第四話 高京進攻
叡国暦339年7月9日
長い休養を終えて、薔王が再び朝会に戻って来た。
久々に見る顔は、どれも緊張に引き締まっている。
「久しぶりだな。会わない間、私はそうでもなかったが、おまえたちは元気だったか?」
薔王の笑顔で、朝会の厳粛さが、すっかり解けてしまった。あちらこちらで、口角が上がる。
「さて、休んでいる間に考えたんだがな。どうも、私が休んでいる時のほうが、政務の処理効率が良いようだ。それでだな、さほど重用でない案件まで、朝会で討論する必要はないと思うんだよ」
王座から、臣下たちの小さく頷く波が見えた。
それから、薔王と臣下の間で、政務の重要度の基準について、討論が行なわれた。
最終的に、政務は、各部で処理案を立てるもの、宰相が大臣と討論して処理案を立てるもの、朝会で王を交えて討論するもの、の3つ部類に分けられた。
「第三部類の政務は、宰相が事前に目を通すこととする。三部類に前例のない政務は、一律朝会で討論し、それから分類する。全ての処理案の最終決定権は王にあり、全ての処理案は、王によって決否を下されなければならない。良いかな」
薔王がまとめる。
「私の仕事が、多いですね」
海麓が、困ったように笑った。
「すまないな。右宰相に相応しい人材が、見つかるまでだ。辛抱してくれ」
「はい。しかし、右宰相よりも、早急に必要な人材がありましょう」
「なんだ?」
「軍師です」
驚きを示すために、薔王の眉が軽く持ち上げられた。
「冬涯将軍も素晴らしい武将ですが、戦略には、長けていないのではありませんか?」
「はい」
冬涯は、躊躇いもせずに、それを認める。
「王領の各都市は、それぞれに特徴と強みがあります。がむしゃらに攻撃しては、必ずつまずきます。どこから攻めるか、どうやって落とすか、私では、判断しかねます」
冬涯は、冷静に己を判断しているようだ。
薔王は、フムと頷いて、海麓に目を戻す。
「おまえでも、判断できないのか?」
「ええ。政治は分かりますが、戦略のほうは、からっきしですよ」
海麓は、残念そうな微笑と共に、小さく首を振った。
「そうか。正直、境目が分からないが、おまえがそう言うのなら、そうなのだろう。必要ならば、手に入れればいいだけのことだ」
薔王が、自信に満ちた顔で、ニヤリと笑う。別に、気持ちを伴った笑顔、というわけではない。その証拠に、薔王の目は、笑っていなかった。必要に応じた、一種の仮面である。
「海麓、おまえの間者に探らせろ。適任者が見つかったら、私が直接、迎えに行こう」
「はい」
海麓が、慇懃に頭を下げたところで、朝会はお開きになった。
文官は大広間を出て右側の政館へ、武将は王宮の外の武館へ、それぞれ帰っていく。
「さすがは、薔王様だ」
武館への道を、子棋と冬涯は、連れ立って歩いていた。
冬涯の声には、明らかな崇拝が込められている。
その手前、子棋はとりあえず頷いておいたが、心の中では、同意していなかった。
討論の間、子棋は薔王の目が、時々光っているのを見た。あの光は、昔にも見たことがある。あれは、面倒なものを、他人に押し付けることができたときの、そして、それを喜んでいる時の光だった。
軍師のことがどうでようと、反逆した都市と戦争になることだけは、間違いようがない。
海麓の立案、薔王の承認を経て、一枚の公布が、張り出された。
文官の欠員と、戦闘の最中に死んでしまった軍の書記官の欠員を埋めるための、公募である。
公布が張り出されて以来、海麓は、ベッドに触れることすらできないほど、忙しくなった。
元々、叡国の律令では4年に1度、公試験が行なわれることになっている。それが最近は、地方割拠やら都市反乱やらで、哀王の時代から1度も行なわれていない。つまりこれは、哀王が即位してから数えて初めての、文官公募の公試験である。
そのため、今回海麓の作る試験は、これから行なわれる全ての公試験の、手本となるのだ。海麓が力を入れるのは、当たり前である。
