七話 思い出日和
登校する生徒たちの喧騒を縫って昇降口に辿り着くと、下駄箱の前に隆二がいた。誰かを待っている様子だ。
「松田、おはよう」
目が合うと挨拶された。
昨日のことで気まずさがあり「……おはよう」と、囁くように返した。
「もう大丈夫?」
隆二にそう聞かれ、陽葵は小さく頷く。
「ちょっと来てもらっていいかな?」
「どこに?」
「ここだと話しにくいから」
力のことかもしれない、と陽葵は思った。
愛が隆二たちに説明したと言っていたので、すぐに頭をよぎった。
陽葵は一度周りを見渡してから、「分かった」と口にする。
それを聞いた隆二は、昇降口を出て外に向かった。
校舎裏に来ると、桃花たちの姿が目に入った。
拓海が「おはよう」と言った後、隣にいる智子が笑顔で小さく手を振る。桃花だけは俯いていた。
「愛ちゃんに聞いた。悲しみを消すんじゃなく、自分が背負うってこと。そのせいでフラッシュバックを見せられることも」
三人の前に来ると、隆二が真剣な面持ちで話し始めた。
「ごめん、私のせいで辛くさせて」
桃花は萎れていた顔を上げ、陽葵の目を見て言った。
「気にしなくていいよ。いつものことだから」
「いつものことかもしれないけど……もう悲しい記憶だけを見なくていいと思う」
桃花の言っていることが、陽葵には分からなかった。
戸惑ったため隆二に視線を送る。
「昨日、俺たちで話合ったんだけど……」
「待って」
隆二が話そうとすると、桃花が言葉を裁断した。
「私が言う」
「分かった」
隆二から受け取った桃花が、途切れた話を縫い始める。
「今まで辛い思い出ばっかりだって聞いた。でもこれからは楽しい思い出を作ってほしい。だから……友達になれたらって思ってる」
――友達になりたいってさ
陽葵は愛が言っていた言葉を思い出す。
間接的に言われるのと直接言われるのでは、言葉の重みが違った。
「妹に言われた? 友達になってあげてって」
陽葵はまだ信じきれなかった。
義理で『友達になって』と言っているのだとしたら、そんな気遣いは逆に苦しくなる。
それなら、いつも通り一人でいた方が楽だ。
だけどもし本心なら……陽葵がそう思っていると、桃花が大きく首を振った。
「私たちの意志。誰かに言われたからじゃない」
桃花の目に決意のようなものを感じた。
自分の中にある積み重ねられた疑念。
約十年、穢れた記憶を背負いながら生きてきた。
歪んだ色に染められた瞳は、他人の見方を変える。
いつからか人を信用できなくなり、裏切られるのが怖くて人を遠ざけた。
たった一つの思い出を除けば、楽しかった記憶は持っていない。
だけど、もう一度触れられるのであれば……
「俺たちにも背負わせてほしい。それと、笑ってる思い出も作らせて」
隆二の言葉に陽葵は唇を噛んだ。緩みそうになる頬をきつく縛るために。
*
昼休みの喧騒を抜けて、グラウンドの隅にあるベンチに辿り着いた。
「話したいことがある」と桃花から言われ、後を付いてきた。
桃花が腰を下ろしたので、陽葵もベンチに座る。
「話って?」
「あのさ……」
どこか淀んだ口調だ。
「私の過去見たんだよね? どの場面だった?」
桃花のフラッシュバックを思い出す。
彼氏だと思っていた相手に、心を抉られるような言葉を吐かれていた。
「男の人に別れを告げられたところ」
陽葵は慎重に言葉を選んだ。
言い方次第では、再び傷を付けてしまうと思ったから。
「そっか、やっぱりそこか」
繕ったような笑顔で桃花は言った。切なさを帯びた表情に胸が痛む。
「全部見たよね?」
「……うん」
桃花が空を仰いだので、陽葵も視線を上げる。
澄み渡る青が、この場の空気を少しだけ緩和してくれているように感じた。
