表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

裏切りの聖画(イコン)

作者: 梅田浩志



  彼は醜く、威厳もない。

  みじめで、みすぼらしい。

  人は彼を蔑み、見捨てた。

  忌み嫌われる者のように、

  彼は手で顔を覆って人々に侮られる。

  まことに彼は我々の病を負い、

  我々の悲しみを担った…。

               新約聖書


    1


「ハア、ハアッ…」

 双脚を一歩踏み出す度に、トナカイ皮のブーツが膝頭まで雪原に埋まる。青年は一面の白銀に身を晒し、風雪を分け行くように、ただ峠を目指している。

 峠を越えれば、そこは、今回の戦争で中立を保っている小国、教会庁統治領『聖アドラン国』の領土だ。冬季には常に閉鎖される峠道には、国境警備も何もない。

 当然の判断である。

 この厳冬期に峠を越えるなど、狂気の沙汰でしかない。それが、特命を帯びた、隣国ノルデンブルク公国特殊工作隊員であったとしてもだ…。

 ノルデンブルク公国特殊工作隊員、フランツ・ヨハンソンは、昨夜は、アドラン山の母国側の中腹で、雪洞を掘り、夜を明かした。

 正規軍の援助部隊は、敵のレーダーを回避できる限界の地点まで、彼を輸送してくれた。

 しかし、その後の彼の動向を知る事は、何人たりとも不可能だ。彼は簡易な通信機の携帯すら許されなかったのだから…。

 春になり、凍結した彼の屍が、聖アドラン国領内で山岳警備隊に発見されたとしても、単に亡命に失敗した反体制ゲリラとして処理されるのだろう。

 まだ、夜明けまで時間がある。

 フランツは揺れる石油ランプで進路を確かめ、腕時計で時刻を知る。

(まだ、間に合う…)

 もし、夜明けまでにマグナラ峰の稜線に到達できなくては、時間的に、聖アドラン国に生存したまま到達する事は不可能となる。また、今、この場所から引き返してたとしても、手持ちの装備では母国へも生きた体では辿り着けないであろう

 峠より先で、東より昇る陽光を拝まない限り、彼には死が宿命付けられていた。

 暗黒の雪原が体温を厳しく奪う。

 厳寒の高地。酸素の薄い場所での体力の消耗は、鍛え上げられた特殊工作員の屈強な身体をも、容赦なく蝕んだ。

(進むんだ。前へ、前へ…)

 それは、既に愛国心や国家への忠誠の意思では無かった。

 真実に、生存への本能、そのもの…。

(こんな場所で私は死ねない…、凍結した屍は、春まで氷の中に閉じ込められるだろう。そうなれば、私は亡命志願者として処理され、公国の英霊墓地への埋葬も許されない…)

    *

 そして、夜明け…。

 太陽は、冬に傷付けられ、輝きを失いながらも、万物に対して懸命に祝福に満ちた光を与えている。

 彼は国境の峠から、その約束された癒しの光を眺める事ができたのだ。

 聖アドラン国は、高山に囲まれ、湖を中心に持った小さな宗教国だ。真珠とも宝石とも形容される、その美しい湖に、色褪せた金の粒子が、柔らかく乱反射している。

 フランツは、薄汚れた自分の任務を自覚しつつも、神への畏敬と感謝を感じずにはいられなかった。彼は太陽に向けて十字を切ろうと思ったが、そんな自分の行動は、あまりに浅ましいものに感じられた。

「私は、誇りあるノルデンブルク公国特殊工作員だ。あなたへの忠誠よりも、私は名誉の死を選ぶだろう。それが、私の、唯一の…」

 そう呟いて、やがて、フランツはゆっくりと雪の斜面を下だり始めた。

    *

 フランツの母国。ノルデンブルク公国は、既に三年に及ぶ内戦を抱えている。

 今回の作戦は、ノルデンブルク諜報員でありながら母国を裏切った男。ランボルト・リーザマンの身辺調査を行う事に目的があった。

 亡命後の彼の行方は、懸命の調査にも関わらずようとして知れなかったのだが、ようやくここに来て、彼が名を変え、修道士として聖アドランに潜伏している事が判明したのだ。

 彼は、各国にて進められている、ノルデンブルクのスパイ活動についての詳細な情報を持っている。もし彼が、彼の持っている情報を他国に流したならば、ノルデンブルクの情報網はズタズタにされてしまうだろう。

