八話 桜の栞
太陽が微睡み、空が茜に染まると、柔らかな光が街を包んでいた。
中央通りの交差点で桃花たちと別れた後、隆二は陽葵と肩を並べて帰路に就いた。
いつもより少しだけ歩幅を縮め、普段のテンポより緩やかに歩く。
「初めてかも、家族以外でどこかに行ったの」
陽葵は顔を照らすオレンジの光に、目を細めて言った。
夕日の儚さが言葉にも纏って哀愁を感じる。
「どうだった?」
「悪くないかな」
陽葵は少しだけ頬を緩めて答えた。
「良かったってことでいい?」
「それはどうかな」
陽葵の緩んだ頬が、いたずらっ子のような顔に変わる。
「素直じゃないな」
お互いの顔に笑みが灯る。
西陽の雰囲気と、肌を撫でるような風が心地よかった。
そして二人の空間を彩る会話も。
「今まで澱んだものばかり触れてきたから、人との繋がりに価値を見出せなかったの。だから知らない景色を見れたのは嬉しかった。自分の価値観を広げてくれて、狭い世界から抜け出す一歩になる」
疑念と悲しみに染まった世界で生きてきた彼女。
黒ずんだ景色が少しだけ色づいたのかもしれない。
今日という何気ない日が、いつか鮮やかな色を帯びて思い出に滲んでくれたら。
隆二はそう思いながら、歩幅をまた少しだけ縮めた。
「平凡ってものすごく価値があるのかもな。退屈な日に嫌気がさすことも、何も無い日を無駄と感じたりできるのも、苦しさの外にいるからかもしれない。そんな日常を大切にできて幸せと思えるようになれたら、なんでもないことにも価値を見出せるのかも」
隆二は沈む夕日を眺めながら言った。
なんでもない普段の景色を、目に焼き付けるように。
「些細な日常にも価値はあるんだと思う。それに気づけるかどうかで生き方が変わる気がする。今日という日が、大切な思い出に変わるように」
「思い出にしてくれの?」
「うん。絵のことを褒めたら照れくさそうにしたこととか」
陽葵は目線だけをこちらに向けて言ってきた。
その顔は少しだけ笑みを浮かべている。
「それは忘れよう」
「一生覚えてる」
「松田の性格が悪いってのは分かった」
「性格悪いから、絶対に忘れない」
二人は小さな歩幅で肩を並べ、顔を綻ばせていた。
16
食卓にはブリの照り焼き、筑前煮、ぬか漬け、豆腐とえのきの味噌汁、白米が並んでいる。
陽葵は甘だれのかかったブリに箸を入れ、口に運ぶ。
「もうすぐだよね、何とかの力が終わるの?」
目の前に座る松田秀人が、ビールを飲んだ後に聞いた。
空になったグラスに麻美が瓶ビールを手酌する。
「悲葬」
隣に座る愛が秀人に向かって言った。
「前から思ってたんだけどさ、なんで悲しみを葬るって書いて悲葬なの? 消してるわけじゃないんでしょ?」
「お父さん、聞いてないの?」
「『関係ないものは詮索するな』って千代子さんに言われた」
陽葵の父は力のことをほとんど知らない。
五家以外には力の詳細を伝えない決まりになっているからだ。
「五家の繋がりなんて無くなればいいのに」
愛の不貞腐れた声が居間に零れる。
「歴史と伝統。これがあるから愛が不自由なく贅沢な暮らしができてるの」
麻美は愛が零した声に、言葉を突き立てる。
今は母ではなく、五家の当主だ。
「でも決められた人と結婚しないといけないんでしょ? 私は絶対嫌だからね」
愛は突き立てらた言葉を引き抜き、麻美に投げ返す。
見えない火花が二人の間でぶつかっているのを感じる。
「今までみんなそうしてきたの。愛だけ特別とはいかない」
「でもお姉ちゃんは彼氏できそうだよ」
両親の視線が陽葵に向けられたのが分かった。
その瞬間、ぬか漬けを掴もうとしていた箸がピタリと止まる。
「同じクラスの男の子と楽しそうに歩いてた」
隆二と帰ってる時、たまたま学校帰りの愛と遭遇した。
その時、どこかニヤけてるような気がしたが、勘違いではなかったと今の言葉で確信した。
「そうなの?」
秀人の問いに心臓が掴まれるようだった。
麻美を見ると突き刺すような視線を送っきた。陽葵は目線の置き所に迷う。
「……ただのクラスメイトだから」
「楽しそうな顔してたよ。私はお似合いだと思うけど」
陽葵が睨むと、愛は食器を持って「ごちそうさま」と居間を出る。
部屋には重い空気が漂っていた。
陽葵のために言ったのかもしれないが、愛が思う以上に五家の伝統は重いものだ。
きっと大人には理解されない。高校生の想いなど。
「陽葵、この家系に生まれたなら伝統は守りなさい」
麻美は躾けるような口調で言葉を押し付けてきた。
「伝統がそんなに大事?」
「当たり前でしょ」
「歴史や伝統が変わらなくても時代は変わっていく。人の価値観も。植えつけられた考えじゃなく、大切なものぐらい自分で決めたい」
「そんなこと……」
陽葵は麻美の言葉を遮るように立ち上がると、「私は自由がほしい」と言って居間を出た。
苛立ちに近い感情を携えたまま、二階にある自分の部屋に戻った。
ベッドに腰掛けると、ナイトテーブルで充電していたスマホに目を向ける。
手に取ると、一枚の写真を画面に映した。
そこには、隆二たちと公園で撮った五人の思い出が彩っていた。
陽葵は自然体の笑顔で、四人に溶け込むように写っている。
何かを残すことが嫌いだった。
たった一つの大切な思い出が上書きされてしまいそうで。
だけどこの写真はあの頃の思い出を美しく飾るものだ。
ずっと止まっていた幼い頃の記憶から、約十年ぶりに二ページ目を捲ることができた。
色褪せない桜をくれた君が、また思い出に色を塗ってくれた。