第三話 王都防衛
文官之乱の後、元重臣らは投獄され、王都直属軍は正式に薔王のもとに降った。
これが、薔王にとって、最初の派遣可能の軍隊になる。
「申し訳、ございませんでした」
王宮の大広間で、冬涯は平伏して謝った。投降した2時間後の事である。
大広間には、いつもの朝会と同じく、各部の大臣と二人の副官が集まっている。
王座の左には椅子が置かれて典臨が座り、右に並ぶ文官の一番前には海麓が立つ。普段は大広間に入らない近衛軍だが、この日は子棋が武将を代表して左に並んでいる。
「薔王様、反乱軍の主将は死刑でございます」
刑部大臣が進み出た。
「そのつもりはない」
「それでしたら、将軍の任を解き、牢に繋ぐのはいかがでしょう」
「そのつもりもない」
「では、どのような罰を、与えられるおつもりですか?」
「罰を与えようなどと、は思っていない。私は、冬涯を許すつもりだ」
大広間がざわついた。
「騒ぐな。別に、法を蔑ろにしている訳ではない。思い出せ。私の即位の日、冬涯は来ていなかっただろ。これがどういうことか、分かるか?」
「っ!冬涯はもとより、薔王様に忠誠を誓っていないと、そう言いたいのですか!?」
人事部大臣が言った。
「ああ、そういうことだ」
詭弁である。
「反乱の罪には、問えない。私を攻撃した罪は、問わない。冬涯には引き続き、王都直属軍を率いてもらおうと考えている」
そんな薔王の言葉に、子棋は無言で頷いた。
「私も、賛成ですよ」
海麓が進み出た。
「薔王様には、叡国には、即戦力となる軍隊と将軍が必要でしょう」
今度は、文官のほとんどが頷いた。
「やってくれるか、冬涯」
質問ではなかった。
「はい。私の忠誠のすべてを、薔王様に捧げます」
冬涯の答えに、薔王は満足して笑った。
叡国暦339年5月22日
危機はまだ、去っていなかった。王都の臣民が、完全に薔王に忠誠を誓った3日後、王都は最大の危機に直面することになった。反乱を起こし、王領からの独立を宣言した王領5都市の内、3都市の軍が王都に侵攻したのだ。
緊急招集され騒然とする朝会で、薔王は、前線からの戦報を聞いていた。この日も、子棋は大広間の中にいた。
この日から子棋が―近衛軍の将軍が―朝会に参加することは、常例となった。
「私に、勝ち目はあるのか?」
簡単な質問を、臣下たちに投げかけた。
ほとんどの臣下が、押し黙った。
海麓は、薔王が肯定を求めているのだろうと思ったが、肯定の後の解決策は、持っていなかった。
顎に手を当てて思案する海麓の左側で、ただ一人頷いている男がいた。子棋は、薔王が解決策を求めてなどいないことに、気づいた。
「あります。薔王様なら、勝てます」
驚きの目が集まった。海麓でさえ、口元の微笑が消えかかっている。
全員でその後に続く言葉を待ったが、子棋は何も言わずに薔王を見上げている。
「子棋の言う通りだ。私は、勝つ。冬涯、王都直属軍の休養再編制は終わっているだろう。子棋の近衛軍と共に、敵を迎え撃て」
命令である。文官には、戦いの間、王都の臣民を安定させておくよう命じた。
海麓を除く全文官が対処に向かい、大広間には、薔王と典臨と3人の臣下が残った。
「海麓、私の鎧は、できているか?」
「ええ、できております。ですが、まさか、薔王様も前線に行かれるおつもりなのですか?」
「ああ、王都直属軍を2つに分けて、1つを私が指揮すれば、子棋の近衛軍と合わせて、ちょうど3つの敵軍に対応できるだろう」
「いけません!」
冬涯が叫び声を上げた。
「危険すぎます!私と子棋将軍、それから私の副将に一隊率いらせれば――」
「それでは、だめなのだ。騙されていたとはいえ、おまえの兵士達は、一度私と刃を交わしている。冬涯、おまえとて、不安が全くないわけではないだろう。私が共に戦うことこそ、信頼を示す最も良い方法だろう」
冬涯は言葉に詰まった。自分たちが殺しかけた主は、命の危機を犯してまで、その許しと信頼を示そうとしている。
もし自分だけのためなら、こんなことはして欲しくない。でも兵士の気持ちを考えると、反対ができなかった。