これに加えて、試験監督と合格者への面接も行なわないといけないのだから、これはもう、休めというほうが難しい。
その努力の結果、公試験はかなりの好成績で終わり、多くの優秀な合格者が出た。おかげで、欠員を埋めることができただけでなく、これからの都市戦の後に必要であろう、県令の候補者を数人、手に入れることもできた。
さて、文官が揃えば、後は武将である。いや、この場合兵士というほうが正しいか。
冬涯の王都直属軍も、子棋の近衛軍も、連続する二回の戦闘により、それぞれ約半数近くの兵士を失っている。これを補充しないことには、新しい戦いなどできない。
王都とその郊外で、大規模な徴兵が行われた。
幸いというか、不幸にもというか、不安定な社会においては、兵士として食い繋ごうと考える男が、それなりに多い。来る者を拒まず、両軍は、元の二倍の規模にまで膨れ上がった。
これでもまだ、準備が整ったとは言えない。
戦闘経験のない新兵だらけの軍は、訓練によって、戦闘能力を底上げする必要があるのだ。新たな装備と兵器も、作る必要がある。
そういう訳で、ここ連日、薔王は、財務大臣から上がってくる会計報告に追われていた。どこにいくら出すか、その理由まで綺麗にまとまってはいたが、何せ量が量である。
財務大臣を信じていないわけではないが、報告にはしっかりと目を通したい。そう思っているものだから、ますます時間がかかった。
もちろん、上がってくるのは、会計報告だけではない。公試験で、新に文官となった者への任命書にも、許可を示すため、印を押さないといけない。
王になって以来の、多忙な毎日である。
「姉上!」
典臨が、いきなり執務室に駆け込んできたとき、薔王は、その日15枚目となる報告書に目を通していた。
「どうした、典臨。何かあったのか?」
愛する弟と向き合うため、薔王は報告書を机において、顔を上げた。
「姉上。僕にも、従軍の許可を下さい!」
「……海麓には、訊いたのか?」
「…………」
典臨は、黙り込んでしまった。入ってきたときの様子と合わせれば、すでに訊いているばかりか、喧嘩までしてきたのだろう。
「姉上。僕は、強くなりたいんです。姉上を守れるような、強い男になりたいんです。だから、僕も戦い方を知りたいんです!兵士と同じ訓練を、受けたいんです!」
典臨は真剣だった。確かに、王子として、王位継承者として、戦争を知っておくのは、重要なことだろう。
薔王も真剣に、典臨の目を見つめた。
「言いたい事は分かった。しかし典臨、お前はまだ成人していない。そんなに訓練を受けたいのなら、王宮に先生を呼ぼう。これで良いな?」
「…………………」
「…………………」
「はい」
典臨が折れた。薔王は、引き出しから紙を取り出して、すらすらと筆を走らせると、典臨に渡す。
「冬涯の副将に、無虎という男がいる。これが、なかなかに優秀な戦士らしい。彼に、おまえの先生になってもらえ」
無虎に典臨の武術の先生を兼任させる命令書だった。
叡国暦339年9月8日
この日の朝会は、叡国の進退を決められるほどに、重大なものであった。しかし、その始まりはありきたりで、何の重要性もない案件だった。
「王都直属軍のことなのだが――」
そろそろ、最初の進攻先が決まる頃と、身構えていた臣下たちは、それに続く薔王の言葉に、思いっきり肩透かしを食らってしまった。
「――名前が長くて、呼びにくいとは思わないか?」
反応に困る質問だった。海麓は、無言のまま微笑み続け、冬涯は、困惑した顔で固まっている。唯一、曖昧に頷いた子棋も、どうして開口一番がそれなのか、上手くつかめなかった。
「ゴホン。えー、ここ数週間、寝室で彫刻に励んでいたのだがな。それを、王都直属軍の新たな官印にしようと思ったのだが、5文字を彫るのが面倒でな。だから、王都直属軍の名前を変えようと思うのだが。どうだろうか」