 フランツの任務は、彼の滞在している教会に潜入して、彼が情報提供者として、母国にどれだけ被害を与えているかを、調査する事にあった。

 もちろん、条件によっては、彼の抹殺も任務の範囲に含まれている。

      *

 五才まで、フランソワ人の母と共に暮らしていたフランツは、聖アドランの公用語であるフランソワ語にも精通している。

 隣国フランソワ共和国は、あくまで非公式ながら、反政府ゲリラを支援している。

 ノルデンブルク公国正規軍も、フランソワの提供する近代的兵器を手にしたゲリラの討伐には、相当な犠牲を強いられて来た。

 聖アドラン国は中立国でありながら、ノルデンブルクよりも、フランソワに対してより友好的な政策を取っている。

 フランソワ人の血を持つ彼が、今回の作戦に選ばれたのは、もちろん、彼の経歴による所が大きい。

 しかし、彼自身にとっては、この作戦には、祖国に対する踏み絵の要素も含まれているのだ。唯一の肉親であった亡き母、自らのルーツと決別して、真のノルデンブルク臣民となれるのか…。

 彼は迷いを持たないように、心に封印をして、雪原をかけ下りる。

 国境通過ビザを含めた、教会庁発行の身分証は、既にアドランに潜伏している諜報部員が保持している。フランツの名前は、それを手にした瞬間から、イオニア系フランソワ人のジャン・バコギスと変わり、聖アドランでの比較的安全な滞在が保証される事になっていた。早く彼と接触しなくてはならないのだ。

 フランツは、懸命に湖を目指した。

    *

 湖のほとりの、市街地の外れに到達したのは、冬の太陽が山脈の稜線にオレンジの余韻を残すだけとなった頃だった。

(助かった…)

 林に潜み、傍らのガス灯の明りで懐中時計を見る。予定された工作員との接触にはまだ時間があった。

 震える手でポケットに忍ばせていた煙草に火を付ける。何度目かの挑戦で、ようやく黄色い炎を発したマッチに、銜えた煙草を近付けて暖かい煙を肺に吸い込んだ。

 予定の時刻。帽子を深く被り、黒いコートに身を包んだ男が現れ、手に持っていたライトを三度点滅させた。彼が指定された連絡員なのだ。彼が歩き始めた後、尾行の様にして、後を付いて行く。男は酒場の裏口から地下のワイン蔵に下り、その先の扉を開いた。

「ようこそ。聖アドラン国へ」

 彼はコートを脱ぎ、帽子を取った。「しかし、君が生きて、峠を越えるとはね…。私も半信半疑だったのだが、特殊工作員はやはり違うね…」

「………」

 フランツは奥のストーブに当たる。

「さあ、見てくれ」

 男はテーブルの上に、パスポートを置いた。「これが、三日前。手に入れた教会庁発行の身分証明書だ。入国記録のスタンプも押してある。少し手は加えてあるが正真正銘、本物だ。これで君は、無事にそこにある『ジャン・バコギス』になる事が出来る。これで安全な滞在が約束されたよ。もちろん君がしくじらなければだがね…」

「フランソワ系だな…」

「そう、その通り、そこで君が必要になったんだ。君自身フランソワ系だからね」

 男の口調には、少し棘があった。ノルデンブルクでも、こう言う差別は日常茶飯事だ。「出身は、コルドになっているな」

「確かに…」

「俺の母は北部出身だ。僕のフランソワ語は南部訛りではない…」

「彼がコルドで過ごしたのは、十才までだ。彼はエリートだから、綺麗なフランソワ語を話しても不思議ではないし、少なくとも、言語的に北部に属する聖アドランでは、そんな事は問題にはならないんだ」

