第一話 王位継承
第八代叡国国王。彼は皮肉を込めて、自分のことを“哀王”と呼んだ。
祖先から受け継いた王国が、自分の目の前で傾いて行くのを、ただ見ていることしか出来ない、哀しい王だと。
この哀王には、一生をかけて愛した妻がいた。
彼は妻との間に、3人の子供を授かったが、王妃は第三子を出産した三日後に息を引き取ってしまった。
最愛の妻を失った悲しみ、国を立て直すことができない無力感、先祖の功績を守り抜かなければならないストレス。哀王はついに、身体を病んでしまった。
叡国暦336年5月5日
七年もの間病に苦しんだ哀王は、ついにこの日の朝会で吐血し、倒れた。意識の戻らない日が続き、やっと目を覚ましたのは、5日後の夜であった。
王の寝室は、王都の中心に位置する王宮の一番奥にある。半円形の部屋で、円弧の部分にドアがあり、直線部分の真ん中に縦、横2mの正方形の天蓋付きベッドがある。
そのベッドの上に、哀王は寝かされていた。
「父上!」「お父様!」「父上!」
3人の子供は、彼のベッドのすぐ横で膝をついて、心配そうに彼を覗き込んでいた。
「私の身体は、どうなのかね?」
哀王が、子供たちを一通り眺めた後に尋ねた。
子供たちはお互い顔を見合わせて、結局、答えることができなかった。
「どんな結果でもかまわない。正直に、答えるとよい」
哀王が、未だ思うように動かない左腕を持ち上げて、順番に子供たちに触れた。
「父上。その、医官が、逃げてしまいまして……」
第一王子が、言いづらそうに答えた。
最後までは言わなかったが、つまり、哀王の容態が分からないと、そういうことだった。
医官は、診断結果も残さずに、失踪してしまっていたのだ。
「医官も、私を見捨てたか。私を治せないのが、恐かったのであろう」
哀王が、静にため息をついた。
今日の医学で言えば、哀王は恐らく、食道癌の末期であったのだろう。哀王は、王としては不合格だが、決して愚か者ではない。
病に蝕まれ、起き上がることさえ辛い身体に鞭打って、政務を続けた。
しかしこの時、王領の各都市では、不穏な空気が流れていた。
国王重病の知らせが回って、各都市の県令はそれぞれの思考を巡らせ始めていたのだ。
「第一王子は、暴力的だと聞いた。それでは、ついて行くことなど出来ない」
「第二王子はまだ幼い。私が、その後見となれればいいが……」
「哀王様の第二子は王女だ。もし、私と馬の合わない男と婚礼を挙げられたら……」
同じ内容の討論が、全ての都市で行なわれた。
最終的に、自分の利益を最大に考慮した県令たちは、同じ一つの結論に辿りついた。“王領から抜ける”。
そして9月、各地の県令たちは、まるで示し合わせたかのように、一斉に独立を宣言した。
暴動である。
叡国暦336年10月1日
哀王が、その一生を通して初めての強硬手段に打って出た。王都直属軍に、反乱都市の討伐を命じたのである。
この戦いには、第一王子も同行させた。
自分の後継者に、軍功を立てさせようという意図、そこにはあった。
翌日。第一王子が、王宮の前で、意気揚々と白馬に跨った。
「お兄様。ご凱旋を、お待ちしております」
幼い第二王子の手を引いて、王女は、馬上の第一王子に声をかける。
「ああ。待ってろ」
第一王子は、得意げに馬を嘶かせると、颯爽と城門へ駆けて行った。
討伐戦の序盤は、驚くほど順調だった。
前線から寄せられる数々の吉報に、哀王は喜びを隠せなかった。
その陰に隠れる危機を、誰も見ていなかった。
時が流れ、迎えた11月。本格的な冬が訪れた。あと数日もすれば、初雪も降るであろう時分である。
王都から南に攻めていった王都軍が、初めて激しい抵抗にあった。
今までの勝利は、全て都市側の誘導作戦だったのだ。王都軍は、気づかない間に包囲網に陥り、全軍の約3分の1が戦死した。
