第九話 二方陥戦
龍鱗軍は王都へは入らなかった。王都の外縁を進んで、そのまま広天に進行する。
今回の進軍は速さが命だと、渓円は言った。
海麓の情報に寄れば、広天の領主は金の亡者だという。進軍に気づかれれば、戦を前に財宝を移動させて隠してしまう可能性があるらしい。だから気づかれる前に包囲しないといけないのだ、と渓円は説明した。
虎骨軍を動かすのは、包囲が終わってからでも間に合うと判断された。薔王は凱旋行進の後、虎骨軍に戦争の準備を始めるように言い渡し、そのまま休みもせずに龍鱗軍の後を追った。
広天まで後半分の距離を残したところで、薔王は龍鱗軍に追いついた。
「渓円、そろそろ本当のところを教えてくれないか?」
馬車ではなく馬に跨った薔王は、渓円の隣に馬を進めて言った。
「何のことですか?」
渓円はわざとらしく肩をすくめて見せる。
「とぼけるな。広天の情報が入ったのは深上とほぼ同時期だろう。本当に虎骨軍を動かすつもりがあるのなら、深上を攻撃している間から虎骨軍に準備をさせれば良いだけの話だろう」
薔王が答えると、渓円はいたずらが見つかった子供のような笑みを見せた。
「さすがです。いやぁ、王領でまだ平定されていないのは広天と快北だけでしょ。そろそろ、快北に何か動きがあっても良い頃なんですよね。まあ、念のためです」
「攻めてくる可能性があるのか?」
「念のためです」
「良く考えてくれてるな。ありがとう」
「当たり前です」
渓円は、うれしそうに笑って薔王を見つめた。その笑顔に、薔王は少し恥ずかしそうに応じた。
斜め後ろで二人のやり取りを見ていた子棋は、気が気ではなかった。
軍は夜には広天に着いた。ついてすぐに、音も立てずに広天の城郭の外を包囲した。
「何日で落とせる?」
軍営のテントで臣下と遅い夕食を摂りながら、薔王は渓円に尋ねた。世間話並みの気軽な口調だ。
「う~ん。わかんないですね。三日か四日か、七日以上かからないのは確かですよ」
渓円は自信たっぷりの笑顔浮かべた。
「いいですねぇ。渓円軍師殿が自信に溢れていると、こちらも安心できます」
「ああ、海麓の言う通りだ」
和気藹々とした食事だった。警備をしていた子棋を除いては。
子棋は、渓円の笑顔がどうしようもなく好きになれなかった。一人ムスッとして、グッと剣の柄を握り締めている。
「しかし、もし十日以上かかった場合、兵糧が足りなくなります」
真面目な冬涯は、渓円の言葉通りに事が進まなかった場合を考えた。
「そんなにかかるかな?でも、そうだね。薔王様、もし七日目を過ぎても落とせなかったら、その時は物資の支援をお願いしてもいいですか?」
「わかった。その時は、王都に残らせた近衛軍に物資を護送させよう」
「ありがとうございます」
渓円の目線は薔王の目線とぶつかると、そのまま移動しなくなった。
薔王がいつもの表情の下に親しみを隠しているのを感じて、子棋はよりいっそう居た堪れなくなってしまった。
食器を下げるときの箸が木のお椀に当たる音に、薔王はようやく渓円から目を逸らした。
「あ、安霊か。そうか、もうそんな時間なのか。では、私は先に失礼するよ。みんなは心いくまで食事を楽しむといい」
薔王に許された食事の時間はそう長くはない。食事の後は、寝る寸前まで王都から送られてきた報告書に目を通さないといけないのだ。
「安霊、今日のお茶は濃い目に頼むよ。出征すれば、朝会はない分楽できると思ったのになぁ。さて、今夜はいつになったら眠れるのかな」
自分のテントに戻ってその日の分の報告書の束を見た薔王は、大きくため息をついた。
「はい」
安霊がテントの反対側でお茶を淹れ始めると、薔王は早速最初の報告書の表紙を開いた。
叡国暦339年11月22日
包囲が完成した二日目の昼。王都からの伝令兵が、最悪の予想が当たったことを知らせた。
「薔王様!快北から約一万五千の兵が王都に攻めてきました!」
「どの辺りだ?」
「私が出るときにはもう残すところ後数時間の距離に。今はおそらく、兆火将軍の虎骨軍と戦火を交えているかと!」
