第十二話 叔父順丈
叡国暦340年9月24日
さらに二日が経った。
薔王は深夜と食事の間を除いて、ほとんどすべての時間を官邸の前の肘掛け椅子で過ごした。
「薔王様。冬涯が来ました」
安霊が後の侍女と傘持ちを交代しながら、そんな知らせを持って来た。
「会おう」
飲みかけの冷めたお茶を渡された侍女が、下がるのと共に冬涯に薔王の意志を伝えた。
「薔王様」
ほんの十歩ほどの距離を歩いて、冬涯は薔王に近づくとサッと跪いた。
「どうした? 何か問題でもあるのか?」
薔王は冬涯を立たせなかった。
「はい。今回の包囲について、進言したいことがあります」
「そうか。しかし、なぜ渓円を通さない? なぜ渓円と共に来ない? 渓円は私の軍師であると共に、今回の戦争の最高司令官でもあることを忘れたわけではないだろう」
薔王が渓円の名を連呼するものだから、五歩ほど離れたところで護衛していた子棋が小さく眉をしかめた。
「申し訳、ございません」
冬涯は気まずそうに頭を下げた。薔王はその後頭部をしばらく眺めて、そしてのんびりと言う。
「……まあ、いい。それで、私に言いたいことは何だ?」
「はい。薔王様がここに座っているだけというのも効果が薄い気がします。ですので、官邸に向かって声を掛けてみてはいかがでしょうか?」
「……続けて」
抑揚のない薔王の声に、冬涯は不安げな緊張した声で続ける。
「はい。相手は薔王様の叔父上です。最低限の尊敬を――」
「尊敬? 国を裏切り、私を攻めた敵を尊敬しろと?」
冬涯の言葉を打ち消すようにして、冷たく厳しい声が薔王の唇から飛び出した。
「っ!!」
言葉の選び方が拙かった。怒らせてしまった。冬涯は声を出すことすら出来なくなって、直ぐに謝ることさえ出来なかった。
横目でじっと冬涯を見ていた薔王は、やがて視線を正面に戻す。
「それで、おまえは私がなんと呼び掛ければいいと言う?」
先程とは一変、穏やかにそう言った。
「え、と。その。薔王様?」
その落差についていけない冬涯は、何度も言葉に詰まってしまった。
「どうした。私に声を掛けさせたいのだろう。なんと言えばいい」
「あ、その。言葉までは、考えておりませんでした……」
冬涯は首をうな垂れた。
そんな冬涯にチラリと目をやった薔王は、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。その顔は驚くほど優しそうだった。
「そうか。なら、一旦据え置きだな。まあ、これ以上長引くようなら声を掛けることも考慮しよう。今は下がれ」
「はい。失礼致しました」
少し心が楽になった冬涯が一礼して立ち去る。
彼と入れ違いに、別の侍女が新しいお茶を持って来た。
そのお茶を受け取った薔王は、小さく息を吐きかけて少し冷ました。ゆっくりと口に運んで、一息ついた。
そのお茶が飲み干される頃。官邸の窓から白旗が差し出された。
「薔王様!」
渓円がやって来た。
「ああ。見えている。私が出迎えよう」
薔王はすでに立ち上がっていて、侍女に傘を畳ませていた。
官邸の広間。そこに続く全ての通路を、全ての門を、近衛軍が護衛で固めている。特に広間の周りには他の倍以上の近衛兵がいた。
広間では、正面の二つの椅子を取り払って臨時の王座が置かれた。そこに薔王が座ると、両側にも椅子を並べて臣下たちに座らせた。王座の後ろには四人の親衛隊が立っていて、王座から二歩離れた左前では子棋が睨みを効かせている。
薔王と向かい合って、二人の男と二人の女が立っていた。女たちはひどく不安そうで、男のうちの若い方はすでに諦めた様子だったが、老いた方はまだ決心し切れていないようだ。
「ふん。戦では負けたが、わしはおまえらには頭を下げん!」
傲慢そうな老いた男は顎を挙げ、薔王を見下すように言う。
「ち、父上」
気の弱そうな若い男が、慌てて老いた男の腕を掴むが、振り払われてしまった。
「元気そうで何よりだよ、叔父上」
肘掛に体重を委ね、薔王は微笑を浮かべて言う。ただし、目は笑っていなかった。
「叔父と呼ぶな! 女のくせに王に成り上がった反逆者めが!」