「そんな事は、本国でレクチャーを受けた。今更、あんたの忠告を必要とはしない」

 フランツが言うと、男は含み笑いをして、首を振る。

「…とにかく、命令を確認しよう。我が国の国家機密を握る男が、丘の上の教会に修道士として潜伏している。お前はあの教会に侵入して、奴の行動を観察しろ。そして、彼と他国工作員との接触が確認されたら、予定の手順で報告しろ。もし、彼にその様子が見られない時や、活動に気付かれた時は…」

「…殺るんだな」

「ああ、彼と情報をこの世から抹殺するんだ」

「了解した」

「今日はもう寝ろ。明日の朝、教会へ行け。そして二度とここには来るな」

 男は部屋を出かけて、振り返った。「一つ言い忘れた事がある。教会には彼と神父と姪の15才の娘がいる」

「娘?」

「盲目の少女だ。貧しい両親に捨てられたらしくてね。この教会に預けられている」

「そうか…」

「変な気を起こすんじゃねえぞ」

「ふざけるな!おれを誰だと思ってるんだ?」

「…そうだな、お前さんは、血も涙もない、冷血の特殊工作員さんだったもんな…」

 男は皮肉な嘲笑を浮かべ、ワイン蔵を後にした。



   2


 翌朝、フランツ、いや、ジャン・バコギスは、さっそく教会へと向かった。

 教会の奥からは、荘厳な響きのパイプオルガンが聞こえる。フランツが大きな扉を開け、教会の内部へと進むと、それまで鳴っていたパイプオルガンが止まった。

「どなたかしら? 神父さまなら、今はいらっしゃいませんけど?」

「いえ、私は、教会庁の依頼で壁画の調査に来た者でして…」

「そうですか…。どうりで、お目に掛かった事のない方だと思いましたわ…」

 彼女はヨロヨロとした足取りで、パイプオルガンの演奏台を降りて来た。「うふふ、私は目が見えないのですけど、そう言う事は、足音や匂いで分かりますのよ」

「匂い?」

「異国の匂い、と言うのか、正確には空気の感じ、と言った方がよろしいかもしれません」

 フランツは少女に手を貸す。「ありがとう。申しおくれましたわね。私はエレナ、エレナ・ナディエです」

「私は、ジャン・バコギスです」

「神父さまなら、もうすぐ帰られると思いますが、では、お待ちになる間、お茶でも…」

「いや、お構いなく…」

 そう言う間もなく、少女は金色の長い髪を揺らしながら、扉の奥へと消えて行った。

 フランツがさっそく壁画を見ていると、背後に刺すような鋭い視線を感じた。

「こんにちは、失礼ですがどなた様でしょうか? お見掛けしない方ですが…」

 振り返ると、黒い衣をまとった肩幅の広い男が立っていた。

 ランボルト・リーザマン。

 顔は長く伸びた髭に覆われてはいるが、間違いはない。今回の作戦の標的(ターゲット)だ。

「教会庁文化財管理局より壁画の調査に派遣されました、ジャン・バコギスと申します」

「失礼ですが、身分証はありますかな?」

「ええ」

 フランツが身分証明書を取り出すと、彼はそれを奪うようにして、注意深く眺めた。

「バコギスと言う名前は、イオニア系ですか?それにしては、そんな雰囲気がありませんな」

「ええ、母親は生粋のフランソワ人ですから、母に似たと言われます…」

 さすが元諜報部員だ。そう言う間のフランツの表情をつぶさに観察している。

「…そうですか、お話は神父さまから聞いておりました。失礼をお許し下さい。私は留守を預かっておる者でして、なにせ、物騒な世情ですから…」

「いえ、気にはしてませんよ」

「私は修道士のマルコ・レインズと申します」

 ランボルトは、そう名乗った。

「しばらくここで仕事をさせて頂きますので、よろしくお願いします」

「…………」

「さあ、いかがですか?」

 その時、少女がポットとティーカップを持って現れた。

「ありがとう、では、遠慮なく…」

 ジャンが言うと、少女は教会正面のキリスト像の脇にある壁画へと近寄る。フランツもカップを持って、彼女の後に続いた。

「ここには、イエスさまと十二使徒が描かれてますわね。真ん中のイエスさまの背後には金の後光が差して、みんなが正面を向いているのに、ユダだけがテーブルのこちらいて…」