薔王が黙り込むと、子棋は目で合図して伝令兵を下がらせた。
「念のため、か。虎骨軍を残してきて正解だったな」
薔王は緊張を押し隠し、いつもの声で渓円に言った。
「もし――」
声を上げたのは、渓円ではなく海麓だった。
「――もし快北の軍を紅歌が指揮していたならば、戦況は厳しいですよ」
「紅歌?」
「ええ。まだ確かな情報ではないのですが、計略においてかなりの手腕を持っているとか」
海麓の言葉に、渓円の顔色が険しくなった。
「兆火は突っ込んでいくことしか知らない男です。相手が計略を知る者なら、厳しいです」
沈黙した。王都には五千の兵士しかいない。でも、だからといって今救援に戻るわけにもいかない。広天への包囲は始まったばかりで、まだ一戦も交えていないのに渓円が抜けるのも問題がある。
「私が戻ろう。おまえほどの計略も戦略もないが、少なくとも士気を鼓舞することは出来る」
薔王の目は、真直ぐに渓円を見つめていた。
渓円は、ダメです、と言いたくなるのを喉元で堪えて、重々しく首をたてに振った。
「お願いします。出来る限り早く、救援に戻ります」
「ああ、頼んだぞ。冬涯も、海麓も、おまえたちが戻るまで、王都は私が守って見せよう」
薔王は微笑んだ。本当は恐怖も不安もあるが、それを一切顔に出さずに微笑んだ。
同情してはいけないと知っていながらも、子棋はそんな薔王の姿がかわいそうで仕方がない。
「大丈夫です。すぐに戻りますから」
渓円が、確かな口調で薔王に言った。
そして薔王は自分のテントに戻り、数分後には子棋と近衛軍を引き連れて馬を駆り立てていた。
「この、調子だと、どのくらいで着く?」
馬の背で激しく揺られながら、薔王は横の子棋に問いかけた。
「夜までには!」
馬の蹄の音に負けないように、子棋は声を張り上げた。
「そうか。しかし、渓円はなかなかに鋭いな。最後の言葉、私の不安を見抜いていたな」
「はい!」
でも不安だけだ。と、子棋は自分をなぐさめた。渓円は薔王が恐れを抱いていることに気づいていない。敗北を、自分の手から叡国が奪われることを、薔王は恐れているのだ。だからこうして、急進軍の途中でもしきりに子棋に話しかけてくる。
「子棋、おそらく戻ったら食事を摂る暇などない。近衛兵に馬の上で簡単な食事を済ませるように伝えておけ」
「はい!薔王様も、ご自身の食事をお忘れになられませんように!」
「ああ。分かっている」
返事を貰うと、子棋は馬の方向を変えて薔王の命令を伝えに向かった。
薔王は子棋がいなくなると、今度は安霊に声を掛けた。
「安霊。戻ったら粗使いの女たちを集めて救護場所を設置しろ」
「はい」
安霊の返事は完全に走る馬に掻き消されて、ほとんど薔王の耳に届かなかった。
薔王が王都に入ったのは、同日の夕刻である。必死に馬を走らせただけあって、通常の半分の時間で王都に辿りついた。
「戦況はどうなっている?」
王宮に戻るなり、着替えもせずに薔王は大広間に踏み込む。王座にすら座らないで、大広間に整列した文官たちに問いかけた。
武将は誰もいない。
「敵将紅歌率いる軍勢一万五千に、兆火将軍の虎骨軍が苦戦しております。交戦してまだ半日も立ちませんが、すでに千人以上が負傷、百人近くが戦死しています」
龍奇が淡々と事実を述べていく。それでも、顔には不安が滲み出ていた。
「このままに倍以上の敵と戦うのは、無理があります」
「分かっている。すでに近衛軍を前線に行かせた。王都内の混乱は?」
「まだ大きな混乱は起きていません」
薔王はほっと息をついた。戦いよりも王都が中から崩れるほうが危険だということを、薔王は知っている。
「戦が終わるまで朝会は開かない。民の心が離れないよう、皆今まで以上に政務に励んでくれ。龍奇、私は前線に出る。しばらく、内政は任せたぞ」
「王たる者。前線に出るとはどういうことです!」
薔王の言葉に、龍奇は強く反応した。