息子の制止も聞かず、老いた男は過激な言葉を畳み掛ける。子棋が剣の柄に手を掛けてしまうくらいだ。他の臣下も、手を握り締めたり、眉をひそめたりした。
そんな臣下の様子を目の端で見た薔王は、兆火がこの場にいなくて良かったと思った。冬涯と兆火は、軍の指揮のため官邸の中には入ってきていなかったのだ。
「そうか。では順丈殿。おまえたちの白旗は確かに受け取った。投降を歓迎する。これからは、王族として王都で――」
「ふんっ! だれがおまえなんぞに投降するか。父王の意向に逆らい弟の王座を奪うなぞ。虫唾が走るわっ。権利に目の眩んだ奸人など、わしは決して認めん」
「黙れっ!」
子棋の怒号が響き渡った。数人の近衛兵が前に出て、順丈の両腕を捻りあげて口を塞いだ。部屋の中の温度が徐々に上がり始める。
「熱いな」
薔王が言った。何気なく、静かに言った。
右側の親衛隊員が急いで扇子を取り出し、ふわりふわりと扇ぎ始める。左側の親衛隊員は音もなくその場から離れ、冷ましたお茶を持って帰ってきた。
「権利、か。では、おまえは権利を望まないのか? それならなぜ、私が典臨を後継者に指名した途端に反旗を翻した? 私を反逆者と呼び蔑むのなら、なぜもっと早くに討伐しに来ない」
優雅にお茶を口に含みながら、薔王は何の感情も無く疑問を提示し問い詰める。
「お、おまえなんかに答える必要はない! 口も聞きたくない」
「そうか。……しかし、よかったな。私や典臨の暗殺を企てなくて」
お茶のカップから離れた薔王の視線は、凍てつくほど冷たかった。
子棋は、何かが背中をぞくぞくと駆け上がるのを感じた。こんなことは初めてだ。薔王のこの感情は、怒りでもなければ憎しみでもない。
失望だ。
蔑まれ、罵られ、理解されず、弁明や討論すら拒まれる。血の繋がる親族だからこそ、湧き起こるのは諦めにも近い失望なのだろう。
「子棋。順丈とその家族を近衛軍で拘禁しろ。王都へ帰還するときの護送も任せる。誰一人逃がすなよ」
「はい。お任せください」
近衛兵に引きずられるようにして広間から出された順丈は、それでも罵ることを止めなかった。
叡国暦340年9月27日
王都に戻ったその日の夜。薔王は執務室に二人の宰相と軍師を呼び寄せた。
「叔父上のことでございますか?」
呼び寄せたもののしばらく黙ったままだった薔王に、海麓が訊ねた。
「ああ」
「反逆は斬首の家族連座です」
龍奇の声が殊のほか冷たく聞こえた。
「しかし、関係の近い王族の処刑は民の不興を買いやすいですから、方法は慎重にならねばなりませんね」
海麓が意味深長な微笑を湛えると、それを受けて、龍奇がしばし考え込んだ。
「非公開処刑もしくは自殺を与える方法なら、どうですか?」
「いい考えですね。処刑法も、王族特例で縛り首や薬殺に変えたほうが無難でしょう」
「まあ、死刑には違いありませんから。おそらく可能です」
龍奇と海麓の間でいくら討論が交わされようと、薔王は押し黙ったまま二人を交互に見ているだけだった。
「薔王様、もしかして処刑したくないんですか?」
渓円が訊ねる。
龍奇と海麓の討論がピタリと止んだ。
「……ああ。処刑したくない」
「では、禁固ですか?」
龍奇が不満そうに言う。
「いや」
「処刑でも禁固でもないなら、どうなさるおつもりですか」
龍奇の眉がこれでもかというくらいに中央に皺寄せされる。
「王都には、多くの使われていない王族府があるだろ。その一つを修繕して、そこに軟禁する」
「王族府に住まわせるとなると、爵位を与えるおつもりですか?」
海麓の微笑が少しだけ引いた。
「そうだ。公の爵位と王族に相応しい衣服と飲食を与えようと思う。ただし、行動は制限する」
「…………」
「…………」
二人の宰相が唖然と黙り込んでしまった。
「なんでですか?」
この場には相応しくないほどの素朴な疑問が、渓円の口から飛び出した。
「順丈が、父王の弟だからだ。甘すぎるのは分かっている。完全に私のわがままだ。許せ」
これではさすがに龍奇も海麓も反対意見を押し通せない。心の中でため息をつくほかになかった。
「龍奇、適当な王族府を選んで工部に修繕をさせろ。海麓、人事部に爵位授与の命令を用意させろ」
「はい」
「かしこまりました」
一礼して宰相が二人共出て行くと、渓円が微笑んで薔王に向き直った。
