四話 思い出の切れ端
6
身長の倍はある立派な数奇屋門を見上げながら、隆二たちは立ち尽くしていた。檜の木肌と格子の引き戸が、家の格式の高さを表している。
「松田さんのご自宅ってお金持ちだったんですね」
拓海は茫然としながら言う。
陽葵が格子を開けると、二階建ての和風建築の全体が見えた。
「大っきい」
桃花の言うように、一般的な家の二軒分くらいの大きさがあり、門扉から玄関までは二十メートルほどある。
そこまでの道には白玉砂利が敷き詰めらており、飛び石が等間隔に玄関まで続く。
左側は庭になっており、大きな松の木や石灯籠などが目に入った。
一目でしっかりと手入れされていることが分かる。
「すごいね」
智子の言葉に隆二は「うん」と頷く。
家の中に入ると、五人が横に並べる広い三和土と、卓球台が置けるであろう玄関ホールが視界に飛び込んできた。
正面には掛け軸が掛けられており、分岐するように左には通路、右側には階段がある。
「広いですよ、隆二さん」
「うん」
旅館と言われても納得できるほどの、品と高級感が漂っている。
「上がって」
「お邪魔します」
靴を脱いで式台に足をかけると、二階から女の子が降りてきた。
「友達?」
「クラスの人」
女の子はショートボブの前髪をかき上げ、大きな目を瞬かせながら、まだ幼さが残る顔を陽葵に向けていた。
「こんにちわ。私たちは陽葵さんのクラスメイトで、今日はお家にお邪魔させていただきます」
智子が会釈をしたため、隆二たちも倣って頭を下げた。
「妹の愛です。お姉ちゃんがいつもお世話になっています」
愛は丁寧なお辞儀をした。まだ中学生くらいだと思うが、品性を感じる。
「あっ!」
愛が顔を上げた後、目線があった。
すると何か思い出したのか、目の前の少女は声をあげる。
「知り合い?」
智子に聞かれ、隆二は記憶を辿ったが、愛の顔が見当たらなかったため首を横に振った。
「愛、三人を客間に案内して」
陽葵が話を逸らすように言葉を挟む。
「三人?」
愛は、小さく首を傾げる。
「それと装束も用意して」
「それって……」
「頼まれたから」
「この人たちは知ってるの?」
愛は先ほどと打って変わり、目つきが鋭くなった。
幼さが残る顔が急に大人びたように感じ、隆二たちは戸惑いを見せる。
「祥子ちゃんとファミレスで話してたら聞かれたの」
盗み聞きしていた罪悪感からか、桃花は気まずそうに視線を宙に彷徨わせた。
「祥子ちゃんて、この間の?」
「そう」
「力を使った後のことは?」
愛の鈴のような澄んだ声色がワントーン下がり、場の空気が重くなる。
「何かあるの?」
智子が聞くと、陽葵は一瞥で返し、桃花に視線を移す。
「付いてきて」
陽葵が階段を上がっていくと、桃花は不安そうな顔で後を付いていった。
「じゃあ三人はこっち」
隆二たちは愛に案内され、客間と思われる部屋に入る。
十畳ほどの和室には掛け軸がかけられた床の間があり、床板には空間を灯す生け花が飾られていた。
「他にこのことを知ってる人は?」
隆二たちが座卓に着いたとき、愛がそう問いかけてきた。
「たぶん私たちだけだと思う」
「誰にも言わないで。絶対に」
強調した語尾と真剣な目つきに、三人は息を呑んだ。
悲しみを消すという力を隆二はまだ疑っていたが、愛の顔を見ると本当かもしれないという気持ちが湧く。
「本当に悲しみを消せるの?」
拓海が聞くと、愛は沈黙を携えて俯いた。
