六話 影に降る桜
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降り注ぐ薄暮の光が庭園を茜に染めていた。
普段なら美しいと感じているだろうが、今の隆二はそう思える心境ではない。
陽葵を家に送る途中も、彼女は苦しそうに胸を押さえており、一向に止まることのない涙に隆二は不安を覚えた。
家に着いた後、玄関から出てくる愛に事情を説明。彼女はすぐに状況を把握し、陽葵を二階に連れて行った。
その際、「この間の部屋で待ってて」と言われたため、隆二たちは昨日通された客間に来た。
家には愛以外にいる気配はない。
耳を澄ましても、生活音は聞こえなかった。
桃花を見ると、動揺が窺えた。
何度も立ち上がっては部屋を歩き回り、その度に「落ちつけ」と拓海に言われている。
また桃花が立ちあがろうとした時、部屋の襖が開いて愛が入ってきた。
「松田は?」
隆二が聞くと、愛は座卓に着いてから「落ち着いたみたい」と口にする。
張り詰めた空気が安堵に染まる。
「今までで一番辛かった出来事って何?」
桃花は聞かれたのが自分だと分かっておらず、智子に肩を叩かれてようやく気づく。
「失恋かな……」
「その人との辛い思い出がある所には行ってない?」
「行ってないけど……」
「けど?」
桃花が語尾を濁したため、智子がそれを拾う。
「お店出た時にカップルがいたでしょ? 男の方は私が付き合ってた人」
「マジ? じゃああれが浮気した彼氏?」
拓海の目が驚きを表すように見開く。
「“元”ね。もう別れた」
桃花は“元”を強調する。
「それだ」
みんなの視線が愛に向かう。
「どういうこと?」
智子が愛に聞くと、桃花が何かを思い出したように話し始める。
「そういえば、『付き合ってた人とそこには行った?』って聞かれた」
「そういや言ってたな」と拓海が頷く。
「悲しみを消すことと、何か関係があるの?」
隆二の問いに愛は俯いた。
桃花は表情から察したのか、「何かあるの?」と声を向ける。
「あるなら教えて。俺たちにも責任はあるから」
隆二の言葉に、愛は口を固く結んだ。
その瞬間、安堵していた空気が一転し、緊張が走る。
桃花の顔には不安が描かれていた。瞬きの多さが物語っている。
「みんなは……お姉ちゃんと友達なの?」
愛の質問に、静けさが横たわる。
隆二は言葉を探したが、なんと言っていいか分からなかった。
今まで陽葵との接点はほとんどない。図書室で本の感想を言ったときくらいだ。
でも妹の前で友達じゃないと言うのは憚られる。
特殊な力を使わせたことも含めて。
「ちゃんと喋ったのは、今日が初めてかも」
答えづらい質問に智子が口火を切ると、拓海と桃花が一息吐いたのが視界の隅に映った。
「一年のときはクラスも違ったからな」
「そうだね」
拓海と桃花も続く。
「じゃあ、力を使うためだけ?」
重力がのしかかるような質問に、一同は口を閉ざした。
その疑問符には敵意が混ざっているようにも感じる。
「それは……」
桃花がまごつきながら声を発する。
だが愛に視線を向けられると、言葉を見失うように開いた口を閉じた。
「松田が楽しそうにしてるところを初めて見た」
固く結ばれた沈黙を解くように、隆二は話を続ける。
「こんな表情もするんだって知れて嬉しかった。松田はどう思ってるかは分からないけど、俺は友達になりたいと思ってる」
カフェで会話していた時のことを隆二は思い出していた。
桃花たちのやりとりを聞いていた陽葵は、穏やかな笑みを見せていたと思う。
痛みを抱えた少女が傷を癒しているようにも見えた。
何か理由があって一人になることを選んでいるなら、それを知りたい。
隆二はそんな思いで愛に言葉を渡した。
「私が無理やり頼んだの。力を使うことで何か悪いことがあるなら、その責任は私にある。だから言って、何も知らないままは嫌だから」
桃花の顔からは不安が消え、覚悟が見てとれた。
「俺たちもその場に居たわけだし、桃花一人の責任とは言えないよな」
「そうだね。だから私たちにも背負わせほしい。松田さんの力になれることがあるなら協力したい」
拓海と智子がそう言うと、愛は少し間を置いてから、「分かった」と零した。
「お姉ちゃんが持つ力のことを教える」
隆二たちは体を前のめりにして、愛に耳を傾ける。
「この力の名前を私たちは悲葬と呼んでる。記憶に付随する悲しみを他者から自分に移すの」
「消すんじゃなくて?」
「正式には悲しみを背負う」
「背負うってどう言うこと?」
桃花と智子が矢継ぎ早に質問を重ねる。
「辛かった過去を思い出しても、苦しむ感覚は無くなったでしょ?」
「確かに無くなった」
「簡単に説明すると、記憶はそのまま残るけど、その時に感じた悲しい感情は消える。だから思い出しても辛さはない。ここまではいい?」
隆二たちが頷くと、愛は話を続けた。
「悲葬の力を使うと、相手が一番辛かった記憶がお姉ちゃんにも見えるようになる。だけど自分の意思では見ることはできない。その記憶に関わる出来事や象徴、場所、人物に触れると強制的にフラッシュバックする」
