三話 秘め事
「じゃあファミレスで待ってる」
「うん」
隆二は教室で拓海たちと別れ、図書室へと向かった。
週に一回、図書委員として放課後に作業する。ポスターを貼ったり、棚の整理をする簡易なものだ。
図書室に入るとカウンターの前に陽葵がいた。手に本を持っている。
周りを見渡すと陽葵以外は誰もおらず、他の図書委員はまだ来ていないようだった。
「返却?」
「うん」
隆二は陽葵から本を受け取る。
表紙を見ると、数年前に流行った恋愛小説だった。
初恋の相手と数年ぶりに再会し、再び恋に落ちるのだが、女性が交通事故で記憶を失ってしまう。
男性はそれでも彼女のそばに寄り添い、最後は結ばれて結婚するという物語だ。
貸し出しカードを見ると、陽葵の名前の上に『村田隆二』と書かれている。
半年ほど前に借りたのを思い出しながら、隆二は今日の日付を書き込んだ。
「その本……どうだった?」
肩にかかる毛先を触りながら、陽葵は聞いてきた。
くっきりとした二重瞼を瞬かせ、血色の良い紅い唇を噛みしめている。
「面白かったよ」
「私も……」
陽葵は整った面立ちを隠すように俯いた。
窓から入る日差しのせいか、頬が赤みを帯びている。
「もし自分が主人公だったら……そう思いながら読んでた」
隆二は物語を思い出しながら、表紙に書かれたタイトルを親指で撫でる。
「男の方?」
「うん。もし好きな相手が記憶を失ったら、自分はどうするんだろうって」
「どうするの?」
陽葵の質問に、隆二は少し間を置いてから答える。
「過去を追い求めるんじゃなく、その人が安心できるような居場所を作りたい。自分だけ何も知らないでいるから、負い目を感じるかもしれないし、想いの密度も違う。だから思い出さようとするんじゃなくて、また好きになってもらえるように努力する。実際に起こったら出来ないかもしれないけど、でもそうしたい。好きな人には笑って過ごしてほしいから」
フィクションを本気で考えるなんて可笑しいよな、と隆二は頭を掻きながら付言した。
「ううん、そんなことない。私だったら相手に押し付けてしまうと思うから、そんな考え浮かびもしなかった。私もそんな優しさを持ちたい」
陽葵の顔には笑顔が咲いていた。
普段見せることのない表情に鼓動が少し跳ねる。
「ありがとう」
隆二は自分の指に視線を置き、お礼を言った。
そのあと沈黙が流れ、気まずさのある空気に変わりかけていたため、後ろにある返却棚に本を置き、背中越しに話しかけた。
「松田は桃花と何かあったの? 昔喧嘩したとか」
「そんなんじゃない」
隆二は振り向き、陽葵を見る。
「羨ましかっただけ、だたの嫉妬」
陽葵の切なく染まる双眸が、隆二の目に焼き付いた。
その瞬間、彼女がものすごく遠い存在に感じた。
悲しみの中を流離い、蜃気楼に消えてゆくような、そんな悲痛さが胸に横たわった。
「じゃあ……また明日」
陽葵はそう言い残して去っていった。
斜陽が差し込む図書室には、寂寥の余韻が佇んでいた。
3
陽葵は隆二との会話を思い出しながら、帰路に就いていた。
高校に入学して一年経つが、今までで一番長い会話だった。
一年生の秋頃、隆二が図書委員であることを知り、それから図書室に通うようになった。
本はそこまで好きではない。
初めて読んだ小説が自分に合わなかったからだ。
しばらく敬遠していたが、図書室に通うために読むようになった。
だが、なかなか自分に合う本を見つけられない。
段々と読むことが苦痛になってきた時、手にした本の返却カードに『村田隆二』という名前を見つけた。
ファンタジー小説だった。あまり好きなジャンルではなかったが、彼のことを知れるような気がしたので、すぐに本を借りた。
同じ本を借りるなんて特別なことではないが、カウンターに彼の姿を見た時、緊張が走った。
震える指を息を吐いて押さえた後、隆二に本を渡す。
「これ面白かったよ」
急に声をかけられたため、「え……あっ、うん」と瞳を揺らした。
「ごめん急に」
「いや……大丈夫。面白いんだね、この本」
「うん」
それが隆二との初めての会話だった。
胸が高鳴り、顔が熱くなったのを今でも覚えている。
たった一言、二言の会話だったが、陽葵にとっては大きな一歩だった。
家に帰り、就寝前にその本を開いた。
彼はどこを楽しいと感じたんだろう?
どんな想いで読んでいたんだろう?