王がその手で彫った印をもらえるほどの天恩なら、軍の名前が変わるなんて、たいしたことではない。
「異論ありません。ありがとうございます」
冬涯が嬉々として頭を下げる。
「そうか。では、今日のこの日より、王都直属軍を、龍鱗軍と改める」
そう言って、薔王は懐から拳ほどの印を取り出した。四角い印の上には、絡み巻きつく神龍が1匹。鱗の1枚1枚に至るまで、丁寧に、美しく彫られている。その技術は、王宮の石工にも劣らない。
冬涯が恐れ多いとばかりに、王座のすぐ前まで進み出て、新しい官印を受け取る。
それを遠目に見ていた子棋は、突然、昔を思い出した。15歳で近衛軍に入り、たった5年で将軍に昇進した。天賦の才能は言うまでもなく、血の滲むような努力と卓越した実力があったからこそ、成し得たことだ。
その5年間。子棋は、まだ王女だった薔王の護衛に付いていた。
そういえば、薔王は彫刻が得意だった。
「拗ねているのか、子棋?」
思い出に浸っている間、薔王に何回か呼びかけられたらしい。
はっと気がつくと、大広間の全員が、子棋を見ていた。
「あ。いえ。申し訳、ありません」
子棋は急いで頭を下げた。
「案ずるな。これから、近衛軍の新しい官印も彫るつもりだ」
勘違いしたままで、薔王はやさしく微笑んだ。
全体の空気がいい感じに緩んだところで、海麓が右の列から一歩中央へと進み出た。微笑んだまま、やんわりと、最重要案件を持ち出した。
「薔王様らしいお考えですね。素晴らしいです。その新しい名前が、今度の進軍に間に合って、よかったと思いますよ」
「進軍?」
「ええ。軍師の人材が、高京に見つかりました。高京反乱軍の首領、渓円です」
海麓が、得意げに片方の口角だけを上げた。
「渓円。聞いたことのない名前だな」
「元は、高京警備軍の小将だったのですよ。それが、反乱の後に県令に取って代わって、高京を牛耳るようになったそうです。その首領に至るまでの道のりは、軍師の資格を得るに足りるほどの物と、私は判断しました」
「そうか。まあ、おまえの判断を信じよう。高京へ進軍することに、異論のある者は?」
異論など、ありようが無い。
軍師が必要なのはすでに明白で、その軍師を手に入れるためには、たとえ困難でも高京を落とすしかないのだから。
薔王が二回、広間全体に目を走らせると、高京への出兵が正式に決定した。
続いて、王都から高京までの地理、高京の守備状態が、海麓から報告される。
「薔王様、王領の土地は基本、平地なのです。ただ、王都から高京に掛けては、緩やかな上り坂になっているのですよ。国道、民道の周りには、低木林が広がっています。高京領と王都領の境に、守備軍は配置されていません。また、高京の城壁の工事は、相当に丈夫に出来ているそうです。守備軍は大筋で二部隊、総員で一万五千人程度。全員、威勢のいい若者だそうです。戦闘能力は、比較的高いものと思われます。兵士の毎日の食事と訓練のメニューは――」
海麓は、報告書すら持たず、空で、すらすらと言った。
「……おまえの間者は、一体何者だ?それに、食事と訓練のメニューなんて、必要あるのか?」
薔王の弱り果てた声は、全員の心情を代弁していた。海麓のあまりに細かすぎる情報に、誰も着いていけなかったのだ。
「どこにでもいる、お金で雇った人たちですよ。情報は、何が必要かわかりませんからね。とりあえず、手にはいる物は、全て集めてみました」
薔王の問いに、海麓は朗らかな笑顔で答えた。
「…………」
ほんの一時、沈黙が流れた。
「そうか。ありがとう。悪いが、私は少し疲れた。細かいことは、冬涯と子棋と話し合って、まとめてから、報告しに来い」
そう言って、薔王はさっさと大広間から逃げ出した。
おかげで、冬涯と子棋が代わりに、必要性の低い、細かすぎる敵情報を永延と聞かされる羽目になった。
報告書はその日の内に上がってきた。その中に、いくつか賛成のできない法案がある。もう太陽が眠っている時間だが、薔王は、臣下を3人呼び寄せた。
