第七圏・第三の環・その一
第三の環は、草木の一本も生えていない砂地だった。岩はおろか小石ほどの異物もない。ただ堅く詰まった砂だけが、起伏のない平地を形作っている。そして、第一の環よりも第二の環が低かったように、この砂地も悲しみの森よりも少し下がっていた。
一方、空は赤々と発光していた。第六圏・ディーテの火が漏れ落ちているのだろうか。赤熱した天井からは、途切れることのない火の粉が降ってきている。チラチラと落ちてくる様は、風のない日に降る雪のようで、空から降る灰のように重さを感じさせない。そんな火の雪だから、吹けば消えそうなほどに、決して強くはない。それでも、道半ばで消えることなく、地に降り落ちていく。敷き詰められた砂を燃やすことが己の使命であるかのように、一粒一粒の砂に熱を与えるのだった。
レヴィアタン、ベヘモス、ジズの三人は、第三の環には足を踏み入れず、その縁を歩いていく。そこは、森と砂地の魂が出合うことのないように作られた緩衝地帯だった。
この第三の環でも、やはり目指すは中央部であるが、ここでは危険を冒してまで、火の中を進む必要は無い。安全を約束された道が存在しており、三人はそこに向かっていた。
ダンテに倣い、時計回りに縁を回っていく三人。砂地を右手に見ると、その場所からでも罪人たちの苦しむ姿がよく見えた。
第三の環に落とされた魂は、皆一様に裸であった。隠れる所は無く、その身を包む布きれ一枚も持たない。空からは火の雪に焼かれ、大地からは焼けた砂に焦がされる苦しみ。そこから少しでも逃れようと、彼らの両手はせわしなく働き、裸身に降りかかる火の粉を払い続けていた。
また、魂たちは、そこかしこに群れていたのだが、その様子から三つに分けることが出来た。地面に仰向けに寝ている者、体を丸めてしゃがんでいる者、留まることなく歩き続けている者、この三つである。どの群れに属するのかは決められているらしく、他の群れに移ることはなかった。
どのくらい歩いただろうか。レヴィアタンたち三人の会話の中に、別の声が混じり始める。それは、第三の環の方から聞こえてきており、進む度にどんどんと騒がしくなっていった。それは進行方向の先、縁に近い場所に仰向けで寝転んでいる群れから発せられているものだった。
体の前面を火の粉に焼かれ、後面を砂に焦がされる。天を向く彼らの口から発せられていたのは、悲鳴ではなく、蔑みと罵りだった。彼らの罪は、その行為自体だった。つまり、神への冒涜である。それが故に、この第三の環に置いて最も辛い罰を受けているのであった。
レヴィアタンたちが、その横を通り過ぎようとした時だ。一人の男が三人に気付き、不機嫌に言葉を発した。
「何だ、お前らは! なぜ、そんな所を歩いているっ!?」
その言葉に他の魂たちも気付き、次々と口汚い言葉を投げてくる。
ジズに対しては、
「クソ鳥が、格好つけて歩いてるんじゃねえっ! 羽根全部、毟ってやろうか!」
ベヘモスに対しては、
「何だ、お前。ブタか、ブタなのか!? こっち来い。焼きブタにして食ってやるぞっ!?」
レヴィアタンに対しては、
「ガキが何しに来た。お子ちゃまなんて、何の役にも立ちゃしねえんだよ! とっとと失せやがれっ!」
などと、ひたすらに三人へ暴言を吐き続けた。
しかし、そんなものに構う必要はないとばかりに、三人は無視して歩いて行く。その様子がますます魂たちの感情を逆撫でした。何とかして三人の気を引こうと、どんどんと声は大きくなり、言葉は汚く辛辣なものになっていく。それでもベヘモスとジズは気に留めることはなかったのだが、レヴィアタンは違っていた。肉体の幼年化に伴い、精神も幼くなり感情が高ぶりやすくなっていたのだ。
心配したジズがレヴィアタンの顔を見ると、既に額には青筋が立っていた。表情も真顔で、無理に気にしないように頑張っているのか、頬は引きつり、ぴくぴくしている。焦ったジズは、未だに暴言を止めない魂たちを一喝する。
「お前たち、もうやめろッ。本当に、死ぬことになるぞ!」
「何を言ってるんだ、こいつは」
「俺等は、もう死んでるんだ。これ以上、死ぬわけがないだろうがっ!」
「そうだそうだ。そんなこともわからないのか。このバカ鳥め!」
鳥がしゃべったことなど気にもせず、罪人たちは声をあげて笑う。一通り笑った後、また暴言を吐く作業に戻った。
「この馬鹿共がっ!」
注意を受け入れない罪人たちに、ジズは実力を持って止めようと飛び込んだ。飛び込んだのだが……。その足が地面に着くことはなかった。ジズの頭は、レヴィアタンに鷲掴みにされていたからだ。動きを止められたままの姿勢で、宙ぶらりんになっているジズ。そのままの姿勢で抵抗することなく、元いた場所に降ろされた。
「下がってなさい」
ジズに掛けられたレヴィアタンの声は、ひどく冷たい。その声を聞いたジズとベヘモスは、何かを察知し、砂地と反対側の森へと走る。そして、頑丈そうな大木を探し、その後ろへと隠れた。
