第4話 幸福ノ処方箋
隔離フォルダという名のパンドラの箱には、今や三体の怪物が眠っている。
『C』『B』『A』と、その脅威度を示すかのように綺麗に並んだアルファベット。
天野戒は、もはや自室のクローゼットの奥に得体の知れないナニカを隠しているような、そんな居心地の悪さを感じていた。
プラットフォームは、まるで彼を試すかのように、世界の理を歪める劇薬ばかりを生成してくる。
その真意は善意か、悪意か、あるいはただの無邪気な混沌か。
もはや、彼には判断がつかなかった。
「……ろくなスキル生成しないな、このプラットフォームは」
深夜、自室の椅子に深く身を沈めながら、彼は溜息と共に呟いた。
最初の二つ『絶対寝坊しない』と『肩こり解消』が、いかに奇跡的なまでに無害で幸福なスキルだったかを思い知る。
あれは、人類をこの巨大な実験へと誘い込むための、甘い撒き餌だったのかもしれない。
彼は当面の「仕事」として、明日もまた『肩こり解消』を五万人に販売する設定を済ませた。
人々がそれで満足してくれる限り、隔離フォルダの怪物たちは眠らせておけばいい。
彼の平穏も、世界の平穏も、かろうじて保たれる。――現状維持。彼が最も得意とし、最も好む戦略だ。
全ての設定を終え、コンソールを閉じようとした、まさにその時だった。
四度目の、そして今や彼にとって恐怖の対象となりつつある通知が、静かにポップアップした。
[NOTICE]新規スキルが生成されました。
(……またか)
彼の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
今度はどんな世界のルールを破壊するつもりだ? ランクは? Zか?
それとも、ついに測定不能の EX ランクでもお目見えするのか?
彼は、まるで時限爆弾のタイマーを覗き込むような覚悟で、その詳細に視線を落とした。
そして、そこに表示された文字列に、これまでの三日間とは全く違う種類の戸惑いを覚えた。
スキル名:【E】幸福な追憶
**ランク:**E
**効果:**一日に一度だけ使用可能。スキルを発動すると、使用者自身の記憶の中から、本人も忘れてしまっていたかもしれない色褪せない『幸福な思い出』が、一つだけ五感と共に鮮明に蘇る。体験時間はわずか10秒ほどだが、その後に続く数時間、穏やかで温かい幸福感に包まれる。
「…………は?」
拍子抜けという言葉が、これほどしっくりくる瞬間はなかった。
ランクは『E』。F の次に低い、極めて無害な等級。
そしてその効果。あまりにも優しく、あまりにも詩的で、あまりにも……人間的だった。
彼は、そのスキル詳細を何度も何度も読み返した。
そこには、世界の経済を破壊するような力も、人間関係を修復不可能なまでにこじらせる悪意も、優生思想に繋がるような危険な選民思想も、どこにも見当たらなかった。
ただ、幸せな思い出を一つだけ思い出す――それだけ。
(なんだ……? このスキルは……)
あまりの落差に、彼の思考は混乱した。
まるで三日間にわたって溜め込まれた心の毒を、そっと浄化するような美しいスキル。
彼は、このプラットフォームの真意がまたしても分からなくなった。悪意なのか、善意なのか。あるいはそのどちらでもない、もっと高次の何か……気まぐれな神のような存在がサイコロを振っているだけなのか。
「良いスキル……なのか……?」
彼は自問自答した。
一見すれば、これ以上なく善良なスキルに見える。だが、彼はもはやこのプラットフォームを無邪気に信じることはできなかった。
『本音可視化』が人間関係を破壊したように、これもまた何らかの形で人の心を乱す毒を隠し持っているのではないか?