その顔には悲しみと切なさのグラデーションのような色が見える。
「分かった。誰にも言わない」
隆二は真っ直ぐな目を向け、愛と同じ温度で言葉を返した。
「お願い」
愛はそう言った後、「消せないよ、なんにも」と呟くように言葉を零した。
7
板戸で仕切られた6畳の和室。四隅には和紙灯台が置いてある。
部屋の中央に座る桃花は、部屋を見渡していた。
通路側の板戸だけが開いており、光はそこから入るだけで部屋全体は薄暗い。
何の変哲もない和室だが、筆舌に尽くし難い空気が全身に纏わりついているようだった。
部屋に入る光が遮られたため通路側に視線を移すと、そこには巫女のような格好をした陽葵が立っていた。
その瞬間、鼓動が早まり、背筋をなぞるように緊張が走る。
陽葵が部屋に足を踏み入れると、板戸を閉めた。
光が完全に遮断され、何も見えなくなる。
「えっ、もう始まるの?」
困惑を滲ませた声で聞いたが、言葉が返ってこない。
感情が不安で埋め尽くされ、息をするのも苦しくなる。
「闇夜に落ちゆく悲の命、我が火影となりて道を照らそう。神よ、力を結びたまえ」
その言葉を合図に、四隅の和紙灯台が灯る。
目の前には陽葵が座っており、左手の人差し指と中指を口元に置いていた。
桃花は今の状況が分からず、頭の中で思考が絡まる。
「さっき聞いてたと思うけど、悲しみを消せるのは一度だけ」
陽葵の言葉で意識を現実に戻し、耳を傾ける。
「力を使うと、今までの悲しみが押し寄せてくる。苦しくなると思うけど我慢して」
言っていることは分からなかったが、とりあえず小さく頷いた。
「じゃあ、始める」
陽葵はそう言った後、腕を伸ばして桃花の額に指を置いた。
これから何が始まるか分からない恐怖が、桃花の心臓を大きく跳ねさせる。
「辛苦に染まる記憶を解錠し、連なる悲しみを胸臆から掬い上げよ」
陽葵の指が額から離れると、急に胸が苦しくなった。
呼吸がだんだんと荒くなり、過呼吸のようになっていく。
「何これ、勝手に……」
そして、目から涙が零れ落ちた。
涙は豪雨のように流れ続けた。拭っても拭っても、一向に止まらない。
心臓を強く握られるように、悲しみが蝕んでいく。
次第に嗚咽となり、もはや桃花の意思ではどうすることもできなかった。
悲痛や恐怖が心にいくつも傷を付け、耐えがたい痛みが重なり合う。
早く解放されたかった。死が頭によぎるほど苦痛が注がれる。
――もう無理
そう思ったとき、陽葵が再度額に指を置いた。
「身魂蝕む悲しみを払い、固く結ばれた痛みを解こう。時は再び動き出す。消えゆく悲哀と共に」
陽葵が指を離すと、額から黒い光のようなものが出てきた。
その瞬間、霧散するように苦しさが消える。
「え……」
桃花が茫然と声を漏らすと、陽葵は黒い光を指先に纏わせ、胸元に置いて目を瞑った。
「この悲しみを背負い、悲葬の力で葬り去ろう」
言下、纏っていた黒い光が体内に入っていく。
陽葵が目を開くと、部屋を灯していた四隅の和紙灯台が消え、二人は暗闇に紛れた。
8
「悩んでたのが嘘みたい」
隆二たちは陽葵の家を後にし、駅方面に向かっていた。
桃花は声を弾ませながら、ステップを踏んで先頭を歩いている。
「マジで消えたの?」
拓海は目を点滅させるように瞬きしている。
「今なら笑って話せるよ。思い出しても全然辛くない」
「超能力なのかな」
呟く智子の声を耳にいれながら、隆二は愛が言っていたことを思い出していた。
――力を使った後のことは?