叡国暦339年5月23日
日の出と共に、王都と三都市間の戦争が始まった。
薔王に押し切られる形で、冬涯が東の、子棋が西の、薔王が自分で北の敵を迎え撃つことになった。
出発前、薔王は王宮の前で全軍と向かい合った。着慣れない重い鎧に身を包んで、目の前に並ぶ顔を一つずつ眺めた。
「勇猛な兵士たちよ。王都は、危機に面している。私一人では、この危機を乗り越えられない。だから私はここに願う! 私を、王都を、叡国を、助けてくれ。我らが手を合わせれば、勝てない戦などない。兵士たちよ!共に、戦おう!」
王が自ら最前線で戦うと言っている。兵士たちは猛り立った。
北、東、西、それぞれの軍が、いつも以上の勇敢さで敵に斬り込んで行った。
特に薔王が直々に率いる北側では、誰もが捨て身になって戦った。彼らの主である王が、一番前で戦っているからである。
薔王の鎧は、急いで作ったこともあって装飾が少なく、歩兵に紛れてしまえば、なかなか見分けが付きにくい。特徴があるとすれば、鎧の胸に刻印された真っ赤なバラだろう。
そのバラが、太陽の光を受けて輝くたびに、敵の兵士が1人倒れていった。その内、赤いのはバラだけではなくなった。
それでも、薔王は王であって、兵士ではない。目の前の敵に気を取られている内に、敵兵に囲まれてしまった。
いくつものの刃が、薔王に向かって突き出された。
死を覚悟した時、弓矢が降って来た。薔王の周りにいた敵兵が、バタバタと倒れていく。
「ありがとう!」
後方に聞こえるわけではないが、薔王は前を向いたまま、声を張り上げて言った。
また向かってくる敵に、剣を向ける。身体が鋭く痛んだ。味方の援護は少し遅かったようだ。地面に倒れる敵兵の中に、薔王の脇腹を斬りつけるのに成功した者がいる。もちろん、彼らがそれを知る日は永遠に来ないが……。
今度は弓矢が数本飛んできた。
間一髪で避けるも、1本の矢が左肩に突き刺さった。幸い、腕を動かすのに支障はない。薔王は、自分で矢を引っこ抜いた。
敵兵は、薔王の率いる兵士の二倍はいる。
日が真ん中近くまで昇る頃には、薔王を含め、ほとんど兵が傷だらけであった。
両軍は、正午になってやっと兵を引いた。束の間の休息である。
死傷者数は予想以上に少なかった。
「痛みますか?」
怪我の手当てを終えた薔王の下に、こちらも一時的に兵を引き上げた子棋と冬涯がやって来た。さすがに将軍だけのことはあって、鎧には、返り血しかついていない。
「大丈夫だ、子棋。戦えないほどではない」
「まだ戦うのですか?」
冬涯が訊いた。
「戦う」
薔王ははっきりと答えた。
言い返そうとした冬涯の脇腹を、子棋は肘で突っ突いて黙らせた。
「戦場ではくれぐれもお気をつけて。今は、お休みください」
頭を下げて、冬涯を無理矢理連れ出す。
「なんだよ。おまえは、王の安全を担う近衛軍の将軍だろ!何で止めないんだよ!」
薔王のいる場所から十分に離れたのを確認して、冬涯が憤りの声を上げた。
「薔王様はお疲れだ。それに、あの口調では、誰が何を言ってもお心を変えはしない」
それだけ言うと、子棋は来た道を戻って行った。
薔王が見える場所で、しかし薔王には気づかれない場所で、ただひたすら目を瞑る薔王を見つめる。
置いて行かれた冬涯は、子棋が、一体どうやって薔王の口調の違いを聞き取ったのだろうかと、繰り返し、繰り返し考えた。
薔王の下に降ってからまだ日が浅いが、冬涯の印象の中の薔王は、必要以上の感情や意図を言葉に出すことのない人であった。表情でさえ、意識的に隠している。
ただ、これは考えたところで、分かる問題ではない。
冬涯はとりあえず、自分の軍隊の休憩所に向かった。
太陽が西へ幾らか傾くと、また戦闘が始まった。
正午の休息の間に、敵側の死傷者数が、それぞれの主の下に報告された。これにより、王都防衛戦の終幕が近づき始めた。
それを知らない戦場の薔王は、痛みに耐えながら、剣を振るい続けた。切り落とした腕から飛び散る鮮血を浴び、切り裂いたはらわたの臭いを嗅ぎ、苦しみもがく呻きを聞く。
