カルテット
その日は、空が青くてどこまでも果てがないように思えました。晴れ渡った空には雲一つなくて、高すぎて手を伸ばしても、自分の小ささを思い知らされるだけです。
そんな空に、たくさんの泣き声が吸い込まれていきます。
雨が降っていれば、まだ救われたのでしょうか。けれど、途切れることのない村中の涙は、もうお兄ちゃんが帰って来ないのだと、痛いほどわたしに教えてくれます。
その日は、ミシェルお兄ちゃんを埋葬する日でした。
ここはとても小さな村で、みんなが助け合いながら生きています。そんな生活の中で、お兄ちゃんの存在は自分たちを勇気づけてくれていたと、みんな悔みながら思い返していました。
お兄ちゃんは音楽が好きで、気の合う仲間と一緒に、いつも演奏していて、それはとても楽しい音楽で、わたしはすぐ近くで聞き入っていました。農作業に汗を流す村のみんなも、その音楽を心の拠り所としていたのです。毎年の村祭りでは、お兄ちゃんたちの演奏が中心になっていました。
そのお兄ちゃんが、死にました。
わたしにはよくわからないんですが、とても危ない病気だったそうで、村外れの魔女さんでも、治せなかったらしいです。
そのお兄ちゃんを入れた棺桶が、深い穴の底に運ばれました。深い穴とは言っても、それは青い空に比べれば、すぐに手が届くくらいのものです。
あの優しいお兄ちゃんが目を丸くして、釘で打たれたふたを開いて出てきてくれるんじゃないか。そんな気がして手を伸ばすと、ぎゅっとお母さんに抱きしめられました。
「アーシニャ、危ないわ」
お母さんに言われて始めて、その穴に落ちたら怪我してしまうとわかりました。そんなに深い穴にお兄ちゃんはいるんだと思うと、また涙があふれてきました。
その穴をふさぐために土がかぶせられると、ひときわ大きな泣き声が辺りに響き渡りました。
亜麻色の髪を綺麗に伸ばしたお姉さんが、その声を上げています。泣き声も村中を包み込むような彼女をわたしはよく知っています。お兄ちゃんと一緒に演奏をしていた人の一人で、歌が大好きなオリカさんです。
それでも土はかぶせられていきます。お兄ちゃんが入った棺桶が、少しずつ見えなくなっていきます。 わたしはもう、オリカさんのように泣くこともできませんでした。
自分が悲しいのかどうかもわからなくなって、ただ、晴れた空に手が届かないことやお兄ちゃんがいなくなったことを思い知らされて、どこかに沈んでいくような、そんな気持ちになりました。
♪♪♪
それからわたしは、お兄ちゃんのお墓の掃除を毎日しています。
きっとまだ、お兄ちゃんが帰ってくるなんて思っているのかもしれません。そして、そう思っている人がもう一人いるようです。
「おはようございます」
「毎日毎日、マメだな」
呆れたようにそう言うその人は、わたしがお花を添えようとすると、さっと場所を開けてくれました。 まだ朝露のついたお花を綺麗に飾るにも、ずいぶん慣れたと自分でも思います。
「ハーメルさんだって、毎日来てるじゃないですか」
「……ま、ミシェルの親友だし」
仕返しではないですけど、ハーメルさんに言葉を返すと、彼はわたしから顔をそらして遠い空を見つめます。
ハーメルさんは、つかみどころはないけれど、みんなのことをちゃんと考えられる人です。それだけに、お兄ちゃんのことをずっと忘れられないんだと思います。
だから、ハーメルさんは毎日ここでヴァイオリンを弾いてくれます。今も、木の葉のささやくように細く軽やかな音を奏でてくれます。それは、お兄ちゃんが大好きでよく弾いていた曲で、そのヴァイオリンはお兄ちゃんの形見でした。
「みんな、もうずいぶんと演奏していませんね」
「オリカもダンも、まだショックから立ち直っていないんだろう」
お兄ちゃんが亡くなってなら、この村から音楽が消えてしまいました。前は毎日楽しい演奏が村を笑顔で包んでくれていたのに。
ハーメルさんもまた、この場所以外では演奏をしなくなりました。それに、ここでも得意の笛は取り出さず、お兄ちゃんのヴァイオリンを弾き鳴らすばかりです。
「――ハーメルさんも、ですか?」
わたしの質問に、ハーメルさんは答えてくれません。
ただ黙ったまま演奏を続けています。
前はあんなにも心踊らされてくれて、笑顔を呼んでくれた曲なのに、今は心がどこか深い底に沈んでいくような気がします。
ハーメルさんは、ヴァイオリンも上手です。それなのに、同じ曲なのに、悲しいような――切ないようなそんな気分になります。
風がこの曲を村に運んでいきます。風が村を突き抜けるなら、どうしてこの悲しさややるせなさも一緒に運んでいってくれないのでしょうか?
