第七圏・第三の環・その三
森から離れ、かなりの時間が過ぎた頃。
堤の先から、水のざわめきが聞こえ始める。それは、血の川=プレゲトーンが下の圏へと流れ落ちている音だった。進むごとに大きくなっていく音は三人の会話を妨害し、最後の方では大声でなければかき消されてしまうほどだった。
その滝の少し前あたり、火の雪が降る砂地が終わる手前ぎりぎりの所に、足を抱え座っている人々がいた。彼らの手は、前に見た臥せている人々と同じように、降りかかる火の粉を払い除けようとせわしなく動いている。そして、その誰も彼もが、首から一つの金袋を下げており、それを眺めてはいやらしい笑いを浮かべていた。
彼らは、高利貸しを営んでいた者たちだった。彼らが罪人である理由は、こうである。本来、人間は自然と労働によって生活の糧を得ることを神によって定められており、利子で糧を得る高利貸しは神に対する侮辱である、ということであった。
体を小さくすぼめている彼らの姿を見ながら、レヴィアタンが疑問を口にした。
「今だと、誰が落とされるんだろう」
「クレジットカードとか、融資=ローンは現在では普通ですからね。やはり違法行為を行っている者たちでしょうか」
金袋が燃えることを防ごうと丸くなる人を横目に見ながら進んでいくと、道の先にぽっかりと穴が開いている地点に辿り着く。第七圏の中央部は、大きな口を開け、血の色に染まった水を飲み干さんとしているようだった。
血の川は滝へと変わり、懸崖を流れ落ちていく。岩々を叩く轟音を響かせながら、闇の中へと飲まれていった。
「ここを下りなきゃいけないわけだけど」
切り立った崖に立ち、レヴィアタンが呟く。
「どうやったっけ?」
「確か。ダンテは、自分の縄帯をその穴に投げ入れたと思いましたが」
「あたしたちは、何を入れたらいいんだろ」
レヴィアタンが考えていると、
「ここで、そのポシェットの出番なのでは?」
ジズが、レヴィアタンの下げていたポシェットを指して言った。
「おお、そうかも。試してみよっか」
レヴィアタンは、ポシェットに手を突っ込んで中をあさる。すると、手に何かが当たる感触があった。それを掴んで引き出してみると、手には一本の荒縄が握られていた。
「おおっ!」
三人は、感嘆の声を上げる。
「他には、何が入ってるんでしょう?」
「試してみる?」
そう言って、レヴィアタンは再び手を突っ込む。今度は、ポシェットの中を覗き込みながらだったが、中の様子はぼんやりとしてよく分からない。突っ込んだ手も、はっきりとしなかった。
ぼんやりとした中からレヴィアタンが取り出したのは、クッキーの入った缶だった。
「おおぅっ!」
またしても、三人は感嘆の声を上げる。
「クッキーが欲しかったんですか?」
レヴィアタンから、クッキー缶を受け取ったジズが訊いた。
「ううん。クッキーとは思ってなかった。ただ、何か食べ物が欲しいなって」
「なるほど」
ジズは翼を胸の前で組み、腕組みの姿勢をして何かを考えているようだった。
「今度は、私が試してみてもいいでしょうか?」
そう提案するジズに、レヴィアタンはポシェットを渡す。それを受け取ると、ジズは無造作に翼を突っ込んだ。しばらく中をまさぐった後、引き抜いた翼には、大きめの水筒が掴まれていた。中に入っているのは何なのかと、自分で少し飲んでみる。
「ミルクティーですね」
砂糖多め、レヴィアタンが好きな甘々なミルクティーだった。おそらく、ベルフェゴールが準備していたのだろう。
「ジズは何を思ってたら、それが出てきたの?」
「私は、コーヒーを思い描いていたのですが……」
ジズは、ミルクティーの入った水筒をレヴィアタンに渡し、再び考えるそぶりを見せる。その隣では、レヴィアタンとベヘモスが、束の間のティータイムを始めていた。
「ほら。ジズも休憩しよ」
眉間にしわを寄せて考え込んでいるジズを見て、レヴィアタンがミルクティーを注いだカップを渡す。それを受け取り、二人の中に入るジズだが、やはりポシェットが気になる様子だった。
「レヴィアタンは、そのポシェットがどうなってるのか気にならないのですか?」
「別に~。ベルフェゴールがくれたものだから、そんな変な物じゃないと思うし」
「それは、そうかも知れませんが。私も、欲しい物がそのまま出るか、何も出ないかならいいんですよ。でも、たぶんですけど。こちらが欲しい物が無い場合は、なるべく要求に応えようと近い物が出てくるみたいじゃないですか。どういう基準で、こちらの要求に応えているのかとか、気になるんですよね」
「近い物が出てくるなら、いいじゃない」
