第二話 文官之乱
さて、この時代の人々について、説明しておかないといけないことがあるのを忘れていた。
薔王たち王族の苗字は何なのか、と訊かれて思い出したのだが、この時代の人々は、苗字というものを持っていない。
子供達の名を似せる例はあったが、今の我々が持つ苗字という概念は、まだ存在していなかったのである。
もう一つ、寿命のことも説明しておこう。
この時代の医学は、今ほど発達していなかった。そのため、三百歳を平均寿命とする今の人々と異なり、ほとんどの人は、100にもならずに亡くなってしまう。
これで哀王の死に際して、薔王がまだ成人したばかりだということも、納得していただけるだろうか。
では、話を元に戻そう。
叡国暦339年5月5日
即位式の翌日。薔王は、いつもよりも遅い時間に目覚めた。
誰も呼びに来なかった。
王宮の侍女は皆、それなりの家庭の娘である。彼女たちはもうほとんど家に逃げ帰っていて、粗使いの男女しか残っていない。
彼らは、王の寝室には入ってこない。
王の寝室。ここは、ほんの数日前まで父王の寝室だったが、今は薔王が住んでいる。ベッドの上に足を投げ出したままで、薔王は昨日の即位式を思い返した。
簡略化されたとはいえ、その工程は煩雑で長かった。
自分の寝室から大広間まで、いくつもの儀礼を交えながら、20分の距離を1時間かけて歩いた。大広間でも、跪拝の前と後に、複雑な祝詞が唱えられた。それがまた長かった。一連の儀礼は、新王が王の寝室に入居することで終わる。その頃には、もう月が真上に昇っていた。
儀式を覚えたり、慣れない政務に追われたり、薔王は即位式までの三日間一睡もしていなかった。これでは寝過ごすのも仕方がない。
薔王は、大きく深呼吸をすると、長い髪に気を付けながら、ベッドから起き出した。
髪を一束にして、とりあえず頭の上にまとめる。こんもりと盛り上がった重い髪を頭上に乗せて歩くのは、なかなかいい運動になった。
そのままクローゼットに入って、適当な服を選んで自分で着る。
部屋の調度品とその他薔王の持ち物は、たった二人だけ残った侍女たちが、即位式の間に一生懸命移してくれた。
髪を下ろしてお気に入りの髪飾りを2つ、3つ付けると、薔王は食堂に向かった。
食堂ではすでに典臨が食事を摂っていた。
「姉上! 珍しく遅いんですね」
薔王が入ってくるのを見ると、典臨は無邪気に笑いながら薔王に飛びついた。
「おはようございます、典臨。いつの間に、敬語ができるようになったのですか?」
薔王は少し驚いていた。
典臨の席の後ろに控えていた二人の侍女が、クスクスと笑った。
「わたくしたちがお教えしたんです」
「典臨様、ちゃんと君臣の礼を守るんだって、張り切っていらしたんですよ」
薔王は、先に侍女たちに微笑みかけて、それから典臨に笑顔を向けた。
「いい子ですね。あなたなら、きっとすぐに立派な男になれますよ」
「本当に? 姉上を守れるような男になれる?」
「あら、戻ってしまいましたね」
「あっ!」
典臨が両手で口を押さえた。その様子が可愛らしくて、薔王はその頭を撫でながら、声を出して笑った。
簡単な食事を済ませると、薔王はすぐに食堂を出た。朝会がない今日だからこそ、やっておかないといけない仕事がある。
薔王は、典臨を引き連れて、政館―文官たちが仕事をする場所―へ向かった。
その後ろを、子棋たちが護衛のためについて行く。
彼のような、王族の近辺護衛をする人間と言うのは、皆ありえないほどに存在感がうすい。ということで、先に注意書きをしておこうと思う。
薔王をはじめとする王族は、王宮内でも外でも必ず、近衛兵が護衛に付く。
もし、私が描写していなかったとしたら、それはあまりにも存在感が薄すぎて、私の記憶に残っていなかったからであり、決して護衛がいなかったからではない。その時は、ああ忘れている、と軽く笑い飛ばしてくれると有り難い。
「薔王様! 何用でこちらにいらっしゃったのですか?」
扉をくぐったところで、1人の書記官に気づかれた。
「おはようございます。気にすることはありませんよ。典臨の新しい先生を探しに来ただけです」
仕事に戻れと言うと、書記官は深く一礼して去っていった。
典臨の先生は、元々右宰相が務めていた。しかし、あの後6人の重臣が総辞職したものだから、新しく探す必要が出てきたのだ。
何度も同じ言葉を繰り返しながら、政館内を歩く。
実は、既に目星がついていた。
