第6話 観測者ノ憂鬱トササヤカナ福音
パンドラの箱の底には、希望が残されていたという。
天野戒が管理者として管理するプラットフォームの隔離フォルダ――彼にとってのパンドラの箱――には、世界の理を歪める三体の怪物が眠っている。それに希望などという大層なものがあるとは思えなかったが、先日リリースした『幸福な追憶』は、少なくとも一筋の優しい光のようではあった。
人々が幸せになるのは悪いことではない。
むしろ良いことなのだろう。少なくとも、彼が愛する『平穏』を脅かすものではないらしい。
だが、彼はもうこのプラットフォームを無条件に信用することはできなかった。
『幸福な追憶』は、あまりにも人の心の深い部分に触れすぎた。あれは劇薬だ。今回はたまたま良い方向に作用したが、一歩間違えれば毒にもなる。彼の信条は『石橋を叩いて渡る』――いや『そもそも渡らない』なのだ。これ以上、人の精神に干渉するような危うい橋は渡りたくなかった。
「……さて、どうしたものか」
深夜、いつものように自室のデスクチェアに深く身を沈めながら、戒は管理者用コンソールを静かに眺めていた。彼の所持スキルコインは、順調に 30 万 SC を超えている。目標の 100 万 SC までは、まだ道半ばだ。コインを稼がなければ、彼が求める『プラットフォーム分析ツール』のさらなる機能――【管理者介入レベル 1】――はアンロックできない。
ブラックボックスの中を覗き込み、未来を予測し、自らの平穏を守るためには、コインを稼ぐしかない。そのためには、何か新しいスキルをリリースする必要がある。
しかし――何を?
隔離フォルダの怪物たちは論外だ。
『幸福な追憶』のような精神干渉系は、もうこりごりだった。
できれば『肩こり解消』のような、身体に作用する無害で分かりやすいスキルがいい。
そんな彼の願いが通じたのか、あるいは単なる偶然か。
彼の思考に応えるかのように、静まり返った部屋の中で、コンソールの通知欄が静かに新たなメッセージを知らせた。
[NOTICE]新規スキルが生成されました。承認しますか?[Y/N]
戒の心臓が、とくんと小さく跳ねた。
もう何度目かの通知だが、慣れることはない。時限爆弾のタイマーが動き出す瞬間に立ち会うような、そんな緊張が全身を走る。
彼は覚悟を決め、深呼吸を一つすると、その詳細へと視線を落とした。
スキル名:【E】探し物発見
ランク:E
効果:「あれどこに置いたっけ?」と意識した瞬間、対象物が現在ある場所、あるいは最後に自分がその物を見た時の光景が 0.5 秒ほど脳裏にフラッシュバックする。
「…………ほう」
思わず、安堵と感心が入り混じったような声が漏れた。
これは良い。非常に良い。
これまでのどのスキルよりも地味でささやかだ。
しかし、その実用性は計り知れない。
鍵、スマートフォン、テレビのリモコン、読みかけの本、駐車券、イヤホン――人間が日常生活の中で「失くしたもの」を探すのに費やす時間は、年間で一体どれほどのものになるだろうか。その無駄な時間と、見つからない時の焦燥感やストレス。このスキルは、その全てを根本から解決しうる、まさに地味ながらも革命的なスキルだった。
「これなら……」
彼はいつものように、このスキルを世界に解き放った場合のメリットとデメリットを、冷静に、そして徹底的にシミュレートし始めた。彼の頭脳は、今や超高性能なリスク分析ツールと化していた。
まずメリット。これは明白だ。
第一に、極めて無害であること。
人体に直接作用するわけではなく、副作用も考えにくい。精神をかき乱すこともなければ、経済を崩壊させることもない。せいぜい紛失物発見サービスのようなニッチな商売が立ち行かなくなるくらいだろうが、社会全体から見れば誤差の範囲だ。
第二に、需要が普遍的であること。