「どうして、そんな事が?」

「もちろん、この目で見た事はないのですよ。叔父である神父さまから聞きましたの。でも、それでなくともこの絵の素晴らしさは分かりますわ。この絵には主の愛や慈悲が溢れておりますもの…。とても素晴らしい絵ですわ…」

「これは、無名の修道士が描いた絵です…」

 最後の晩餐。ミラノのレオナルドの作品と比べれば、技術的な面に於いて比べようもない事は、素人の目でも明らかだ。同世代でありながら、ルネッサンスの技術的進化とは無縁の中世的な構図…。

「彼等は伝統を重んじてアドラン高原に籠った、真に純粋な修道士でした。彼等の宗教心の結晶として、確かに教会庁のかけがえのない文化財と言えます」

 少女は愛らしく表情を崩して笑った。

     *

 やがて、神父が帰って来た。

 挨拶のあと、さっそく仕事にかかるフリをしながら、ターゲットの行動を監視する。

 しかし、その日彼は、結局、夕食まで、外出をしなかった。

      *

 夕食の後、フランツは教会の庭に出た。

 ターゲットの部屋の窓が覗ける位置から、窓の明りを眺める。

 ターゲットは何かの本を読んでいる様子だ。


「何をなさっているの?」

 突然、背後から声が掛けられた。

 気付くとエレナが、フランツの傍らにいる。

「なに、食後の散歩をね」

「もっと明るい時なら素敵なお庭なのよ」

「そうだね。今日は一日中仕事をしていたのでね」

 二人の声に気付いたランボルトが、窓から覗いた。フランツはターゲットに愛想よく微笑む。ランボルトは少しだけ唇を歪めて微笑みを返し、ピッタリとカーテンを閉じた。

「あなた、お名前はイオニア系なのに、とても綺麗なフランソワ語を話すのね」

「母は生粋のフランソワ人なんだ。僕は人生のほとんどをフランソワで過ごしたからね。イオニア語の方が、遥かに苦手だよ…」

「フランソワの何処にいらしたの?」

「コルド…」

 そう言って、慌てて後を付け足した。「もっとも、コルドに居たのは十才までだ。その後は、北方のルアーレに居たよ」

「それで、綺麗な北方のニュアンスをなさっているのね。明日、もしお暇でしたら、私が庭を案内致しますわ…」

「ああ、是非お願いするよ…」

    *

 壁画の破損状況を記しながら、ターゲットの行動に気を配る。時間ごとの彼の行動は暗号化して記録にしているが、修道士としての彼には、別段、不審な点は見当たらなかった。

 しかし、それが彼にとって、解放を意味する訳ではない。彼が諜報の世界から足を洗っているなら、彼には死を以てその口を永遠に塞いでもらわなくてはならない。また、彼が他国の諜報部員と接触を保っている形跡があれば、後に逮捕と拷問が待っているのだろう。

 フランツはいかにも壁面の調査をするしぐさで、ターゲットの部屋の側面に当たる壁に盗聴器を取り付けた。盗聴器は壁の向こうの音を拾い、この国に潜む諜報部員の通信機が詳細を傍受する手筈になっていた。