「いやいや。もしも、『食べ物』を要求してそれが無かった時、『食べられる虫』とか出てきたら嫌じゃないですか」
「それは、嫌だけど。でも、入れた物しか出てこないって、ベルフェゴールが言ってたじゃない」
「そうですね」
「ジズは、心配しすぎなんだって。こんなの、便利なポシェットくらいに思っていればいいんだよ」
レヴィアタンはポシェットをぽんぽんと叩いて見せる。しかし、ジズはそうは言われても気にはなる、といった感じだった。
空腹を満たし終えると、クッキー缶と水筒を再びポシェットにしまう。
「さてと」
レヴィアタンは、大きな口を開けている穴の縁に立つ。中を覗き込むと、そこには闇があるばかりだった。
レヴィアタンは何の儀式をするでもなく、手に持っていた荒縄を穴に投げ入れる。無造作に放り込まれたそれは、重力に従い落ちていく。三人はその行方を確かめようと、穴を覗いていたのだが、すぐに闇の中へと消えてしまう。それでも穴を覗き続けていると、しばらくして、闇の中で何かが動くのが見えた。
闇の中で動いたものは、徐々に形が大きく、恰好が見えるようになる。それは、水夫や海女が水中から海面へと向かう時に手足を体に沿わせるようにして、抵抗なくスゥッと浮かび上がってきた。闇から姿を現したのは、『ゲリュオン』という名の怪物であった。
空を泳ぐ怪物は、第七圏まで上がってくると、レヴィアタンたちから見て堤の右の方へと着地する。そこは穴に近く、もはや火の雪も届かない場所だ。怪物は、ここは我が陣地とばかりに頭と胸を接地させたが、尾の方は鎌首をもたげる蛇のように虚空にくねらせたままにしていた。
ゲリュオンの顔は義人のものであり、慈しみの表情を浮かべていたが、首から下は蛇の物であった。背、胸、両脇に至るまで線と輪の模様に彩られ、複雑に入り組んだそれは見る人を惑わせる。さらに、その胴体からは二つの脚が生えている。両脚ともに、鋭い鈎爪を持ち、胴の付け根まで毛で覆われていた。虚空に遊んでいる尾は、二股に分かれ、その先端にはサソリの様な猛毒の針を備えていた。
レヴィアタンたちは堤を降り、右手に待つゲリュオンの方へと向かう。近づいてみると、なかなかの大きさであった。どれくらいかというと、腹を地面につけていながら、背中までの高さは大人の背丈ほどもあるくらいだ。三人は、その背中によじ登り、頭の方から、ベヘモス、レヴィアタン、ジズの順番に跨る。手足の短いベヘモスをレヴィアタンが抱き支え、もしも誰かが落ちても助けに行けるようにジズが後ろに座った。
三人が乗ったことを確認すると、ゲリュオンは身を起こす。そして、背中の荷物を振り落さないよう注意をしながら両脚と尾で地面を蹴り、勢いよく穴の中へと飛び込んだ。レヴィアタンが投げ込んだ荒縄とは違い、巨体は重力を無視して虚空を泳いでいく。尾を器用にくねらせ進む姿は、水中を泳ぐワニのようであった。
ゆっくりと反時計回りに円を描きながら、下降していくゲリュオン。闇の中、目印となるものは何もなく、レヴィアタンたちにはどれくらい下って来たのか、残りはどれほどなのか判らない。長い時間、ゲリュオンの背中で揺られるだけの旅となった。
景色はない。聞こえるのも風の音だけという状況に、レヴィアタンが飽き始めた頃、下から轟き音が聞こえてくる。それは、プレゲトーンの滝から流れ落ちた水が、下の大地を叩いている音だった。
さらに下っていくと、風の中に魂たちの嘆きの声が混じってくるようになる。普通ならば聞き流しているような耳を汚すだけの音だったが、退屈を満喫していたレヴィアタンにとっては十分に興味をそそられるものだった。
レヴィアタンは、もう底が近いのかと思い、下を覗く。しかし、視界はまだまだ暗く、濁っている。それでも目を凝らしてみると、霞みながらもゆらゆらと炎が揺らめくのが見えた。下るごとに、底の景色もはっきりと、嘆きの声も大きくなっていったが、少しばかり気を紛らわせることに成功しただけだった。
長い時間をかけて闇を抜けると、ようやく空と呼べる光景が広がる。第八圏の領域に入った証だった。
ゲリュオンは、あと少しで仕事から解放されることを理解するが、だからといって急ぐこともなく、ゆっくりと螺旋を描いていく。大地に降り着くと、最も外縁に位置する崖にその身を置いた。第七圏に呼び出された時と同じように頭と胸を接地させ、レヴィアタンたちに降りるように促す。そして、背中から三つの荷物が無くなったことを確認すると、どこへともなく飛び去っていった。
レヴィアタンたち三人の前に広がるのは、地獄の第八圏。悪意をもって罪を犯した者たちが、嘆き苦しむ大地だった。