そんなことを想像しながらページを捲っていると、夜が耽るまで物語に浸っていた。
今まで苦痛だった読書が初めて楽しいと感じる。
内容が面白かったということもあるが、それ以上に意味を持って読んだことが大きかった。
一度解けた“私の物語”が、また結ばれるような気がしたからだ。
陽葵は思い出に浸りながら、星が空に埋もれるまで読み耽った。
そして今日の本は3冊目だ。
隆二が借覧したものを立て続けに借りたため、もしかしたら不快に思っているかもと考えたが、さっきのやりとりで安堵した。
――好きな人には笑って過ごしてほしい
彼の言った言葉を何度も頭の中で再生する。
少しだけ隆二のことを知れたと思うと、思わず顔が綻んだ。
家の前に着くと、祥子が門扉の前に立っていた。
先日、悲葬の力を使った同い年の女の子だ。
「どうしたの?」
「この間のお礼をしようと思って……」
あまり人と話し馴れてないのか、彼女は俯きながら言葉を発した。
「よかったらこれ」
彼女は手に持っていた紙袋を渡してきた。虎の絵柄が描かれていたため、たぶん羊羹だろうと推測する。
「お父さんは?」
「一人で来ました。ずっと父に頼って生きてきたので、これからは一人で何かしたいと思ったから……」
陽葵は祥子の記憶を見ている。
体育倉庫で同級生と思われる子らに、バケツで水をかけられていた。
その時の感情を陽葵は思い出す。
「とりあえず場所変えよう」
*
陽葵たちは近くのファミレスへと足を運んだ。
祥子に何か頼む? と聞いたが、なんでもいいと言うのでドリンクバーだけにした。
「お父さんには言ったの? うちに来ること」
「はい、伝えました。一緒に行こうと言われたんですが、自分を変えるきっかけがほしかったので無断で来ました」
いじめがきっかけで彼女は引きこもってしまった。
社会から数年間離れていたため、不安があるのかもしれない。
「陽葵さんは事情も知ってるし、もしかしたら話せるかもって思ったんです。外と繋がる一歩になればなって」
複雑な想いを抱きながら、陽葵は彼女の話を聞いていた。
悲葬の力は人を救うと同時に犠牲を伴う。
その犠牲を背負うのは陽葵自身だ。だから目の前の女の子の幸せを純粋に喜べなかった。
「同い年だから敬語は使わなくていいよ」
「あっ、はい……うん」
祥子は照れくさかったのか、誤魔化すようにオレンジジュースを口にする。
「学校には行ってないんだっけ?」
「行ってない。だから勉強して大検受けようかなって」
「そっか」
「これからは同世代の子たちと同じように過ごしたい。バイトしたり、友達を作って遊びに行ったり……恋したりとか」
祥子は再びオレンジジュスースを口にする。
「……いい恋になるといいね」
「うん」と、赤らめながら祥子は頷いた。
4
「浮気されたうえに好きじゃないって言われて、おまけに向こうから別れを告げるクソ野郎だけど、思い出すのは楽しかったことなんだよね。辛いことだけ消えれば、綺麗なまま思い出に仕舞えるのに」
桃花はポテトを口に運びながら、失恋の傷をなぞっていた。
目の前のグラスには濁った色の飲み物が入っている。
間違ってオレンジジュースとコーラを混ぜてしまったが、飲んでみたら悪くなかったのでそのままにした。
「もう忘れろよ、そんな奴」
「忘れたいけどさ……」
「まあ、でも辛いよね」
「めっちゃ辛い」
拓海と智子が、桃花の嘆きに合いの手を入れる。
「恋ってなんで苦しいんだろ」
ため息混じりに発した言葉が、胸に重くのしかかるようだった。
「しかも私の傷口に唾を吐いて、高笑いしてくる女もいるし」
「唾は吐いてないし、高笑いもしてないでしょ。勝手に盛り付けないの」
「桃花さ、松田が気に触るようなこと言ったりしたんじゃないの?」
拓海の言葉で記憶を辿るが、思い当たる節はなかった。
「してないよ。それどころか、まともに会話したこともない」
「実は桃花の元カレと前に付き合ってたとか」
拓海がそう言うと、桃花は顔の前で手を大きく横に振った。
「ないない。そもそも人とコミュニケーション取れないでしょ、あの女」
「あの女とか言わないの」
智子が叱りつけるように言うと、桃花は重いため息を吐いた。
「辛い記憶だけ消せたらいいのに。楽しいことだけ思い出に仕舞えたら、心に傷は付かないのにね」
桃花は一人ごとのようにぼやいた後、窓の外に見える澄んだ空を眺めた。
「そういえば……」
拓海が何かを思い出したように口を開いた。
「都市伝説でさ、悲しみを消せる人間がいるって聞いたことある」
「都市伝説でしょ。実際にそんな人……」
「本当に?」
智子の言葉を遮り、桃花は目を見開いて拓海に顔を近づける。
「都市伝説な。本当にいるわけじゃねーよ」
「実際に悲しみを消してもらった人が、体験談を語って広まったのかも」
「拓海、桃花はこういうの信じやすいから言っちゃダメ」
「いやでも……」
「よし」と言って、桃花が立ち上がる。