    *

「ああ警部さん。今日は如何致しましたか?」

 フランツが作業を続けていると、教会のドームに神父の声が響いた。横目で振り返ると、そこには三人の警官が立っている。

「最近、隣の国からの密入国の形跡がありましてね。捜索をしておるのですがまだ発見できてはおりません。そこで、こうしてパトロールをして回っておるのです…」

 警部と呼ばれた男が、周囲を威圧するような大きな声で言う。フランツはそれに気付かない様に、調査書にモルタルの破損状況を記録していく。

「こちらでは特に異常はありませんよ」

 神父はそう言ったが、警部は構わず、フランツの方へと近付いて来た。

「あの方は?」

「ああ、彼は壁画調査をしている教会庁のバコギスさんですよ。昨日来られましてね…」

「そうですか、バコギスさん。お仕事中恐縮ですが、ちょっとこちらに来て頂けますかな」

 警部は梯子の下に立ち、フランツを見上げた。フランツは表情を変えずに梯子を下りる。「身分証明を見せて頂けますかな?」

 身分証を差し出すと、警部は注意深くそれを眺めた。背後の警官がフランツの表情を覗いている。「壁画の修復ですか? いかがなものですかな。この教会の壁画は」

「ええ大変素晴らしい物ですよ。文化財としての価値もさる事ながら、美しい物です」

 警部は頷いて、無造作に身分証を返した。

「ほほう、そうですか…。ぶしつけなお願いですがね、恥ずかしながら、我々は不勉強なもので、この国の貴重な文化遺産についての知識が十分ではないのですよ。できればこの機会に、その価値について少しご教授頂けないものですかな?」

「警部さん。彼は今、仕事中なのですよ?」

 オルガンの調律をしていたエレナが、慌てたしぐさで演奏台から下りて来る。

 エレナは、警部がフランツを疑っているのを感じたのだろう、警部の袖を手で引いた。

「全くその通りだ。いや、失礼をしましたな。バコギスさん。この事はどうか忘れて下さい」

 そう言いながらも、警部は疑うような目付きで、フランツの表情を伺っている。

「ジャン。気を悪くしないでね。警部さんは本当は気さくないい人なのよ…」

 エレナはフランツと警部の間に立って言う。

「こちらにおいで下さい」

 フランツは微笑んで警部に語りかけた。「この教会自体、まるごと国の宝と言ってもいい建物物です。保存のためには地元の方の理解を得た方がいい。私がこの教会の壁画についてご説明致しましょう」

 フランツがこの教会の代表的なフレスコ画『最後の晩餐』の前へ向かおうとするのを、警部の後ろにいた若い警官が制した。

「バコギスさん。勝手なお願いなのですが、私はこちらの絵の解説が聞きたいのですよ…、警部もそれで構いませんか?」

 警官はオルガンの向こうにある、小さなフレスコ画を指差した。

「いいとも、この教会は宝の山だそうだから、どの絵でも貴重なんだろうね」

 警部も不敵な笑みで頷く。

「この絵は、十六世紀中頃に描かれた物です。しかし、この地には伝統的信仰を守ろうと言う修道士が集まりました。よってルネッサンスの影響は余り受けず。構図や画法については、むしろ中世的な表現が目立ちます」

「ビザンチン的であると言う事ですかな?」

 若い警官は頷きながら、ゆっくりと聞く。「いえ、当時は既に正教会とカソリックははっきりと分かれていましたから、そう言う言い方はできないと思います。しかし、ビザンチン美術は中世的な伝統の継承を旨としていますから、印象としてはそう思われても間違いではありません」

「具体的にどの辺りが、中世的なのかね?」

 今度は警部が聞いた。

「この絵は、『イエスの復活』を現していますが。中央のイエスの正面を向いたシンメトリカルな描写は、中世やそれ以前の初期キリスト教絵画の特徴であります。それに対してテーブルに座った両端の人物は、手の形や頭の大きさが多少不自然に思われるかもしれませんが、これはいわゆるイコンの典型的な描写と言えるでしょう。この作者が東方的な絵画の素養を持っていたとも考えられます」

