第八圏・第六の嚢
三身一体状態のレヴィアタン、ベヘモス、ジズは、第六の嚢を飛び、第七の堤を目指している。三人の重さを一身に受けるジズは、必死に羽ばたいていた。
しかし、その努力も空しく、高度が下がり始める。あっという間に、三人の視界は、黒い壁に埋め尽くされてしまう。高度を上げようにも今のジズにはこれ以上の力は出ず、三人はゆっくりと降下していくことしかできなかった。
嚢の半分にも届かないと判断すると、ジズは引き返し、第六の堤のすぐ下へと降りていった。この第六の嚢には、先ほどのように煮えたぎる瀝青はなかったものの、その分、罪人たちが歩き廻っていた。群れの中に降りるわけにもいかず、戻るしかなかったのである。
天からレヴィアタンたち三人が降ってきても、罪人たちが騒ぐことはなかった。その存在に気付かなかったのか、気付いてもなんとも思わなかったのか。ただ、黙々と歩き続けていた。
底に降りたレヴィアタンたちが見たのは、くすんだ輝きだった。
第六の嚢にいる罪人たちは、今までにいた者たちとは違い、衣類を身に着けている。それは、修道士が着るものと同じ形で、足まで隠れる長い外套に頭巾が付いていた。外套の外側は、目が眩むほどの黄金色の輝きを見せているが、内側はくすんだ鉛色をしている。それは、恐ろしく分厚い鉛で作られており、輝かしいのは金のメッキが施された外側だけだった。
彼らは、偽善者だった。外面だけは美しく善行をするが、その内は虚栄心や利己心で満ちている。メッキの外套は、彼らの罪そのもの。その重みに耐えながら、歩くことを強いられていた。
非常にゆっくりとした足取りで、同じ方向に進む罪人たち。皆、時計回りに歩いている。頭巾を目深にかぶっているためその表情を知ることは出来ないが、休息のない旅に疲れ打ちひしがれていることは、歩いている様子から見て取れた。
また、レヴィアタンたちの視線の先、歩く罪人たちの足元には、3本の杭で地面に磔にされた男がいた。裸で仰向けに横たわるその姿は、十字架刑を彷彿とさせる。男の名は、カイアファ。ユダヤ教の大祭司だった者だ。その罪の重さ故に地面に打ち付けられ、上を踏んでいく者たちの重さをその身を以って味わわされていた。
その他にも、彼と同じように地面に磔にされた者たちがいる。カイアファの舅で元大祭司のアンナス。そして、彼らと共にナザレのイエスの裁判にて死刑を宣告した者たちである。彼らもまた、この第六の嚢の底で罪人たちにその身を踏まれ、罪の重さに苦しんでいた。
レヴィアタンは、目の前を歩く罪人たちから視線を移すと、天を見上げた。そこには、影を落とすものは見えない。橋など、やはり架かっていないのではないか。そう考えたレヴィアタンは、マラコーダの話が嘘なのか本当なのか、確かめようと考えた。
そこで、ちょうど前を通りかかった一人の男に声を掛ける。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「な、何でしょうか」
男は、少し驚いた様子を見せる。話しかけられることなど無いのだろう。
「こっちの崖とあっちの崖を繋ぐ橋って、どこかにある?」
レヴィアタンの問いに、俯いていた顔を上げようとした。しかし、頭巾が重く、それは叶わない。男は落胆し、一層疲れた様子で言った。
「そんな物、無いです。私は、この円を、何千、何万と廻っていますが、影が落ちている地面なんて見たことがありません」
「そっかぁ、やっぱり嘘かぁ……」
「嘘?」
「ああ、ごめん。こっちの話。足止めして悪かったね、ありがとう助かったよ」
レヴィアタンの言葉を聞いた男は、再び円を廻り続ける列の中へと戻っていった。
男を見送るレヴィアタンに、横にいたジズが声を掛けた。
「レヴィアタン。あまり気にしない方がいいですよ」
