サン
第三章
第一節
日は、だんだんと高くなっていた。
町の大通り、線路沿いに出てみると、飲み会帰りのサラリーマンや部活にでも行くのだろう学生、朝早くからジョギングなどをしている老人たちがまばらではあるが、所々に窺えるようになっていた。
街の目覚め。
息を吹き返すようにして、空気すらも澄んだように純度を増した気がした。
最も、これが昼間のような時間帯になれば、雑な、暑さの目立つ空気へと塗り変わっていくのだろうが。
とかく、空気の純度は人の密度と反比例している気がする。夜は神秘に、朝は新鮮で、昼にヨゴレ、夜にまた浄化されていく。
街も同じだ。
人が少なければその街を、まるで支配でもしているような全能感にも襲われる。それはまた、孤独による恐怖と紙一重でもあるのだが。
そういう意味では、この時間帯はとても過ごしやすい。人もまばらで、それほど暑くもなく、また孤独でもない。 とても・・・・・・何というか、刺激的な感じがすると思う。 子供っぽいと言われればそれまでなのだが、しかしなれぬうちは、手っ取り早い非日常として誰もが楽しんだことがあるのではないだろうか。
そしてそれは、俺が死んだ後でも同じ事だった。
自らの時が止まったからといって、感性までが停止するわけでもないらしい。
朝は好きだ。
酷い眠気に襲われているときには、恨めしいばかりだったとも思うのだけれど。
そんな中、やはりというか何というか、自分の予想が一つ当たっていたことがあるらしい。
通行人の前に立ってはみても、誰も俺の姿には気づかない。素通りしていく。
そう、文字通りに。
俺の存在に気づかず、俺の存在を認識できず、体ごとすり抜けていくのだ。
まるで、そこには空気しかありはしないと言うかのように。
少し、透明人間にでもなった気分。
最初のうちは楽しかったのだが、何人か試していくうちに、何かとてつもない恐怖に襲われるようになった。
誰も俺のことに気づかない。
誰も俺のことを認識できない。
つまりそれは、俺はこの世界に存在していないと言うことではないのか。
それは―――酷くつらい。
いつか、漫画の中で聞いたような話だ。人は、他社に存在を認識されることで初めてそこにあることが出来る。認識できないのは―――死んでいるのと同じだと。
なるほど、今なら納得できる話だ。
認識されない俺は死んでいる。
死んでいる俺は認識されない。
まるで、言葉遊びのようだ。
酷く現実感がない。
最も、それをいうなら俺こそ現実的ではないのだろうが。
そんなことを思いつつ―――実際だからと言ってどうすることも出来ず、今はただ、目的地へと向けて歩を進めていく。
しかし、常に考えることは一つ。
初志貫徹というか何というか。
俺は一体、このたびをどう締めくくろうとしているのだろうか。
そんな疑問が、問答が、頭の中をただひたすらに駆け巡る。
第二節
昼を回ったときには、だいぶ目的地に近付いてきた事を自覚した。
そこいらにある、ファミリーレストランやコンビニチェーン。そういった、普段は街の一部を示す記号として認識しているものが、今の俺には目的地への道標として機能していた。
そんな折、ふと目に入った路地裏に俺は一人の少年を見かけた。もちろん、ただの・・・・・・ではない。
いや、別にこれといった異常があるわけでもない。
その姿形は至って普通だ。奇形というわけではない。
そういう意味では、至って普通のちょうど中学二年生ぐらいの少年なのだが。
ただ一つ、その少年は死んでいた。
要するに、俺と同じ死者だと言うことだった。
その少年は、何をするでもなくただぼうと空を見上げている。
昼時の空。
季節の問題も相まって、死んだその瞬間の時を思い出しそうなほどに、太陽がきつく照りつけている。
死者は、それほどに暑さを感じない。
しかし、かといって無感というわけでもない。
何となく蒸し暑く、汗がにじむくらいにはなる。
かといって、体に疲れが出るなんてことがないのが不思議なところで――――――。
