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第八圏・第十の嚢

 第九の嚢に架かる橋を渡り終えた時、レヴィアタンは振り返り、円の外側を眺めながら言った。

「そういえば、ダンテは第九の嚢の大きさがどれくらいか、書いてたよね」

「ええ。確か、周囲が22里:約36kmであるとしていました。ちなみに、次の第十の嚢の周囲は11里:約18kmで、嚢の幅は半里:約0.8kmだったかと」

「この地獄って、大きさも同じだっけ?」

「いえ。今では、それよりも大きくなっていると思います。罪人の数が、減ることはなく、増え続けることは分かりきっていましたからね。この地獄は、許容の限界に近づいた場合に、大きく広くすることが出来るように作られていたはずです」

「やっぱ、そうだよね。前来た時よりも、広くなってる気がするもん」

「そうですね。すでに、作られた時の倍以上には、なっているでしょうか」

「はぁ~」

 来るたびに大きくなっている地獄。これからの地獄巡りが、どんどんと大変になっていくことを理解し、レヴィアタンはため息を漏らした。

 そんな彼女を励ますように、ジズが言った。

「ほら。次を越えれば、いよいよ第九圏。地獄の最終圏ですよ。あと少し、がんばりましょう」

「べもべもっ」

 ベヘモスも、レヴィアタンに元気を出せと言わんばかりに、張りきって前を進みだした。


 第十の嚢に架かる橋を渡る最中、その頂に近づくと下から声が聞こえてくる。

 これまでにも、罪人が発する様々な嘆きや悲鳴といったものはあったが、ここの声は取り分けておぞましい。もし、生身の人間が聞いたなら、それだけで死を覚悟するほどの苦痛と後悔、それに絶望感を含んでいた。

 その声に、レヴィアタンたちは、下を覗こうとする。しかし、橋の上からでは光が足りず、嚢の底まで見通すことはできない。代わりに味わったのは、酷い腐臭だった。

 嚢から立ち上ってくるのは、腐敗した屍が発するような吐き気を催す臭いである。それも、一つや二つの死体で足りるものではない。いくつもの死体を一ヶ所に集め、土もかけず、焼くこともなく、ただ腐らせるままにさせた、そんな臭いだ。

 その臭いに、レヴィアタンたちは鼻をつまむ。そして、急いで橋を渡り始めた。あまりの臭さに、ポーチに入っていたマスクのことなど忘れている。いや、覚えていても、取り出す時間さえも惜しい様子だった。

 橋を渡り切った先で、ようやく臭いは薄れ、ほとんど感じなくなった。

 そこで、三人は嚢の観察を行うことにする。時計回りに、最後の堤を少しばかり進むと、第十の嚢をよく覗くことができた。

 そこは、息も絶え絶えで自由に動くこともままならない罪人たちで溢れていた。

 まず目にしたのは、他人の腹の上だろうが、肩だろうが、お構いなしに横たわっている者たち。その中を、四つんばいで這うように動いている者もいた。

 また、少し移動すると、背中合わせに座っている二人の男がいた。その男たちは、頭の先から足の先までを瘡蓋かさぶただらけにしていながら、痒みに任せ己の体を掻き毟っている。そのために、瘡蓋が毟り取られぽろぽろと落ちていく様は、魚の鱗をこそぎ落としているようだった。

 狂った犬のように嚢の中を走り回り、動けぬ者に咬み付いている者もいた。

 ある男は、体を水腫に犯されて腹や四肢が膨らみ、両脚を除けばリュートそのものな形をしている。青白い顔には不釣り合いな太鼓腹が目を引いた。

 その右隣では、一人の女と一人の男が高熱にうなされ、その体から湯気を立てていた。

 この第十の嚢に落とされる罪人は、様々な偽造や虚偽の罪を犯した者たちである。人を欺くために錬金術を用いた者、硬貨を偽造した者、他人に成り済ました者などが、その罪に応じた病に罹り(かかり)苦しんでいるのだった。


 レヴィアタンたちは、第十の嚢に別れを告げ、中央部へと足を向ける。そこは、夜ほど暗くはないのだが、昼ほど明るくもない。そのために、少し先を確認できる程度の視界しかなかった。