まだ勝敗が決まったわけではなかったが、王都軍は主将の戦死により急遽王都へ引き上げた。
討伐は、失敗に終わったのである。
冷たい死体となって、第一王子は帰って来た。その遺体を前に、王女は泣き崩れた。年老いた哀王は、涙すら枯れてしまい、ただ震える身体で息子の遺体を抱きしめた。
この時、第一王女薔薇、12歳、第二王子典臨、7歳である。
私が注目する人物は、この薔薇という名の第一王女である。
薔薇はこれまで、優しい両親と7つ上の兄に囲まれ、政治に一切関与することなく、幸せに成長してきた。5つの時に弟が生まれ、母を失ったが、父が今まで以上に子供たちを愛してくれた。
だから、兄が遺体となって帰って来たこの時まで、薔薇は叡国の危機に、気づいてすらいなかったのである。
息子を失った哀王は、悲しみに沈んで、さらにその体調を悪くしていった。
哀王が、ベッドから起き上がれなくなってから、薔薇は積極的に国勢について学んだ。もう何も知らない王女でいるわけにはいかない、と本能的に感じていた。
薔薇は、文官たちの仕事を観察し始めた。その間にも、哀王の容態は悪化し続け、国政は完全に臣下に任される形になった。
それから約3年……。
叡国暦339年4月27日
この日、薔薇は15歳の誕生日を向かえ、成人した。
哀王の重病と国力の衰退によって、その成人の礼は、実に簡易なもので済まされた。それでも十分に煩雑な儀式の最後に、今まで頭の上で束ねられていた髪が下ろされる。
太腿の付け根付近まで延びた、長く真直ぐな黒髪がサラリと落ちてきた。まるで宇宙の闇を凝縮させたかのような、美しい髪であった。
この儀式を以って、薔薇は正式に大人として認められたのである。
哀王が亡くなったのは、その僅か2日後のことだった。
息を引き取る直前、哀王はいつもと同じように質素な夕食を少しずつ口に運んでいた。その身体に突然力が入らなくなった。椅子から滑り落ちた哀王は、近衛兵に担がれてベッドに寝かされた。
食堂から着いてきた子供たちが横に跪いている。身体はもうほとんど思い通りに動かない。それでも哀王は、なんとか腕を持ち上げて、典臨の頭にのせた。
生気のない目に、精一杯の申し訳ない気持ちを込めて、哀王は乾き切った唇を動かした。
「すまない。後は――」
蚊の鳴くような声だった。最後の方は、薔薇にも典臨にも、はっきりとは聞き取れなかった。
しかし聡い薔薇は父王からその意志を感じ取ってしまった。
哀王が息絶え、その手が典臨の頭上から滑り落ちるまで、薔薇は、弟の頭上のその骨と皮だけになった手を見つめていた。
叡国暦339年5月1日
哀王の葬礼が、王都で行なわれた。
国王の葬礼では、長い葬列で行進し、王宮から哀砲が打ち上げられる。それは、それは荘厳なものとなる……はずだった。
哀王の葬礼は、質素というよりも、むしろ粗末とさえ言えるものであった。
哀砲は全面的に取り消され、葬列も組まず、一隊の近衛兵の護衛で、黒い礼装に身を包んだ薔薇と、彼女に手を引かれた典臨に見送られ、ひっそりと、王都脇にある王家の墓地に埋葬された。
「姉上?」
黒いベールの下で涙を流す薔薇を、典臨は不思議そうに見上げた。
「父上は?」
「お父様は、お亡くなりになりました」
「もう会えないの?」
「はい。これからは、二人で生きていかなくてはなりません」
小刻みに震える両腕で、薔薇は弟をきつく抱きしめた。典臨の髪の上に、その涙が滴り落ちた。
典臨はまだ、生死についてはよく分からない。
でも、もう父に会えないことは分かった。大好きな姉が、物凄く悲しんでいて、不安がっていて、恐がっていることは分かった。
典臨も腕を回して、姉の背中をギュッと抱きしめた。