話がずれた気がする。
要するに、たとえ幽霊であってもこの灼熱地獄の中でじっとしているのは辛いだろうと言うことだ。
それに、この現世に残っていると言うことは、俺と同じく未練を残した存在であるはずなのに、何をするでもなく、ただ路地裏に座り込んでいる。
その様子が何となく、酷く気になった。
本当に、何となくではあるのだが。
第三節
「なぁ、こんなとこで何してんの」
そう俺が、その少年に素っ気なくも声を掛けたとき、少年は、酷く驚いた様子を見せた。
俺の他には、声を掛けてくる人などいなかったのだろうか――なんて、そこまで考えたところで自分の間抜けさに気づく。
声を掛けられないのは当たり前か、死んでいるのだから。死者は、生者には見えず、触れられない。
最も、他に俺のような存在がいたのなら話は別だが。そんなことは、別になかったらしい。
まあ確かに、そこら中に死者が溢れかえっている様子など、想像したくもないことだが。
「・・・・・・ねぇ、あなたも死んでいるの」
そんなことをつぶやいた少年は、酷く眠たげな口調だった。
不快になるような感覚ではなく、こちらまで眠気が伝染するような、まるで日向ぼっこをする猫と会話するような感覚。
「ああ、そうだね。聞くまでもないけど、君もそうなんだろう?」
「・・・・・・うん、そうだよ。僕も死者だ。死んでいる。死因は交通事故だ」
少年は、ただ淡々としていた。
俺よりも若いのに(とは言ってもほんの二、三歳の差だが)、自分の状況に対する戸惑いも感じられない。
割り切った風になりたいわけでもないけれど、これはこれで負けたような気もするのが、人間心の難しいところだ。
「それで。―――もう一度聞くけど、君は、こんなところで何をしているんだい?」
その口調は、先ほどよりかは柔らかくなっていたと思う。
別段、意識したつもりもないが。
「・・・・・・別に、特に何も」
「何もって・・・・・・。君も死者だろう?何か未練を残したから現世に留まっているんじゃないのか?期限は、そんなにないと聞いているけど」
それに、例外事項はないはずだ。
ただ茫洋と時間を消費できるような余裕は、俺達にはないはず。
「・・・・・・もう、無いよ」
相変わらず、眠たげで感情の気迫が薄い声。
少年は、ただのんびりと夏の空を見上げる。
「それは、どういう」
「・・・・・・どうって、そのままの意味。僕にはもう未練も無いし、この世に思い残すようなことは何もない。だから、ただこうやって空を眺めているんじゃないか」
貴方は違うの?と、その目は語っていた。
思えば、至極当たり前の話ではあったのか。
誰しもが、こうやって俺のようにいつまでもふらついているわけではないのだろう。
この少年は、自らの内に残る無念を晴らした。
その思いが、どんなモノだったのかは分からないが。「・・・・・・ねぇ、お兄さん。聞いてくれるかな」
少年が、コンクリートの壁に預けていた背を起こしこちらに語りかけてくる。
大切な、話であるような気がした。
その一切合切を、一言たりとも聞き漏らしてはならないような。
「・・・・・・僕の話。僕はもうすぐ消えるから、誰とも触れられないようなら、黙っていなくなるのも悪くないって思ってたけど。・・・・・・だけど、お兄さんが僕の話を聞いてくれるなら、それはとても嬉しい」
「聞くよ」
ただ、そう断言した。
共に死者である者として。
ただ、誰にも触れられぬと、そう納得してきた俺達がこうして出会ったことを上げるなら。それは、奇跡と言っても差し支えはないだろう。
ならば、その出会いを喜ばぬ理由は、今の俺には存在しなかった。
「いや―――違うな。是非とも聞かせてもらえないか、だ。君の話は、たぶん俺にとっても、とても貴重な者だろうから」
そう言うと、少年はこくりと首を傾け、そうして語り始めた。
彼の―――人生(物語)を。
第四節
僕こと中野昇平には、本当の両親という者が存在しない。どうやら僕が本当に幼い頃、交通事故に遭って亡くなったらしい。