「王だからこそ前線に行くのだ!今の王都の状況を考えろ。数と力だけで考えれば負け必須の戦いに勝たないといけないのだ。細かいことを気にしている場合か!今考えるべきは、どうやったら勝てるかだ。私の王という身分は、兵士の士気を鼓舞するのに役立つ」
薔王も珍しく感情的に言い返した。そのことに途中で気づいて、薔王は一度大きく息をはいた。
「……心配するな。無理はしないさ」
そう言って微笑むと、龍奇の肩を軽く叩いてから大広間を出て行った。
文官たちも、それぞれ自分の持ち場に戻って行った。
薔王はその足で東の城郭の上に登った。激しい剣のぶつかり合う音がする。
完全に混戦になっていた。渓円の言う通り、兆火はただぶつかって行くことしか知らず、子棋の近衛軍が右から左から戦場を縫うようにしてかく乱していなければもうとっくに使い物にならなくなっていただろう。
「鐘を鳴らせ。一旦城郭の中に退かせるぞ」
薔王は傍に残った数少ない護衛の一人に命令した。
甲高い鐘の音が鳴り響く。敵兵に追われた兵士たちは、ギリギリのところで全員城郭の中に退却した。
「薔王様!どうして退却を」
兆火は戻ってくるなり、怒りに身を任せて足音重く城郭に登ってきた。
「あのままで勝てたか?忘れるなよ。おまえの後ろは王都だ。叡国の要だ。そして今は私の命もおまえの後ろにある。あのまま戦って全滅でもしたら、どうする?」
「ムッ……」
兆火は言葉を詰まらせた。
「今は王都を守ることだけ考えろ。守城戦だ、兆火。覚悟して置け」
薔王はニヤリと片方の口角だけを上げて、身を翻して城郭から降りて行った。
正直、あの笑顔はただの強がりだ。守りきる自信なんてない。でも、薔王は笑う。何がなんでも、守らないといけないから。
薔王の命令で、兵士たちは素早く城郭に登った。外ではすでに敵兵が攻城を開始している。
「反応が早いな。子棋が援軍に駆けつけたときから準備していたのか」
薔王は眉をしかめて、激戦を繰り返している城郭の上を見上げた。
落石、弓矢、火油流し、梯子倒し、槍突き。使えそうなものは全て利用された。
しかし兵力的には薔王のほうが少なく、王都の城郭も守城戦向きではない。立て続けに繰り出される攻撃に、城郭の一部が崩れ始めた。
「崩れたところを重点的に守れ!そこを攻めてくるぞ。兆火、子棋、全体を回れ!防御の穴を作るな」
鎧に身を包んだ薔王が、城郭の見張り小部屋に隠れながら指示を飛ばしている。敵に姿が見えてはそこを狙い撃ちされかねないので、隠れているしかないのだ。
「薔王!なあ、いるんだろ。さっさと投降しようよぉ。どうせあんたはおれに勝てないんだから、無駄に足掻くなよ。イヒ。イヒヒヒッ」
狂気に満ちた笑い声が風に乗って薔王の耳に届く。見張り窓から覗くと、どうやら笑っているのは敵軍の主将、紅歌のようだ。遠目だが、それなりに整った顔貌をしているのが分かる。
「なんだよぉ。出てくる勇気さえないわけ?だったら、尚のこと投降するしかないよなぁ。ヒヒヒヒ」
しかし聞こえてくる声は所々甲高くなっていて、無性に人の神経を逆なでする。
「恐ろしい男だ」
薔王は血が出るほど下唇を噛んだ。紅歌という男、見下すような言葉ばかりを選んでいる割には攻撃に一切の抜かりがない。ギリギリの攻防が、日が落ちるまで繰り返された。
この日の夜は新月で、松明なしでは手を伸ばせば指すら見えなくなるほどの闇が広がる。
王都の城郭の中では、最小限の松明の日を頼りに必死に壊された城壁を修復する兵士の姿がいたるところで見られた。将軍たちも暇ではない。子棋と兆火は怪我した兵士を見舞い、欠員の出た小隊の再編をする必要があった。
薔王はと言うと、安霊を連れて王宮に戻っていた。もちろん、休むためではない。
「龍奇、民の様子はどうだ?」
執務室のろうそくの小さな火の揺らめきの中で、薔王は龍奇と向かい合って立っている。
「不安がってはいますが、逃走等の形跡は見当たりません」
「皆まだ王都を愛してくれている、と言うことだな」
そうであって欲しいと願うような口ぶりだった。