午前中の疲れもあって、薔王の目は、少しずつぼんやりし始めた。
太陽がさらに傾くと、東と西の敵軍は、撤退命令を受けて引き上げて行った。北の伝令兵も、もう近くまで来ている。
敵が引き上げるのを見て、子棋と冬涯は、兵を連れて急いで北へ向かった。2人が到着するのと、伝令兵が到着するのはほぼ同時であった。
撤退を告げる鐘がなる。その最初の音が消える寸前に、1本の剣が、薔王の腹を貫いた。
「薔王様!!!!」
鈍く痛む腹と、暗くなる目、遠くなる耳が最後に聞いたのは、誰かの胸が引き裂かれたかのような叫び声だった。
撤退の鐘に油断していた2人の目の前で、薔王は、膝から崩れ落ちた。
王の寝室に、典臨をはじめ海麓、冬涯、子棋の4人が集まっていた。4人が見つめる先には、腹に剣が突き刺さったままの薔王と、その傷口を診ている男がいる。
男は民間の医者で、薔王が王宮に運ばれる時に、国民から推薦された名医である。
「ああ。その男なら間違いないでしょう」
海麓の一言で、その男は民間の医者として始めて、王の寝室に足を踏み込んだ。数分間、じっくりと薔王の傷を眺めた医者は、4人を振り向くと、重々しく口を開いた。
「剣を抜き、傷口を縫い、止血すれば命は助かりましょう。しかし……」
暗い表情で言葉を濁した。
叡国暦339年5月24日
この日、薔王は大切なものを一つ失った。
今でも多くの人がそれを残念に思っている。もし歴史が変わって、それを失うようなことがなければ、叡国の歴史はもっと伸びただろうと、そう考える人がいる。
鮮血と共に、命が流れ出していく。不思議と、痛くも苦しくもない。それどころか、これまでに感じたことのない開放感に満ちている。
――ああ。このまま消えるのも悪くない。
「姉上!僕を置いてかないで!」
遥か上のほうで、典臨の声がした。久しぶりに聞く、弟の泣き声だった。
「薔王様!気をしっかり持ってください!」
今度は子棋の声がした。震えた声に、焦りを感じる。
「諦めてはいけません!」
冬涯の真面目くさった声も聞こえる。
「薔王様!この国を思い出してください。あなたが治めると言ったのですよ」
これは、海麓の声だ。今もまだ、微笑を浮かべているのだろうか。
――そうだ。まだだ。私はまだ、消えてはいけない。
ぱっと目が開いて、いつもの天井が、視界に飛び込んできた。
まだ生きている。そう意識した途端に、痛みが身体に戻ってきた。
「うっ!」
呻き声が歯の隙間から漏れ出た。
1つの顔がぬっと出てきた。初めて見るその顔には沢山の皺があって、特に眉間に深く刻まれていた。民間の医者の格好をした、初老の男である。
「お目覚めですか?」
優しい、低い声がした。
薔王が頷くと、医者はベッドの側から離れて行った。ゆっくり首を動かして、医者の背中を追う。寝室の柱の影に屈みこんで、誰かを呼び起こしているようだ。
「姉上~!」
柱の影から典臨が矢のように飛び出して、薔王のベッドにしがみ付いた。
「心配させて、悪かった。私は、大丈夫だ」
傷に響かないように、慎重に、右手を布団の中から出して、力強く典臨の手を握った。
「良かったです」
大きく息を吐きながら、子棋が言った。
隣では海麓が、微笑みながら頷いている。
「王都は?」
「我々の勝利です。敵兵は、引き上げました。今、冬涯将軍が死傷兵士の対応に当たっています」
「そうか」
ほっとした薔王とは対照的に、子棋と海麓は、緊張に強張っていた。
「薔王様。こちら、王都一の名医の茶鞍です」
海麓に紹介されて、医者は深く頭を下げた。
「ご苦労だった」
医者に労いの言葉を掛け、もう一度臣下の顔を見渡す。子棋の目線が、自分から逃げていることに気がついた。
「私の容態に何かあるのか? 正直に言うといい」
子棋は、言えなかった。
海麓は、どう言おうか迷っていた。
典臨は、言われた通りに黙っていた。
動いたのは茶案である。ベッドの脇まで来て跪いた。
「申し訳ございません。力を尽くしましたが、薔王様は恐らく。……恐らく永遠に、子を授かることは、ないでしょう」
一呼吸、間があって、薔王はそっと目を閉じた。深く、深く息を吸い込んで長く、長く息を吐いた。
