第十四話 典臨成人
叡国暦344年6月21日
王宮の中は慌しかった。何人もの服飾職人が針子部屋と客間を行き来していた。
この客間、客と言う名前がついてはいるが決して客人用の部屋などではない。王家の多目的部屋なのだ。この日の用途は、衣裳部屋である。
大量に並べられた華やかな服、の見本。本来なら最上級の絹が金糸銀糸で縫われ、良質な宝石で飾られるのだが、これらの服は綿や麻で縫われている。糸も宝石も、染色された紛い物だ。
色や飾り、様式の異なるそれらの服はしかし、一つだけ共通点を持っていた。全部左胸にブローチがあり、そこから腰の辺りまで長く糸の房が垂れている。
「姉上!」
わずかに開いていたドアは勢いよく押し開けられて、壁にぶつかって大きな音を立てた。
「典臨っ。もう少し上品に振舞いなさい」
薔王は眉をひそめて典臨をたしなめた。
「は~い。分かりました」
生返事が返ってきたが、可愛い弟だ、薔王は仕方がないと首を振るしかなかった。
「……まあいい。ほら、新しい正装の見本が出来た。どれか気に入るものを選ぶといい」
「あー。もう、どれでもいいです。めんどくさい」
典臨はがりがりと頭を掻きながら、気乗りしない様子で服の列に近づいた。
「面倒でも何でもかまわないからさっさと選べ。おまえの成人の礼なんだ」
「はーい。でも姉上、今ある正装じゃだめなんですか?」
「本気で言っているのか、典臨。おまえ、この前正装を着たのがいつか覚えてないだろう。もうとっくに着られないぞ」
「あー」
「これ以上文句は聞かない。……ほら、これなんてどうだ?」
薔王が手に取ったのは、黄色い生地に金色の糸で刺繍の施された物だった。典臨は薔王のセンスを疑わざるを得なかった。
「ちょっと派手すぎです、姉上」
困った典臨は下手な笑顔でその口許をヒクヒク痙攣させていいる。
「そうか?」
それに気づいているのかいないのか、薔王は残念そうにその服を戻すとまた新しいものを取り出しては典臨にあてがった。
「これ……。姉上。僕、これがいいです」
されるがままだった典臨が、初めて自分の手で服を取った。青地に控えめな刺繍がいくつか点在していて、力強さと高貴さを併せ持つ様式の服だ。
「うん。おまえが気に入ったのならそれでいい。さあ、採寸をしてもらへ。おまえたち、これを」
服飾職人が一人走り出てきて見本を受け取ると、針子部屋まで走った。残りの三人の服飾職人は、典臨をカーテンの向こうに誘導すると巻尺であちこちを計り始めた。彼らがこれほどまでに急いでいるのには理由がある。この一日で、彼らは選ばれた見本から本物の正装を作り出し、典臨に試着させて細部を合わせるところまで終わらせないといけないのだ。
「おはようございます。母上」
静に扉が開いて、羅双が入って来た。
「ああ。おはよう。良く眠れたか?」
「はい」
薔王が優しく微笑みかけると、羅双は元気よく返事した。
「おいで、羅双。この正装見本では少し大きいが、気に入ったものを選ぶといい」
薔王は羅双の手を引いて並べられた服まで近づいた。まだ九歳の羅双は、二列目へ進むと完全に服に埋もれてしまう。薔王は声を立てて笑いながらもう少し列間の距離を取るように親衛隊に命じた。
「お。来たか、羅双」
「おはようございます、叔父上」
採寸を終わらせた典臨は羅双の頭をグリグリとなでた。
「姉上。羅双も採寸ですか?」
「ああ。おまえほどは急がないがな」
「え? 何でですか?」
「おまえは今日以降忙しくなるからな」
「……えぇ~」
薔王は口許を抑えると、クスクスと笑った。
薔王の言葉どおり、典臨は直ぐに礼部大臣に呼ばれて部屋に戻った。これから七日かけて煩雑で面倒な礼儀作法を一つひとつ叩き込まれることになる。
