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第五圏

 第五圏も今までと同様、第四圏より狭くなっていた。

レヴィアタンたちと共に降りてきた黒き水は、この第五圏で『ステュクス』という沼を作っている。沼の中では、真っ裸で泥にまみれた魂たちが己の怒気をぶつけ合っていた。手で殴り、胸でぶつかり合い、頭突きをし、足蹴りを見舞う。それでも足りずに、歯で噛み付いてさえいる。その怒りは、どれほどのものなのか。歯を喰い込ませた相手の体を、一片また一片と噛み千切っていた。

 レヴィアタン、ベヘモスとジズ、それにマンモンの代わりにサタンを加えた四人は、黒い沼の縁に立ち、その様子を眺めていた。すると、すぐ目の前の水面にプクプクと泡が立っていることに気付く。レヴィアタンが視線を落とすと、沼の水面下に人が沈んでいるのが見えた。

 彼らは、上で殴り合っている魂とは違い、生前いつも心を塞ぎ、鬱々としていた者たちだ。その燻る怒りが沼の底でブクブクと口から漏れ、ため息の泡に乗って水面に表れていた。

 この第五圏の案内役をサタンが務めるということは、七つの大罪におけるサタンの対応罪とここにいる魂の罪は同じ、つまりは『憤怒』の罪ということだ。生前、怒りに囚われた人々は、ミノスの裁定によってこの場所に落とされる。その裁定にすらも怒りを覚える魂たちは、地獄に落ちてなお泥沼の中で互いを責め苛むのだった。

 互いを傷つけあう罪人たちを右手に見ながら、四人は沼の周りを歩いていく。目的地は、圏の中央部なのだが、沼には橋など架かっていない。罪人の沈む泥で汚れることを嫌った一行は、別の方法を求めて外縁部の崖と泥沼との間に僅かに存在する乾いた道を進んでいた。

 ステュクスの描く弧は広大であった。それもそのはずである。その泥沼は、第五圏の大地のほとんどを覆い隠しているのだから。これまで通った中で最も狭い圏であったが、なかなか時間のかかる旅となった。しかし、そこは女性である。レヴィアタンとサタンの二人は、「現世ではこれが流行っている」「悪魔界での流行はこうだ」、「ファッションが――」「メイクは――」などと雑談を交わし、道中の時間つぶしをしていた。


 どのくらい歩いただろうか。

 道の先に一つの塔が姿を現す。四人が近づいていくと、その頂きに赤々と燃える炎が四つ灯される。すると、それに応じるように、沼の向こうでも一つの炎が灯されるのが見えた。ぎりぎり肉眼で識別できようかというほどの遠くで、ちらちらと明かりを放っていた。

 レヴィアタンたちが塔に着くと、間もなくして一艘の小舟が沼を渡ってくる。炎の合図を受けた沼向こうの、第五圏中央部に向かうための迎えだった。その進みは、氷の上を滑っているようで、一瞬にして四人の元へ到着する。あまりの速さに、弓から放たれた矢の方が遅く感じるほどだった。

 小舟に乗っていたのは、船頭が一人だけ。豪快な櫂捌きで水面を飛ぶように走っていたかと思いきや、岸が近づくと一転、巧みで滑らかな動きを見せ、静かに舟を着岸させる。そこは見事に、レヴィアタンたちの真正面だった。

 熟練の技に四人が感嘆していると、突然、罵声が飛んで来た。

「性悪の悪人たちめ! お前らの運命は、我が手の内よ!」

 それを聞いたサタンは眉をひそめ、船頭の方を見る。そして、溜息を一つすると、自分の顔を指差して言った。

「プレギュアス。私よ、私」

 指差す先を見た船頭は、顔を青くする。

「こ、これはサタン様。大変、失礼を致しました」

「その、誰彼確認せずに罵るのは辞めなさいと言ってるでしょ。今日はレヴィアタンたちも一緒だから、これぐらいにしておくけど……」

 プレギュアスと呼ばれた船頭は平身低頭して謝ると、先程までの態度を一変させる。今度は舟をしっかりと岸に付け足で支えると、手を差し出して皆を迎え入れた。四人が乗り込むと、舟は初めてかしぐと同時に、それまでどんな動きをしても波が立たなかった水面を揺らしていた。


