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第三圏

 レヴィアタン、ベヘモスとジズは、アスモデウスに別れを告げ、ベルゼブブと共に暴食の第三圏へと降りていく。空を見上げると、天井である第二圏の方が、第三圏よりも広がっていた。

 そこは、雨が降っていた。氷のように冷たい黒く濁った雨。それに混じって、大粒の雹と雪も濁った色で降っている。大地を黒く染め上げようとするそれらは、止むことも強くなることもなく、常に一定の量が降り続ける。黒い水を吸った大地は、ぐしゃぐしゃの泥となり、酷い腐臭を放っていた。

 罪人たちは、その腐臭の大地に裸で寝そべり、その身を雨にさらしている。冷たく重い雨を何とか避けようと体を細くするのだが、容赦なく降り注ぐ痛みは、彼らを犬のように吠え喚かせていた。それでも、少しでも苦痛を和らげようと足掻く彼らは、一方の脇腹を上へ向けたと思ったら、すぐにもう片方の脇腹と入れ替える。上へ下へと忙しくのたうち回る体は、泥まみれになっていた。

 また、ここには獰猛な怪物『ケルベロス』がいた。巨大な体に、人の胴体ほどもある太い足。爪は鋭く、目は真っ赤に血走っている。しかし、特筆すべきはそれではない。最も特徴的なものは、普通の生物には一つしかない頭部が三つあることだ。獰猛な口を開け、涎を垂らす猟犬の頭が三つも付いていた。

 ケルベロスは泥の中を歩き回り、暴食者たちをその鋭い爪で引っ掻いていく。皮を剥ぎ、千々に引き裂いている様子は、布きれを引き裂いて遊ぶ犬のようであった。


 そんな光景が広がる第三圏に降りる前。ベルゼブブは、レヴィアタンたち三人に雨具を渡していた。雨合羽に雨靴、さらに雨傘まで、準備万端である。ジズは翼で器用に傘を持つことができたが、ベヘモスには難しくその身体にベルトのような物で括り付けられていた。当のベルゼブブは、雨傘のみを差していた。

「現世の雨は嫌いじゃないけど、ここのは嫌いだな」

「そうですね。ここの雨は、特別に重くて冷たいですからね」

 傘を叩く雨の音にレヴィアタンが呟くと、ジズが同意する。その横では、ベヘモスも気落ちした様子で頭を下げていた。

 四人は、罪人たちの上に足を乗せながら進んだ。横たわる者の多さに、大地に足が届かなかったからだった。あまり気持ちの良くない感触を足裏に感じながら歩いていると、一頭のケルベロスが行く手を遮った。低く汚い唸り声を上げ、今にも飛び掛かってきそうだった。

 レヴィアタンは、すばやくベルゼブブの後ろに隠れる。自分も人間に恐れられる魔獣ではあるが、さすがに今の状態で自分よりも数倍大きい怪物に凄まれると、怖くはないとは言えなかった。

「ちょっと、躾が成ってないんじゃないの」

「いや、ボクに言われても。ボクはただの案内人で、管理人ではないからなぁ」

 頭をかきながら前に進み出ると、ベルゼブブは両手一杯の泥をすくい取る。そして、唸りを上げる怪物の口に、放り込んだ。一つ、二つ、三つと続けると、ケルベロスは口に物が入ったことを喜び、咀嚼を始める。がふがふと、一心不乱に口を動かし続けるケルベロスを横に、四人は静かにすり抜けていった。

「そういえば、ここの人たちって暴食の罪だっけ」

「そう。七つの大罪でボクが担当している罪だよ」

「暴食の罪に対する罰が、なんで雨とか雹に打たれることなんだろう」

「さあねぇ。ダンテの想像だし、何か意味があったのかもしれないけど」

「この罰を受けたからって、生まれ変わった時に暴食をしなくなると思う?」

「レヴィアタン。それは、違うよ」

「何が?」

「キリスト教は生まれ変わりではなくて、『復活』。間違えたら怒られるよ」

「違ったっけ?」

「大違いだよ。生まれ変わり、輪廻転生とかは、生前とは別の存在として新たに生まれること。対して、復活は生前と同じ存在、人格として生き返ること。AがBとなるのが生まれ変わりで、AがAのままなのが復活」

 話しながらも、レヴィアタンたちは歩みを止めなかった。この雨の中を早く抜けたかったからだ。横たわる罪人を踏みながら、ベルゼブブの話は続く。

「キリスト教では、最後の審判の前に人間は復活をして、裁定を受けることになっているから。仮に、生まれ変わったりしたら、二度の人生を負うことになるでしょ。そうしたら、どう裁かれるのか。どちらか一方の人生で裁かれるのか。それとも、二回の人生を合わせて裁かれるのか。それに、一度、原罪を持って生まれて、洗礼を受けて解放されたのに。生まれ変わってしまったら、また原罪を持って生まれることになるのか。それとも、原罪が許された状態で生まれてくるのか。いろいろと難しくなるでしょ。だから、生まれ変わりはしない方向で考えるんだよ」