典臨は姉の手から力が抜けるのを感じた。
「そうか。これで、本当に女でなくなったのだな。……王に向かって正直にものを言う医者は少ない。茶鞍といったな、王宮の医官にならないか?」
薔王が、穏やかな微笑を茶鞍に向けた。
「はい。精一杯、奉公させていただきます」
地面に着くほど頭を下げて、茶鞍は医官となった。静に立ち上がり、薬を煎じると言って、王の寝室から出る。
「おまえたちも、下がって休め」
海麓が、典臨をつれて出て行く。
子棋は途中まで行きかけて、また戻ってきた。薔王の表情と言葉に、違和感を覚えたのだ。
「どうした? 子棋」
「子を授かれないと言われて、なぜ薔王様は、嬉しそうに見えるのですか?」
恐れを知らない、真直ぐな問いかけだった。
薔王の顔に、微かに影が差した。
「……鋭いな。子棋よ。私の王位を継ぐのは、典臨でなければならないのだ」
「なぜです?」
「……父上は、典臨に期待していたのだ」
右腕が持ち上がって、顔を覆った。
「亡くなる寸前まで、父上は、典臨にしか、期待しなかったのだっ」
叫びを押し殺したような声だった。
薔王は父を愛していた。だからより一層、まだ成人していない弟よりも、自分を頼って欲しいと思った。悔しくて、寂しかった。
涙が袖に染み込んでいった。
「薔王様……」
掛けられた声には同情の響きがあった。これではいけない。王は臣下に哀れまれるべきではない。
もう涙が溢れていないことを確認して、薔王は腕を下ろした。
「すまない。実を言えば、私は端から子を生すつもりなど、なかったのだよ。私に子ができれば、その子を王位継承者に押す者が出る。そして典臨を支持する者がいる以上、望まなくとも、争いは起こる。子棋よ、王位争いは、常に命の危機を伴うのだ。私は、自分の子をそんな危ない状況に置きたくはない」
そう言って、微笑んだ。
子棋は自分の質問をひどく後悔した。
それから一週間、薔王はベッドから降りることができなかった。
その間の政務は海麓が代行し、薔王はただ報告を聞いて最終決定を下すだけでよかった。
「薔王様!」
子棋の慌てた声が木霊する。
ここは王宮の大広間。薔王は王座にひとり座って、誰もいない広間を遠い目で眺めていた。
王座の左側の奥に、王宮の深部へ繋がる扉がある。子棋はそこから出てきた。
「薔王様、病み上がりの身体で一体何をなさっているのですか?」
王座の脇から声を掛けられても、薔王は視線を移さなかった。じっと、大広間の扉から覗く景色を見つめたまま、子棋に答えた。
「子棋か。案ずるな。少し、考え事をしたかっただけだ。身体は、なんともない」
「大広間の王座で、考え事ですか?」
「ああ。ここから見える景色は、つまらないからな。考え事に、集中できる」
「つまらない、ですか?」
「ここから見えるのは、国と国民だけだからな」
子棋は、どう声を掛ければいいのか、分からなくなった。どう言えば、こんなに寂しそうな顔をしなくなるのか、分からなかった。違う。分からないわけではない。心の中にあるその言葉を、王にかける勇気がないだけなのだ。
「子棋。明日、傷兵の慰問に行こうと思う。護衛を用意してくれ。あと、海麓と冬涯にも知らせておけ」
「はい」
「さて、それまでは、ベッドで大人しくしていようか」
薔王は肘掛に手をついて、辛そうに顔をしかめながら、王座から立ち上がった。
次の日の昼過ぎ、腹の包帯をいつも以上にきつく締めた薔王は、海麓と典臨をつれて傷兵の慰問に向かった。
もしもの時には、薔王を担架で運べるように、護衛にはいつもの倍の数が付いて来た。
傷だらけの兵士たちに、薔王は深く心を痛めた。
近衛軍の療養所から始めて、王都直属軍の療養所を回り終わるまで、薔王は一度も休憩を要求しなかった。
「海麓、おまえの情報網を、王領全域まで広げろ」
慰問からの帰り道に、薔王が唐突に切り出した。
「早急に、反乱を起こした都市を、叡国の支配下に取り戻す必要がある」
顔に出ていたわけではないが、子棋は薔王が激しく怒っていることに気がついた。