薔薇が弟を連れて、父王の埋葬をしている間、王宮の大広間――王がその臣下と朝会を行う場所――では6人の文官が集まっていた。
王が病に臥せっていた間、政治を代理していた2人の宰相と軍部、財務、外交、工部、それぞれの大臣。当時の王都の国政を支える重臣たちである。
ほとんどが白髪の老臣だ。
「ついに死んでしまったか」
両腕を胸の前で組んだ右宰相が、言った。
「さて、どうしたものか」
天井を仰ぎ見たのは、軍部大臣である。
「どうもこうも、第二王子に決まっているだろう」
左宰相が言った。
「左宰相殿の言う通りじゃ。典臨様はまだ幼いが、そこは我々が支えればいいだけの話し」
一番の長老である外交大臣が言った。他の大臣が、その言葉に頷く。
「そうだ。支えるのは、我々だ」
この6人の重臣、考えているのは結局、自分たちの栄耀栄華のみであった。運がいいのか悪いのか、あまりに急なことで彼らが王宮に到着したのは王が亡くなった後だった。つまり、後継者が誰か、誰も聞いていないのだ。
だから男子優先に従って王子を新王に押す。幼い新王を支えると言えば人聞きは良いが、つまりは王を傀儡にして、自分達が権力を握っていたいだけなのである。
本来なら、国葬として、王都では葬礼から三日間、肉食が禁じられるはずだった。でも今回は、薔薇と典臨が、各自肉食を自粛しているだけである。
過去の栄光を文字でしか知らない若者はそれほどでもなかったが、そのあまりの凄惨さに、過去を知る老人たちは憂い悲しんだ。
この時、薔薇はまったく別の理由で心が冷め切っていた。父王の残していった臣下たちの事である。
彼らは今や完全に2派に分かれていた。典臨の摂政に、重臣を押す者たちと、姉の薔薇を押す者たちである。
彼らは、水と炎のように、相容れなかった。
重臣を押す者は、薔薇を“若すぎる”、“女だ”と言って排斥した。一方で、薔薇を押す者は重臣に更なる権力が集まることを毛嫌いした。
そんな彼らの話し合いと言う名目の喧嘩が、毎日、大広間で行なわれた。
「そんなに権力を手放したくないのか!」
「そうだ。ご老人はもう退職なさったほうがいい!」
右側で声が上がると、
「若造が粋がりおって!まだまだ、おまえたちには負けん!」
「本当に、知識も経験もない能無しどもは、良く吼えるわい」
すぐに左側も怒鳴り返した。
臣下たちが醜い争いをしている間、薔薇と典臨は、王座の横でそれを聞かされていた。典臨はまだ正式に即位していない。王座は、空だ。
臣下たちのあまりの剣幕に怯えた典臨は、小さく身体を震わせていた。そんな弟を安心させようと、薔薇は典臨をそっと抱きしめたが、その身体もまた、小刻みに震えている。
姉が恐がっている。そう感じた典臨は、精一杯に勇気を振り絞った。
「大丈夫。姉上は僕が守る」
上を見上げて、涙声ではあったが、しっかりした口調でそう言った。
辛そうに、それでいてうれしそうに微笑んで、薔薇は弟を抱きしめる腕に力を込めた。
そんな2人を、大広間の中の臣下は誰一人気にかけなかった。
こんな時でも自分を守ってくれようとする典臨の健気さに、薔薇の心で、一つの考えが固まり始めた。
今のこの国は、典臨にはあまりにも荷が重過ぎる。純粋なこの子が、臣下の権利争いに巻き込まれて、人間不信にでもなったらさらに惜しい。
だから、私が作ろう。この子が治め易い国を、私が作ってあげよう。たとえ非難されようと、蔑まれようと、私がこの国を一つにまとめてもっと良くしてあなたに渡そう。
そう決心を下す薔薇の心の声が、聞こえてきた気がした。
薔薇は、弟の手をギュッと握ると、王座の前に進み出た。
さっきいた場所から2段上にある王座。その前から見下ろす景色を、薔薇は好きになれそうになかった。
「静まりなさい!」
罵り合う臣下たちに負けないように、薔薇は声を張り上げた。