「そうなんだ」

「たぶんね」

「たぶんなの!?」

 思わず声を張り上げ、レヴィアタンは顔を上げた。しかし、ベルゼブブはお構いなしに歩き続ける。

「まあ、あれだよ。キリスト教徒にとっては、復活が大切だということ。イエスの復活があって、その後の救いがあるからね」

「じゃあ、キリスト教圏で土葬が多いのも、復活が関係してるの?」

「そうそう。肉体を伴った復活をするとされているからね。間違っても火葬はしてはいけないよ」

「ふ~ん。気を付けるよ」

「うんうん。気を付けて」

 その後も、雨音の中を歩き続けて、ようやく下へと降りる場所へと辿り着く。

 第四圏へと降りて行く途中の道に、一頭の獣が横たわっていた。狼に似た獣は、レヴィアタンたち四人が近づくと、のそりと巨体を起こし口を開く。

「パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ!」

 獣はしわがれた声で、何だかよく分からない言葉を話し始める。

「そこ、通してくれないかな。プルートー」

 レヴィアタンが問いかけるも、プルートーと呼ばれた獣は変わらず道を塞ぎ、牙をむく。その顔には、敵意が感じられた。

「ほら。躾が成ってないから」

「だから、ボクじゃないって」

「でも、こういうのは案内人の役目でしょうが」

「ええ~っ!?」

 レヴィアタンから言われ、仕方ないといった雰囲気でベルゼブブが進み出ようとすると、その前をベヘモスが遮った。

「おお! ベヘモス。やってくれるの?」

 ベルゼブブが感嘆の声を上げると、後ろからレヴィアタンの言葉が届く。

「ベルゼブブがやる気ないから、ベヘモスが何とかしてくれるって。ほら、お願いして」

「お、お願いします」

「べもっ!」

 ベルゼブブからお願いされると、ベヘモスは任せろとばかりに返事をして合羽を脱ぎ捨てた。のっしのっしと力強い足取りで前に出て行き、プルートーと対峙する。その大きさの違いは顕著であった。プルートーの体は大きく、口から剥き出している牙だけで、ベヘモスの頭ほどもある。普通に考えて、ベヘモスが勝てるわけはない。しかし、レヴィアタンもジズも、何ら心配はしていない様子だった。

 ベヘモスは、短い四つ脚で踏ん張ると、眼光鋭く相手を睨みつける。小さいながらも、その背中からは頼もしさしか感じられない。

「がんばれー」「負けるなー」「格の違いを見せてやれー!」

 その背中に向けて、声援が飛ばされる。

 対して、プルートーはというと、完全にベヘモスを舐めきった様子で鼻息を荒くしている。その態度を見たベヘモスが、自分を舐めない方がいいと、忠告をするそぶりを見せたが、プルートーはそれも鼻で笑い、掛かって来いよと顎をしゃくった。

 ならばと、ベヘモスは踏ん張っていた脚に力を入れ、少し腰を落とす。飛び掛かって頭突きをするつもりだった。その小さな体、短い脚では、頭突きか噛み付きくらいしか攻撃手段はない。

 それを悟ったプルートーも脚を踏ん張り、腰を落とす。頭突きで迎え撃つ構えだ。

 両者共に、力を溜めこんでいく。引き絞られた筋肉は、今か今かと解放される時を待っていた。そして、筋肉がこれ以上は限界だと悲鳴を上げる寸前に、ベヘモスが頭を下げた。

 その瞬間、プルートーが動く。一足先に、唸る筋肉を開放して土を蹴り上げると、一直線にベヘモスへと向かう。猪突猛進と呼ぶに相応しい姿だ。

 それを見たベヘモスも地面を蹴った。全身をバネの様にしならせて溜めた力と、限界まで緊張していた脚力とを一気に解放し、相手の頭を目掛けて突き飛んでいく。まるで、拳銃から発射された弾丸のようだった。

 ドゴァ!

 凄まじい音を立てて両者が激突する。鈍く重い音は空気を震わせ、衝撃が周囲を襲った。二つの獣を中心に発生した衝撃波は、観戦していたレヴィアタンたちにも襲い掛かり、三人共に身体を持っていかれそうになる。それほどの激しさにもかかわらず、ベヘモスとプルートーは共に健在で大地に四肢を突き立てていた。

 数秒後。

 ドォッという音を立てて、プルートーが崩れ落ちる。一切揺らぐことなく立ち続けるベヘモスの勝ちだった。微塵のダメージも感じさせない動きでレヴィアタンたちの方を振り向いたその顔は、いい表情をしていた。

 レヴィアタンとジズは親指を立ててグッドサインを、ベルゼブブは拍手を送って一仕事終えた男を迎えた。

 ベヘモスをねぎらいながら、障害の消えた道を降りていく四人。

 下に見えるのは、地獄の第四圏である。ここもやはり、上と同じく、天井となる第三圏よりもいくらか狭くなっていた。


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