――誰にも言わないで。絶対に
この言葉から察すれば、何かしらの代償があるのかもしれない。
桃花を見る限り、何か言われた様子はなさそうだ。
でも何もないなら、この力をもっと流布してもいいと思う。
人助けにもなるし、言い方は悪くなるが稼ぐことだってできる。
それをしないのは……
桃花が嬉々に話すのをよそに、隆二は頭の中で愛の言葉を何度も反芻していた。
「隆二」
拓海の言葉で現実に戻ると、三人が隆二を見ている。
「何?」
「何じゃなくて、隆二の家はあっちでしょ?」
周りを見ると、中央通りの交差点にいた。
真っ直ぐ行くと駅だが、隆二の家は左に曲がって十五分ほどのところにある。
「ああ、じゃあ明日」
「じゃあな」
三人は横断歩道を渡り、駅に向かって行く。
隆二はさゆらぐ思考を結び合わせながら、信号が青に変わるのを待っていた。
桃花の悲しみが消えたことは喜ばしいが、引っ掛かるものがある。
別れ際の陽葵の顔はどこか悲しみを帯びていた。
人を救えば本人だって嬉しくなるはずだが、そんな様子は微塵も感じられなかった。
あの力には秘密があるのかもしれない。
もしそれが陽葵に不都合なことを起こすなら……
歩行者用信号が青に変わると、隆二は踵を返して陽葵の家に向かった。
9
「なんでクラスの子に力のことを話したの」
陽葵は帰ってきた麻美に力を使用したことを話した。
掟ではないが、力を使う際は五家の当主に許可を得なければならない。
無断使用は厳禁。それは五家の取り決めだった。
麻美は血相を変え、陽葵を叱りつける。
自分だけ犠牲を伴うのに『なぜ怒られないといけないのか』という疑念が陽葵の頭によぎった。
「このあいだ来た依頼者と“たまたま”会ったの。そしたら会話を聞かれた」
「羽村さん?」
「娘のほう」
麻美は頭を抱えながら溜息を吐く。
「羽村さんには強く言うべきだった。掟に従って、二度と祥子ちゃんに会わないように」
「それは掟じゃない。勝手に当主同士で決めたこと」
「だとしても、会わない方がいい」
「それは都合が悪いから? 私が余計なこと言うと思ってるんでしょ?」
陽葵は鋭い視線で麻美を刺す。
「もし他の人に力が知られたら、辛くなるのは陽葵でしょ? そのために言ってるの」
「他言しないように伝えた」
居間の隅で話を聞いていた愛が言葉を挟んだ。
「とにかくもう会わないこと。それと、クラスの子には力の存在を喧伝させないよう釘を刺して」
陽葵は麻美のことは嫌いではない。
だが、母から五家の当主に変わる時は、他人に言葉を向けているように感じた。
その瞬間だけは、形容しがたい寂しさが胸を覆う。
本当に家族と思っているのだろうか、そんな疑念すら出てくる時もあった。
「どこ行くの?」
感情が歪みそうになったため居間を出ようとすると、麻美に呼び止められた。
「散歩」
「私も行くよ」
陽葵は愛に視線を送ると、間を置いてから首を振った。
「今日は一人で行く」
「でもフラッシュバックが……」
愛の心配そうな表情が視界に入ると、陽葵は心苦しくなった。
何度見た光景か分からない。
まだ中学生の妹に気を遣わせてしまい、迷惑をかけているのではないかと罪悪感を抱く。
「大丈夫、今日は一人がいいの」
本音を胸の中に仕舞い、繕った言葉を残してから居間を出ていった。
10
隆二は陽葵の家の前で立ち尽くしていた。
力のことを聞こうと戻ったが、そもそも聞いていいものなのかと疑念が湧いた。
あんまり詮索するのも良くないとは思う。
でも力を使うにあたって代償的なものがあれば、陽葵に背負わせてしまったことになる。
もしそうなら、謝らなければいけない。
誰かの犠牲で成り立つ幸福では、意味が変わってくるからだ。
隆二は考えを巡らせながら右手を宙に彷徨わせていると、引き戸越しに、玄関から誰かが出てくるのが見えた。