そんなことを考えてくると、また涙があふれそうになりました。
「泣くな。女が泣いていいのは、愛してる男の前だけだ」
「……男の人はどうなんですか?」
わたしばかり涙を止めさせられるのはなんだか悔しくてそう言い返すと、ハーメルさんは少しも間も置かずに返答します。
「男は泣かないさ」
ウソだ、って言い返す前にハーメルさんがいたずらっぽい微笑みをわたしに見せます。
「誰も見てないからな」
やっぱり、この人はひきょう者だと思います。そして都合の悪い話はすぐに変えてくる人なのです。
「大人はすごいな。今日も変わらず畑仕事だ」
「え?」
確かに、大人たちはあれからも生活を変えていません。お父さんも畑仕事に朝早くから出ていますし、お母さんもおいしいお料理を作ってくれます。
「いい加減、子供も立ち直るべきだと思わないか?」
「わかりません。今までの生活に戻ったら――」
そこから先は、言葉に出来ませんでした。
今までの生活に戻ったら、お兄ちゃんを見捨てることになる。
そうわたしが思っているのだったら、わたしは大人たちが苦しんでいないと、お兄ちゃんのことをもう忘れてしまったと決めつけていることになるから……そんなことは、絶対に思っちゃいけないし、口に出すなんてとんでもない、と怖くなりました。
「おいで」
そんなわたしを気遣ってか、ハーメルさんはそれ以上話を続けませんでした。代わりに、わたしに手を差し伸べています。
「ついてきてほしい」
ハーメルさんのまっすぐな瞳に気圧されて、わたしはその手を取ったのでした。
♪♪♪
「また音楽をやるのさ」
ハーメルさんのその言葉に、わたしは一瞬呆然となりました。
「聞いてないって顔、してるぞ」
ダンさんの言葉にわたしは何度も何度もうなずきます。
お兄ちゃんの葬式の時に、オリカさんを支えていたのもダンさんです。普段は気は優しくて力持ちなダンさんも、この時ばかりはハーメルさんに不審げな表情を見せています。
ハーメルさんに、どうしたの、と訊ねたオリカさんもあきれ顔です。
わたしはあの後、お兄ちゃんの親友である二人の所まで連れてこられました。オリカさんとダンさんも、昨日ハーメルさんに突然呼ばれたそうです。
戸惑うわたしたち三人を無視して、ハーメルさんはしゃがんでわたしと目を合わせます。
「できるよな?」
たった一言でした。その一言の後は、ハーメルさんはただわたしの目を見つめて、お兄ちゃんのヴァイオリンをわたしに差し出していました。
けれど、その一言が、まっすぐな瞳が、ハーメルさんが本気なんだと物語っていました。
ハーメルさんは決して目をそらしませんでした。その瞳がなんだか怖くなって目をそらすと、代わりにお兄ちゃんのヴァイオリンが視界に入ってきました。
音楽は人を楽しませ、幸せにする。
いつもお兄ちゃんはそう言っていました。自分が誰かの笑顔を生み出せるなら、そんなに素敵なことはない、と。
きっとお兄ちゃんは、ずっとヴァイオリンを弾いていたかったと、そして村の人たちにずっと笑っていてほしかったんだと思います。
この村が大好きだから。村の人に暖かい気持ちでいてほしいから。
自分でも知らない間に、わたしはお兄ちゃんのヴァイオリンを抱きしめていました。
わたしは決意をこめて、一度だけうなずきました。
「大丈夫……なのか?」
ダンさんが嬉しいながらも不安だというように声をもらしました。オリカさんはなにも言いませんでしたが、表情はダンさんと同じ気持ちを抱いています。
