第7話 静的ナル神ノ悪夢
全てが順調だった。
『探し物発見』スキルは世界にささやかな幸福と利便性をもたらし、人々の日常に静かに溶け込んでいった。スキル取得者たちの SNS には今日も「神スキル」「クソ便利」といった感謝の言葉が並んでいる。社会は安定し、彼の平穏は揺るぎない。
そして何より、彼の個人的な目標――【管理者介入レベル 1】のアンロックに必要な 100 万スキルコイン――もゴールが目前に迫っていた。
現在の所持スキルコインは 85 万 SC。
あと 3 日。これまで通り『探し物発見』と『肩こり解消』を交互に、一日 5 万 SC ずつ稼いでいけば、週末には目標を達成できる。そうすれば、彼はこのプラットフォームという巨大なブラックボックスの、さらに深層を覗き見ることができるはずだ。
全てが計算通り。彼の描いた航路を、世界という名の船は忠実に進んでいる。
彼はこの巨大なシステムの『管理者』として確かな手応えを感じていた。もはや自分はただ振り回されるだけの傍観者ではない。この世界のルールを理解し、制御しつつあるプレイヤーなのだと。
その、あまりにも楽観的で、今思えば傲慢ですらあった自信が音を立てて崩れ始めるのは、週明けの月曜日の深夜のことだった。
いつものように一日の終わりに管理者用コンソールを開き、明日の分の『肩こり解消』の販売設定をしようとしたその時。まるで待ち構えていたかのように、見慣れた、しかし今は忌まわしさしか感じない通知がポップアップした。
[NOTICE]新規スキルが生成されました。承認しますか?[Y/N]
「…来たか」
戒は特に警戒もせずに、その詳細を開いた。どうせまた『爪が綺麗に切れる』とか『ネクタイが上手に結べる』といった E ランクの地味な便利スキルだろう。そう高を括っていた。
しかし、彼の目に飛び込んできた文字列は、彼のそんな甘い予測を完膚なきまでに裏切るものだった。
スキル名:【B】やり直しの権利
ランク:B
効果:人生において強く後悔している過去の選択を一つだけ選び、その時点の自分に別の選択肢があったことを強く認識させ、再度選択の機会を与えることができる。タイムリープとは異なり、因果に干渉し、選択以降の歴史を再計算・再構築する。
「…………は?」
戒は一瞬、そこに書かれている言葉の意味が理解できなかった。
「因果に干渉…? 歴史を再計算…?」
彼は SF 小説の熱心な読者だ。タイムパラドックスやバタフライ・エフェクトといった概念は、嫌というほど知っている。
だからこそ、理解してしまった。
このスキルがどれほど正気ではない、世界のルールそのものを根底から破壊する劇薬であるかを。
彼は震える指のイメージで椅子から立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。まるで檻の中の獣のように。彼の頭脳はこれまでにない速度で回転し、このスキルがもたらすであろう未来をシミュレートし始めた。
メリット。
あるのか? そんなものが。
あるとすれば、それは極めて個人的で感情的なものだろう。
交通事故で家族を失った人が「あの日、車で出かけるのを引き留めていれば」と願う。その願いが叶う。
事業に失敗し全てを失った人が「あの時、あの契約書にサインさえしなければ」と悔やむ。その過去が変わる。
受験に失敗した。告白に失敗した。就職に失敗した。
…人間が生涯で抱える無数の「もしも」。その全てに救いの手が差し伸べられる。
世界は後悔という名の痛みから解放されるかもしれない。それは、ある意味で人類にとって最大の福音と言えるのかもしれない。
これをリリースすれば? 間違いなく売れる。1 スキルコインどころか 100 万スキルコインの値をつけても、人々は全財産を投げ出して買い求めるだろう。彼の目標である 100 万 SC など、瞬きする間に達成できる。
だが、その先に待っているのは何か?