レヴィアタンの怒りは、熱くなることを通り越していた。熱い怒りならば、冷ますこともできたかもしれない。しかし、今の彼女の中にあるものは、冷たく静かな怒りである。限界を超え冷静さを取り戻すも、それでも収まらない状態の怒りだ。この状態では、二人にも……。いや、他の大罪の悪魔であっても、どうすることもできないだろう。
第三の環に入らないぎりぎりの縁に立ち、魂たちを見下ろしているレヴィアタン。そんな彼女に、恐れを知らない罪人たちは変わらずに暴言を浴びせ続ける。
「何だ、てめえ。人様を見下してんじゃねえよ!」
「文句があるなら、降りて来いよ! 泣かせっぞ、こらぁあ!?」
もはや、チンピラだった。
レヴィアタンを後ろから観察していたベヘモスとジズは、その怒りが限界に近いことを悟り、咄嗟に頭を抱え伏せる。
その直後。
強烈な光に視界が奪われ、爆音と衝撃が辺りを襲った。それは第二の環まで届き、悲しみの木に大きな悲鳴をあげさせた。
凄まじい衝撃ではあったものの、すぐに収まった。しかし、辺り一面は煙で覆われ、何が起こったのか、すぐには分からない。しばらくして、その煙も収まってくると、そこには一人立っているレヴィアタンの姿があった。
衝撃が過ぎ去ると、ベヘモスとジズはもぞもぞと立ち上がる。埃まみれになってはいたが、怪我はしていない様子だった。互いに無事を確認し、レヴィアタンの方を向く二人。そして目にしたのは、巨大なキノコ雲であった。
天に届くほどに大きなそれは、罪人たちが寝ていた場所から立ち上っている。先程まで、その場にいたはずの彼らの姿は無くなっていた。
さらに周りに目を向けると、周囲の悲しみの木から葉が消え去っていた。衝撃によって吹き飛ばされたのだろうが、本体の幹までは飛んだり、折れたりはしていない。それは、不幸中の幸いに思われた。
レヴィアタンを中心に直径300mほどの半円状の形に、丸裸にされている自殺者たち。あまりの痛みに、恐ろしいほどの大音量で泣き叫んでいた。
(やってしまった)
佇むレヴィアタンの後ろ姿を見て、ベヘモスとジズは思った。二人は、こういう事態を起こさないためのお目付け役であったからだ。
「現世で死んで地獄に落ちた者は、再び死ぬことはない」と、罪人たちは笑っていた。確かにその通りである。例え、神罰によってその身が滅びたとしても、再び罰を受けるために数時間もすれば元に戻るのである。
普通は、そう。普通だったら、そうなのだ。
しかし、例外があった。それは、神罰以外の事象で、その身を消滅させてしまった場合である。体(魂)の一部が残ってさえいれば、時間はかかるが元に戻ることはできる。だが、完全に消滅してしまった場合は、それも不可能なのだ。魂の消滅は、存在の消滅である。例え再生を許されても、それはもはや元の魂と同じものではなくなってしまう。その事態は、何としても避けなければならないことだった。
ベヘモスとジズは、レヴィアタンの横に並ぶ。遠くの方では、突然の天変地異に驚いていた魂たちが、自分たちの課せられている罰に戻っていくのが見えた。キノコ雲が消え、露わになった大地は大きく抉れ、そこに居るはずの魂たちの姿は、やはりなかった。
レヴィアタンの顔を見ると、満足げな表情をしていた。自分たちに、どんな罰が待っているかも知れないのに、である。
「何で、そんな顔をしていられるんですか……」
「何でって、何が?」
「何がって。どんな罰を受けるか分からないんですよ!」
「え~? この程度じゃあ、罰なんてないでしょ~」
「何言ってるんですか!? 魂の消滅は重罪ですよ」
「ん? そんなことしてないよ。あたし」
「目の前っ。消えてるじゃないですか!」
「だから、消えてないって。ほれ、上」
そう言って、レヴィアタンが上空を指さすと、空から一人の魂が降って来た。それは、先程までその場に寝ていた魂だった。それを皮切りに、次々に降ってくる魂たち。皆意識を失っているのか、ピクリとも口を動かさずに再び罰についていた。
「ねっ」
呆然としているベヘモスとジズに向かって、レヴィアタンは「どうよ」といった顔をしている。
「頭には来てたけど、我を忘れるほどではなかったから。魂が消滅しない程度には、威力は抑えたんだよ」
「そうだったんですか。良かった」
「べもぅ~」
「それに。そもそも、あたしが全力出してたらこの程度で済むわけがないじゃない。今の状態でも、ここを消し飛ばすくらいの力は持ってるよ」
「それも、そうですね」
「べもべも~」
ベヘモスとジズは安堵し、レヴィアタンは機嫌を取り戻していた。
三人は気を取り直し、先を急ぐ。第三の環は、まだ半分も進んでいないのだった。
ちなみに――。
この事件以降、第三の環から発せられる神への暴言は、少しだけ静かになったという。新たな罪人が落ちてくるまでの、ほんの短い間の事ではあったのだが……。