「できそう?」
オリカさんに尋ねられて、わたしは、がんばりますと答えました。
すると、ダンさんは太鼓の準備を始めます。
「試しにやってみるか」
そう言って、ダンさんはリズムを取って、みんなをうながします。
爆ぜる火の粉のような太鼓の音を追うように、オリカさんのハミングが重なります。
穏やかな波のように優しいハミングの音に、ハーメルさんも笛の音を重ねて音程を合わせます。
風のように透き通るその音を、次はわたしが追わなくてはいけません。けれど緊張のせいで、わたしの手は震えていて、心もかじかんだように動かなくなって、泣きだしたくなって、できませんでした。
ヴァイオリンを弾かなくちゃ、音を鳴らさなくちゃ――。
どんなにそう思っても、祈るように自分の体に願っても、少しもわたしは動けませんでした。
いつの間にか、音は全部止んでいました。
「やっぱ、ダメじゃん」
ダンさんの落胆の声がわたしの胸に突き刺さりました。
「いや、まぁ……しょうがねぇよ。な?」
わたしの表情を見たのか、ダンさんはあわててそう笑いかけてくれました。でもそんなダンさんの姿も痛ましくて、オリカさんもなにも言えずにいるのを見て、わたしは、ここから逃げ出したくなりました。
ただハーメルさんだけが、変わらずにまっすぐみんなのことを見ていたから、逃げることもできずに立ちすくんでいました。
「わりぃ、オレ、帰るわ」
そう言って立ち去るダンさんのさみしげな背中を、誰も追いかけられませんでした。
♪♪♪
相変わらず、空は晴れていました。
夜になって空は低くなったように思えるのに、わたしの手は小さな星にも届きませんでした。
けっきょく、わたしは誰の笑顔も取り戻せずに、小さな膝を抱えるしかできないのです。
「アーシニャ、晩ご飯よ?」
お母さんに呼ばれて、わたしは始めて顔をあげました。お母さんは心配そうにわたしの顔をのぞいていました。
「まだ、元気でない?」
わたしは心配をかけたくないから首を横に振りますが、お母さんはわたしを力強く抱きしめてくれました。
「アーシニャ、ミシェルのヴァイオリンをもらったのね」
「……うん」
「そうなんだ? 弾ける?」
「弾けなかった」
「そう……」
お母さんはそれ以上なにも言わずに、わたしの手を引きました。
「晩ご飯が冷めちゃうわ」
「どうして、ハーメルさんはわたしにヴァイオリンを渡したの?」
お兄ちゃんは、自分の病気が治らないと知ったその日に、ヴァイオリンをハーメルさんに渡すことを決めていました。ハーメルさんはお兄ちゃんが一番信頼している相手だったのです。
お兄ちゃんは自分の願いをハーメルさんに託したんだと思います。それなのに、そのヴァイオリンをわたしに渡して、わたしはなにもできなくて、そしてら、お兄ちゃんの願いはどうなってしまうんだろう?
「それは、本人に訊いた方がいいんじゃないかしら? それよりも、アーシニャはどうしたいの?」
「わたし?」
わたしは、どうしたいんだろう? 自分でも、もうわからなくなっちゃってるのに、始めて気付きました。
「わたしはなにがしたいの?」
お母さんなら知っているのかもと思って、訊いてみました。でも、お母さんも首を傾げています。
「それはアーシニャにしかわからないわ。自分の気持ちは、まず自分が気付いてあげないと、かわいそうでしょ?」
お母さんの言葉が、わたしにはよくわかりませんでした。
いったい、誰がかわいそうなんだろう?