デメリット。
メリットの光が強ければ強いほど、その影に広がる闇は深く、そして広大だった。
デメリット 1:因果律の崩壊と世界の混沌
ある一人の学生が「 A 大学ではなく B 大学を受験する」という選択をやり直したとしよう。些細な選択だ。
しかしその結果、彼は本来出会うはずだった伴侶と出会わず、別の人間と結婚する。生まれなかったはずの子供が生まれ、生まれるはずだった天才科学者が歴史から消える。その天才が開発するはずだった画期的な治療薬は生まれず、数百万人の命が失われる。
たった一つの、一個人の選択の変更がドミノ倒しのように連鎖し、数十年後には全く別の世界が出来上がってしまう。しかもそれが世界中で、何万人、何十万人という単位で同時に、無秩序に行われるのだ。
世界は安定した一本の時間軸を失い、無数のパラレルワールドが混ざり合った混沌のスープと化すだろう。天気予報も株価の予測も流行の予測も全てが無意味になる。昨日まであった会社が、今日には存在しない。昨日まで他人だった人間が、今日には親友になっている。
彼が愛してやまない「昨日と同じ今日が明日も繰り返される」という『平穏』。その対極にある、完全なカオス。
デメリット 2:人間の精神的堕落
「失敗したらやり直せばいい」
その考えが常識になった時、人間は成長を止める。
努力も熟慮も覚悟も、全てが無意味になる。自らの行動に責任を持つという、人間社会の根幹をなす倫理観が跡形もなく消え去る。
人々は安易なリセットを繰り返すだけの、魂のない人形になるだろう。
それは後悔からの解放などではない。未来へ進む力を奪われる、最も残酷な呪いだ。
「……ダメだ」
戒は吐き捨てるように呟いた。
「こんなもの、絶対に世に出してはいけない…!」
彼の脳裏に、隔離フォルダに眠る他の怪物たちが浮かんだ。『本音可視化』『元素変換』『遺伝子最適化』。あれらも酷かった。だが、これは次元が違う。あれらは世界の「ルール」を書き換えるものだった。しかしこの『やり直しの権利』は、世界の「土台」そのものをダイナマイトで爆破するようなものだ。
「却下だ…却下だ…!」
彼はコンソールに戻り、震える意識で『保留』のボタンを押そうとした。
しかし、その指がぴたりと止まる。
――もし、このスキルを自分だけが使ったとしたら…?
彼には人生をやり直したいと願うほどの大きな後悔はない。彼の人生は平穏で満ち足りていた……はずだ。
だが、本当に?
心の奥底の、自分でも気づかないふりをしていた引き出しをこじ開けられるような感覚。
もしあの時。大学で別のサークルに入っていたら? もっと社交的な人間になっていたかもしれない。
もしあの時。最初の会社を辞めずにいたら?
…いや、やめろ。考えるな。それは悪魔の囁きだ。
彼はその誘惑を振り払うように、強く強く『保留』ボタンを押した。
スキルは隔離フォルダの暗闇へと吸い込まれていった。
彼の額には、びっしょりと冷たい汗が浮かんでいた。心臓が、まるで全力疾走した後かのように激しく鼓動している。
「…ふぅ……」
彼は椅子に深く沈み込み、息を整えた。危なかった。本当に危なかった。
今日のスキルコイン獲得は諦めるしかない。だが、世界の平穏が守れたのなら安いものだ。明日からは、また無害なスキルが生成されるはずだ。そう、きっとそうだ。
彼は自分にそう言い聞かせるように、無理やりコンソールを閉じた。
その夜、彼は初めて、管理者であるという自分の立場を心の底から呪った。
【水曜日】二度目の絶望
月曜の悪夢から一日。火曜の夜は何も生成されなかった。嵐の前の静けさだったのか、それともプラットフォームの気まぐれか。
戒は後者であることを願いながら、水曜日の深夜を迎えた。彼の心は、もはや週末に迫った目標達成の喜びよりも、次に何が生成されるかという恐怖に支配されていた。
