アケローン
地獄の前域を越え、しばらくすると大きな川が見えてくる。その川幅は広く、向こう岸は霞んで見ることができないほどだ。生と死を隔てる水の流れ。その大河の名を『アケローン』といった。
サタンを先導役に進んでいた四人がその大河に到着すると、そこには死者の魂たちが集まっていた。一ヶ所に固まり、皆、立ち震えている。全員が真っ裸であったが、それが震えの原因ではない。寒さで震えているのではないことは、魂たちの顔からわかる。自分たちに待ち受ける恐怖を想像して怯えている、そんな表情だった。
四人がその場所に着いてからしばらくして、一艘の舟が川向うからこちらに近づいてきた。老爺が一人で舟を漕いでいたのだが、魂の群れを見ると怒鳴り声を上げた。
「よく来たな、悪人ども! ここからお前たちは、どこに行けると思う。天国か、それとも煉獄か。おい、そこのお前。答えてみろ!」
目をきつく吊り上げた老爺に指差された男が、びくりと体を震わせて答える。
「れ、煉獄ですか」
「ふんっ、そんなわけないだろう。地獄行きだ! 自分の犯した罪も省みず、図々しくも煉獄だと。ふざけるな! お前たちの心が、この先やすらぐことはない! せいぜい、楽しみにしておくんだな。悍ましいほどに最高の恐怖と絶望が、お前たちを待っているぞ!」
老爺は舟を岸につけると、地獄行きの魂たちに舟に乗るように言った。蒼白かった顔をさらに蒼くし、歯をカタカタと鳴らしながら舟へと乗り込む魂たち。彼らの口は、神を、親を、人を、生まれた場所と時を、自分にかかわるすべてを呪い、罵っていた。
老爺の名を『カロン』といった。その顔には深い皺が刻まれ、無造作に伸びた髪に胸まで伸ばした髭は真白に染まっている。一体どれほどの時を経たのかと思わせる顔立ちであるが、まったく威勢は衰えていない。今も怒気が溢れ、そのあまりの勢いに目の周りに炎が立つほどだ。さらに、夜空に浮かぶ星の数よりも多くの罪人たちを運んできたその腕は、年経た顔からは想像できないほどに筋肉で膨れていた。
「カロン」
「誰だっ! 儂の名を気安く呼ぶ奴は!」
罪人に自分の名を呼ばれたと思ったカロンは憤慨し、声のした方へと震える群れをかき分けていく。すると、その先に立っていたのはサタンだった。その姿を見た瞬間、カロンは恭しく一礼をして非礼をわびた。自分の名を呼んだのが、彼女だとわかったからだ。
「これは、サタン様。このような所に、いったいどうされたのですか」
「今日の私は、案内役。主役は、こっち」
その言葉を受けて、サタンの後ろに隠れていたレヴィアタンがぴょこっと顔を出す。
「久しぶり。カロン爺」
「レヴィアタン……、レヴィアタンか。おお、久しいのう」
先程まで厳しく吊り上がっていた目が一気に垂れ下がり、カロンはにこやかな表情を浮かべていた。まるで数年ぶりに孫に会ったおじいさんのようだ。レヴィアタンに歩み寄ると、逞しい腕で優しく頭を撫でた。
「地獄に帰って来る気になったのかの」
「違うよ。いつも通り、地獄めぐりに来ただけ」
「なんじゃ、そうなのか。残念じゃ」
少し肩を落としたカロンだったが、すぐに気を取り直す。そして、レヴィアタンの後ろに控えていたベヘモスとジズに気付くと、そちらにも挨拶をする。
「二人とも息災かの」
「はい。カロン殿も相変わらずで」
「べも」
久しぶりの再会に、カロンを加えた五人は話しに花を咲かせた。
しばらくすると、周りが騒々しくなっていた。ほんの数分の間だったのだが、罪人たちの数は増えて先程までの倍になっていた。
「名残惜しいが、仕事に戻らねば」
カロンは、櫂を持っていた腕をぐるぐると回した。
「久方ぶりにレヴィアタンに会えて、元気をもらったわい」
そう言うと、近くでグズグズしていた罪人を櫂で叩き、舟へとはじき飛ばした。
「グズグズするな、罪人ども。今のように叩かれたくなかったら、きびきび乗り込め。今日の叩きは、一味違うぞ!」
そう叫びながら、カロンは一人、二人と櫂で叩き飛ばしていく。あっという間に、舟には罪人の山が出来ていた。カロンは罪人で溢れ返った舟に乗り込むと、レヴィアタンたちに大声で呼びかけた。
「それじゃあ元気での、レヴィアタン。ベヘモスとジズも」
次いで、サタンの方を向くと頭を下げた。
「舟はいつものように別に用意させますので、三人をよろしくお願い致します」
「りょうか~い」
サタンも声を張って答え、レヴィアタンたちは手を振ってカロンを見送る。カロンもそれに応え、頭の上で大きく腕を回した。何回か回した後、櫂を持つ腕に力を込めると、罪人が山盛りとなっている舟がゆっくりと進み始める。川の流れを物ともせずに進む舟は、どんどんと速度を上げ、すぐに見えなくなった。
カロンがこちら側に戻ってくる頃には、再び罪人でいっぱいになっているのだろう。自分たちが乗る舟を待っている短い間にも、どんどんと数を増やしていく罪人の群れを見ながら、レヴィアタンは考えていた。