程なくしてそれが陽葵と分かる。
彼女もこちらに気づいたようで、格子の引き戸を開けると、「忘れ物?」と聞いてきた。
「忘れてはないんだけど、力のことを聞こうと思って……」
陽葵は何かを考えているのか、視線を下ろしたまま黙っている。
「言えないならいいよ。ただ……簡単に使える力なのかなって」
隆二がそう言った後、陽葵がじっとこちらを見てきた。
そして三秒ほどの沈黙を置いた後、
「ねえ、桜見に行かない?」
*
陽葵に誘われ、公園に来た。
ここには子供の頃からよく来ている。
隆二にとって大切な場所であり、始まりの場所だった。
公園までの往路で会話はなかった。
どこか話かけづらい空気が横たわり、言葉を発せなかったからだ。
隆二と陽葵は、肩を並べながら広場に並ぶ桜を見上げている。
夕日に照らされた春の象徴は、切なさを携えながら花弁を散らせていた。
季節の終わりを告げるように、これから眠りにつくように。
陽葵を見ると、少しだけ口角が上がっていた。
桜が好きなのかは分からないが、普段笑わない彼女の綻んだ顔に目が離せなかった。
「何?」
「本当に消えたの?」
陽葵が急に視線を向けてきたため、見ていたことを言葉で誤魔化す。
「変なことしてないか心配になった?」
「そういうわけじゃないけど、なんか信じられなくて」
「大丈夫。記憶が消えたわけでもないし、副作用みたいなものは起こらないから」
副作用――その言葉で気になっていることを隆二は聞いた。
「超能力とかオカルトとか俺にはよく分からないけど、松田自身には何も起こらないの?」
陽葵は口を噤んだ。
広場で遊ぶ子供たちの声が、先ほどより鮮明に耳に入ってくる。
やっぱり何かあるのかと思い、聞き返そうとしたが、先に陽葵が口を開く。
「ねえ、もし辛いことがあるなら消そうか? ついでだし」
陽葵は笑みを零した。
だがそれは、悲しさを隠すような笑顔に見えた。
「いじめや虐待とか、その人を歪めてしまうようなものは消えた方がいいけど、消してはいけない悲しみもあると思う。大切なものまで忘れてしまような、そんな悲しみも」
隆二は桜に視線を移し、話を続けた。
「抱えることで苦しむこともあるけど、抱えることで強くなることもあると思うんだ。人生にはその両方が降りかかる。簡単に何かの力を頼ってしまえば、その後の道ですぐに躓く。そんな気がするから俺はいい」
そっか、と隣で囁くような声が聞こえた。
「絵を描くのが好きなの? この時期になると、ここで描いてるよね?」
陽葵は話題を変えるように聞いてきた。
「見られてたんだ」
陽葵は一笑して「うん」と答える。
「好きというか、小学校の教員になろうと思ってる」
「小学校の先生と絵って関係あるの?」
「絵を通して子供たちに色々教えられたらって。それと……」
「それと?」
その先の言葉を言うか迷ったが、喉元から胸に下ろすことにした。
隆二にとって恥ずかしさを伴うことだったから。
「ううん。何でもない」
隆二は再び桜を見上げた。
あの頃の思い出を、目の前の景色に重ねながら。
「いつか聞かせてね」
陽葵がそう言ってきたので顔を向けると、彼女も桜を見上げていた。
「もう一つの理由」
「いつかね」
*
隆二は家に帰ると自分の部屋に直行し、学習机の引き出しからスケッチブックを取り出す。
表紙を捲ると、色鉛筆で描かれた拙い桜の絵が描かれていた。
このスケッチブックには桜だけが描かれており、ページを捲るたびに絵が上達している。
再び最初のページに戻り、懐かしみながら桜を眺めた。
物語が途切れた思い出の花。
今もまだ記憶の中で枯れずに咲いている。
誰かに話せばきっと笑われるだろう。
だけど隆二にとっては宝物と言えるほど大切なものだった。