「どうだ、羅双。気に入る服は見つかったか?」
「う~ん。まだです」
「そうか、そうか。ゆっくり選べ。今日決まらないのなら、明日続けて選んでもいい」
羅双に向けられる薔王の眼は母愛に満ちていて極めて優しい。
「僕は、叔父上の子供の頃の正装でもいいですよ」
羅双は謙虚だった。
「変に気を使うな。おまえも典臨の成人の礼に出席するんだ。正装は新しいものの方がいい。これなんてどうだ?」
またあの黄色い服だ。
「え、えと。もう少し控えめなものの方が……」
羅双は困ったように後ずさった。
「薔王様」
工部大臣が親衛隊に連れられて客間に入って来た。埋もれながら自分に似合いそうな服を探していた羅双は、興味深そうに隙間から薔王と大臣を眺めた。
「ブローチができたのか」
「はい。ご意向通りに、月虹石で作りました」
赤い布を敷き詰めたトレーが差し出された。ブローチはその上に乗っている。四つの翼を大きく広げた梟のブローチだ。四つ羽の梟は叡国の国章でそれを模ったブローチは貴族や王族の特権である。その中でも、月虹石でできたブローチは王の直系の家族、つまり王位継承の可能性を持つ者にしか許されていない。
羅双は薔王の指から漏れ見える月虹石に目を奪われた。欲しかったが、決してそれを口に出しはしなかった。羅双は賢い子だった。薔王の養子になった時から、その期待が自分にまったく向けられていないことを知っていた。薔王が自分を実の子の様に可愛がってくれているのは知っているが、だからと言って自分の立場を見失いはしなかった。自分は薔王の息子にはなれるかもしれないが、決して後継者にはなれないと子供ながらに見抜いていた。
「羅双?」
いつの間にか薔王に呼ばれていた。
「は、はい!」
羅双は慌てて飛び出して、勢いあまって薔王の懐の中に飛び込んでしまった。
「わあ。どうした?」
「ご、ごめんなさい。止まれませんでした」
「そうか。怪我はない?」
「あ、はい。大丈夫です」
「なら、良かった。ほら、おまえのだ。ちゃんと仕舞っておけ」
薔王は羅双の手に月虹石のブローチを握らせた。
「え?」
羅双は信じられないものでも見るように、手の中のブローチと薔王の顔を見比べた。
「何を驚いている? おまえは私の養子だ。私の直系の家族に入る」
薔王は羅双の頭を二回優しく撫でると、仕事があるからと言って羅双に謝り客間から出て行った。
実に盛大な成人の礼だった。自分の成人の礼が簡単に済まされた裏返しで、薔王は条件の許す限り豪華に飾りつけさせた。龍奇は一時反対したが、海麓の国力を他国に見せ付けるいい機会だとの言葉に折れた。
大広間の正面、王座の前に立ち、典臨が一連の儀式を終えて自分の元へやってくるのを待っている薔王は、その髪に四つ羽の梟の飾りを付けている。後頭部を覆い尽くすような、大きな飾りだ。
やがて典臨が一歩一歩、慎重に、礼を違えないように気をつけながら大広間の前に姿を現した。一歩一歩、自分に近づいてくる弟に、薔王は口許が緩むのを抑えられなかった。
「お父様。お母様。典臨は、立派に成長しました」
涙で目の前が曇り、ほんの一時、張り詰めた琴線が緩んだ。
成人の礼の締めくくりは、王座から降りた薔王が金のハサミで典臨の胸にある糸の房を切り落とすことだ。切られた房は大切に保存され、いつか死が訪れた時、棺桶の中に入れることに成っている。
「これより、おまえは大人だ。更なる叡国の発展のため、その力を尽くすように」
薔王は慈愛に満ちた顔で実に簡単な作業を実に優雅に終わらせた。
儀式には一日かかった。
しかし典臨の受難はまだまだ終わらない。この後自室で、祝いの品を運んでくる他国の使者たちを相手にしないといけないのだ。