薔王はまだ王女だった時に、一度、こっそり政館を覗きに行ったことがある。その時に、とても博識な人を見たのだ。
その人物は、政館三階にある外交部の人間だ。元は第一副官であったが、先の大臣の辞任を期に、外交部大臣に昇任した。
「おはようございます。海麓、ですね」
熱心に書類に目を通していた海麓が、物凄い速さで顔を挙げた。一瞬見えた驚きは、すぐに彼の顔から引いた。
「これは、これは、薔王様。私に何か?」
海麓は微笑を浮かべて、慇懃に一礼する。
「ええ。外の国について、外交部大臣であるあなたに教えてもらいたいのです」
薔王は本来の目的を言わなかった。本当に典臨の先生に相応しいかどうか、その人間性を考察しようとしているのだ
海麓は、もう一度微笑んでから答えた。
「薔王様は、外の国についてお知りになりたいのですか。しかし私としましては、外よりも先に内を、まずは我らが叡国について、薔王様に詳しく知っていただきたいと思っているのですよ」
この海麓という男、物腰は柔らかいのだが、常に口元に浮かべられている微笑が、見下すような、神秘的な雰囲気を醸し出している。
薔王も彼に微笑み返した。
「それも、そうかもしれませんね。では、叡国の事から教えていただけませんか?」
薔王の話し方は、王にしてはあまりにも下から出すぎている。
「はい。では、私が後で大広間までお迎えに上がりましょう」
「何処かへ行くのですか?」
「国を知るのに、国民を知らないわけにはいきませんでしょう。ですから、まずはお忍びで、民の暮らしを知ってもらいたいのですよ」
「そうですね。分かりました。では、目立たない服装に着替えて待っています」
海麓に向かって軽く目を伏せて、薔王は政館を出て行った。
王の寝室に向かうまでの間、薔王はずっと考え事をしていた。海麓が何を考えているのか、分からない。でももし、何か考えがあってのことで、それが自分にとって良いことなら、別に今分かる必要もない。でも、悪いものなら……。
「薔王様。どうか、なさいましたか?」
薔王と典臨を斜め後ろから護衛していた子棋が、その悶々とした空気に気づいた。
「いいえ、何でもありません。ただ、あの海麓と言う男、ただものではないようです」
ほんの少しだけ振り返って、薔王は答えた。
それぞれの寝室で、薔王は自分で、典臨は2人の侍女に手伝ってもらいながら、王侯貴族の着る絹の服から、裕福層の国民が着る綿の服に着替えた。
綿の服は、元々リラックスしたい時に良く着ているものだ。王族の服は格式ばっていて装飾が多く、長く着ているとひどく疲れるのだ。
「随分と、大人しくなりましたね」
大広間で海麓来るのを待つ間に、薔王が典臨に声をかけた。
「僕は男です。男は、粛然としていなければなりません」
そう答える典臨の口調は、年に似合わず大人びている。
チクリと、何かが薔王の胸を突き刺した。
「薔王様」
綿の服に着替えた子棋が、同じように綿の服を着た近衛兵を2人連れて入ってきた。
「私たち3人が同行して、護衛いたします」
「急で悪かったですね。よろしくお願いします」
薔王の言葉に、二人の近衛兵が恐れ多いとばかりに頭を下げる中、子棋は薔王から目を離さなかった。
薔王はもう、典臨に目を向けている。
典臨は緊張した面持ちで、入り口のドアを見つめていた。
海麓が迎えに来たのは、それから約10分後である。
王宮を出て、王都の街を歩く。多くの人々が道を行き交っていた。
「これでも、少なくなったのですよ。書物によれば、第五代国王の時代は、今の人口密度の3倍はあったようです」
「あちらをご覧下さい。りんごが1個30幣ですね。当時の3倍以上なのですよ」
「あの女性、髪が短いですよね。国民は、裕福な家庭でない限り、髪の長さは背中の半分ほどまでしか伸ばさないのですよ。手入れに、お金がかかりますからね」
海麓が、街を歩きながら、目に付くものを一つずつ説明していく。
その間にも時間は流れて、あっと言う間に、昼時になった。
「ついでですから、国民の食事についても、学んでいかれませんか?」
「いいですね」
了承を得て、海麓は薔王たちを一軒の店に誘導した。
粗い麻の服を着た店主が、出迎えてくれた。明らかに薔王が入るべき店ではない。店主は、6人を店の外にある席に案内した。
道に面して薔王と典臨が並んで座り、薔王がいる側の角を挟んで、子棋と近衛兵が1人、典臨のいる側の角を挟んで、近衛兵が1人。海麓は薔王と向き合って、道に背を向けている。
