第十三話 富国強兵
扶農勧商。それは長い叡国の歴史を見ても、かなり重要な部類に入る政策の一つである。これを以って、私は新たな叡国の誕生だと見る。前半の叡国と後半の叡国では、明らかに後者が栄えていた。それも全てこの政策が執行されたためであると、私は考えている。そして、この政策が持ち出された日を己の目で見ることが出来ることを、この上なく嬉しく思う。
叡国暦340年10月8日
「全国を統一するには、どうしたらいい?」
薔王のそんな言葉で、この日の朝会は始まった。
「王領内の各都市の反乱は押さえた。次は、全国を視野に入れたい。どうしたらいい?」
久しぶりに、大広間がざわついた。頷く者、頭を振る者、驚きを隠せない者。顔を見合わせ、囁きあい、誰も答えなかった。
「薔王様」渓円の静かな声が、一気に大広間を沈黙させる。「戦火が止んで、何日ですか?」
渓円は怒っていた。声を荒げず、顔に出さず、身振りもいつものままで。冷たく燃え盛る炎のように薔王の無謀と驕りを焦がし、責めた。
「王領の統一は急を要しました。いろいろな面で、危険がありましたから。今の軍の状態、ちゃんと分かってます? 他国は反乱都市じゃないんですよ。軍の格が違うんですよ。本気で勝てると思ってるんですか?」
臣下たちが、渓円と薔王の顔を交互に見る。臣下が王を怒るのにはあまりにも勇気が必要で、王が臣下の叱りを受け入れるのにはかなりの忍耐が必要だ。誰もが、事の成り行きを見守ることしか出来なかった。
「他国の軍を、知っているのか?」
「まだ子供だった頃に、隣国の練軍を見たことがあります」
「我が軍は、それほどまでに劣っているのか?」
「兵の質、兵の量、比べ物にならないです」
薔王は黙り込んだ。そして次に口を開いた時、その口から出たのは建前の謝罪ではなかった。
「わかった。教えてくれてありがとう、渓円。どうやら、叡国には休息が必要なようだ」
薔王は微笑んで、息を吐き出すように言った。
「渓円。軍の量と質を上げたい。どうすればいい?」
「まず兵士の基準を設けて、不合格者を家に帰すんですよ。それから、基準を満たす者を新に徴兵するんです。後は、訓練ですね」
渓円ももう怒ってはいないようで、ハキハキと自分の考えを述べていく。
「そうか。任せる。出来るだけ早くに質と量を上げるように。あー、基準だがな。私からは二つ。一般兵には、年齢十八以下と四十以上人は要らない。それから、長男も要らない。後は適宜決めてくれ」
「孤児はどうします?」
「孤児か……。海麓、適当な民家を一つ買い取れ」
突然話を向けられた海麓は、少し遅れて中央に進み出た。
「孤児院ですね。人員も直ぐに手配しましょう」
「ということだ、渓円。孤児院が完成するまでは、軍で預かってくれ」
渓円が下がった。しかし、海麓は下がらなかった。
薔王は驚きを示すように眉を軽く上げた。
「海麓? なにか討論すべき政務があるのか?」
「ええ。しばらく戦いは休憩ということで、一つ、新たな政策を実行してもいい頃なのではないかと思いました」
唇に浮かべた微笑をさらに深くしながら、海麓はじっと薔王を見上げた。
「新たな政策、か。……言ってみよ」
薔王は左の肘掛に体重を移した。右肘を左腕に乗せ、親指を下唇に当てた。
「扶農勧商。と、名前を付けてみました。まず扶農ですが、新たな土地の開墾に褒美を与え、上納作物の量を減らし、余分に上納する者にはその量に応じて一定の特別対応を与えるべきです。そして勧商では商業税の税率を商売の規模に応じて調整しなおし、小規模な商人の負担を減らすことを目的としています。また、急ぎ各都市間の国道の整備を行い、行商の負担を減らしたいと思っています」
「農作量の増加と商業の発展か。確かに、財政的にも食料貯蓄的にも増加を期待できるな。もっと細かく話せ」
薔王の要求どおり、海麓は具体的な政策概要と予想できる問題の解決法について、一切の滞りなく、すらすらと語って見せた。
「特別対応としての年金措置と言ったが、今でも年金はあるだろう」
最後までじっと聞き入っていた薔王は、海麓の話が終わるのと同時に質問をぶつけた。
「ええ。ありますね。しかし、八十を超えた長寿の者にしか出していません」
「なるほど」