もちろん、薔王も暇ではない。執務室に篭ると、物凄い集中力でその日の政務や報告書に目を通す。許可印を押すもの、反駁するもの、改善意見付きで許可するもの。無駄のない動きで両手が机の上を行き来する。
ドアが控えめにノックされた。その音は決して薔王の集中を途切れさせない。安霊はドアをほんの少しだけ開け、隙間から外の近衛兵と目線を交わした。
「薔王様。海麓と冬涯が参りました」
羽のように軽い声で遠慮がちに、安霊は薔王に声をかけた。
「入れて」
薔王は目も上げずに言った。
部屋に入った二人は、書類と格闘する薔王の前に静に直立した。
「悪いね。礼はいらないから、座って待て。安霊、椅子を」
報告書に印を押し付けた薔王は、悪びれるでもなく言った。
待つこと数十分。ようやく仕事を終わらせた薔王は安霊にお茶やお菓子を持ってくるよう言うと、にっこり笑って二人に顔を向けた。海麓と冬涯が立とうとすると、手を振って座らせる。
「待たせたね。私から呼び寄せたのに」
「いえ。大丈夫です」
「何の問題もございませんよ」
冬涯は真面目な顔で、海麓は穏やかに微笑んで答えた。
「そうか。それは良かった。今日おまえたちを呼び寄せた理由は、両方とも典臨だ。あの子は随分前から軍に入りたいと言っていたんだ。私も、男子たるもの軍で己を鍛えるべきだと思う。ということで冬涯、典臨をおまえに任せたい。好きなように使ってくれ」
「私を信頼してくださり、ありがとうございます。では、私の副将に」
王子を任されて好きなように使えなんて言われて、本当に好きなように使う馬鹿はいない。例え実力が上等兵並みでも、冬涯は典臨をもっとも安全で位も高い役職に置こうとした。
「高いな。それではまったく鍛えられないだろう」
「それでは、ちょうど空いていますし、龍鱗軍の副将に置くのはどうですか?」
「まぁ、それなら典臨も満足するだろう。さて海麓。おまえに頼みたいのは、典臨の嫁探しだ。なにせ戦続きの世だからな。いつ何があるかも分からない。私としては、典臨に早めに結婚してもらって、早急に息子を作って欲しいのだ。その方が、後継者としても安定する」
薔王の言葉を聞く海麓は、その微笑をさらに深いものにした。
「いい考えですね。どんな娘がよろしいでしょうか。やはり、名家の娘か裕福層の娘から探しましょうか」
「確かに、名家や裕福層の娘は王族に取り込みたいところなのだが、それらに縛られる必要はない。重要なのは、健康で子を生めるかどうか。そして典臨と気が合うかどうかだ。海麓、おまえは典臨の先生だろう。それとなく好みを聞いておけ」
「本当に、それでいいのですか?」
海麓は、探るような口調だった。薔王はほんの少しだけ微笑むと、目を閉じて下を向いた。二人はどうしたらいいのか分からず、顔を見合わせた。
小さなため息。
再び顔をあげた薔王の目は、母の如く慈しみに溢れていた。典臨のことを思い描いているようで、薔王の目の焦点は目の前の二人に合わせられていなかった。
「いい。典臨は、妻と妾の問題を処理できるような子ではない」
これには海麓も困ったように笑顔を歪めるしかなかった。まだ子供ながら、典臨には父王の影が見える。さすがは王妃をひたすら一途に愛した父王の子と言うべきか、二人の女を同時に扱うなんて歴代国王からしてみれば当たり前にできることさえも、典臨にとっては重荷に思えた。
叡国暦344年7月19日
成人してからまだ一月も経たない内に、典臨の婚礼が挙げられた。典臨はどこかしぶしぶだったが、薔王は心の底からうれしそうだ。
この日、王宮は色鮮やかな布で飾られ、通り道にしかれた深紅の絨毯には花びらが満遍なく敷き詰められていた。王宮に出入りする者は粗使いの女や雑用の男まで全員が紅い服を支給され、この良き日を共に祝っている。参列客もそれぞれが美しく着飾っており、大広間の前にある広場で歓談しながら典臨とその妻が礼儀に則ってゆったりと歩いてくるのを待っていた。