「じゃあ、僕が呼ばれたのって、行動制限の件ですよね」
「そうだ。軟禁するからには、府邸を兵士で囲む必要があるだろ。どの軍に任せるべきか、おまえに訊いておきたい」
「そうですね……。王族で、爵位持ちで、近衛軍がいいんじゃないんですかね」
「しかし、近衛軍には王都の警備もしてもらっている。その上で軟禁に兵力を割かせるのは、負担が大きすぎるだろう」
「じゃあ、王都警備軍を組織しましょう。それで、近衛軍の役目は王宮と王族の警備だけになります」
「いいな。そうしよう。徴兵はおまえに任せる」
「分かりました」
渓円が執務室を出るまで済ました顔でいた薔王は、ドアが閉まるのと同時に大きな欠伸と共にぐっと背伸びした。
夜が明けた。休みもなく、朝会が召集される。一晩中政務に明け暮れていた薔王は、あくびを噛み殺しながら王座へと足を進める。
「おはよう。何か要討論政務は?」
穏やかに王座に腰掛けた薔王は、その声の中に微塵の疲れも感じさせなかった。
「薔王様。順丈殿の王族府の選定が終わりました。今日中には修繕に着工し、七日ほどで竣工します」
龍奇が進み出て言った。その横に、海麓が進み出る。
「公爵授与の命令書草案が完成しました。いつでも正式に命令を下せますよ」
「そうか。仕事が速いな」
薔王は満足そうな笑みを浮かべると、今度は子棋に顔を向けた。
「子棋、順丈とその家族は今どこにいる?」
「武館の地下牢に入れてあります」
「……しばらくはそのままの方がいいだろう。ただし、対応は丁寧に行なえ。衣食の待遇も疎かにするな」
「わかりました」
子棋は力強く頷いた。
「工部、修繕はできる限り早くに終わらせろ。竣工したらその日の内に子棋に知らせるように。子棋は工部からの知らせが届いたら、すぐに順丈およびその家族を王族府へ護送しろ」
薔王の命令に、工部の大臣と子棋が深く頭を下げた。
薔王はゆったりと王座から立ち上がると、足元の臣下を見渡し、無表情なまま宣言する。
「これより順丈一家は近衛軍により軟禁し、王たる私の命がない限り王宮の粗使いの女および雑用の男以外全ての人員の出入りを禁止する」
無表情の薔王は、相当に恐ろしかった。
いつも何かしらの感情を――例えそれが偽物であっても――顔に出している薔王である。急に何もなくなると、それだけでどうしようもない恐怖に掛けられる。
おかげで予定七日の修繕工事が五日で終わった。
「薔王様。順丈およびその家族の護送が終わりました。現在は近衛軍第一隊が看守に当たっています」
昼食後。政務の間を縫って趣味の彫刻に興じていた薔王のもとに、子棋が報告に来た。王の寝室だ。しかしベッドまでは十歩ほどの距離があって、カーテンで隔たれている。丸いテーブルに椅子が四つあったが、薔王はテーブルに座っていて、椅子は全部物置になっていた。
「ご苦労だった。警備軍への引継ぎは問題なかったか?」
「はい。昨日のうちに済ませました」
「これで大分負担も減ったろ。これからの近衛軍は、王宮と王族にのみ責任を持てばいい。子棋、順丈たちを死なすなよ」
「お任せください」
子棋が深々と一礼して出て行くと、入れ替わりに安霊が入って来た。
「薔王様。渓円が来ております」
「まったく、休む暇もないな。呼べ」
安霊がドアを開けて渓円を通すと、薔王はテーブルから飛び降りて削りかけの椅子を箱に仕舞った。
「安霊、ここを片付けておいてくれ。渓円、話はこっちで聞こう」
そう言って薔王は渓円を窓に向けて置いたソファーへ誘導した。薔王はソファーの左に座った。
「突っ立てるな。首が痛い。座れ、渓円」
「失礼します」
普通なら恐れ多くて断るところを、渓円は何の思索もなく腰を下ろした。笑いを我慢しきれずに、薔王の口から息が零れた。急いで咳払いする。
「ゴホン。何か用があるのか?」
「えー。牢獄にいる紅歌が会いたいそうです」
「なぜ急に」
薔王が訝しげに眉をひそめると、渓円は自分も分からないと首を左右に振った。
「安霊。今日は何か予定が入っていたか?」
声を掛けられて、安霊は大きな箱を抱えたまま立ち止まった。
「夜に、度国の使者と夕食を一緒に摂ることになっています」