「真直ぐ進軍するだけでは、すぐ見つかるぞ。奇襲を掛ける案は、なかったのか?」
薔王の声は、明らかに不機嫌なものだった。
「ええ。低木林では見晴らしがよく、回り込もうとしても、隠れようとしても、難しいのですよ。奇襲を掛けようにも、相手は軍師の才。何か想定外のことがおきたとき、冬涯将軍がそれに正しく対応できるとは、思えませんから。ここは、真直ぐに行こうと思うのですよ」
「それでは、しかたがないな。まあ、いいだろう」
不機嫌なまま、薔王は意外なくらい、あっさりと引き下がった。
薔王の怒りを買うのではないかと、慎重に身構えていた海麓は、微笑んだまま、2、3回瞬きをした。
「それはいいとして、なぜ出動部隊に近衛軍がないのだ?」
薔王がスッと目を細めた。どうやら、不機嫌の理由はこっちだったようだ。
「薔王様が、王都の残られるからですよ」
海麓は回り道をしなかった。今の薔王が、回りくどい言い訳を聞くようには、見えなかったからである。
その隣で、冬涯は緊張を隠せずに、背中に回した右手を、なんどもギュッと握り締めた。
子棋も少しハラハラしていた。薔王が不機嫌を隠しもしない。それはすでに、不機嫌などという言葉では足りないくらいに、怒り心頭である、という証拠である。
薔王は、軍と共に、高京へ進軍したいのだ。
「薔王様は、王都に残らないといけませんよ。薔王様は、叡国の要ですから」
海麓が、微笑を絶やすことなく、確固たる口調で言った。
もしかして、薔王の怒りに気づいていないのだろうか。もし、気づいていてもなお、怯むことなく、面と向かって反論を唱えているのなら、それは尊敬に値する。
子棋は、海麓の横顔に目をやった。もうすっかり秋になったよく冷える夜に、一筋の汗が、海麓の頬を流れていった。
「海麓。おまえの言いたい事は、分かっている。だがな、叡国の今の状態を考えよ。兵士に命を差し出させ、王は1人安全な場所に隠れていると、そう宣伝されたらどうする?私は、前線に行かないといけない。少なくとも、王領が完全に私のもとに復帰するまではな」
薔王の目は 真直ぐで、真剣だった。さっきまでの不機嫌が身を潜め、代わりに、ギラギラとした光が、その目に宿っている。
「案ずるな。叡国は、私が守るんだ。こんなところで、死んだりはしないさ。まあ、たとえ何かあったとしても、典臨が入れば、叡国は大丈夫だ」
薔王は、一人一人の顔を眺めて、そして、自信たっぷりに微笑んだ。
「では、一歩だけ譲りましょう。薔王様が行くのは、前線軍営までであり、戦場へはでないと、そう約束してくださいませんか?」
海麓でなければ、こんな約束すらさせる勇気はなかっただろう。
薔王はしばらく海麓と睨みあっていた。それから二人にも目を遣る。冬涯はスッと目を逸らし、子棋は黙って見つめ返してきた。
ここは、引くしかない。
「……いいだろう。ついでだ。おまえも私と、1つ約束しないか」
「いいですよ」
「おまえは王都に残れ。王都で、何があっても典臨を守れ」
「わかりました。約束しましょう」
海麓が、柔らかく答えた。
さっきまでの姿が、緊張しているものだったと、冬涯はここに来てやっと気がついた。海麓も緊張すると知って、少しほっとした。正直、冬涯にとって、掴みどころの無さ過ぎる海麓は、苦手な人だったのだ。
「ご安心ください、宰相殿。薔王様は、私たち龍鱗軍が、必ずお守りしますから」
海麓に向かって言ったが、それは、薔王への宣誓でもあった。
叡国暦339年9月16日
準備期間を終えて、叡国は高京へ向かって進攻した。
その先頭を、龍鱗軍将軍冬涯が馬に乗って歩き、中ほどでは、龍鱗軍副将無虎が食料などの物資を護送する。後ろからは、子棋の率いる近衛軍が、薔王を真ん中に囲んでついて行く。
作戦は、主将である冬涯の性格に合わせた正攻法。王都と高京の境の郊外に正々堂々と軍営を張り、兵士を一人、使者として送って、高京に宣戦布告した。