「それを最大で四十五歳から与えるのは、十分な特別対応ですよ」
薔王が頷くと、海麓が微笑んだ。
「そうか。反対意見はあるか」
臣下たちの顔を二回見渡して、薔王はこの政策を可決とした。
「海麓、具体的な執行はおまえに任せるが、報告はできる限り詳しく頻繁に上げるように。何か問題があれば、直ぐに言え」
「かしこまりました。問題でしたら、今、一つあるのですが」
「言え」
「各都市の警備軍の協力が必要になるかもしれません」
海麓の言葉を聞いた薔王は、すぐさま渓円に目を向けた。
「渓円、二百人の兵を動かす指令書を都市分作成して海麓に渡せ」
渓円が頷くと、薔王はまた海麓に向き直った。
「海麓。おまえが直接各都市に出向いてもいいし、指令書を県令に送ってもいい。が、指令書は失くすなよ。指令書は三ヶ月以内に軍部に返還するように」
これは警備軍を初めて置いた時に決めたことだ。正規軍と違って将軍を持たない警備軍は、様々な理由で様々な人に動かされる可能性がある。兵を不正に使用されたら、たまったものじゃない。
「大丈夫ですよ。忘れていません。超過の場合は、直接渓円軍師殿に申し出ればよろしいですか?」
「ああ。その場合、軍部から理由調査員が派遣されるが、気を悪くするなよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
海麓は慇懃に深々と一礼した。
朝会が終わったときには、もうすっかり太陽が真上に昇っていた。朝早くに始まる朝会が、午前中に終わらなかったのは、久しぶりだった。
秋も終わりに近づき大分弱くなった日差しに手をかざしながら、薔王はこの後の予定に思いを馳せた。各国の使者を出迎え、会食する。言質を取り、裏を探るような会話は、薔王とってかなりの苦痛だった。
どうして各国の使者が来ているのか。理由は簡単だった。度国との国交が成立したからだ。それにつられるようにして、各国の使者から国交の回復が申し出されている。すぐに統一戦略を始めることが出来ない以上、国交を結ぶことは必要不可欠だった。
叡国暦340年12月6日
初雪が降ったこの日、閉じられることのない大広間の扉から大きな雪片が絶えず中へ吹き込んでくる。
王座の後ろと大広間の前後で親衛隊が炉に火を焚いていたが、そんなに効果があるわけでもなかった。
「薔王様。兵の数が増えてきたので、そろそろ新しい軍を編制するべきだと思います」
進み出た渓円は、必死で声が震えないように堪えている。朝会へは正装で出席するが、正装では厚着できる量に限りがあるのだ。
「寒いのか、渓円。寒いのなら、扉を閉めさせよう」
「いえ。閉じたらだめです」
気遣わしげな薔王の申し出を、渓円は震えながらも断った。かつての初代叡国国王は言った。大広間では暑さと寒さに耐え、常に扉から国と国民を見つめるべし。この言葉は柱に刻み込まれ、ほとんどの国王がこれに従った。
「すまないね。我慢してくれてありがとう。それで、新しい軍だったね。私の考えでも、後二軍は編制したい。名前と印はもうある。先に渡しておこう。安霊、この前彫った印を二つとも持って来て」
右にいた安霊が、小走りで大広間から出て行く。
「二軍ですか。孝蘭と寒智とか、どうですか?」
「元快北の武将か。どこにいる」
薔王から声が掛かると、武将の列の末端から二人の男が転がるようにして出て来た。
長い髪を後で一つに束ね、ヘラヘラと口角を上げた男が孝蘭。髪の毛がなく、縦にも横にも大きい男が寒智。
見た目が普通の紅歌は戦場で人格が変わるし、なぜ快北の武将はみんなここまで個性的なのだろうかと、薔王は苦笑いを浮かべた。
「もう一つ、いいですか」
安霊がまだ戻らなかったので、渓円は先にもう一つの報告を始めた。
「紅歌が投降しました」
実に簡単な一言だったが、後で孝蘭と寒智が目を丸くして驚いていた。あれだけ投降を拒んでいたというのに、どうして今になって投降したのか、不思議でならないのだろう。
「そうか。それは良かった。ああ、安霊。印をあの二人に。白を右、茶色が左だ」
ちょうど安霊が戻って来た。服が少し汚れているのを見ると、探すのに少し手間取ったようだ。
「孝蘭、おまえには豹胆軍を任せる。寒智、おまえは獅牙軍だ。編成は渓円に従うように」