別に、そのことは大したことではなかったのだ。
両親が亡くなったとは言っても、僕がまだ物心つく前の話。たしか、ほんの一歳とかそこらではなかっただろうか。
だから、僕のこの十六年間の人生の中で不幸ぶったつもりなど一回もない。
僕は五体満足で、お金に困っているわけでもなく、友人関係も良好だ。
だから、僕のことを可哀想だと同情の念を向けて来る人たちのことが、とても煩わしかったことを覚えている。
その反発だとでも言うのだろうか。
とにかく、周囲の人たちに弱みを見せることを、僕はことさらに拒絶した。
扱いにくい子供だったろうと思う。
それは、僕のことを笑って引き取ってくれたおばさん夫婦にも、非常に申し訳ないことだと後悔した。
詰まるところ、最も亡くなった両親のことを気にしていたのは僕だったのだ。
だからあの時。
珍しく―良い子ぶるのだけは得意だった僕が―おばさんと喧嘩して。
そして、その時はなった一言が僕の胸に、死んだ瞬間すらも突き刺さっていた。
『貴方たちは!僕が本当の息子じゃないって分かってるから、そんな事が言えるんだ!』
なんて、愚か。
良い子ぶるなんて上辺だけ。
いや――上辺すらも、本当は繕うことなんて出来はしていなかったのだ。
そして、何より僕が間抜けだったのは。
その日の午後、学校帰りの下校途中。本当は申し訳ないと思っていたこの気持ちすらも、伝えることが出来ずに、死んでしまったことだった。
だから多分、それがその時の僕の未練。
陳腐で、情けない―――。
こんな、一日なんて猶予を受け取ることすら申し訳なくなるほどの恥だった。
*
死から目覚めて、僕がどういった存在なのかを理解したときに、最も強く感じたのは、猛烈なまでの恥ずかしさだった。
背中に冷や汗が流れて、もう一度死んでみたくもなるほどの。
だからといって、本当に死んで言い訳もなく、この一日をどう過ごすべきなのか。
それをまず考えた。
おばさん達には会いたくはなかった。
というより、合わす顔がなかった。
後に、死者は生者の目には映らないと知ったときには、もう一度恥ずかしさで転げ回りたくなったものだが、まぁとにかく。僕はそれこそ恥知らずにも、賢しげに心の中で僕がどうせ会ったて――なんて、わりかし本気で考えていたものだ。
どうせ、死んだ命。
これからもう一度消えたって、なんのそんがあるだろうかと。
でも、このままなにもせずに過ごしていれば、僕は恐怖に狂ってしまうのではないかと、そのぐらいの理性は僕にもあった。
故に、何をしようかと。
どうやって暇をつぶせば良いのだろうかと考えていた。
そうして、考えれば考えるほどに、その迷路に出口はない。
少年老い易く学成り難し―――などというが、なるほど、一日という限定された期間は何をするにも中途半端だ。
単に、ゲームをして過ごせば良いというものでもないことは、流石に僕でも分かっていたから。
だから、ここいらでやっと決心がついた。
どうせ、こうなるしかなかったのだと、そんな自暴自棄な感じではあったけれども。そのために用意された時間ならば、その通りに過ごすのが良いだろう。
考えれば、一日という時間は、未練を晴らすには丁度良い。
どんな顔をして会えば良いのか分からないけれど。
とにかく、会うだけ会ってみようと、そう思った。
・・・・・・案外、おばさん達はあっさりと見つかった。
病院の待合室。
そこで―――泣いていた。
そう、泣いていたのだ。
その声は、ごめんねと、そう慟哭するばかり。
そこでようやく、僕は僕のしてしまったことを完全に理解した。
置いていってしまったのだ。
僕ばかりが、勝手に納得して。
おいて行かれたこの人達は、僕の死を胸に納めることも出来ず、傷だらけになって生きていく。
そうさせてしまったのは、紛れもなく僕だ。
その罪深さを自覚して――――――。
だからこそ、伝えたくなった。
謝ることなんて無いのだと。