出てきた料理は、ゼンマイの塩炒め、キュウリの酢漬け、塩茹での三つ葉、主食としてジャガイモが6つ出てきた。
「どうぞ」
海麓が、試すように薔王を見上げた。
薔王の表情は変わらなかった。
代わりに、子棋が左手で横の近衛兵を押さえ、目の前の近衛兵を目で制している。2人とも今にも海麓に飛びかかりそうだった。
薔王は黙ったまま、料理に箸をつけた。典臨もその後に続いて、料理を口に運ぶ。
「国民は……このような食事をしているのですね」
全ての料理を食べて、薔王が言った。
目を上げると、海麓と目が合った。口元の微笑だけではなく、目の奥も笑っているように見える。
そこに、何人かの子供が走り寄ってきた。
「ねえ、君どこの子? 蹴鞠やるのに、1人足りないんだ。一緒に遊ばない?」
典臨の目が、輝いた。一瞬腰を浮かせ、思い直してまた座った。恐る恐る、姉の顔を見上げる。
「いってらっしゃい」
薔王が優しくその背中を押すと、典臨は溢れんばかりの笑顔で子供たちと駆けて行った。
薔王は机に肘をついて、その様子を眺めて微笑ましく思った。背伸びしていても、やっぱりまだ子供なのだ。
「叡国も、あの子の子供時代も、私が守って見せます」
薔王が、誰にというわけでもなく、呟いた。
お忍びで街に出かけた次の日。3時間にも及ぶ朝会の終わりに、薔王は海麓を執務室に呼んだ。
「疲れているところに、悪かったですね。実は、あなたに典臨の先生をして欲しいのですよ」
「はい。かしこまりました」
海麓はすんなりと承諾した。
「あのお店、わざと準備していましたね」
薔王が顔色を変えずに言った。
海麓は、まるでそう切り出されることを予想していたように、自然な動きで頷く。
「はい。昨日のお食事は、お口に合いましたでしょうか」
海麓の問いかけに、薔王は答えなかった。海麓も答えが返って来る事は期待していなかった。
ほんの2、3秒、沈黙が流れた。
「何か、目的があるのでしょう?」
口火を切ったのは、またも薔王であった。
「はい。王都の国民生活の現状はご覧の通り、昔の面影すらありません。薔王様はご存知ですか?王都だけでは、国民の衣食住を完全に賄うことが難しいのですよ。ですから私は、なるべく早くに、王領全域を国王のもとに復帰させるべきだと、そう思っているのですよ」
続けて、海麓は自分の政治理念について、よどみなく語りだした。その真剣な状態でも、口元の微笑が消えるようなことはなかったが。
叡国暦339年5月7日
この日の朝会で、薔王は二つのことを言い渡した。まず一つ目に、海麓に典臨の先生を兼任させること。そして二つ目。
「私は彼の考えに共感しました。よって、海麓を左宰相に任命します」
海麓を含め、誰も驚かなかった。
薔王は表情を変えずに、海麓が侍女から官印を受け取るのを見ていたが、内心穏やかではなかった。
誰も驚かず、反論もないのは海麓が事前に手回ししていたからに違いない。自分は何かの罠に嵌ったのだろうか……。いや、最後まで、信じてみよう。
顔をあげると、海麓と目が合った。薔王は、微笑んで見せた。
海麓は、適任の先生だった。
例えや寓話などを豊富に取り入れた授業は分かりやすく、穏やかな割にはサボることを憚れる。
典臨は自ら進んでたくさんの知識を学んだ。
政治についての授業には、薔王も参加した。政務と授業の間には、子棋を呼んで剣術を教えさせた。
しかし、薔王に許された準備期間は、それほど長くはなかった。
叡国暦339年5月18日
王宮が、軍隊に囲まれた。文官之乱である。
「薔王様!! 王都直属軍が! 冬涯が反旗を翻しました」
薔王が執務室で、典臨と海麓の政治の授業を受けている時であった。
子棋が、慌てた様子の近衛兵を連れて入ってきた。王宮の入り口の警備任務に当たっている近衛兵だった。
全員に緊張が走る。
報告を受けて、薔王は自ら王宮の外壁まで敵情を視察しに行くことにした。
先の戦争によって大打撃を受けた王都直属軍は昔ほどの規模はない。それでも王宮を攻め落とす分には十分だった。
「薔薇王女殿! 王位を、弟君にお返しください! そうすれば、攻撃はしません」
外壁の上に薔王の姿を見とめた冬涯が、1人進み出て、投降を呼びかけた。薔王が、ギュッと両手を握り締めた。
「私が、薔王様の王位は、私が守ります。ご安心ください」
薔王の目を見て、子棋が強く言った。