例えば、過去の幸福な記憶に浸るあまり、現実を疎かにする人間が続出するかもしれない。
失われた幸福を思い出すことで、逆に現在の不幸を嘆き、精神を病む者も出てくるかもしれない。
あるいは、これはもっと高度な罠で、人々の個人的な記憶データ――最もプライベートで、最も価値のある情報――を収集するための、巧妙な口実なのではないか。
疑念は、一度芽生えると際限なく広がっていく。
彼は分析ツールを起動した。このスキルをリリースした場合の、社会への影響シミュレーションを開始する。
しかし、ツールが弾き出した答えは、彼の疑念を裏付けるものではなかった。
画面に表示されたのは「犯罪率の低下」「自殺率の低下」「SNS における攻撃的言動の減少」といった、ポジティブな予測データばかり。
経済への直接的な影響はほぼゼロ。人々の精神的な安定、いわゆる『幸福度』のパラメータだけが、緩やかに、しかし確実に上昇するグラフを描いていた。
「……本当に、ただの『良いスキル』なのか……?」
彼の眉間の皺が、さらに深くなる。
あまりにも善良すぎる。あまりにも都合が良すぎる。――裏がないこと自体が、逆に怪しい。
だが、このまま隔離フォルダにしまい込むのも、違う気がした。
これまでの三つのスキルとは、明らかに毛色が違う。これは、検証してみる価値があるかもしれない。
「……よし。実験だ。これも実験だ」
彼はスキル設定画面を開く。
まずは規模を最小限に。『肩こり解消』で慣例となった「5万人限定」という数字は、こういう時にこそ役に立つ。
もし万が一、このスキルに未知の危険性が潜んでいたとしても、被害を 5 万人に限定できる。
次に対価。これも『肩こり解消』と同じ「1 スキルコイン」に設定した。
無料にして、もし何か問題が起きた時に「タダだから文句を言うな」と開き直るのは、もう彼のプライドが許さなかった。
有料であることは、提供者としての最低限の責任の表明だと、彼は無意識に感じていた。
スキル名:【E】幸福な追憶
提供数:50,000
対価:1 スキルコイン
「怖いから 5 万人限定にしとくか……。とりあえず“実験台”ということで……」
彼は、誰に言うでもなくそう呟くと、承認ボタンを押した。
世界に対して、彼はまた一つ新しいカードを切った。それが毒か薬かも分からぬまま、彼はただその反応を、絶対的な安全圏から観測する。
『肩こり解消』を求めるスキル待機層たちは、突如として現れた見慣れない E ランクスキルに一瞬戸惑った。
しかし限定数と価格が同じであることから、彼らはそれを「今日のボーナストラック」のようなものだと判断し、0.75 秒という過去最速のタイムで完売させた。
そして世界は変わった。
熱狂でも混乱でもなく。――ただ静かに、優しく、その色合いを変えていった。
スキルがリリースされてから数時間後。
戒は、いつものように【プラットフォーム分析ツール】を開き、SNS の感情分析をチェックしていた。
そして彼は、そこに広がる光景に言葉を失った。
タイムラインは、これまで見たことのない種類の言葉で埋め尽くされていた。
「忘れてた。小学生の時、雨宿りした神社の軒先で、野良猫と一緒に雨音を聞いてた。あの時間、俺は確かに幸せだったんだな……」
「亡くなった祖父が一度だけ作ってくれた、不格好な卵焼きの味を思い出した。しょっぱくて少し焦げてた。でも、世界で一番美味しかった。涙が止まらない」
「高校時代、喧嘩別れしたままだった親友と、初めて一緒に自転車に乗れた日のこと思い出した。夕日がすごく綺麗だった。……明日、連絡してみようかな」
「娘が生まれた日。腕に抱いた時の、あのミルクの匂いと、信じられないくらいの温かさが蘇ってきた。仕事のストレスとかどうでもよくなった。早く家に帰って、娘を抱きしめたい」
怒りも、嫉妬も、対立もない。
そこにあったのは、人々が心の引き出しの奥底にしまい込み、存在すら忘れていた、ささやかで、しかし宝石のように輝かしい個人的な幸福の物語だった。
体験者はわずか 5 万人。
しかし、その 5 万人が紡ぎ出す優しい物語は、伝染するかのように数十億の人々の心を潤していった。
人々は、他人のささやかな幸せの物語に、これまで以上の共感をもって「いいね」を送り、コメントを寄せた。
「素敵ですね」「私もそんな思い出があったかもしれない」。――世界は、ほんの少しだけ見知らぬ他人に優しくなっていた。
戒は、ただ呆然とその光景を眺めていた。
分析ツールの『世界幸福度』パラメータが、観測史上最も高い数値を記録し、緩やかに上昇を続けている。
人々はこのスキルを『祝福』だと呼び、手に入れられなかった者たちも、次のリリースを心待ちにしている。
5 万人の「実験台」からは、誰一人としてネガティブな報告は上がってこなかった。
「なるほどなー……。俺はイマイチ理解できないけど……良いものなら、良かった」
彼は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。
彼自身には、このスキルを使っても思い出すべき「幸福な追憶」など、たいして無いような気がした。
彼の人生は平穏ではあったが、ドラマティックな幸福に満ちていたわけではない。
だから、人々がなぜこれほどまでに熱狂し、涙を流すのか、彼は本当の意味では理解できていなかった。
だが、データが示している。
人々は幸せになっている。世界は、良い方向へ向かっている。
彼の心の中にあったプラットフォームへの不信感が、少しだけ――ほんの少しだけ、氷解していくのを感じた。
あの隔離フォルダに眠る怪物たちは何なのか。
そして、この『幸福な追憶』は何なのか。
善と悪。毒と薬。――このプラットフォームは、その両方を内包している。
そして、そのどちらを世界に解き放つかを決めるのは、他の誰でもない、自分自身なのだと。
彼は、管理者としての自分の役割の、本当の重さに今さらながら気づき始めていた。