二人は印を受け取ると、興奮した様子でその場に跪いた。
「ありがとうございます。ありがとうございます!」
孝蘭が何度も何度も頭を下げる。
「ありがとうございます」
寒智の言葉は妙に遅かった。そして低かった。
「渓円。今、紅歌はどこにいる?」
手を振って二人を列に戻すと、薔王はまた渓円に向き直った。
「武館に」
「おまえ、武館へ行って紅歌という男を呼んで来い」
左を振り返って、そこにいた親衛隊員に命令した。
「なあ、渓円。これで軍が四つになった。軍隊間の問題や摩擦も多くなるだろう。それらを全部軍部に上げてもいいが、おそらくはその必要もないくらいに細かく小さな案件もある」
「そうですね」
「つまりだ。軍部大臣の下で将軍の上の役職が必要だと思うのだ」
「軍部大臣……。軍師じゃなくてですか?」
「ああ。宰相も軍師も、兼任職なんだ。軍師は軍部大臣でなければならないし、宰相は財務部、礼部、工部、人事部、刑部、外交部の内どれかの大臣でないといけない。が、その逆は成立しない。言ってなかったかな」
渓円は少し恥ずかしげにはにかんだ後、深く頭を下げた。
「すみません。軍部のことで手一杯で、法律はまったく見てなかったです」
「気にするな。今まで忙しかったからな。法律はこれから学べばいい。礼法や刑法は直ぐには問題にならないだろうから、人事法から学ぶといい」
薔王は優しく渓円をなぐさめると、さっさと話を戻した。
「それでだ。将軍の上に、大将軍を左右二人置きたい」
渓円も切り替えが早い。薔王の言葉と同時に、自責を頭の隅に追いやった。
「ああ。いいと思いますよ。それぞれの下に軍を二つ置いた方が、戦時も指揮しやすいですし」
「そうか。では――」
言いかけたところで、先程出て行った親衛隊員が紅歌をつれて帰ってきた。
「投降を歓迎するよ、紅歌」
薔王は立ち上がり、両腕を広げ、華やかな笑顔を浮かべて紅歌を迎えた。紅歌はサッと目を逸らすと、そのままサッと両膝を着いた。
「ああやって毎日通われては、誰でも拒みきれません。忠誠を誓います、薔王様」
「いつ投降したんだ? 昨日行った時は、まだ拒んでいただろう」
「昨日の夜です、薔王様」
「そうかそうか。ちょうど良かった」
薔王はもう一度王座に座り直すと、咳払いを一つ挟んだ。
「冬涯。おまえを左大将軍に任命し、龍鱗軍と虎骨軍の統括を任せる。龍鱗軍の将軍は副将の無虎に任命する」
大広間の中央に冬涯と無虎が進み出て、膝をついて任を受けた。
「紅歌。おまえを右大将軍に任命し、豹胆軍と獅牙軍の統括を任せる。まだ編制の終わっていない軍だが、将軍はそこにいる孝蘭と寒智だ」
紅歌は驚きのあまり反応できず孝蘭と寒智を何度も振り返った後、渓円に突っつかれてやっと開いていた口を閉じた。
「具体的な仕事は後で渓円に聞け。それから、大将軍の官印がまだ出来ていないんだ。明日には任命の命令書が下るから、印はもう少し待ってくれ」
冬涯はとんでもないとばかりに感謝の言葉を口にし、紅歌を引っ張って武将の列に戻った。
「すまないな、人事部。忙しくなるぞ」
人事部の者を気遣う言葉を口にした薔王を、紅歌はまだ驚き冷めぬ様子で見ていた。傲慢だった順丈のところでは、主が配下を気遣う事などなかったのだ。紅歌は改めて、投降した自分の行動を正しく思った。
叡国暦341年5月16日
夕方。薔王は王宮の裏庭のテラスで鯉に餌をやりながら、薔薇の花びらを使ったお菓子を食べてくつろいでいた。テラス内は親衛隊に囲まれていて、近衛軍は通路とテラスへ続く階段の下で護衛任務に当たっている。
一人の近衛兵が慌てた様子で走って来た。階段の下から目で合図して安霊を呼び出すと、声を押し殺してその耳元に何かを囁いた。安霊は静に頷くと、音を立てずに薔王の傍まで行った。しかし、じっと鯉を見つめている薔王になかなか声を掛けられない。
「…………」
「うん?どうした、安霊」
テーブルのお菓子を取ろうと振り返ったとき、薔王は安霊が自分を見つめていることに気がついた。
「典仁が、お会いしたいそうです」
「典仁? ああ。従兄上か」薔王は取りかけたお菓子を再び皿の上に置いた。「急だな。何かあったのか?」
「順丈が病に掛かったようです」
「……ここにつれて来い」
薔王にしては長い思慮だった。