薔王は2回ほど瞬きすると、背を向けて、風のように帰って行った。
子棋が慌ててその後を追う。
大広間には、海麓と典臨がいた。
「薔王様は?」
「中ですよ。典臨殿でさえ、ついて行くことをお許しになりませんでした」
子棋は、海麓が未だ微笑を浮かべていることに腹を立てたが、それを言葉にはしなかった。
海麓がこれからの対応について、典臨が自分にできることについて考えているとき、子棋は、じっと大広間と執務室を繋ぐドアを見つめていた。
時間にして約20分。
再び大広間に姿を現した薔王は、全員をひどく驚かせた。
長かった髪が、肩よりも上で、ざっくり切られている。綿の服を着て、下はズボン。胸と腹には、細く切り裂いた布が巻きつけてあった。
「ご報告があります」
海麓が言った。微笑が少し薄れていなくも無い。
「どうやら、今回の反乱には、辞任した6人の重臣らが関わっているようです」
「どうしてそれを?」
聞き返した薔王の声は硬く、鋭かった。
「私の間者が、鳩を飛ばしてくれたからですよ」
「そうか。あの者たちが冬涯を取り込む可能性があると、もっと早くに気づくべきだった。どうやら私は、まだまだ甘えていたようだ。でも、それも今日までだ。今日から、私は自分を女とは思わない。今この時から、私は王でしかない」
自分に言い聞かせているようだった。薔王の話し方が変わっていることには、3人とも触れないことにした。
「私も、前線に出る。今日はこれで行くが、海麓、私の鎧を作らせろ」
「はい。かしこまりました」
反対できるような雰囲気ではなかった。
宣言どおり、夕刻には薔王が自分で近衛兵を引き連れて、王宮の門から外へ進攻した。典臨は海麓に連れられて、王宮の奥に隠れた。
交戦が始まると、すぐに3分の1の近衛兵が逃亡を始めたが、冬涯はその後を追わなかった。
戦いは完全に日が落ちるまで続いた。
翌日、早朝。再び戦闘が始まる。正直、真っ向勝負なら半日も持たなかっただろう。
薔王は未明の内に奇襲をかけ、器用に王宮を出入りしながら撹乱した。
そしてついに冬涯自らに剣を取らせた。
こうしたギリギリの戦いにおいて、主将同士が出会うのは、もはや運命のようにも思える。二つの剣が数回ぶつかり、そして薔王劣勢のまま交わった二つの剣の間で力の駆け引きが始まった。
冬涯の力が勝って、剣が斜め下に振り払われる。薔王は刃先を避けようとして、お尻から後ろに倒れてしまった。
剣が、地面にぶつかる音がした。
冬涯の剣が振り上げられる。
薔王の動きは素早かった。左手で落とした剣を掴むと、ギリギリのところでなんとかその一撃を防いだ。極限に追い込まれた薔王は通常以上の力を出していたように思う。
「うっ!」
しかし防いだ一撃は重く、薔王口から呻き声が漏れ出た。
「薔薇王女!?」
冬涯は思わず剣を引いた。
「そうだ。それが、どうした。そんなに意外か?冬涯よ、私を女と思うな。私は、王だ」
唇に薄っすらと微笑み浮かべて、薔王は冬涯に斬りかかった。
形勢が一変した。認めていないとはいえ、まさか女の王が自ら前線に出るとは思っていなかった。真面目すぎるこの男は、戦況以外で起こる突発事態にはすぐに対応しきれないのだ。
それでも、冬涯まで刃先を届かせることができない。
薔王の刃を弾きながら、冬涯は考え始めていた。話が違う。目の前の女は、しっかり王をしているではないか。
突如、後ろからも戦闘の声が聞こえた。
「見よ、冬涯。さっきおまえが逃がした近衛兵が、戻ってきたぞ」
薔王は一度剣を引き、顎で後ろを示した。
冬涯が、考えもせずに振り向いて、状況を確かめた。その背中を、薔王は攻撃しなかった。
3匹の馬に引かれた背の高い屋根なしの車がある。6人の縄に縛られた男が載せられていた。
「あいつらを、捕らえに行かせていた。さて、扇動者を失っても、まだ私を攻めるか?」
「……」
「投降しろ、冬涯」
激しい戦闘の真っ只中で、二人は両手を横に下ろしたまま、お互いを見つめて立っている。周りの声が聞こえなくなるほどの張りつめた空気の中で、薔王は冬涯の答えを待った。
「あなたが、弟君を軟禁して王位を盗み、臣民を虐げ、私腹を肥やしていると、そう聞きました」
「身に覚えがないな」
薔王は真直ぐ冬涯を見つめ返した。
「冬涯よ、おまえの目から見た私は、どう映っている。あいつら言うような王に、見えるか?」
冬涯は小さく首を振った。
「投降だ!」
腹の底から押し出した大声が、王都の街に響き渡った。