 三人が足元に注意しながら歩いていると、突然、耳をつんざくほどの音が鳴り響く。咄嗟に両手で耳を塞ぐが、それでも雷の轟などささやかに感じられるほどのものである。音が止み、レヴィアタンが顔を上げると、目指す先に高い影が見えた。うっすらとであるが、いくつもの影が立ち並んでいるのがわかる。先程の音は、そこから響いてきていた。

 その時、再び音が鳴り響く。

 三人は、ポーチから耳栓を取り出すと装着し、残響の鳴り止まない中を進んでいった。

 影に近づくにつれ、だんだんとその姿がはっきりとしてくる。その正体は、巨人たちだった。第八圏の中央部にあいた穴に臍から下を隠し、その壁に沿ってぐるりと並んでいる。

 巨人のうち一人は、その顔だけで3、4mはありそうだった。体もそれに見合った大きさをしており、首の下から穴で隠れている部分まで、ゆうに7、8mはある。上半身だけで10mは超えていた。

「ラフェール、マイー、アメッケ、ザビー、アルミ……」

 虚空を見つめる巨人は、その口から言葉を発っしていたが、思い出したように肩から下げていた角笛を吹き鳴らした。高らかに鳴り響く音が、周囲にこだまする。その音こそ、つい先ほど三人を悩ませた音であった。

「何度聞いても、何を言っているのかわからん」

 巨人の言葉を聞いたレヴィアタンが言った。それに、ジズが答える。

「仕様がないですよ。ニムロドの言葉は誰にも理解できず、ニムロドは誰の言葉も理解できない。そういう風に、されていますから。どんな言葉にも通じる我々でも、彼の言葉とだけは通じ合うことが出来ない。そもそも、彼の言葉には意味などないのかもしれません」

 巨人の名は、『ニムロド』といった。元々は、『創世記』に書かれた「最初の権力者であり、力ある狩猟者」である。しかし、ダンテは、「神への反抗心からバベルの塔の建造を発案し、一つしかなかった人々の言語が分かれ、通じなくなった原因を作った男」という説を用い、さらに彼を巨人としている。そのため、巨人ニムロドは、言葉が分かれた原因を作った罪のために、誰からも言葉を理解されず、誰の言葉も理解できない。ただ角笛を吹いて、気を晴らすことしかできないとされた。

 レヴィアタンたちは、ニムロドの立つ場所を後にし、巨人の立つ穴を時計回りに進んでいく。次の巨人は、さらに大きく獰猛であった。

 その巨人の名は、『エピアルテス』といった。ギリシア神話の巨人であり、オリュンポスの神々と戦った一人である。巨大な鎖で左腕を前で、右腕を後ろで縛られ、上半身の見える部分だけでも5回は巻かれている。尋常でない太さの鎖は、決してちぎれることはないだろう。

 他にも、多くの巨人がこの穴に寄り掛かっていたが、皆、神に反抗した者たちである。数人の名を上げると、『ブリアレオス』、『アンタイオス』、『ティテュオス』、『テュポーン』といった者たちがいた。いずれも、ギリシア神話に登場し、巨大な体を持っている者たちであった。

 レヴィアタンたちが、エピアルテスの元からさらに進むと、アンタイオスが姿を現した。彼もまた巨大で、穴から突き出た体は肩までの高さで7mはあるだろう。

 穴からぬぼうっと突き出ているアンタイオスに向かって、ジズが声を掛ける。

「アンタイオス殿。我々を穴の底へと下ろしてはもらえないだろうか」

 しかし、アンタイオスは何も反応しない。ニムロドの吹く角笛が煩くて、耳までジズの声が届いていないようだった。

 そこで、レヴィアタンが巨人の横腹にフック気味のパンチを入れる。

「おい。おっちゃん」

 ボゴッという鈍い音に、アンタイオスは「んぐっ」と声を漏らした。何の仕業かと下を見ると、自分を見上げるレヴィアタンと目が合う。次いで、その横にいたジズとベヘモスの姿も確認すると、すべてを察したようで、「うん、うん」と頷いた。

 巨人は、両手で三人を掬い上げると、穴の底へと身を屈める。三人を乗せた手は、巨人の足元を過ぎても止まらない。そこから遥か下に届いてから、レヴィアタンたちは降ろされた。

 そこが、地獄の最下層。

 レヴィアタンたちの旅も、いよいよ終わりが近づいていた。


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