「じゃあ、私が一番辛かった時の記憶を見たってこと?」
「さっきお姉ちゃんに聞いたら、桃花ちゃんの記憶だって言ってた」
愛の言葉を耳に入れた桃花は、表情に影を映した。
「依頼者の視点で一番辛かった記憶を体験し、その時の感情がリンクする」
「さっき泣いてたのって……」
「その時の桃花ちゃんの感情を、お姉ちゃんも同じように感じていた」
耳を疑うような言葉が次々と並べられる。
だが実際に桃花の悲しみは消えた。隆二はまだ半信半疑だったが、少しづつ確信に変わっていくのが自分でも分かった。
「泣きたいほど苦しかったら、松田も同じように涙を流すってこと?」
「そう」
「写真やテレビとかでもフラッシュバックするの?」
「実際に目にした時だけ。言葉だけではならないらしい。まだ見てないフラッシュバックもある」
愛は拓海と智子の質問に淀みなく答える。
「これからも私の記憶を見る可能性があるってこと?」
不安を貼り付けたような顔で桃花が聞くと、愛は首を横に振った。
「同じ人のフラッシュバックは一度きり。だから桃花ちゃんの記憶を見ることはもうない」
「そっか……でも私のせいで……」
桃花は顔を下に向けながら、沈んだ声を部屋に響かせた。
「多くの悲しみを背負う度に、他人の辛い過去を体験してきた。人間の悪い部分を幼い頃から見せられてきたから、お姉ちゃんは人を信用できなくなったの」
学校で誰とも接しない理由が分かった。
陽葵にとって他人は、いつか裏切る存在だからだ。
桃花と教室で喧嘩したときの言葉も、そういうニュアンスだった。
「でも、そんなリスクあるのに何で断らなかったの?」
拓海の言うとおりだ。辛い目にあうなら断ればいい。
ましてや桃花と仲がいいわけじゃない。むしろ悪かった。
「直接頼まれたら掟で断れないの。だから力のことは誰にも言わないでほしい」
視界の隅で桃花の表情が曇ったのが見えた。
「悲葬の力は十年ごとに継承者を変える。もうすぐその十年が経つけど、今まで見てきた辛い過去は頭に残る。お姉ちゃんにも、家族以外で信用できる人がいたらってずっと願ってた。他人の辛い記憶をたくさん持たされたから、これからは楽しい思い出を作って普通の生活をしてほしい。もし友達になってくれるなら約束してほしいの。絶対にお姉ちゃんを傷付けないって」
愛は真剣な眼差しを向けてきた。十年の重みが、その目から感じ取れる。
隆二は真っ直ぐな目で応え、愛に視線を送った。
そして誓いを立てるように「約束する」と力強く答えた。
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陽葵はベッドに横たわり、意味もなく天井を見上げていた。
先ほどまで降り続いていた涙もいつしか止み、今は感情が凪いでいる。
トントン、とドアを叩く音が耳に入った後、「入っていい?」という声が聞こえた。
「うん」
ゆっくりと開いたドアから、愛の姿が見えた。
「クラスの子たちに悲葬のことを話した」
愛はベッドの横に腰を下ろし、陽葵に目線を揃える。
「お母さんに怒られるよ」
「内緒にしてればいい」
愛は機嫌が良さそうだった。顔に咲いた笑顔を見て、陽葵はそう思った。
「……なんか言ってた?」
「ショック受けてた。自分のせいでお姉ちゃんが辛い目にあったから」
陽葵の頭に桃花の顔がよぎった。
「あと、友達になりたいってさ」
予想だにしない言葉に表情が固まる。
声を出そうとするが、上手く出せない。何を言っていいかも分からなかった。
「私ですら、お姉ちゃんが楽しそうにしてるの見たことないのに」
「どういうこと?」
「隆二くんだっけ? 言ってたよ。松田が楽しそうにしてるところを初めて見たって」
カフェの時だ、と陽葵は思い出す。
「お姉ちゃんさ……」
声色が変わったような気がしたため、愛に視線を送る。
「あの人たちと友達になってみれば?」
「どうして?」
「今回は桃花ちゃんって子が強引に頼んだんでしょ?」
「そう言ってたの?」
「うん。その時にさ、『力を使うことで何か悪いことがあるなら、その責任は私にある』って言ったの。そしたら他の子も、『桃花一人の責任とは言えない』、『私たちにも背負わせてほしい』って言ってた。それ聞いてさ、この人たちならお姉ちゃんのことを守ってくれそうだなって思った」
愛の声に嬉しさが滲んでいる。
陽葵の中にも、もしかしたらという期待は芽吹いていた。
他人といて居心地が良いと思ったことはなかったが、あの空間に自分が馴染んでいるような錯覚があったからだ。
まだ咲いてはいないが、希望という花に想いを馳せている自分もいた。
「ちなみに、友達になりたいって一番に言ったのは隆二くん」
「え?」
思わず声が出た。陽葵は咄嗟に手で口を塞ぐ。
「友達になれるといいね」
愛の笑った顔と言葉に戸惑い、陽葵は背中を向ける。
「別に……なりたいなんて思ってない」
「照れてるでしょ?」
「照れてない」
声を強めて返しことが面白かったのか、「フフッ」という愛の笑い声が聞こえた。
「考えてもいいんじゃない」
背中から聞こえてくる声に「……うん」と陽葵は返した。