『肩こり解消』と同じく、年齢・性別・国籍を問わず、現代社会に生きるほぼ全ての人間が恩恵を受けられる。これはスキルコインを稼ぐ上で非常に重要な要素だ。確実に「売れる」。
第三に、彼の平穏を脅かさないこと。
人々が探し物を見つけやすくなったからといって、彼の日常に何か変化が起きるはずがない。むしろ、社会全体の小さなストレスが軽減されれば、世界はほんの少しだけ穏やかになるかもしれない。それは、彼の理想とする『平穏』とも合致する。
次にデメリット。あるいは悪用の可能性。
ここが最も重要な検証ポイントだ。戒は、考えうる限りの最悪のシナリオを頭の中に思い描いていく。
シナリオ 1:犯罪への悪用。
例えば、泥棒が盗んだ金品をどこかに隠した後、このスキルを使って隠し場所を思い出す……というのは考えられるか? いや、それはただの記憶力の良い泥棒と同じだ。スキルがなくてもできる。
では、他人の失くし物を見つけ出して自分のものにする? 例えば、誰かが落とした財布をスキルで発見し、ネコババする。……うーん、ありえなくはない。だが、それもスキルがなければ起きない犯罪というわけではない。落とし物を拾うかどうかは個人の倫理観の問題だ。スキルは、その発見を手助けするだけだ。
爆弾などを仕掛けたテロリストが、隠し場所を確認するために使う? これも同様だ。そもそも、そんな奴は隠し場所を忘れたりしないだろう。
うーむ、どうも犯罪に直結するような強力な悪用方法は思いつかない。
シナリオ 2:プライバシーの侵害。
他人の隠し物を見つけ出すことはできるのか?
例えば、恋人の隠しているプレゼントや、家族のへそくりなどを、このスキルで暴き出すことができるとしたら……それは人間関係にヒビを入れるかもしれない。
彼はコンソールのスキル詳細を、もう一度注意深く読み込んだ。
すると、効果説明の文末に、小さくグレーアウトした注釈がついていることに気がついた。彼はそこに意識を集中させる。
【スキル詳細補足】
対象範囲:スキル使用者本人が『自分の所有物である』と強く認識している、あるいは法的に所有権を持つ無機物に限定される。生物および他者の所有物には効果を発揮しない。
「……なるほど。ちゃんと制限(縛り)があるのか」
この補足事項は、彼の懸念のほとんどを払拭するのに十分だった。
『自分の所有物』にしか効かない。つまり、他人の秘密を暴いたり、落とし物を探知して儲けたりすることは、システム側で禁止されているのだ。これは非常に重要な情報だった。このプラットフォームは、無秩序なだけではなく、ある程度の倫理的なリミッターを自ら設けているらしい。
これでデメリットのほとんどは潰れた。
(待てよ、まだだ。まだ何か見落としているかもしれない)
彼の思考は、さらに深く潜っていく。
例えば、企業の産業スパイが盗み出した機密データが入った USB メモリをどこかに隠し、このスキルで……いや、これも結局『自分の所有物(一次的に所持しているだけだが)』として認識していれば使えるかもしれないが、やはり根本的な犯罪行為そのものを助長するわけではない。
記憶喪失の人間が、自分の過去の持ち物を見つけ出すきっかけになるかもしれない。それは良いことだ。
認知症の老人が、大事なものをどこにしまったか思い出す手助けになるかもしれない。これも社会的に有益だ。
警察が押収した証拠品を管理するのに使える……か? いや、あくまで個人のスキルだ。組織的な利用は難しいだろう。
「……結論として、悪用は極めて困難」
彼はようやくそう結論づけた。
このスキルは、まさに彼が求めていたものだった。
安全で、有益で、そしてコインが稼げる。
「よし、決めた」
彼はスキル設定画面を開いた。
もはやそこに迷いはない。価格設定と提供数は、ここ数日ですっかり定着した「黄金律」を採用する。