「ほう、なるほど…」

 警部が若い警官を振り返る。「君はまだ聞きたい事はあるかね?」「そうですね。この絵の室内描写について何か考察はありませんかな?」

「完全な遠近法ではありませんが、奥行きを感じさせます。これは、北方絵画の室内描写の伝統でもありまして…、この地方なら中世からすでに存在していた伝統的技法です」

「なるほど、一枚の絵だが、多くの要素が複雑に含まれておるのだね」

 警部が感心したように頷いた。

「これはアドラン全般の特徴でもありまして、大変興味深い事です」

「どうだね。勉強になったかね?」

 警部は若い警官を振り返る。

「ええ、大変役に立ちました…」

「今はしがない田舎警官ですがな。これでも彼は、フランソワ国立美術院で宗教美術史を専門にしていましな。途上にて断たれたとは言え、向学心は衰えぬらしくてね…」

「…こうした生きた教材に囲まれたこの国に暮らせるあなたが、私は羨ましいですよ」

 フランツがそう言うと、青年は照れたようにはにかみ頭を下げた。

「ありがとう、バコギスさん。よいお話を聞かせてもらいました。戦時中とは言えのどかな国です。是非快適なご滞在を祈ります」

 そして、三人の警官は、神父と何か話をした後、教会を去って行った。

 警部を送り出した後、フランツの隣にはエレナが立っていた。

「どうして、君は僕をかばったりしたんだ?」

「だって、警部さんはあなたを疑っていたわ」

「僕は最近入国した外国人だ、疑われるのは当たり前だよ。それとも、君も僕の美術の知識を疑ったのかな?」

「そうじゃないの。ただ、あなたは…」

 そう言って、エレナは口を噤む。

「ただ、僕が、どうだって言うんだい?」

 娘の表情を観察しながら、優しく聞く。

 娘は言い掛けた言葉を飲み込み、明らかに言葉を変えた。

「…あなたの専門は、修復でしょう。もしかして、上手く説明が出来ないのではないかと思って…」

「僕は教会庁から派遣されたんだ。宗教美術の知識に、間違いはないよ」

「それじゃ、また、ああ言うお話を聞かせて下さる?」

「もちろん、いいとも」

「私は目が見えないけど、そう言うお話で、絵を想像する事ができますの…」

     *

 フランツの母は、彼が五才の時、不慮の死を遂げた。フランツは父の顔を知らない。

 以来、彼は孤児院で育った。そこは、宗教系の孤児院で、おとなしい少年の唯一の楽しみは、併設された教会の書庫で、宗教関係の書物を触れる事だった。

 特に宗教画を集めた画集は、文字の読めない頃から、彼のお気に入りであった。

 十六の時、教育省の主催する絵画コンクールで賞を取った彼は、奨学金を得て地元の美術大学に入る事が出来た。そこでも成績も優秀であった彼は、卒業後、教授の推薦で、国費留学生としてフランソワ国立美術院への留学が決まっていた。

 その矢先に始まったのが戦争だった。

 留学の話は中止となり、教授は母校で研究職に付く事を薦めたが、彼は志願して軍隊に身を投じた。後に、彼は特殊部隊を志願した。 全部隊の中でも死亡率が高い部隊だ。厳しい訓練中にも幾人もの死者が出た。しかし、彼は訓練中、常に優秀な成績で通した。

 身よりのない彼は、全力で祖国に貢献する以外に、自分の居場所を確保する方法はなかったのだ。それに、対戦国であるフランソワが、母の母国であると言う事が、彼には血の刻印として、深く刻まれていた。

 フランツは、今まで、幾つもの危険な任務に従事した。同期生の三分の二は既にこの世にはいないと言う噂を聞いた事もある。

 しかし、特殊部隊員が抹殺した人間の数は、それを何倍も上回るであろう。今回の任務も、彼等にとっては日常的な作戦にすぎない。



    3


 その日、神父は出掛けた。フランツはエレナに付き添い、庭を散歩するふりをして、鐘楼の上にいるランボルトを監視していた。

「バコギスさん。壁の修復をしているんですが、アドバイスを頂けませんか…」

 鐘楼の上のランボルトから声が掛かった。

「いいですよ」

 フランツは、そう答えて、エレナを残して、鐘楼に続く階段を登った。

 塔の上に彼はいなかった。

「ランボルト・リーザマンを。抹殺せよ!」

 不覚にも不意の母国語に反応してしまう。

「………」

 ランボルトは背後にいた。

 フランツの反応を楽しむように見ている。

 彼は手に持ったレンガを、フランツへ振り下ろした。

「私は、おまえが必ず来る事を知っていた…」

 フランツは、彼の緩慢な動きを制して、腕を捩じり上げる。

 続いてランボルトの足を払う。ランボルトは左腕で鐘にしがみつことしたが、それも適わず、鐘から転落していった。

 探るように階段を登る足音。

 エレナか?