典臨の新妻は、海麓が選りすぐった五名の候補者の中で唯一薔王が目を留めた娘だった。夢児と言う名のその娘は母親が名家の出で、父親が代々行商を生業にしてきた大商人である。それなのに裕福層の娘にありがちな傲慢さはまったく見えず、忍耐強く、礼儀正しい可憐な娘だった。
大広間の入り口で、薔王の手によって典臨と夢児の服の裾がきつく結われる。一生を一緒に、と言う願いを込めて。
「おめでとう。典臨、夢児。世継ぎの誕生を待っているよ」
他の参列者には聞こえないように、薔王が二人の耳元に小声で囁いた。ベールの下の夢児の頬が、パッと赤くなった。
それから二人は日が傾くまで参列客と挨拶を交わし、灯りを燈してからは大広間の宴会で杯を交わした。
翌日の早朝。食堂で食事を済ませた薔王が朝会へ向かうまでのわずかな間に、典臨が夢児と共に挨拶にやって来た。しっかりと妻をエスコートしている。
「おはよう。もう少し寝ていても良かったのだぞ。新婚なのだから」
「ありがとうございます。しかし、新婚だからと言って挨拶を欠かすべきではありませんので」
夢児は謙遜を示すため、軽く膝を曲げて一礼した。隣で典臨が何度も頷いている。ちょんと気は合うようだ。
「やはりおまえはいい娘だ、夢児。これから、典臨のことはおまえに頼んだよ。典臨、おまえ今日の朝会はどうする? 本来、新婚から三日間は休んでもいいのだが」
「出ます、姉上。ごめん、夢児。食事は先に一人で摂ってくれないか」
「大丈夫です。お帰りになるまで、待っていますわ」
薔王の目の前で、二人は目線を交わして微笑み合った。その目線の交わるところのあまりの熱さに、薔王は口許を隠して必死に笑いを堪えるハメになった。
「ゴホン。あー、典臨よ。続きは部屋に帰ってからにしてくれないか? そろそろ朝会にいくぞ」
「っ! は、はい。姉上、今行きます」
声を掛けられてやっと見つめ合うのをやめた典臨は、顔を紅く高潮させながら姉の後を追った。
「しぶしぶだったのに、ちゃんと仲良くやれているではないか」
歩きながら、薔王は続けて典臨をからかった。
「あ、姉上。いいじゃないですか。ホントに、いい子だったんですから」
からかわれて居所が悪い典臨は、口を尖らせてそっぽを向いた。薔王は立ち止まってクスクス笑うと、まるで子供にするかのように典臨の頭を撫でた。
典臨は子供扱いするなと口では言ったが、だからと言って避けるわけでもなくどこかうれしそうだった。
「よい子だ。よい子だ。もうからかわないよ。昨日も言ったが、私はおまえに子ができることを望んでいる。おまえに子が生まれ、跡継ぎとして安定することが国としても必要だ。だからもしおまえが夢児のことを気に入らないなんて言い出したら、どうしたらいいか分からないところだった。まさかすぐに離縁させて新しく娶るわけにも行かないし」
「へ~。僕の結婚って、そんなに重要だったんですか」
「そうだ。利用するようですまないな」
「僕、姉上に利用されるの嫌いじゃないですよ」
謝る姉に対して、典臨は顎を挙げ実に楽しそうに答えた。薔王はその言葉に一瞬驚いて、それから心底幸せそうに笑いながらもう一度典臨の頭を撫でた。
薔王は時々、王としての役目と姉としての役目を両立させられなくなる。今回、成人したばかりの典臨に婚礼を挙げさせたのは完全に政治的な必要性のため。王として、国のために弟の希望よりも跡継ぎの安定を重視した。利用していると責め立てられたら、薔王に反論の余地はない。だから、自分を理解してくれた典臨の言葉が深く心に染みた。