 一行を乗せた小舟は、黒い沼へと漕ぎ出していく。こちらに向かってきた時と比べ、あまり速度は出ていない。これは、プレギュアスが意図的に速度を落としていたからだった。

 四人も生者を乗せた舟は、久し振りに重さというものを感じ、通常よりも深く沈んでいる。その分、水の抵抗を受け、小さな舟は揺れてしまう。少しでも快適な船旅にしようというプレギュアスの思いだった。

 波を裂き、しぶきを上げながら進んでいく小舟。

 小さな揺れの中、レヴィアタンは休憩を取っていた。船体に板を渡しただけの簡素な座席に腰掛け、足をぶらぶらさせている。ここまで歩き通しだったため、悪魔といえど疲れていたのだ。サタンもレヴィアタンの横に座っている。しかし、そんな彼女たちとは反対に、ベヘモスとジズは舟の周りに気を配っている。何かを警戒しているようだった。

 出発からしばらくが経ち、沼の半分を過ぎたが、何事もなく舟は進んでいる。周りの景色はというと、相変わらずの黒い沼が広がるばかりであったが、舟の向かう先は空が赤らみ始めていた。

 その光景を舳先で眺めていたベヘモスは、船旅の終わりが近いことを感じていた。どんどんと赤く染まっていく空に、懐かしさが込み上げてくる。

 その時だった。

 突然、ベヘモスの眼前に全身泥だらけの男が現れる。

「なぜ、生きる者がここにいる」

 そう言うと、男はベヘモスに向かって両手を伸ばした。黒く泥にまみれた手が、小さな身体を掴もうとする。

 ベヘモスは、油断していた。目的地まであと少し、そう気が緩んだことで反応が遅れる。

 しかし、男の手はベヘモスの鼻先をかすめ、空を切る。間一髪、近くにいたサタンが男に気付き、ベヘモスを掴んで後ろへ放り投げたおかげだった。

「やっぱり来たわね」

 サタンは素早く立ち上がると、舟に乗り込もうとしていた男を蹴り飛ばす。レヴィアタンとジズも即座に反応し、周りを警戒した。

 その男を皮切りに、次々と沼の中から人型が姿を現す。皆、泥に汚れた罪人たちだ。その姿に個人など無く、泥まみれの体はかろうじて男女の判別ができる程度だった。

「毎回、毎回。この人たちは、懲りないよね。あたしたちの事、分かってないのかね」

 船べりに手を掛けようとした一人の罪人を蹴り飛ばし、レヴィアタンが言った。

「私たちが誰かなんて、関係ないんだよ。ただ、怒りを向ける先が欲しいだけ。仮に、私たちが天使だったとしても、同じようになるでしょうね」

 サタンも、二人、三人と沼に沈め返していく。

 瞬く間に、舟の周りは憤怒者たちで埋め尽くされた。ある者は舟に乗り込もうと、ある者は舟を破壊しようと、ある者は生者を引きずり落とそうと、引っ切り無しに襲い来る。まるで、泥の津波が押し寄せてくるようだった。


 そんな中、プレギュアスは舟の進みを止めまいと必死に櫂を漕いでいた。止まれば、今以上の憤怒者たちに襲われ、逃げることは困難になる。こうなっては、乗り心地など気にしてはいられない。速度を上げ、一気に渡り切ってしまおうという考えだった。

 その彼すらも、憤怒者たちは攻撃の対象としていた。見慣れた存在であるにもかかわらずだ。もう生者だろうが、何だろうが関係ない。自分たちとは違うもの、すべてが怒りの対象になってしまっていた。

 泥に汚れた無数の手が、プレギュアスを追う。彼は、それに気付いているのか、いないのか。ただ前を向き、一心不乱に櫂を漕ぎ続ける。その姿を罪人たちは追い続けるが、何度も何度もその手は空を切った。しかし、諦めることはない。いや、そもそも諦めなどありはしない。その心は、怒りで満ち満ちているのだから。そして、遂に一人が追い付き、その汚れた指先がプレギュアスに触れようとした、その時だった。突如、風が巻き起こり、近くにいた罪人たちは一人残らず吹き飛ばされる。彼は、一陣の風に守られていた。