そう言って、横を向いたジズが見たのは、両の拳を握り締めるレヴィアタンの姿だった。
「マレブランケ共がぁぁ」
その可愛らしい外見からは、想像できないほどの殺気の込められた言葉。それを吐くと、両の拳はさらに固く握り締められた。力を入れ過ぎるあまり小刻みに震えている。
「調子に乗りやがってぇぇ」
手の震えが、どんどんと大きくなっていく。それに合わせ、大気も鳴動し始めた。レヴィアタンの感情の高ぶりと共に魔力が上昇し、周りに影響を及ぼしているのだ。
ジズはその横で「何とかしなければ」と、レヴィアタンの気を静める方法を必死に考えていた。目の前の怒りは、第七圏で亡者どもを天高く舞い上げたものとは桁が違っている。手加減など期待できない今の怒りが亡者に向けられれば、消えるのは百や二百ではない。千どころか、万に至るかもしれなかった。それは、何としても避けなければならない事態。
しかし、時間が経つにつれ殺気を増していくレヴィアタンに、鎮めることはもはや不可能と思われた。こうなっては、感情が切れて暴走する前に、気を晴らさせてしまうしかない。そうジズが考えた時だった。
「ぬぅうあああああっ!」
レヴィアタンが唸り始める。いよいよもって限界が近いと察したジズは、咄嗟にレヴィアタンをくるりと回し、後ろにあった壁に向かわせた。
そして、
「はいっ!」
そう叫んだ。
「がぁぁああああああっ!」
レヴィアタンは、ジズの掛け声に乗せられ一気に感情を放出する。固めていた右拳を目の前の壁に打ちつけた。
ドゴォオアッ!!
見事な右ストレートは、轟音と共に大地を揺らす。壁である第六の堤には亀裂が走り、そこからは瀝青が漏れ出てきた。分厚い堤を突き抜け、亀裂は第五の嚢にまで達していたのだ。第六の嚢にいた罪人たちは溢れ出た瀝青に慌てたが、それはすぐに固まり、元の強固な壁に戻していた。
マレブランケたちも何事かと飛び出すが、原因が分からず、得体の知れないものに恐怖した。
その轟音と揺れは、第八圏に止まらない。地獄のすべてを揺らしたことにより、各圏は混乱と恐怖に見舞われた。魂たちは、神の怒りだと泣き喚き、今さらながらに許しを請い始める。ケルベロスやハルピュイアなどの恐ろしき魔獣たちも震え、満足な務めを果たせなくなった。
万魔殿も例外に洩れず、大きな揺れに襲われた。低級の悪魔たちは、天使軍が攻めてきたのだと上を下への大騒ぎだったのだが、上級悪魔たちは、原因が分かっているのか落ち着いたものだった。唯一、ベルフェゴールだけは、徹夜ゲーム明けで寝ていたことが災いし、ベッドから転がり落ちて頭にたんこぶを作っていた。
衝撃が収まると、レヴィアタンは打ち付けたままだった拳を下ろし、横にいたジズとベヘモスに顔を向ける。その顔は、いつものレヴィアタンに戻っており、怒りはすべて放出されて消えたようだった。
ジズとベヘモスも、その表情を見て安堵する。
そして、三人は気を取り直し、先へと進もうと振り向いた。すると、そこにいた罪人たちすべての視線が、自分たちに注がれていることに初めて気付く。皆、歩くことを忘れ、唖然とした表情を向けていた。
三人は、その注目され具合に気恥ずかしくなり、歩みを止めている罪人たちの間を縫うように抜けていった。振り返ることも横を見ることもなく、前だけを見て進むレヴィアタンたち。
その間も、三人へと集中する視線は、外れることはない。第七の堤の下に着いても、まだ注目されていた。
背中に視線を感じ続ける三人は、立ち止まることなく、堤を登っていく。そこは、崩れた岩石がうず高く積もり、嚢の底から堤の上までを繋げていた。三人は難なく登っていくが、足場は悪く意外に脆い。重たい外套を着ている罪人たちでは、到底登れはしない。そんな道だった。