スキル名:【E】探し物発見
提供数:50,000
対価:1 スキルコイン
この設定が今の世界にとって最もバランスが取れていることを、彼はデータから知っていた。
多すぎず、少なすぎない数。高すぎず、安すぎない価格。
人々に適度な期待と興奮を与え、しかし社会を大混乱に陥らせるほどではない、絶妙なさじ加減。
彼は、自分がまるで巨大な調味料棚の前で世界の味付けを調整しているシェフのような気分になっていた。もちろん、彼が作っているのは世界一刺激の少ない薄味のスープだが。
「…承認」
彼が意識の中で確定ボタンを押すと、世界中のプラットフォームに新しい商品が陳列された。
それは彼が『肩こり解消』の連続提供を中断して以来の、全く新しいスキルだった。
そのニュースは、瞬く間にスキル待機層たちの間に広まった。
『なんだこれ!? 新作来てるぞ!』
『探し物発見…? 地味だけどめっちゃ欲しいんだが!?』
『うおおお、俺のリモコンと右の靴下を見つけてくれ!』
人々の反応は彼の予測通り、いや、予測以上に好意的だった。
現代社会がいかに「失くし物」のストレスに満ちているか、その証明でもあった。
そして運命のリリース時刻。
これまでと同様に、コンマ数秒の熾烈な争奪戦が繰り広げられた。
提供終了
所要時間:0.78 秒
『幸福な追憶』の記録を、僅かに更新した。
SNS は直後から、阿鼻叫喚と歓喜の声で埋め尽くされる。
「買えたあああああああ!!! これで俺のメガネはもう迷子にならない!!!」
「うわああああん、また 0 秒の壁に負けた……俺の家の鍵はどこだ……」
「クレカ情報入力してたら終わった。スマホ、お前を探すスキルが欲しかったんだぞ、皮肉かよ」
「買った奴、とりあえず今すぐ何か失くしてみて! 使用感レポートはよ!」
5 万人の幸運な購入者と、数十億人の敗者。
いつもの光景が、今日もまた繰り返される。
戒はその狂騒を冷めた目で見つめながら、管理者用コンソールのログを眺めていた。彼の所持コインが、きっちり 5 万 SC 増えていることを確認し、小さく息をつく。
彼の仕事はこれで終わりだ。
後は、このスキルが世界にどんな小さな変化をもたらすのかを、神の視点から観測するだけ。
その日の午後から、SNS のタイムラインは驚くほど具体的な体験談で溢れかえり始めた。
最初の報告は、主婦と思われる女性の投稿だった。
『半信半疑でスキル使ってみた。冷蔵庫の裏に落ちてた子供のおもちゃ、一瞬で場所が分かった! 鳥肌立った! 大掃除のたびに探してたやつ!』
この投稿を皮切りに、次々と「発見報告」が上がり始めた。そのどれもが、あまりにも日常的で、共感を呼ばずにはいられないものばかりだった。
『まじかよこのスキル。3 ヶ月前に失くしたと思ってたワイヤレスイヤホンの片耳、冬物のコートのポケットに入ってたわ…! 脳内にコートをクローゼットにしまう映像が一瞬流れた。すげえ!』
『出張先のホテルで外した腕時計をどこに置いたか忘れて絶望してたんだ。スキル使ったら、ベッドの枕の下に置いてる映像がフラッシュバック。マジで助かった。神スキルだわ』
『【悲報】ワイスキルを使って、半年前から行方不明だった大事なフィギュアを発見。押し入れの奥のダンボールの中だった。【朗報】一緒に入れてたエロ本も見つかる』
『クソ便利なスキルという言葉しか出てこない。車どこに停めたか忘れて駐車場を 30 分彷徨うみたいな人生の無駄な時間がゼロになる。ノーベル平和賞もんだろこれ』
タイムラインは「クソ便利」という最大級の賛辞で埋め尽くされていた。
『幸福な追憶』のような感動的な涙はない。
だが、そこには日々の小さなストレスから解放された人々の、心の底からの喜びと感謝が満ち溢れていた。
このスキルは、人々の人生を劇的に変えるような大魔法ではない。