 フランツは祈る。何も気付くな。何も…。

「今の音は何ですの?」

「いや、鐘楼の漆喰が痛んでいてね。下にレンガを落としてしまった。神父様に詫びなくては…」

「マルコは?」

「いや、どうした訳か、彼はいなかったよ」

「嘘、二人の足音を聞いたもの…」

「そんな筈が…」

「…殺したの?」

「いや…、事故だ。二人で鐘を修理していたのだが、彼が足場を滑らせて…」

「違うわ。二人の争う声が聞こえたわ」

「君は何も分からないんだ。何も知らない事にしろ」

「いいえ、私はあなたが出身地を偽っているのも知っている。どんなに外国語の訓練をしても地方のなまりまでは、身につかないのよ。あなたの出身はコルドではないわ」

「な、なぜ、そんな事が言える…」

「私は、両親が死ぬまで、コルドの祖母の所で育ったの…」

「僕はコルドを幼くして出たんだ。その後の時間も長い、忘れたんだ…」

「両親が死ぬまでの十年間。私は耳だけを頼りに生きて来たのよ…。そんな言い訳なんか、通じないわ。あなたはきっと、隣国の…」

「頼む、それ以上言わないでくれ…」

「あなたは、亡命者の彼を殺すために、この国へ…、北の峠を越えて…」

「…………」

 他に方法などなかった。

 フランツはエレナの細い首に、手を掛けた。

 エレナは、呻くように、言う。

「主よ。お願い…、彼の罪をお許し…」

 やがて、彼女の体の力は抜け、だらりと地面に崩れた。

 閉じられた少女の目から、涙が零れた。

「………」

 祈りの言葉など、今の汚れた自分に相応しくない。

 ましてや、涙など…。

 彼は冷血の工作員に戻り、事態の後始末を行った。階下に下りて、礼拝堂に油を撒く。

 火を放ち、ただちに教会を離れた。

 火が消え、彼の死体が現場にない事が分かり、事件の輪郭が像を結ぶ頃には、既に国境を越えているだろう。何も証拠は残らない。

 もし、雪原に何者かの足跡が残ったとしても、そんな物が国家の罪を断ずる証拠たりえない。

 やがて、ジャン・バコギスは正体不明の行方不明者として、時間の彼方に消えるだろう。

     *

 フランツは再び峠に向かう。日が暮れるまで、後三時間程しか余裕はない。背後の湖が輝く夕日を映して、きらめいている。峠には厚い雲がかかり、相当吹雪いている様子だ。 当然装備など何もない。生きて祖国に辿り着く可能性は、そう高くはないだろう。

 彼は最後に一度だけ、聖アドラン国の街を眺めた。小さな箱が並んでいるように見える町。小さな教会から白い一筋の煙が昇っている。今日の晩鐘の鳴る事はない。

『主よ。お願い…、彼の罪をお許し…』

 少女の声が脳裏に蘇る。

 柔らかな喉、だらりと崩れた肢体。

 この手で人を殺めたのは初めてではない。

 しかし、胸の奥から特別の感情が込み上げる。

(余計な思考は消去せよ。今は感傷に浸る時ではない。私は神より、国家への忠誠を誓ったのだ…。国家のためには、少なくとも国境を越えた所で死なねばならないのだ。聖アドラン警察の捜査の及ばぬ場所で…)

 日は暮れ始め、風に飛ばされる粉雪が、彼の視界を阻んでいく。フランツの体温は急激に奪われ、薄い酸素が筋肉の動きを緩慢にしていく。

(進め、進むんだ…)

 フランツの目から、涙が溢れたが、彼はそれを拭おうともしない。

 やがて、彼の姿は、広大な雪原の彼方へと消えて行った。             

ヨーロピアンなテイストです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