「初めての彼氏……だと思ってた」
思ってた、という言葉が重くのしかかる。
「かなり浮かれてたと思う。隆二たちには『彼氏ができた』って自慢げに報告してさ、惚気るように話してた。だから“付き合ってなかった”ってことは言えずにいたの。自分が惨めだと思われるのが嫌だったから」
恋を失うどころか、初めから手にしていなかった。
その時の絶望を陽葵も知っている。
だから下手な慰めよりも、桃花の話を聞くことに徹した。
「私ね、中学のときにみんなからハブかれてたの。学年で一番モテてた男子が、私のことを好きって噂が流れて、それから女子の間で無視されるようになった。靴を隠されたり、教科書に落書きされたり、悲惨な学校生活だったの」
桃花の表情は穏やかだったが、膝に置かれた拳は力強く握られていた。
「その時の私は気が弱かったから、何も言い返せずにいた。だから高校では舐められないにしようと思ったの。悪口を言われたら必ず反論するし、陰で何か言われてたら直接問いただす。そんなんだから友達も出来なくてさ、結局、高校でも一人ぼっちだった」
桃花の気の強さは、弱かった自分を武装するためのものだった。
だからこそ、過剰に反応してしまう。
どこか私と似ている、と陽葵は思った。
「そんな時に隆二に言われたの。『気を張りすぎてるから、もう少し力を抜いたほうがいい。今の藤原は自分で自分を傷付けてるって』。その後からかな、三人と仲良くなったのは。あの三人といると肩肘張らなくていい。だから中学のことも話せた。そしたら、そのままでいいよって言ってくれたの。でもいきすぎた時はちゃんと注意する。それでもいいなら一緒にいようって。これは智子だったかな」
桃花の顔から笑みが零れた。それは取り繕ってる笑顔ではなく、本心から出たものに見えた。
「嫌だったら答えなくていいんだけど、ハブかれてた時より、別れを告げられた方が辛かったの?」
陽葵は疑問に思っていたことを聞いた。
今の話だと中学の時の方が辛いように思えたからだ。
「隆二たち以外で初めて信用できた人だった。バイト先で知り合ったんだけど、こんな私にいつも優しかったの。中学の話をした時も『俺はそんな辛い目に合わせない』って言ってくれたし、私のワガママも、こんな面倒くさい性格も、全部受け入れてくれた。年上っていうのもあったのかもしれないけど、その包容力が好きになった理由。この人以上に好きになる人はいないと思ったし、運命の相手だとも感じた。でも蓋を開けてみれば、都合の良い女として扱われただけ。信用してたからこそ苦しかった」
陽葵は切り取られた記憶しか見ることはできない。
その過程を桃花から聞いて、あの時の言葉の重みが初めて理解できた。
「ごめん、何も知らなかったのに酷いこと言って」
陽葵は教室で桃花と喧嘩した時のことを思い浮かべながら謝った。
あの時は嫉妬も含まれていたため、不必要に感情を吐き出してしまった。
友達の作れない陽葵には、外の世界で慰めてくれる人もいない。
「私の方こそごめん。一人でいる辛さを誰よりも分かってるはずなのに、感情的になると誰かを傷付けてしまう。自分のことを棚上げして、相手のことを考えられなくなってた。こんな人間、裏切られて当然かも」
声や表情には気弱さが感じられた。こっちの桃花が本当の姿なのかもしれない。
「ハブかれた時のことがトラウマになって、舐められたくないって気持ちがより強くなるんだと思う。だから相手よりもきついことを言おうとするし、それが自分を守る手段になる。そういう人は何人かいた。でも今は過去に付随する悲しみは消えた。これからはトラウマに伴う言動も減ってくると思う。この力は負の感情を無くすだけではなく、これから先の生き方を変える力がある。だから、悲しみを消して良かったと思えるような生き方をして。私も報われるから」