なにもわからないままでしたけど、お兄ちゃんが望んでいたことだけは叶えたいと思いました。
村の人が笑顔になってくれたらわたしは嬉しいですし、それにお兄ちゃんをわたしが忘れないためにもです。
だから、ヴァイオリンを弾けるようになろうと、決心しました。
♪♪♪
それからわたしは、ヴァイオリンの練習を始めました。
朝にはお兄ちゃんのお墓の前で。
お昼には誰も来ない森の広場で。
夜には家の裏の星空の下で。
毎日毎日練習を続けました。
けれど、お兄ちゃんに教えてもらっていた時と違って、少しも上手になれません。だから、もっともっと練習しなくてはいけないのです。
そんなある日、オリカさんがわたしを訪ねてきてくれました。
オリカさんはわたしの手を見た途端に顔を青くしてしまいました。わたしが練習をしすぎて、手の皮がむけて血が出ていたからです。
オリカさんはわたしの手を優しく握ってくれて、いたわってくれました。
「アーシニャ、もうやめて」
オリカさんはわたしにはっきりとそう言いました。その目からは、涙が二粒こぼれ落ちていました。
「そんな痛い思いまでしてがんばらなくていいから、もうやめて。もういいの。無理にミシェルの代わりになろうとしなくていいから」
オリカさんは本当に優しい人です。
いくら親友の妹とはいえ、わたしのために涙まで流してくれて、わたしの痛みを、わたしよりもわかってくれるくらい優しい人です。
わたしはそれが嬉しくて、なんだかくすぐったくて、わたしはオリカさんが大好きです。
でもわたしはオリカさんの言葉に、首を横に振りました。
「わたしがお兄ちゃんのような演奏ができたら、きっとまたみんなが笑ってくれる。みんなが悲しい顔をしているなんてやだ」
オリカさんだけではありません。この村はいい人ばかりで、わたしはみんなが大好きです。お母さんも お父さんも、ハーメルさんもダンさんもみんな大好きです。お兄ちゃんもみんなが好きでした。
だからわたしは、わたしの大好きなみんなに、お兄ちゃんが大好きだったみんなに、笑っていてほしいのです。
そのために、わたしができることをしたい。
それをオリカさんやダンさん、そしてハーメルさんに理解してほしい。いつか、わたしがお兄ちゃんのようになれた時に、一緒に演奏してくれるように。
わたしはお兄ちゃんのヴァイオリンを抱きしめていました。そうすると、お兄ちゃんがそばにいてくれるようで、心強かったのです。
「アーシニャ……」
オリカさんは、なにを言いたいのか、何度もその桃色に色づいた唇を、小さく開いたり、すぐ閉じたりを、しばらく繰り返しました。でもけっきょく、なにも言わずにわたしの手を取って、オリカさんの持っていた薬をぬってくれました。
どうやら、わたしが練習のしすぎでケガをしていたことは、村中の噂になっていたみたいです。
「傷が治るまでは無理をしちゃダメよ」
「でもヴァイオリンが――」
「ダメ。これだけは約束して」
オリカさんがあまりにも真剣で、わたしは思わずうなずいてしまいました。それを見て、オリカさんは満足そうに微笑みます。
「アーシニャはいい子だから、約束は守れるよね」
オリカさんはそう言って、わたしの小さな手を、優しく何度もなでてくれました。
「あの、オリカさんはどうして歌うんですか?」
わたしはどうしてか、そんな質問をしていました。もしかしたら、オリカさんの答えがわたしの答えになるんじゃないかと、思ったのかもしれません。
「私? そうね。歌が、好きだからかな」
「歌が好きだから?」
わたしが訊き返すと、オリカさんは懐かしそうに目を細めて、語ってくれました。
「始めては、森の泉に水を汲みに行った時かな。お祭りで必要になるからって、私の始めてのお仕事だったの。そこで、水のせせらぎを聞いたのよ」
「水の……せせらぎ、ですか?」
「うん。それがね、なんていうか、すごく大きいものに思えたのよ。音がとかじゃなくて、存在? えーと、とにかく、大きくて、心にね、カツンってきたの。カツンじゃないな。ビクン? ううん、トクン? うん、トクンだ。トクン、ってきたのよ。そしたらね、泣きたくなって、笑いたくなって、叫びたくなって、それで歌いたくなったの。なんか、自然にね。って、これじゃわけわからないか」