「そいつを探して、私の失恋を癒してもらう」
「ほら、こうなったらもう収集つかないよ」
「でもどうやって探すんだよ」
桃花は顎に手を当て、思考を巡らせた。
十秒ほど悩んだ末、「分からん。それは拓海が考える」と言い、ジュースを飲み干して、ドリンクバーに向かった。
「なんで俺なんだよ」
拓海の声が背中から聞こえてきたが、桃花は希望に満ちた顔で無視をした。
ドリンクバーでジンジャエールを入れ、席に戻ろうとした時、仕切られた四名席に陽葵の姿が見えた。対面には同い年くらいの女の子がいる。
友達? いやそんなはずはない。人間嫌いであろうあの女に友達という概念はないはずだ。いやでも……
桃花の頭は混乱していた。絡まった思考を解くため、急いで席に戻り智子と拓海に話す。
「中学の同級生とかじゃない」
智子がそう言うと、桃花は大きく首を振る。
「友達ではない。断言する」
「じゃあ何だよ」
「……拾った宇宙人」
「失恋すると、人って頭がおかしくなるんだな」
「隆二が来たら、みんなで病院行こう」
拓海と智子は呆れた様子で言う。
「でも友達ではない。絶対そう」
血相を変えて桃花が反論する。陽葵に友達がいることを認めたくなかった。
「とりあえず座れ」
「一旦落ち着きな」
二人は宥めるように言うが、桃花は言葉を受け入れない。
「……める」
「何?」
ぼそっと声を零した桃花に、拓海が眉を顰めて聞いた。
「確かめる。あの二人がどういう関係性なのか」
「直接聞くの?」
「会話を盗む」
桃花はそう言うと、陽葵たちの座る席に向かった。
「ちょっとやめな」
智子の声が聞こえたが、桃花は耳を塞いで足を早める。
陽葵の座る席は、店内の一番端にある壁際だった。
姿を見られないようにするため、遠回りで隣の席に身を隠す。
ソファの背もたれの上には、すりガラスが設置されており、そこに耳を当て会話を聞く。
「陽葵ちゃんには感謝してる。イジメられてた時のことを思い出しても、今はなんとも思わない。あの時の記憶が自分のものじゃないみたいに。でもイジメられてた事実は消えてないんだよね?」
相手の子の声だ。
会話から察するに助けたと言うことか? と桃花は考えた。
だがすぐに、『いや、それはない。誰かを救うような女ではない』と結論づけた。
「記憶に付随してる負の感情を乖離させただけ。だから悲しさという感情を無くしたわけじゃない。あくまでも過去のみ。それと、一人の人間には一度しか使えないから、これから起こる辛い出来事は消せない。それは覚えといて」
陽葵の言葉を聞き、桃花は先ほど拓海が言っていたことを思い出す。
――悲しみを消せる人間がいる
全身に鳥肌が立つようだった。脳内が雑然とする。
「分かった。私自身が強くならないといけないってことだよね。頑張って生きてみる」
「うん」
「最初にお父さんから聞いた時は驚いた。悲しみを消せる人がいるって言うから」
その言葉に「うそ……」と桃花は声を漏らす。
自分の耳を疑うべきか、この二人がおかしいのか、もはや桃花には分からなかった。
「何やってんの?」
声をかけられため視線を上げると、そこには隆二が立っていた。
「拓海と智子は?」
桃花は口の前に人差し指を置き『静かにして』とジェスチャーで伝えるが、隆二は怪訝な顔でこちらを見ている。
「隠れて……」
桃花が息混じりの声を出しとき、陽葵の姿が視界に入った。
「なんでいるの?」
陽葵の言葉に桃花の表情は固まる。
「どういう状況?」
隆二の質問に「いや……」と桃花は狼狽えた。
5
祥子を先に帰し、ファミレスの駐車場で話すことになった。
陽葵は自分の手が汗ばんでるのに気づき、スカートで手を拭う。
「さっきの話、本当なの?」
桃花の問いに陽葵は沈黙で返す。
「状況が分からないんだけど。説明してくれる」
拓海は陽葵と桃花を交互に見てそう言った。隣にいる智子も困惑した様子だ。
「この子は人の悲しみを消せるの」
「それは都市伝説だろ」
拓海は嘲笑うように言う。
「さっきの女の子が話してた。悲しみを感じなくなったって」
拓海と智子は口を開けたまま、目を丸くしている。
「ねえ、どうなの?」
桃花が詰め寄って聞いてきた。
手に滲む汗が、風を受けて冷たく感じる。
「桃花、そんな問い詰めるような聞き方やめろ。そもそも盗み聞きしてたなら、まずは謝るべきだろ」
隆二の言葉に、桃花は不貞腐れながら俯く。
「それは、悪かった……でも、さっきのことは本当なの?」
再度向けられた視線が、心臓を刺してくるようだった。
まるで孤独に突き落とされたかのように、自分の居場所がないように感じる。
「さっきのことは忘れて。言えるのはそれだけ」
「そう……」
もう少し粘られると思っていたが、今の返答だと諦めてくれたみたいだ。
揺れ動いていた感情が凪ぎ、静かに息を吐いた。
「なら……」
桃花の声に心音が再び跳ねる。
「言わないであげる。ただし、私の悲しみも消して。それが条件」