 風の主は、ジズだった。舟の縁に仁王立ちをし、罪人たちに鋭い視線を向けている。久方ぶりの戦場いくさばに、気分が高揚しているのか目をギラつかせていた。

 罪人たちの怒りは、即座に目の前の小さな鳥に移った。吹き飛ばされた者のことを思ってのことではない。ただ、より近い位置にいる。それだけだった。惨めに飛ばされた者のことなど、誰も気にしない。他人のことなど、どうでもいい。誰が何人飛ばされようと、自分の怒りのはけ口があればそれでいい。彼らに残っているものは、ただそれだけだった。

 ジズは、憤怒者の群れ目掛け、力強く翼を振るう。一振りで作り出された風の奔流は、近づく罪人たちを次々と呑み込んでいった。空高く舞い上げ、遥か遠くへ吹き飛ばし、泥の中へ叩き落とす。幾度も振るわれた翼は、激流の風を起こし、泥の体を一人も舟に近づけはしなかった。


 皆が休みなく戦っている中、ベヘモスは右往左往するばかりだった。この狭い舟の上、自分の身体では戦いようがないからだ。しかし、居ても立ってもいられず、レヴィアタンに駆け寄り叫んだ。

「べもべもっ!」

「なに。自分も戦いたいって!?」

「べも!」

 会話中も休まず、罪人を倒していくレヴィアタン。

「ダメだよ。今は、体当たりくらいしかできないでしょ。突っ込んだら、そのまま沼に落ちちゃうじゃん」

「べもぅ……」

 それでも、何か役に立ちたい。ベヘモスの顔は、そう語っていた。

 すぐ横でそのやり取りを聞いていたサタンは、ベヘモスに叫んだ。

「ベヘモス! あなたも、皆と一緒に戦いたいのね!?」

「べも!? べもべもっ!」

「汚れても平気?」

「べも!」

「かなり辛いかもだけど、OK?」

「べもっ!」

「どんな事でも耐えられるかっ!」

「べもーっ!」

「好し! レヴィアタン、ちょっとお願いね」

 その場をレヴィアタンに任せ、サタンはベヘモスを連れて後ろへと下がる。自分の後方で、なにやらごそごそとやっているのを感じながら、レヴィアタンは右へ左へと大忙しだった。

 しばらくして戻ってきたサタンは、レヴィアタンに手を出すように言った。

「さあ。これを使いなさい」

 渡されたのは、紐がくくりつけられたベヘモスだった。

「え? なにこれ」

「ベヘモスハンマーよ!」

 自信満々に胸を張るサタン。

(どっちかといえば、鞭とかフレイルじゃない?)

 そう思いながらレヴィアタンが視線を落とすと、ベヘモスもドヤ顔を向けている。「俺を使え」という声が漏れ聞こえそうなほどだ。若干表情をひきつらせながらも、レヴィアタンは上へと視線を戻す。すると、サタンが人差し指を立てて得意げに説明を始めた。

「説明しよう。ベヘモスハンマーとは、ベヘモスの屈強な肉体を武器に転用した、サタン渾身の作品である。ベヘモスの身体に装着されるハーネスは、紐との接続部が可動式になっており、水平を維持し易くなっている。さらに、ハーネスから伸びる紐はゴムの様な弾性を持ち、ぶん投げても素早い連撃が可能だ。振り回して良し、投げても良し。好きに使い給え」

「どこに、こんな物を持ってたの」

「ふふ。こんなこともあろうかと、隠し持っていたのよ」

 別段、隠す必要などないのだが、サタンは得意げだった。

 先程までは感じることはなかったが、明らかに100年前とはサタンの雰囲気が変わっている。レヴィアタンは、一つの疑問をサタンに投げかけた。

「ねえ、サタン。最近、ベルフェゴールと遊んでる?」

「ええ。よく分かったわね」

(ああ、やっぱり)

 レヴィアタンは、心の中で呟いた。

 ベルフェゴールは、昔から東洋文化、特に日本の文化に興味があり、よく出かけていた。それが、近年は漫画やアニメなどのいわゆるオタク文化というものにハマっていることを、現世にいた頃に聞かされていたのだ。その影響を受けたのでは、と予想したのが見事に当たっていた。