軽く笑ってわたしを見返してくるオリカさんに、わたしはそんなことはないです、と首を振ります。
正直、すごいと思いました。自然に、誰に言われるとかでもなくて、なにかを考えるでもなくて、自然に歌えるなんてオリカさんは本当にすごいと思いました。
「私よりも、他の二人に訊いた方がいいんじゃないかな? ほら、男ってそういう意味があるんだかないんだかわからないこと考えるの好きじゃない」
「そうですか?」
「うん。私は歌えて、みんながそれを聴いてくれたら満足だから。深く考えてないのよ」
わたしはそんなことはないと思ったのですが、それをわたしが言うのはオリカさんに失礼な気がしたので、うなずくだけにしました。
♪♪♪
「オレがなんで太鼓をやってるのか、だって?」
わたしはオリカさんが言ってくれた通り、ハーメルさんとダンさんにも話を聞いてみようと思いました。
どうせヴァイオリンの練習はできませんし、それに話を聞くことでぼんやりとした心の中がわかるかもしれないと思ったのです。
でもハーメルさんは全然見つからなかったので、先にダンさんに話を聞くことにしました。
家の薪割りをしていたダンさんですが、わたしが訪ねると、すぐに休憩代わりと言って手を止めてくれました。
「まぁ、最初はあれだな。祭りの時に、親父がやってたのを聞いてたからだよ。ウチの親父は知ってるだろ? 今でも祭りじゃ、太鼓やってるから」
「はい」
ダンさんのお父さんもすごく太鼓が上手な人で、その激しい音はお兄ちゃんたちがお祭りで演奏するようになるまで、ずっと風物詩でした。とは言っても、今もその演奏で踊ることを楽しみにしている村の人はたくさんいます。
「太鼓はアツいのさ。炎みたいに、アツくて、やってる時はほんの一瞬に感じられるんだ。そこに本気になるとな、すごいやりきったって感じになるんだ。言ってみれば、オレは太鼓をやってる時が一番、生きてるって感じるのさ。特に、ミシェルたちと一緒にやってる時はそうさ」
ダンさんがすごく楽しそうに話してくれるので、わたしも聞きいって、瞬きもできませんでした。
「あ、わりぃ……ミシェルの話は、イヤだったか?」
でもそれをダンさんは勘違いしてしまっていました。
ダンさんは一度思いこむと頑固になって、いくらわたしがそうじゃないと言っても、わかっているようでわかっていないまま、話をやめてしまいました。
「でもな、なにをやるにも、生きてるって感じるのが一番だと思うぞ。人生は一回しかないんだからな」
ダンさんはそう言うと、また薪割りを再開しました。
わたしはその邪魔にならないように、家に帰りました。
♪♪♪
それから、ハーメルさんは全然見つからなくて、わたしはお兄ちゃんのヴァイオリンを眺めて過ごす時間が増えました。その間は、いろんなことを考えています。
今日もお兄ちゃんのお墓の世話が終わった後、その前でヴァイオリンを手にして、ぼんやりと物思いにふけっていました。
ずっと考えていて、ひとつだけわかったことがあります。わたしはいつも大事な時に緊張してしまって、なんにもできなくなってしまうのです。きっと、緊張しなくなれば、上手にヴァイオリンが弾けるんだと思うのです。
でも、緊張しない方法は、まったく考えつかなくて、けっきょくどうしたらいいのかはわからないままでした。
そんなことを考えていると、風に乗って小鳥の鳴き声が聞こえてきました。とても軽快に鳴く、元気で声の高い小鳥です。
でも小鳥にしては、すごく整った鳴きかたをしています。それに、わたしはその声に聞き覚えがあるような気がします。
もしかして、と思って、わたしはその音に向かって走り出しました。
その音は、村外れの森の、はじっこから聞こえてきます。
透きとおった風みたいに軽やかなその音は、やっぱりハーメルさんの笛の音でした。
森のはじっこで、ハーメルさんは踊るようにステップを踏みながら、小鳥のマネをして笛を鳴らしています。その音に誘われて、辺りには小鳥たちが集まっていました。
ハーメルさんは、わたしに気付くと演奏をやめてくれました。しかし、それと同時に小鳥たちはまたどこかへと飛び立ってしまいます。
