第六圏
サタンとは万魔殿で別れたが、ベルフェゴールはレヴィアタンたちに付いて来ていた。これは、第六圏の案内役を彼女が担当しているからだった。
七つの大罪でベルフェゴールが司る罪は『怠惰』である。ならば、第六圏に落ちる魂の罪も『怠惰』かといえば、そうではない。そこにいる魂は、キリスト教、主にカトリック教会にとって異端とされた者たちである。
上層とは異なり、自分の対応罪とは関係ない場所の案内を、なぜベルフェゴールがするのか。それは、そうなっているからである。
ベルフェゴールを先頭に、レヴィアタン、ベヘモス、ジズの四人は、万魔殿・外縁町を抜け、灼熱の炎が吹き上がる場所へと戻ってきた。
道の両側を覆い尽くす地獄の業火。その中に目を凝らすと、夥しい数の石棺を見ることができる。そのことごとくが赤熱し、灼熱した鍛鉄であってもこれほどの色にはならないと思わせるほどだ。また、石棺の蓋はすべて外されており、その中からは耳を塞ぎたくなるほどの痛ましい呻き声がいくつも洩れ出ていた。
これが、第六圏だった。第五圏にまで上る城壁の内部から万魔殿を囲むまでに広がる炎に包まれた大地。ディーテの中に第六圏があり、第六圏の大地にディーテがあるのだ。ベルフェゴールがここの案内を任されているのは、万魔殿の管理を任されていることからの延長であった。
そう。ベルフェゴールは、万魔殿の管理を任されているのだ。なぜ、彼女が管理を任されているのかというと、それは彼女の司る罪が理由である。つまり、『怠惰』だ。怠惰の悪魔に相応しく、ベルフェゴールは万魔殿の自室に引き籠もっていることが多い。ほとんど宮殿内にいるので、いつの間にか管理を任され、その延長で万魔殿と同じ大地にある第六圏の案内人にもされていた。
第六圏に落とされる魂は、異端の創始者とその追従者たちである。無数に存在する墓、その一つ一つに、宗派ごとの創始者と追従者が同じ墓に押し込められ、過ちの度合いに応じて熱せられていた。
異端者が発する苦悶の呻きを聞き流しながら、四人はレヴィアタンたちが下りてきた長大な階段へと向かう。その横から、下の圏へと続く道が伸びていた。ディーテを囲む城壁と石棺の群れとの間に設けられた狭い道を進んでいく一行。炎に包まれた石棺を左に見つつ、ベルフェゴールが説明を始める。
「ここにいる異端の魂は、キリスト教の中で異端的な考えを持った人たちだよぉ。キリスト教でないものを含めちゃうと、大変だからねぇ」
昔を思い出し、ベルフェゴールの視線は遠くを見ていた。その横を歩く、レヴィアタンが尋ねる。
「どんな人たちが、異端になるの? カトリック教会以外ってわけでは、なかったよね?」
「え~とねぇ。キリスト教の分派だって言いながら伝統的なキリスト教の教えに反してたりぃ、信仰心が無かったりぃ、イエスの出自を勝手に変えたりする人たちとかぁ。ローマ・カトリック教会以外の主要な教派からもぉ、明らかに異端とされている教えをする人たちとか、かなぁ。あとは、お布施を強請するとかぁ?」
「いまいち、はっきりしないの」
「だってぇ、何を異端にするのかって難しいんだよぉ。カトリック教会以外をすべて異端と考えれば楽だけどぉ、そうすると宗教戦争になってしんどいんだもん」
「辺獄の時みたくなるってこと?」
レヴィアタンは、辺獄に魂を連れて来ようとして各宗教の神格との戦いになった、という話しを思い出した。
「それよりも、もっとひどいよぉ。キリスト教内でも争いになるんだからぁ」
「それは、大変そうだね」
「なんか、他人事みたいに言ってるけどぉ。レヴィアタンにとっても、重要な事だよぉ」
「何で?」
「だってぇ、わたしたちの力は信仰心とか存在の認識に依存している部分もあるんだよ。キリスト教会同士が争って信者が減ったらぁ、力が落ちちゃうよぉ」
「そっか。それは、よろしくないね」
レヴィアタンの表情が少し曇る。
異端の認定で、そこまでの大事になる可能性は低いだろう。しかし、信仰心とは、時に恐ろしい事態を招くこともある。