しかし、日常という名の細かく、そして無数にある小さな棘を、一つ一つ丁寧に取り除いてくれる、地味だが確実な福音だった。
手に入れられなかった人々も、嫉妬よりも羨望と期待の声を上げた。
『次は絶対手に入れてやる!』
『明日も販売してくれるかな?』
『肩こり解消と、しばらくは交互に販売とかかな?』
人々は、もはやプラットフォームの存在を完全に日常の一部として受け入れ、その気まぐれな商品ラインナップに一喜一憂していた。
戒は、その光景を静かに見守っていた。
分析ツールの『世界幸福度』のパラメータが、じわりと、しかし確実に上昇していく。派手な上昇ではない。体温が 0.1 度上がるような、微かでしかし確かな変化。
人々は、この小さな幸せの積み重ねに満足しているようだった。
彼の選択は、今回もまた「正解」だったらしい。
彼は自分の判断に、ほんの少しだけ自信を持ち始めていた。
隔離フォルダの怪物たちを封じ込め、こうした無害でささやかなスキルだけを世界に提供し続ける。
そうすれば、彼の平穏も世界の平穏も守られるのではないか。
コインも順調に貯まっている。このままいけば、あと十数日で目標の 100 万 SC に届くだろう。そうすれば、彼はこの世界の謎にさらに一歩近づけるはずだ。
全てが彼のコントロール下にある。
全てが計算通りに進んでいる。
――その時、彼の脳裏にふと一つの疑問が浮かんだ。
それは、彼がこれまで意図的に無視してきた、最も根本的な疑問だった。
(そもそもこのスキルは、どこから『生成』されているんだ…?)
それは無から有を生み出す奇跡なのか。
あるいは、この宇宙のどこかにある巨大なデータベースからダウンロードされているのか。
このプラットフォームという存在は、一体何者で、どこにあって、何をエネルギーにして動いているのか。
彼は、自分がただ巨大なブラックボックスの表面に現れる通知を処理しているだけの、末端のオペレーターに過ぎないことを改めて思い知らされた。
『管理者』などという大層な名前がついてはいるが、彼にできるのは生成されたものを「承認」するか「保留」するかの二択だけ。
スキルを自ら創り出すことも、その原理を解明することもできない。
彼の心の奥底に、冷たい水が一滴落ちたように、小さな不安の染みが広がっていく。
今はうまくいっている。
だが、この先もずっとこんな都合のいいスキルばかりが生成され続ける保証は、どこにもないのだ。
いつか彼の手に余るほどの、拒否することすら許されないような、絶対的な『悪意』が生成されたとしたら……?
彼は頭を振って、その嫌な想像を打ち消した。
(…考えるだけ無駄だ。俺にできるのは、今目の前にあるカードの中から最善の手を選ぶことだけだ)
彼はコンソールを閉じ、いつものように読みかけの歴史小説を手に取った。
結末の決まった、安心できる物語の世界へ没入しようと試みる。
しかしその夜は、なぜかページをめくる手が何度も止まった。
彼の視線の先、文庫本の文字の上で、先ほどまで見ていた管理者用コンソールの残像がちらついているような気がした。
彼の愛した『日常』という城壁は、もはや完全に崩れ去っている。
彼は今、城壁の残骸の上に一人で立ち、自分が何者かも知らない相手とチェスを指しているようなものだった。
一手一手は、うまく指せているかもしれない。
だが、相手が何を考え、どんなルールで戦っているのか、彼は何も知らないのだ。
その夜、戒は珍しく寝つきが悪かった。
部屋の静寂が、まるで巨大な何かが息を潜めている音のように聞こえて仕方がなかった。
世界の小さな幸福の裏側で、彼の孤独な戦いは、その様相を少しずつ変えながら静かに続いていた。
彼だけが知る見えない脅威の足音は、日を追うごとに僅かずつ、しかし確実に大きくなっているのかもしれなかった。