そして、通知は来た。
戒はまるで判決を待つ被告人のように、その内容を確認する。
スキル名:【C】才能の種
ランク:C
効果:使用者、あるいはその 18 歳未満の子供が持つ『潜在的な才能』(学術・芸術・スポーツなど)の中から、最も開花する可能性が高いものを一つだけ特定し、その才能に関する学習効率や吸収率を永続的に 1.5 倍に引き上げる。
「……才能の種……?」
ランクは C。『やり直しの権利』の B よりも低い。一見すると、これはそこまで危険なスキルには見えなかった。むしろ、子供の可能性を広げる教育的な良いスキルではないかとさえ思える。1.5 倍という上昇率も、ゲームのチート能力のように現実離れした数字ではない。努力すれば十分に追いつける範囲の、ささやかなブースト。
だが、戒はもう騙されなかった。
このプラットフォームが生成するものに、手放しで喜べる善意など存在しない。彼はこのスキルの裏に潜む、静かで冷たい毒の正体を冷静に分析し始めた。
メリット。
もちろん、ある。
自分の子供にどんな才能があるか分からず、手当たり次第に習い事をさせている親にとっては最高の指針になるだろう。埋もれていたかもしれない才能が開花するきっかけになる。スポーツ選手や芸術家を目指す者にとっては、喉から手が出るほど欲しい力だ。夢を叶えるための強力な追い風になる。
これもまたリリースすれば爆発的に売れる。人々の『我が子を思う親心』や『夢を追う向上心』に、これほど強く訴えかけるスキルもないだろう。
だが、その裏側は?
デメリット。
それは目に見える破壊や混沌ではなく、静かで、じわじわと社会を蝕む、質の悪い病のようなものだった。
デメリット 1:残酷な『答え』の提示
このスキルで最も残酷なのは、才能を伸ばす効果そのものではない。「才能を特定する」という部分だ。
もしスキルを使っても「該当する才能がありませんでした」という結果が表示されたら?
それはシステムから「あなた、あるいはあなたの子供は凡人です」という冷酷な判決を下されるに等しい。
希望を見出すためのスキルが、逆に無限の可能性を信じる心をへし折り、絶望の烙印を押す道具になりうる。
デメリット 2:静かなる分断と新たな差別
隔離フォルダに眠る A ランクスキル『遺伝子最適化』。あれは分かりやすい『格差』を生む。生まれながらにして祝福された新人類と旧人類に分かれる。
しかし、この『才能の種』はもっと陰湿だ。
スキルを持つ者と持たざる者。その差はすぐには見えない。数年、十数年という時間をかけてじわじわと現れてくる。「あの子は地頭がいい」「努力家だ」と思われていた成功者が、実はスキルによるブーストを受けていただけだったとしたら?
「どうせあいつは『種』持ちだろ」
そんな言葉が努力を嘲笑し、成功を妬むための新しい言い訳になるだろう。
それは、これまで人類が戦ってきた人種や貧富の差とは全く違う、『才能』という名の新たな差別と分断の始まりだった。しかもその差は目に見えない。だからこそ、疑心暗鬼はどこまでも深く社会に根を張る。
「……ダメだ。これもダメだ」
戒は頭を振った。
『やり直しの権利』が平穏な『日常』の土台を破壊する爆弾なら、これは平穏な『人間関係』という水の中に、ゆっくりと溶けていく毒だ。
彼は再び『保留』のボタンを押した。
隔離フォルダに四体目の怪物が追加される。ランク B が一体、A が一体、そして C が二体。もはや彼のコンソールは、魔王軍の幹部名簿のようだった。
所持コインは 85 万 SC のまま。二日間、足踏みが続いている。彼の心に焦りと苛立ちが、黒いシミのように広がり始めていた。
(なぜだ…なぜ急にこんなスキルばかり…?)