「他の宗教でも言えることだけどぉ。『教え』の解釈の仕方で分かれるのは、やめてほしいんだよねぇ。分かれる度に、こっちの仕事も増えるし。こう幾つにも分かれられちゃうと、一度滅ぼしたくなってくるよね。本当に」
一瞬、ベルフェゴールから殺気が洩れた。その瞬間、他の三人は固まってしまう。普段のんびりしている姿からは、想像できないほどの冷酷な殺気。突然のことに三人は緊張し、業火の熱を忘れるほどだった。
しかし、ベルフェゴールはすぐに元の様子に戻る。そして、何事もなかったように歩みを進めた。
しばらく進むと、今度は城壁沿いの道から離れ、第六圏の中心へと向かう。万魔殿・外縁町を囲む堀に着くと、そこからまた堀沿いに進んだ。
そして、レヴィアタンたち四人は下層へと通じる下り口にたどり着く。しかし、そこには一つの障害が横たわっていた。ミノタウロスである。ギリシア神話に登場する牛頭人身の怪物、ミノタウロス。その頭には何物も貫きそうな鋭い角を持ち、その体は膨れた筋肉で覆われ、とてつもない怪力を持っていそうであった。
その怪物は、レヴィアタンたちを目にすると立ち上がり、肩を怒らせ敵意をむき出しにする。その目は赤く輝き、明らかな殺意を四人に向けていた。
話し合いなど通じない、そう思わせる雰囲気にレヴィアタンがベルフェゴールの方を向く。
「ベルフェゴール。何とかしてよ。ここの責任者でしょ」
「何とかって言われてもぉ。あれ倒さないと、先には進めないよ?」
「そんなだった?」
「そうだよぉ。あの子は、誰も通さないように命じられてるからぁ。倒すしかないよ」
「でも、ミノタウロスって希少種じゃないの?」
「あの子はミノタウロスだけどぉ、ミノタウロスじゃなくてぇ。わたしたちが作った魔法生物だよぉ。というかぁ、この地獄にいるギリシア神話の生物は、み~んな魔法生物でぇ、本物はいないよぉ。教えてなかったぁ?」
「初耳だと思う」
「そっかぁ。まあ、魔法で作られたものだから、安心して攻撃していいよぉ。消し飛んでも、一定時間が過ぎたら元に戻るし~」
「いや、ベルフェゴールがやってよ。あたしたちは、まだ先が長いんだから」
「そ~ぉ?」
レヴィアタンに促され、ベルフェゴールはミノタウロスの前に立った。
鼻息荒くした巨獣は、いまにも飛び掛かりそうである。ベルフェゴールは、そんな巨獣に対し「かかってきなさい」という風に手招きをする。
その姿を見たミノタウロスは、全身の血が沸騰したかのように体を紅潮させ――。怒りのままに一直線にベルフェゴールへと襲い掛かった。頭の角で突き刺そうと体を低くし、地鳴りを立てて突進する。
しかし、ベルフェゴールは、その様子を見ても避けるそぶりを見せない。
「よし、来~い」
そう言うと、身構える。受け止める気、満々だった。
迫るミノタウロス。待ち受けるベルフェゴール。
ミノタウロスが標的の身体を突き刺そうとした、その時。ベルフェゴールがその両角を掴み、押し止める。巨獣はそのままの勢いで必死に刺し貫こうとするが、一歩も先に進むことはできない。最初の一撃すらも、その位置から動くことなく止めたベルフェゴールを、どうにかできるはずもなかった。
10秒ほどか。そのままの姿勢で力をぶつけ合っていた両者だったが、ミノタウロスがついに動くのを辞める。それを見て、ベルフェゴールは角を持った手をくるりと回した。すると、ミノタウロスは無抵抗に地面へと転がされる。渾身の一撃、己の最高の力を止められた巨獣は、絶望に打ちひしがれ抵抗する気力もなくなっていた。
まるで、死体のように寝そべるミノタウロス。レヴィアタンが触っても、ピクリとも反応しない。かすかに聞こえる鼻で息をする音と、それに伴って動く腹を見なければ、本当に死んでいるかと思ってしまうほどだった。
「わたしは、ここまでだから。気を付けてね」
第六圏からの下り口に入る手前で、ベルフェゴールが別れを告げる。
「必要な物は、ポシェットに入っているから~」
第七圏へと下っていくレヴィアタンたちの背中に向けて、ベルフェゴールの声が響いた。