「そう、ですかね」
龍奇は薔王の言葉の意図を理解できなかった。
「そうだ。私の民だ。王都を、叡国を愛してくれているに違いない」
「そうですか」
「……」
薔王は沈黙した。今時分の頭にある考えを本当に実行すべきか、迷っているのだ。右手の親指が、何度も下唇の上を行き来する。
「龍奇。明日の早朝に、王都内の武器を持てる男を全員王宮前に集めろ」
「何をするおつもりですか?」
「緊急事態宣言だ。王都内の男には全員、守城戦に参加してもらう」
薔王は、真剣な目をして言った。
王宮の前。朝日を背に受け、攻城の音を身体に感じ、薔王は己が民に向かい合った。見れば、すでに髪の白い者や、明らかに未成年の者もいる。支給された武器を持つ者もいれば、包丁や斧を持つ者もいる。
「我が民たちよ!」
緊張から来る沈黙の中で、薔王の凛とした声が響いた。
「今、王都は危機にある。敵軍が城郭を攻め立てる音、皆にも聞こえているだろう。このままでは、王都は陥落してしまう。我らの家が、敵に蹂躙されてしまうのだ。援軍の到着にはまだ時間がある。今私が頼れるのは、おまえたちだけなのだ。私に力を貸してくれ!王都は、我らが家は、我らが守るのだ!」
剣を握り締めた薔王の腕が、空へと伸びた。剣先が、覇気と共に空気を切り裂く。
薔王の覇気は、容易に民にも伝染した。
皆各々の武器を掲げ、雄たけびを上げる。駆け足で、波のように、殺気立って、城郭に登って行く。後れを取ることを良しとせず、我先に、命を掛けた戦場へと赴いていく。
「石を落とせ!攻め上がってくるぞ!」
薔王の指揮があちこちに飛ぶ。
一般人とは言え、大量に戦闘人員が増えた。戦闘力が伯仲する。
「素晴らしいお考えです。これでやっと勝ち目が――」
「まだ早い」
声を掛けて来た子棋を、薔王は厳しい顔で遮った。
「人が増えようと、戦闘経験のない平民だ。時間が経てば経つほど、危うい。気を抜くな」
「……はい。申し訳ございません」
薔王に叱られて、子棋は深く頭を下げた。そしてそれ以上は何も言わずに、戦場へと戻った。
日が暮れるまで一進一退の攻防が繰り返され、太陽が沈む頃にはただただ疲労困憊した男たちをその場に残すだけだった。
「薔王様。お話がございます」
自分から意見を言うことのない安霊が、自ら進んで薔王に声をかけた。
「どうした?」
「女たちが、守城戦に参加したいと申し出ています」
「女たち?」
薔王は怪訝そうに眉をしかめた。
「はい。女たちも、王都を守りたい、男だけに任せておきたくない、と申しております。お役に立てる作戦もあるそうで」
「…………」
「…………」
薔王が黙り込むと、安霊も静にその判断を待った。
「……いいだろう。緊急事態だ。案があるのなら、何でも試してみよう。おまえに申し出が行っているのなら、おまえが指揮を取れ」
「はい」
薔王の許可を得て、安霊の指揮の許、夜の街を女たちが駆け回る。夜の間に城郭に登り、その縁に布を貼り付けていった。
「薔王様!!」
兆火が怒りに満ちた足音を立てて薔王の執務室に入って来た。もう夜中なのだが、薔王はまだ仕事を続けている。これで、もう二日は眠っていないことになる。
「どうした、兆火?少しは落ち着け」
薔王は書類から目も上げずに言った。
「なぜ平民の女が城郭に登っているのですか!」
「なにやら作戦があるそうだ。気にするな」
「気にならないわけがないじゃないですか!」
「落ち着けと言っているだろう」
熱っぽく怒りを露にしている兆火に、薔王はため息をこぼした。ペンを置いて、顔を上げて恐いほどに真剣な目で兆火を睨みつけた。
「兆火。戦場に出れば男も女も無い。おまえの兵にも伝えておけ。敵を殺すことにのみ集中しろ。隣で戦っているのが男だろうと女だろうと、大人だろうと子供だろうと、一切気に留めるな」
「……はっ、はい」
薔王にすっかり気圧されて、兆火は思わず一歩後に下がった。
「さっさと休め。明日の苦戦になるぞ」
薔王は柔らかい口調に戻ると、小さく微笑んで兆火を下がらせた。