このプラットフォームは彼を試しているのだろうか。彼の理性を、倫理観を、そして忍耐力を。
あるいは、これは単なる偶然なのか。サイコロの目が悪い方へ悪い方へと転がり続けているだけなのか。
分からない。
分からないことが、何よりも彼を不安にさせた。
【金曜日】終わりの始まり
木曜の夜は、火曜と同じく何も生成されなかった。まるで嵐と嵐の間に訪れる不気味な凪のように。
そして金曜日。週末を迎える人々の浮かれた空気とは裏腹に、戒の心は鉛のように重かった。今夜、三度目の『何か』が来る。彼の本能がそう告げていた。
そしてその予感は、最悪の形で的中することになる。
その夜、生成されたスキル。
その詳細を目にした瞬間、天野戒の思考は完全に停止した。
これまで感じてきた恐怖や焦燥感とは全く違う。
もっと純粋で、抗いがたい『引力』のような感情が、彼の全身を支配した。
スキル名:【A】絶対安全領域
ランク:A
効果:自宅など使用者自身が最も安心できるパーソナルスペース(最大 100㎡)を一つだけ指定する。発動後、その領域は所有者の明確な許可がない限り、ありとあらゆる物理的・概念的脅威から完全に保護される。
・物理的保護:地震、火事、台風などの自然災害、強盗やテロリストの侵入、果ては核爆弾の直撃からも、内部は完全に無傷・無振動。
・概念的保護:騒音、悪臭、他者からの悪意ある視線や精神的干渉、ウイルス、そして『プラットフォームが提供する他の全てのスキル効果』さえも完全に遮断する。
「………………」
声も出なかった。ただ、画面に表示されたテキストを何度も何度も読み返す。
その効果を理解すればするほど、彼の心臓は恐怖ではなく、歓喜に近い何かで激しく高鳴り始めた。
これはスキルではない。
これは、彼が――天野戒という人間が生まれてからずっと、ただひたすらに求め続けてきた 『理想』そのもの だった。
彼の人生のテーマは『平穏』。その平穏を守るために、彼は『日常』という名の城壁を築き上げてきた。会社での不要な会話を避け、人間関係を最小限にし、波風の立たない毎日を繰り返す。この 703 号室は、彼の聖域であり、城だった。
だが、その城壁はこのプラットフォームの出現によって、いとも容易く破壊された。彼は望まぬままに世界の中心に引きずり出され、毎日、世界の運命を左右するような面倒極まりない選択を迫られている。夜、次にどんなスキルが生成されるかという恐怖に怯え、眠れぬ夜を過ごす。彼の平穏はどこにもなかった。
だが、このスキルがあれば。
この『絶対安全領域』さえ発動してしまえば。
この 703 号室が本当の意味での『絶対的な聖域』になる。地震が来ても、ミサイルが落ちてきても、この部屋は揺れもしない。外で世界がどれほど混乱しようと、スキルによる異常現象がどれだけ蔓延しようと、その影響はこの部屋の中には一切届かない。
もう、夜中に生成されるスキルに怯える必要もなくなる。
プラットフォームの存在そのものを、自分の生活から完全にシャットアウトできるのだ。
メリット。
彼個人にとってはメリットしかない。それは全ての苦悩からの解放であり、究極の平穏の完成を意味した。
しかし。世界にとっては?
デメリット。
もはや「デメリット」という言葉では生ぬるいほどの、破滅的な未来しか見えなかった。
人々は安全な『箱』に閉じこもり、外の世界との関わりを断つだろう。社会は機能を停止し、経済は崩壊。人類は快適なシェルターの中で、緩やかに死んでいく家畜になる。
そして法の崩壊。警察すら立ち入れない聖域は、犯罪者にとって最高の隠れ家となる。このスキルを手に入れたテロリストやカルト教団は、もはや誰にも止められない。世界は無数の独立国家に分断され、秩序という概念そのものが消え失せる。
全世界の破滅と引き換えに、自分一人の完璧な平穏を手に入れる。
それは悪魔の契約そのものだった。
そしてプラットフォームは、その契約書を彼の目の前に、これみよがしに突きつけているのだ。
(これだ……。これこそが、このプラットフォームの目的だったのかもしれない…)
人間を試している。
一人の人間に世界の運命を左右できるほどの絶大な力を与えた時、その人間は最終的に何を選ぶのか。
他者のための『責任』を選ぶのか。