桃花は大きく頷いた後、「ありがとう」と零した。
*
白い無地のカーテンが風に揺れる、静寂と哀愁を纏う放課後の教室に陽葵たちはいた。
「どこ行こうか?」
凪いだ教室に拓海の言葉が響く。
「映画行こうよ」
桃花が続き、波紋のごとく会話が広がっていく。
放課後にどこか行こうと桃花に言われ、教室で話し合うことになった。
だが陽葵は浮かない表情で俯いている。
それを察したのか、隆二が「どうした?」と顔を覗かせてきた。
「電車乗れない」
「フラッシュバック?」
智子の問いに、陽葵は頷く。
まだ見ていないフラッシュバックがあった。
半年前、貿易会社を経営をしている五十代の男性が依頼者として家に訪問してきた。
娘が痴漢に遭い、それ以来男性不信になったとのことで、悲葬の力を使って悲しみを背負った。
以降、陽葵は電車に乗っていない。なるべく人前でのフラッシュバックは避けたいし、電車という密閉された空間では恐怖は増長される。
「でも目を瞑ってれば乗れるかもしれないから、映画でも大丈夫」
あまり気を遣わせたくなかった。
その空気も嫌だし、自分だけ異質な存在になるのが耐え難かいから。
「そういえば俺、映画見るなって医者に止められてたんだ」
「私も映画見たら内臓が破裂するって外科医に言われてた」
「どんな病気だよ」
拓海と桃花の冗談に智子はすかさずツッコミを入れる。
空気が悪くならないようにしてくれたことに、陽葵は感謝した。
そして思わず「フフッ」と笑みが零れる。
顔を上げると、みんなが陽葵を見ていた。
「何?」
「いーや、何でもない」
拓海がニヤニヤしながら言ってきた。
視線のやり場に困っていたら、隆二の顔が視界に入った。
その表情は、優しく微笑んでいた。
15
「智子、動け」
「もう無理、動けない」
隆二たちは桃花の提案で公園に来ていた。
広大な芝生広場には、家族連れやフリスビーをする小学生たちが見受けられる。
隆二の家から持ってきたラケットとシャトルで、五人はバトミントンをしていた。
隆二は陽葵とダブルスを組み、拓海と智子のペアと試合をしている。
「隆二たちの勝ち」
審判を務めていた桃花の声が広場に響く。
智子はその場に倒れ込み、空を仰いだ。
「おいしっかりしろ。全国行くって約束したろ」
「そん……そんなこと……言って……ない」
拓海が檄を飛ばすが、智子は死にそうな声で返答する。
「ダメだ。智子はもう使えない」
「じゃあ、私がやる」
「智子、桃花にラケットを渡せ。そして青空の下で懺悔しろ」
「なん……なんで……ざん……ざん」
智子は拓海の言葉にツッコミを入れようとしているが、体力の限界でキレどころか、声すら出せずにいる。
「とりあえず、一回休憩してから再開しよう。あそこで死んでる女に水を与えないといけないし」
「私も行く」
「私も……」
桃花が言った後、智子が立ち上がる。
「買ってくるから死んでろ」
「大丈夫、歩けるから」
拓海と桃花で智子を介抱しながら、50メートルほど先にある売店に向かっていった。
その際、「隆二、次負けた方が明日の飯代奢りだからな」と拓海が言う。
三人の背中を見送ると陽葵が腰を下ろしたため、隆二も座る。
「まさかバトミントンをするとは思わなかった」
陽葵は背筋を張り、組んだ手を空に向かって伸ばした。
「確かに」
「でも悪くないかな」
陽葵を見ると、遠くを眺めるように空を見上げていた。
「バトミント好きなの?」
「好きというか、何気ない日常が私にとっては特別だから」
多くの悲しみを背負い、人を信用できなくなった陽葵。