視線が一気に彼女に集まる。王族として、見られることには慣れていたが、それでもやはり緊張が背中に走る。薔薇は深く、深く息を吸い込んだ。
「この国は、私が治めます! 典臨はまだ幼い。ですから、私がお父様の後を継ぎます。支持しない者は、辞めてもらってもかまいません。もう一度言います。私が、王になります!」
堂々と、薔薇は声高々に宣言する。その声が、大広間の冷たい床を打つのとほぼ同時に、中に駆け込んで来る男がいた。
男の名は子棋。
近衛軍の将軍で、なかなかに屈強なのに優男風の男である。大広間の外で、他の近衛兵を率いて警備任務に当たっていた子棋は、中から聞こえてくる争い声を腹立たしく思っていた。
だからといって、中に入るわけにもいかない。イライラしている内に、中が静になった。そして、凛とした声が響いてきた。
子棋の自制力が、粉砕された。
子棋は弾けるように飛び上がって、中に駆け込んだ。
王座の前に、薔薇が立っている。
面長な顔、雪のように白い肌、黒い髪、輝く瞳、ほのかに紅色の頬、血のように赤い唇、五官のバランスもスタイルも良く、美しい。それに加えて、この時の薔薇の覚悟を持って決意を抱く姿は神々しく、さながら、聳え立つ一柱の女神のようであった。
子棋はハタとその場に足を止めた。凍りついたように、その場で、ただ薔薇を見上げていた。
「お、弟君の王座を奪うのか。それで、我々や国民が、典臨様ではなく、あなたを認めると、本当にそうお思いですかな、薔薇王女」
左宰相が言った。わざと、王女をいう肩書きを強く発音する。
薔薇は動かなかった。薔薇の代わりに、典臨が動いた。
「姉上を悪く言うな! 僕は、姉上が王でいい」
薔薇を守るように、その前で大きく腕を広げて、典臨は声を限りに叫んだ。
その声が、子棋の身体に熱を戻した。文臣の間を掻き分けて、一番前まで進み出る。
「我々近衛軍は、薔薇様を支持致します」
片膝を着いて、頭を垂れた。
子棋を追って大広間に入った他の近衛兵たちも、それに倣う。近衛軍を味方につけた。それはかなり重要なことである。王宮において、武器を持つことができるのは近衛軍だけ。少なくともこの場において、決着がつくのは時間の問題だった。
薔薇を摂政に押していた文官も膝を着き、支持を示した。彼らにとっては、重臣に権力が偏らないことこそが主要なのだ。
場の空気が、完全に薔薇に傾くのに、それほど長い時間は必要なかった。数秒後には、6人の重臣を除く全ての臣下が、薔薇の王位継承を支持すると宣言した。
「もう一度、言いましょう。支持しない者は、出て行ってもらってもかまいません。いいえ、出て行きなさい」
抑揚の少ない、冷静な声で薔薇が言った。
王たる者、簡単に感情と表情を外に出してはいけない。少なくとも、今まで読んできた王国の歴史に出てくる賢王や聖王は、そうしていた。
薔薇は、まず形から入ることに決めた。
重臣たちは、まだなにか言いたそうであったが、もうすでに近衛兵が立ち上がっていて腰の佩剣に手をやっていた。子棋はいつでも抜けるよう佩剣の柄に手を載せ、重臣に向かって進み始めていた。
これではさすがの重臣たちも、渋々と大広間から出て行かざるを得なかった。
「出て行った各大臣の仕事は第一副官が引き継ぎなさい。今日の朝会は以上です。急ぎ、即位式の準備を始めなさい」
薔薇が薔薇としての、最後の命令である。
叡国暦339年5月4日
飾りつけも少ない大広間で、簡略な即位式が行なわれた後、薔薇は正式に王位を継ぎ、薔王となった。
今まで、父の哀王が座っていた王座に、今度は、薔王が腰を下ろす。
即位式の最後に、薔薇は王族である弟の典臨を先頭に、文官と武将から跪拝を受けた。
その中に、近衛軍以外の武将は、1人もいなかった。