それとも自己のための『欲望』を選ぶのか。
戒はコンソールを見つめたまま、動けなかった。喉がカラカラに乾いている。
リリースすれば地獄が訪れる。分かっている。
だがその地獄は、城壁の外側で起きることだ。自分には関係ない。自分はこの絶対に安全な箱の中から、ただそれを眺めていればいい。
それは、彼がこの異常事態に巻き込まれてからずっと、心のどこかで望んでいた『傍観者』の立場そのものではないか。
『保留』か『承認』か。
いや違う。このスキルに限っては第三の選択肢がある。
『自分だけが承認する』
彼にはできるはずだ。管理者なのだから。このスキルを全世界に公開せず、自分だけのアカウントに紐づけることが。
(……やれ。やってしまえ。お前がずっと望んでいたことじゃないか)
心の中の悪魔が囁きかける。
(もう疲れただろう? 世界の運命なんてお前が背負う必要はないんだ。お前はただ静かに平穏に暮らしたかっただけじゃないか。これはその権利を取り戻すための、最後のチャンスなんだぞ)
その囁きは、あまりにも甘美で抗いがたい。彼の意識は朦朧とし始めていた。
――もうどうでもいい。世界がどうなろうと。
俺は、俺の平穏が欲しいだけなんだ。
彼の指のイメージが、ゆっくりと『承認』のボタンへと伸びていく。
その指がボタンに触れる寸前だった。
――彼の視界の片隅に、ふとある光景がよぎった。
それは、プラットフォームの分析ツールが映し出す SNS のタイムラインだった。数日前の『幸福な追憶』がリリースされた時の、あの光景。
亡き祖父の卵焼きの味を思い出して涙していた青年。
娘が生まれた日の温もりを思い出して、早く家に帰りたいと呟いていた父親。
雨宿りした軒先で、野良猫と雨音を聞いていた、あの日の幸福。
ささやかで、脆くて、しかし宝石のように輝かしい人々の営み。
平穏な『日常』。
それは彼一人が独占するべきものではなく、あの名も知らぬ人々が生きる世界の中にこそ、確かに存在しているものではなかったか。
自分がこのスキルを使えば、彼らの日常は確実に奪われる。
あの青年は絶望の中で、祖父との思い出さえ失うかもしれない。
あの父親は娘を守ることもできず、混沌の中で路頭に迷うかもしれない。
(……俺は本当にそれでいいのか?)
自分一人が安全な箱の中に閉じこもって。
ガラス窓の向こうで燃え盛る世界を眺めながら。
そこで飲むビールは、本当に美味いのだろうか。
そこで読む歴史小説の結末は、本当に心穏やかに受け入れられるのだろうか。
「……………っ」
戒は歯を食いしばった。目から熱いものがこぼれ落ちそうになるのを、必死でこらえる。
「……冗談じゃない」
絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「俺が欲しいのは、こんな独りよがりの平穏じゃない……!」
彼は渾身の力を込めて、その悪魔的な誘惑を振り払った。
彼の指は『承認』ボタンから離れ、その隣にあるもう一つのボタンへと向かう。そこには、これまで何度も彼の理性を証明してきた文字が刻まれている。
『保留』
彼は、まるで自分の魂の一部を引きちぎるような痛みを感じながら、そのボタンを強く強く押し込んだ。
スキルは音もなく、隔離フォルダという名の奈落へと堕ちていった。
コンソールから全てのスキルが消える。彼の目の前には、ただ静まり返った自室の光景だけが広がっていた。
所持コインは 85 万 SC のまま。目標達成はまた遠のいた。
だが、戒の心は不思議なほど晴れやかだった。まるで、長い長い悪夢からようやく目が覚めたような。
彼は自分の本当の願いに気づいてしまったのかもしれない。
彼が守りたかったのは、自分一人の『日常』ではなかった。名も知らぬ誰かの『日常』が今日も昨日と同じように続いていく、その退屈で、しかし愛おしい世界そのものの『平穏』だったのだと。
彼は静かにコンソールを閉じた。窓の外では、週末の夜を楽しむ街の明かりが静かに輝いていた。
「……さて」
彼は呟いた。
「面倒なことになったな」
その声には、もう絶望の色はなかった。あるのはただ、腹を括った男の静かで、そして途方もなく重い覚悟だけだった。
彼の戦いは、新たなステージへと今、確実に移行しようとしていた。




