の上から傷のある場所を指差した。
「戦場で、戦ったときのものだ。ほとんど、いつのものか覚えていないが、ここにあった傷は、この前いくつかの都市が王都に攻めてきた、王都防衛戦のときのものだ。これのせいで死にかけてね。よく覚えているよ。……どうした?」
幡然が、目を逸らしている。
兆火も下を向いてしまった。
もし見間違えでなければ、2人とも、少し怯えているようだ。
しばらくすると、覚悟を決めたのか、幡然が顔を上げて、口を開いた。
「その、王都防衛戦ですけど、高京も出兵していました」
薔王を殺しかけた傷をつけたのは、自分達かもしれないのだ。怯えるなと言うほうが難しい。特に、もう投降してしまった訳だから、適当な理由を付けて処理されてしまっても、おかしくない。
他の人の口からバレるより、自分たちの口から言ったほうが、助かる確率が高い。それが幡然の思惑だった。
「そうか」
そんな2人の恐怖をよそに、薔王の反応は実に軽かった。
「まさか、怯えているのか?今更、昔のことを蒸し返しはしないさ。私は活きている訳だし、おまえたちを咎めても、何の利益もない。要するに、私に忠誠を誓う前の事は、全部忘れろ」
まだ15歳の薔王は、戦場で戦い、人を殺し、そこら辺の大人よりよっぽど広い心で、一回りも年上の大人を受け止めている。
薔王の高京からの凱旋のため、高京でも、王都でも、慌しく準備が行なわれていた。
そんなある日の、午後のことである。県令官邸の裏庭の一角で、薔王は穏やかに緑茶を飲んでいた。
共にこの優雅な一時を楽しんでいるのは、渓円である。
もちろん、薔王の傍には子棋が控えていて、気配を消しながら、薔王を見つめている。
「意外だな」
薔王のカップが、ことりと小さく音を立てて、石の机の上に置かれた。
「何が?」
渓円が聞き返す。
その茶を飲む動作からも、カップを持つ手指からも気品が溢れ出している。とても平民出身とは思えないが、叩き上げでも、品は身につくということなのだろう。
「今のおまえの状態だ。普通、投降したばかりの臣下は、私を恐れるものだぞ。かつての冬涯しかり、今の兆火と幡然しかり。しかしおまえは、言葉遣いすら変えていない。おまえはあまりにも、のんきだ」
「そうか?ぼく的には、普通なんだけどなぁ。大体、ぼくを臣下に誘った時点で、ぼくたちに危害を加えるはずがないのは分かるからね。言葉遣いは、まあ、官印を貰ってからかな」
別にいいだろ?と言った声の、低く穏やかな音に、薔王の心の琴線が小さく跳ねた。
ふっと、渓円が笑いを零した。
「どうした?」
「いや。さすがは王家の教育だなぁ、と思って」
「どういう意味だ?」
「女を王に育てるって、すごいことだと思うんだよ」
「女を見下すのか、渓円。止めたほうがいいぞ。私がいい例だろう」
無礼とも取れる渓円の言葉に、薔王は笑って応えた。
これにも、渓円は深く感心した。
「だが、もしおまえが、王位継承者のための教育を言っているのなら、私は受けたことがないぞ」
「え?」
「生まれたときには、もう兄がいたからな。その後には、弟も生まれたし」
薔王が、もうすっかり冷めてしまった緑茶に再び口をつける。
自分は、王位継承に望まれていたわけではないと、自分の王位の正当性は危ういと、そう認めさせるような話題だったとは、さすがの渓円も思っていなかった。
場合によっては、大きな怒りと反感を買い、将来の仕途どころか、命すらあったものか分からない。
渓円は背中を冷たい汗が流れていくのを感じた。
「今、私を恐れただろ?」
薔王が、楽しそうに言った。
「正直言うと、恐れられるのは好きではない。今まで通り、適当にしていろ、軍師」
「はい。わかりました」
渓円は言葉遣いを正した。官印のことなど、どうでもよくなった。薔王が自分を軍師と言うならば、死ぬまで、自分は薔王の軍師なのだと、心から誓った。
叡国暦339年9月25日
この日、王宮の大広間で、一人の男が軍師となった。薔王が、自ら彫り上げた官印を彼に与え、さらに軍部大臣を兼任させた。
「すまないな。おまえは、渓円の副官をしてくれ」
自ら王座を下りて謝った相手は、高京に行く前に任命した軍部大臣である。誠意を示しているわけだが、謝られた本人は、完全に恐縮している。
「残りはおまえに任せるよ、渓円」
薔王が王座に再び座るのを待って、渓円は、広間の中央の一番前まで進み出た。振り返って、他の臣下の方を向く。
「新に編制した軍隊を虎骨軍と名づけ、高京から投降した武将の兆火を将軍、幡然を副将に任命する」
声高々に、任命書を読み上げた。
薔王は、満足そうに頷いて、大広間から覗く狭い青空を眺めた。また一つ、国と国民のために、正しいことができた。でも、始まったばかりだ。
薔王は、新に迫り来るであろう試練に、思いを馳せた。