走って来た近衛兵がまた走っていくと、薔王はもう一度お菓子を手に取った。柔らかいお菓子はその舌の上でふんわりと融けていったが、薔王はもはやお菓子の味を楽しんでなどいなかった。ただテーブルに肘をついて、ボーと意識を何処かへ飛ばし、どこも見てはいなかった。
「し、薔王様」
しばらくの後に左右を近衛兵に挟まれて、典仁がやって来た。典仁。順丈の一人息子で、薔王の従兄。生まれつき気が弱く、そのおどおどした態度を父親に嫌われていた。
「久しぶりだ、従兄上。それとも、典仁殿、と呼んだ方がいいか?」
「い、いえ。もしよろしければ、どうぞそのままで」
「そうか。では従兄上、順丈殿が病だと聞いたが?」
「は、はい。意識がなくて、雑用の男に医者を呼んでもらいましたが、治せないと……」
典仁は今にも泣き出しそうな声で言った。
「……そうか。では、私の医官に見せてみよう。安霊、茶鞍に公爵府へ行くよう伝えて来て」
薔王の言葉を聞くと、幾らか安心したのか典仁の口から大量の息が漏れた。薔王は直ぐに典仁の横にいた近衛兵に顔を向ける。
「おまえ、医局まで走って茶鞍を公爵府まで案内しろ。診察が終わったら、ここまで連れて来い」
「はい」
「あ、ありがとうございます」
力の抜けた典仁は、弱々しく感謝の言葉を述べた。
「私が恐いのか、従兄上」
「え、えと」
典仁は口ごもった。
「恐いんだな。でも、私はそこまで非情ではないよ、従兄上。美味しいお菓子があるんだ。さあ、こっちに来て座って」
薔王は穏やかに微笑んで典仁を手招きした。典仁は恐る恐るテーブルの横の椅子に座ると、勧められるがままにお菓子を口にした。
「軟禁は辛いか?」
薔王が尋ねた。
「……はい」
「解いてもよい」
「えっ?」
「私に降り、忠誠を誓えるか?」
薔王は真剣な眼差しで典仁を見つめた。典仁は言葉を紡ぐことが出来ず、ただ何度も首を縦に振った。
「そうか。ところで、一つ頼みがあるんがだ」
「はい」
「私は、子供が出来ない身体になってしまったんだ。従兄上は、息子が二人いるだろ。一人、私の養子にくれないか?」
「そ、そうですね。では、すぐに羅林を王宮に連れてきます」
子を産めない女が養子を欲しがるのはよくあることだ。そう思った典仁は、まだ幼く薔王を母として懐き易い第三子の名前を口にした。
「いや。羅双が欲しい」
羅双は典仁の長男である。典仁はゴクリと唾を飲み込んだ。
「わ、わかり、ました」
弱々しく微笑む典仁だったが、心の中は不安でいっぱいだった。家督を継ぐべき長男を養子に望む。その意味は、明らかだった。薔王は傍に置きたいのは、養子ではなく、人質なのだ。
典仁にとってはひたすらに過ごしにくい時間が流れ、やっと茶鞍がやって来た。
「どうだった?」
緊張して物も言えない典仁の代わりに、薔王が訊いた。
「非常に、難しいですね。私が全力で当たっても、下半身には麻痺が残るでしょう」
「命は助かるのだな」
「それが……もって、数ヶ月でしょう」
わあっと典仁が声を上げて泣き出した。
「そうか。全力で治療に当たってくれ、茶鞍」
「はい。では、失礼します」
茶鞍が一礼して下がった。
「おまえ、これを持って子棋に公爵府の軟禁を解くと伝えて来い」
薔王は自分の髪飾りを一つ抜き取って近衛兵に差し出した。
「従兄上はもう帰るといい。少しでも父親の傍にいてあげろ。羅双は、明日安霊に迎えに行かせる」
薔王はそんな言葉を典仁に投げかけると、再び鯉に餌をあげ始めた。
次の日の昼前。安霊に手を引かれて、羅双が執務室の薔王のもとに連れてこられた。可愛らしい顔立ちで、父親とは違い元気そうな印象の子供だった。
薔王は机から離れると、目線を合わせるように羅双の前にしゃがみ込んだ。
「はじめまして、羅双。いくつになった?」
「六つです」
明るい、良く響く声だった。
「そうか。父母から引き離してしまって、すまないな。寂しくなったら、たまには帰ってもいいが、必ず帰ってくるように。おまえは、今日から私の子だ」
「はい」
先程の明るさはないが、家で父親にしっかりと言い聞かされてきたようで、自分の立ち位置は分かっているようだった。
「心配するな。悪いようにはしないよう」
薔王は手を伸ばして、羅双の頭を優しく撫でた。