「どうしようもないな。いくら技術で呼んでも、演奏をやめると飛んでいく。ミシェルには、森中の動物が自分から演奏をねだって来てたのにな……」
ハーメルさんが淋しげにつぶやくのを、わたしは走って乱れた息を整えるのに必死で、ちゃんと聞けませんでした。
「どうした? 大丈夫か?」
わたしは、はい、と答えることもできませんでした。息が乱れているのもありましたが、ひさしぶりにハーメルさんに会って、少し緊張していたのです。心がまっしろになって、なんて言えばいいのか、なんて言えばハーメルさんに伝わるのか、わからなくなってしまいました。
「アーシニャ、息をゆっくり吸ってごらん。それから余計なことを考えずに、自分が一番伝えたいことだけを考えるんだ」
息をゆっくり――。
伝えたいことだけを――。
わたしは、ハーメルさんの言う通りにしました。
息を整えて、余計なことは考えないで。
そうすると、自分でも驚くくらいに心がすっきりして、はっきりと自分の気持ちを見つけられました。
ああ、自分を見つけるなんて、こんなに簡単なことだったんだ――。確かに、こんなこともできないんじゃ、いろいろと考えて、やりたいことやいいことをしようしている自分がかわいそうだと、感じました。
「あの、どうしてわたしにヴァイオリンを渡したんですか?」
わたしがやっとその言葉を投げかけると、ハーメルさんはとても優しい微笑みをわたしに返してくれました。
「アーシニャが音楽が好きで、ヴァイオリンが上手だからさ。俺達やミシェルにも負けないくらいにな」
「わたし、が?」
「ああ。だって、俺達が演奏するっていうと、すぐにミシェルについてきたじゃないか。それに、ミシェルからヴァイオリンの弾き方まで教わっていた」
ハーメルさんがそんなところまで知っていたのに、わたしは少なからず驚きました。お兄ちゃんから周りを誰よりも見ていると聞いていましたが、ここまでとは思っていませんでした。
「それに、俺達は音楽をやめられない。アーシニャに負けないくらい音楽が好きだからな。それから、暗いのも性に合わないしな」
ハーメルさんは、言うだけ言ったというように、また演奏を始めました。
それは悲しみも包みこんで、どこか遠い空の果てまでも吹いていく風のように、透明で優しくて、それでいて自由な音でした。
みんなの笑顔を誘うような、軽やかで心が空に羽ばたいていけるような、そんな勇気づけられる音なのです。
空が、すごく近く感じました。
突き抜けていく風に乗って、まっしろい雲や弾ける雷が眼下に広がって、見上げた空の青さは心も体も包み込んでくれて、それでも、どうしても太陽には手が届かなくて――。でも手の届かない太陽からこぼれた光が、まっすぐに降りてきて木の葉を透かして、地面を照らして、小麦に元気を与えてくれています。
わたしを含んだすべてが、すごくはっきりした存在なんだと感じます。そこにお兄ちゃんが――お兄ちゃんの想いが、ちゃんとあるような気がして、わたしはなんだか泣きたくなりました。それから、心が奥から暖まっていくような気分になります。なにか、今すぐになにかをしたくなりました。
ハーメルさんの笛の音に、ひとつの音が重なりました。それはわたしが弾いているヴァイオリンの音でした。それに誘われるように、小鳥が、リスが、オオカミが、わたしたちの周りに集まってきます。
それを見て、ハーメルさんが笛の音を大きくします。村まで届けというように、大きく、大きく、風を奏でていきます。
いつの間にか、オリカさんとダンさんも演奏に加わっていました。
みんな、自然と笑っていました。
わたしたちの音楽が、わたしたちの笑顔を呼んでくれたのです。
そしてこの演奏は村中を包み、また村に笑顔が戻ってきてくれたのです。
それが、わたしのヴァイオリンも手助けしたことは、わたしの大きな誇りになりました。
おわり
みなさん、こんにちは。
カルテット、いかがだったでしょうか。
わたしは、童話が好きです。優しい言葉遣いや、柔らかなおとぎ話の色合いが大好きです。
そして、心に染み込む物語が、とても愛おしいのです。
このお話が、皆さんの心にそんな響きを残せたら、うれしいんです。
この作品が、あなたの中で命の光を灯しますように。