友達と遊ぶということもほとんどなかったのかもしれない。
隆二たちの普通は、陽葵にとって特別。
陽葵の普通は、隆二たちにとって特別。
同い年であり、同じ町で育った隆二と陽葵。
環境が違うだけで価値観が変わる。
知らない世界があることを知り、片隅で生きていたんだなと隆二は思った。
「いつか、日常になるといいな」
「そうだね」
広い世界の片隅で、二人は空を見上げる。
「ずっと思い出に近づきたかった」
「思い出?」
隆二は青い空から視線を下ろし、陽葵に向けた。
「七歳でこの力を受け継いで、人の悪い部分をたくさん見てきた。だから裏切られることが怖かったの。でも一つだけ大切にしてる思い出がある。その思い出の中にいると優しい気持ちになるの。私の宝物」
陽葵は懐かしむような目で語っていた。表情に優しさを咲かせて。
「どんな思い出?」
陽葵は隆二を一瞥してから、「内緒」と言って、再び空に視線を帰す。
「言ってよ」
「絶対教えない」
「じゃあ次の試合わざと負ける」
「そしたら、ご飯奢ることになるよ」
「松田と割り勘にするから大丈夫」
「巻き込まないで」
隆二と陽葵は笑顔を灯らせ、青空の下で会話を咲かせた。
*
公園から新忍川を越えると公民館がある。
一階ロビーには『桜の絵画コンテスト・歴代受賞作品』と書かれた看板があり、桜が描かれた八作品の絵が並んでいた。
「あった」
桃花が指を差した先には、手を繋いだ少年と少女が満開の桜を眺めている絵が飾られていた。
少年は白のTシャツと短パン。少女は白いワンピースに麦わら帽子を被っている。
絵の下には「村田隆二作」と書かれていた。
中学三年の時に市が開催したコンテストで最優秀賞を取った。
隆二にとってこの絵は特別なものであり、大切な思い出を描いた作品だ。
昨年も飾られており、四人で観に来た。それを拓海が覚えており、今年も行こうと言い出した。
「中学の時に描いたんだっけ?」
桃花は絵に顔を近づける。
「うん」
「確かグラミー賞取ったんだよな」
「それは音楽。看板を見ろ」と智子は指を差す。
「松田、コメント欄読んでみて」
拓海が陽葵に向かって言った。
名前の下には受賞した時のコメントが添えられている。
「もう行こう」
隆二が出口に足を向けると、桃花がコメントを読み始めた。
「賞を頂けて光栄です。僕は修蘭高校に入学しようと思っています。ありがとうございました」
桃花が読み終わると、沈黙が腰を下ろした。
「なんで入学する高校宣言してるの?」
拓海が沈黙を捲って、隆二に問いかける。
「聞かれたんじゃないかな」
「普通聞くか? 受賞コメントで」
「去年も同じやり取りしてなかった?」
「してた」
「もうかえろ……」
隆二が振り向くと、絵をじっと見ている陽葵の姿が目に入った。
「松田さん、見入ってますね」
拓海が陽葵の隣に並んで言った。
「今までで一番好きな絵だから」
隆二の鼓膜に鮮やかな言の葉が降った。
紅葉が頬に散り、体温が上がり、心が喜びに浸る。
自分の描いた絵を『一番好き』と言われたことが、隆二にとって最高の褒め言葉だった。
「ですって、隆二さん」
「う、うん」
「松田さん、隆二さんが照れております」
「別に照れてはない」
陽葵が隆二の方に体を向けると、双眸を三日月のようにしならせて「良い絵だよ」と優しく言葉を差し出してきた。
「ありがとう……」
渡された賛辞を、視線を逸らして受け取る。
面映さが邪魔をして、声が消え入りそうだった。
「隆二が照れ死にする前に帰るか」
「うるせえ」
何気ないやりとりは笑いに包まれた。
いつか今日を振り返ったとき、きっと大切な思い出になる。
隆二は心の中でそう感じていた。