「そうか。ありがとう。どうやら夕食までは時間があるようだ。私が牢獄まで会いに行こう」
「案内します」
渓円は先に立ち上がると、薔王の前に手を差し出した。
牢獄は王宮の外にある。武館の地下牢ほどではないが、昼でも光が少なく薄暗い場所だ。恐ろしい怒れる龍が彫刻された重い石の門が押し開かれると、そこから奥は完全に別世界だった。正直、少し身が竦む。
「紅歌は一番奥です」
渓円の言葉に後押しされて、薔王は覚悟を決めた。
前方の牢にはたくさんの囚人が押し込まれていたが、やせてはいても健康そうであった。しかし奥に行くにつれ囚人の数は減っていき、徐々に、不健康で傷ついた囚人が多くなった。
「この者たちの怪我は?」
想像は出来ていたが、それでも問わずに入られなかった。
「尋問の痕です」
前を歩く刑部の者が答えた。
「紅歌にも尋問をしたのか?」
「してません。紅歌は軍部の囚人で、刑部の管轄じゃないんで」
今度は渓円が答えた。軍部には尋問の権利がないのだ。
「ならなぜ牢獄にいる?」
「武館の地下牢に順丈一家を収監してたからです」
「ああ。そうか。そういえば、まだ投降してないのは紅歌だけだったな」
「はい。後もう少しで薔王様に処刑の許可を貰いに行くところでした」
話しながら歩いていると、少しだけ高くなる段差に出た。どうやら、紅歌はこの上にいるらしい。
牢にいる紅歌の服装は少しも乱れたいなかった。待遇もそれほど悪くなかったようで、ひげが伸び放題になっているのを除けば、小奇麗な格好だった。
「おまえが紅歌か」
薔王が問いかける。
「ああ。おれが紅歌だ」
答える紅歌の顔は穏やかで、声は力強く自信に満ちている。あの戦場の狂気な人物とは似ても似つかなかった。
「私と話がしたいらしいな」
「ああ。別に話したいことはない。ただ死ぬ前に、戦場のおれと刃を交わした女を見てみたかった」
その言葉はそのままに、投降するつもりはないと言う意志を示していた。死を前にして、ここまで平然としているのは賞賛に値する。
「そうか。でも、私は少しおまえと話してみたい」
「何を話しても無駄だ」
「海麓が言うに、典臨の暗殺計画を却下したのは、紅歌、おまえの主張らしいな」
「確かにおれだ。典臨の暗殺で利益を得る人は明らか過ぎる。場合によっては、他国から養子をもらう事だってできる。遠くても、血は繋がっているからな」
「論理的だな」
薔王は子供を褒めるように柔らかく笑った。その笑顔を真直ぐに受け止めた紅歌は、恥ずかしそうに顔を逸らした。
「で、でも。一番の理由は、暗殺なんて方法は表舞台には出れないからだ。おれの名誉に関わる」
「そうか。まあ、何はともあれ、おまえには感謝するよ。典臨は大切な弟だ。そうだ。一番気になる問題があった。答えてくれるか?」
「答えるかどうかは、問題を聞いてから考える」
紅歌は少し警戒した。自分の口から順丈に関する不利な情報でも聞きだして、彼を処刑する気なのではないかと身構えた。しかし、
「おまえ、人格が変わるのは戦場だけか?」
薔王は純粋な目でそんなことを聞いてきた。邪推したことが死ぬほど恥ずかしくて、紅歌は思わず言葉を詰まらせた。
「うっ……。じ、自覚はしている。おれも止めたいが、どうしてもそうなるんだ。気持ち悪いか?」
そう言って紅歌は自嘲気味に笑う。そんな彼に対して、薔王は嘘をつかなかった。
「不快ではあったな。まあ、慣れれば気にならないだろう」
「慣れる?」
紅歌は薔王がいきなり何を言い出したのか分からなかった。
「おれは処刑されるんだろう?」
「いやだ。処刑したくない。紅歌、私に降れ」
「はぁ!?」
紅歌は自分の耳を疑った。投降しない意志は今まで何度も伝えたはずなのに、まだ諦めていなかったのかと、驚きのあまりに開いた口が閉じなかった。
「驚くのはまだ早いぞ。私は諦めないからな。おまえが私に降るまで、毎日でも通ってやる。今日はもう時間がないがな」
そう言うと、薔王は踵を返して掌をひらひらさせながら牢獄から出て行った。
「言っとくけど、薔王様は結構いい主だから」
そんな言葉を残して、渓円もさっさと帰って行った。口を開けたままの紅歌は、ただただ目を瞬かせることしかできなかった。