 レヴィアタンが使うべきかどうしようか迷っていると、紐の端をその手に縛り付けられる。サタンだった。ベヘモスを両手で抱え上げると、レヴィアタンの顔の前に差し出してくる。サタンとベヘモス、両者の熱い視線は「さあ、早く使え」と訴えていた。

 仕方なく、レヴィアタンはボールを持つようにベヘモスを持つと、ちょうど近づいてきた罪人に向かって投げつける。一直線にその罪人へと向かい、見事に命中するベヘモス。一瞬、空中で停止すると、ゴムに引っ張られる水風船のように瞬時にレヴィアタンの手に戻ってきた。それを二度、三度と繰り返す内に、レヴィアタンも楽しくなってくる。標的に命中した時の興奮、リズムよく手に戻ってくる小気味よさが彼女の気持ちを盛り上げ、何度も何度もぶん投げさせた。ベヘモスの方も、最初はぶつかった時に感じていた痛みがだんだんと快感に変わり、投げられる度に気持ちが高ぶっていった。

「あはははははっ!」「べもももももっ!」

 狂ったように、投げ戻り、投げ戻りを繰り返す二人。仕舞いには、拳を天に突き上げぶん回し始める。一人二人と罪人を弾き飛ばしたかと思ったら、瞬く間に回転速度を上げ、五人六人、九人十人と次々に罪人たちを舟の周りから消していった。

「アハハハハハハハハハハッ!」「ベモモモモモモモモモモッ!」

 笑いながら仲間をぶん回す少女と、ぶん回されながら笑い続ける豚のような生き物。

 二つの狂気を前に、憤怒者たちは躊躇った。一瞬、怒りを忘れたのだ。だが、その一瞬ですべてが変わる。泥にまみれた魂に恐怖が生まれたのだ。長らく忘れていた恐怖が。恐れは一気に成長して怒りを呑み込むと、憤怒者たちの心を縛り上げた。

 己の罪たる憤怒を失った罪人たちは、臆病に舟を遠巻きにすることしかできない。恨めしい目だけを向けていた。


 仕事を終えたサタンとジズは、舟の中で座りながら頭上を廻るベヘモスを眺めていた。

 すると、視線の先に灼熱に色づく幾つもの尖塔が見えてくる。ようやく船旅が終わる。目的地、第五圏の中央部にたどり着こうとしていた。

 その頃には、憤怒者たちの姿もすっかり消え、舟の周りは静かなものだった。そこでようやく、レヴィアタンとベヘモスは落ち着きを取り戻し、攻撃行動を止めた。

 目的地を見ると、城壁のように頑丈そうな高い壁がそびえ、その周りを幾重にも深い堀が取り巻いている。すぐ近くには接岸できる場所は無く、随分と巡ることになった。

 ようやく、接岸できる場所に着くと、プレギュアスが言った。

「お待たせしました。ここから、お上がり下さい」

 プレギュアスの案内に礼を言い、四人は舟を降りた。


 レヴィアタンたちが上陸した場所の近くには、橋があった。堀の数だけ架かる橋を渡っていくと、徐々に視界が城壁で埋め尽くされていく。それはこの先にあるものを隠すように高く、横に長い。右を見ても左を見ても、壁の終わりは見えなかった。

 四人が立っているのは城門の前、城壁に開いた唯一の入り口である。鉄のように黒く鈍い光沢を放つ扉は、巨大にして簡素、何の装飾も施されていない。地獄の入り口で見た門に比べれば、何とも味気ないが、それ故に感じる威圧感というものがある。自由な往来を妨げることのみを役目とする扉にとっては、その能力だけで充分ということであろう。

 城壁の上では、千にも上ろうかという数の悪魔たちが見張りをしていた。皆、思い思いの声を上げ、レヴィアタンたちを歓迎する。すると、その声が合図になったかのように、巨大な金属の扉は重い軋み音をあげ動き始めた。ゆっくりと、左右に開いていく門扉。徐々に生じる隙間からは、赤々とした光と肌を焼くほどの熱気が漏れ出てくる。門の向こうに見えたのは、赤い景色だった。

 レヴィアタンたちは、強烈な熱気が吹き付ける中、門をくぐり先へと進む。

 待っていたのは、悪魔たちが支配する都市。その都市の名を『ディーテ』といった。


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