感謝していると、心の奥では僕は何よりも愛されているのを自覚していて。
もしすれ違ったときがあったとしても、それは時間が簡単に解決してくれるような、そんなつまらないモノだった。
「ごめんなさい、ありがとう」
二人の背に縋るその手も、触れられることはない。
0メートルの距離が、何よりも遠く僕らを隔てている。 これが、限界。
ねぇ、こんな事になるのなら僕らはなぜ生きようとしていたのだろう。いずれくる終わりは、一瞬にして僕らのすべてを奪っていく。
富、名声、絆だとか、愛だとか。
積み上げても、積み上げても。
それは、誰かの手で崩される。
結局、僕らはただ来る終わりに怯えて生きていくしかないのだろう。ああ、そしてそう、終わってしまって壊されたのなら、それはもう二度とは元に戻らない。
例え、天国のようなものがあったとして。それが死者への救いになるのだとしても。生きている者たちは、残されていく者たちは、何も救われないではないか。
永遠なんてなくて、僕らは救われることなどない。
それが限界。
だけど。ああ、だけど。
今、この瞬間だけどでもこの思いを伝えられたら。 それだけで・・・・・・永遠なんてものよりも、よっぽど僕らは救われる気がするのだ。
「ごめん、本当にごめん」
縋る手に、力を込める。
すり抜ける手に、しかし本当は感じるはずの温もりを確かめるようにして。
せめて、今だけは・・・・・・この温もりが、伝わるようにと。 ふと、おじさんがおばさんに声を掛ける。
「なあ、美代子。昇平は俺たちと一緒の墓で眠ろうな」 唐突な一言。
その言葉に、弾けるようにして顔を上げるのは俺とおばさんの二人だ。
「美代子、俺たちは家族だ。だから、どんな奴が俺たちの関係を切り裂こうたって、そんなことは出来やしない」 ゆっくりと、しかし滔々とおじさんは語る。
その顔は非常に穏やかだった。
悲しみを、知るからこそ。だからこそ明日へとむかうことの出来る意思だった。
「俺たちには、16年間も築き上げてきた絆があるんだ。それは、誰がどうなろうとなくなりはしないよ。今は悲しくたっていいんだ。だけど、それで自分を傷つけちゃいけない。それじゃあ、いつの日か笑って思い出してやることが出来なくなっちまう」
ああ、そうだよ。
笑ってほしいんだ。忘れてほしくもないけれど、『僕』に人生の捧げてなんてほしくない。
そんな重さに耐えきれるほど、僕の両肩は丈夫に出来てやしない。
いつの日か、ふとしたときに思い出してくれるならば、それほど嬉しいことはない。
「・・・・・・ええ、そうよね」
おばさんは、だいぶん無理をした様子だったけれど。それでも、ぎこちなくも笑ってくれた。
救われた、気がした。
僕たちは、互いがどれだけ遠くに行ったとしても繋がってられるのだと、そう信じていられるような気がした。「いつの日か、笑ってあげなくちゃ。あの子と過ごした十六年間は、私のこれからの人生全部つかったって語り尽きりゃしないのよ」
例え、その終わり日が突然訪れたのだとしても。
例え、どんなに理不尽なものだったのだとしても。
こうして、三人で泣けるのなら。
少しずつでも笑えるのなら。
ああ、それは終わりとは言わない。
だって、僕たちの思い出はその程度の事で揺らぐほど、軽いものなんかじゃないのだから。
「良かった。これで、消えるのにも不安はない」
僕は、何という幸せ者なんだろう。
こんな家族に囲まれて。
こんな最後を、その続きを夢見ることが出来て。
――――――自然と、笑みが漏れた。
今なら、何よりも素直にこう言える。
「今まで、ありがとう。大好きだ――――お父さん、お母さん」
今まで、変なプライドが邪魔して言えなかったけれど。 ずっと、そう思っていたよ。
――――――日差しが漏れる。
夜は、もう明けていた。
頬を伝わる涙は乾き、僕らは皆で笑みをこぼす。
これが、僕たちの家族の形。
繋がり続ける絆を描いた物語。
陳腐で、どこにでもあって。
それ故に、とても大切な物語。