二話 足元の花びら
自宅に戻り、陽葵は部屋のベットで横になっていた。
フラッシュバックを見てから三十分ほど経ったが、今も心が悲しみで浸水しているようだった。
「お水、持ってこようか?」
ベッド脇にいる愛が、双眸に不安を滲ませながら顔を覗いてくる。
「大丈夫。それよりもそばにいてほしい」
「分かった」
愛が頷いた直後、ドアがノックされた。
扉に視線を送ると、着物姿の麻美が部屋に入ってくる。
「そろそろ準備して、時間だから」
麻美はベッドで横たわる陽葵を見た後、一泊置き、平坦な口調で言ってきた。
「フラッシュバック起こしたの。今朝の女の子の記憶だよ。だから今日は無理。別の日に変えてもらって」
「それはできない。少しだけ遅れるって伝える」
愛の訴えに麻美は冷静に答えた。
「自分の娘が苦しんでるのに、なんでそんな態度ができるの? 心配くらいしなよ」
「仕方ないでしょ。その力のおかげで私たちは恩恵を受けてるんだから」
「そんなの知らない。お母さんたちが勝手に伝統だとか言ってるだけじゃん。お姉ちゃんを巻き込まないでよ」
麻美は沈黙した。その顔には悲しみのようなものが滲んでいる。
「大丈夫……もう落ち着いたから」
陽葵はゆっくりとベットから上体を起こす。
「無理しなくていいよ」
「本当に大丈夫」
愛の心配そうな表情を受け、陽葵は無理やり笑顔を作った。
「でも……」
「支度できたら降りてきなさい」
麻美の声は冷淡だったが、どこか感情を押し殺しているようにも感じた。
「ごめんね、力になれなくて」
部屋を出て行く麻美の背中を見ていると、愛の沈んだ声が虚しさを携えて部屋に零れた。
「愛は何も悪くないでしょ? だから気にしないで。いてくれるだけで助かるから」
「うん……」
*
二十畳ほどの和室に、一枚板の座卓が二卓並べられている。
窓側の席に古賀和彦、岩崎豊、千代子、柴崎弘子が座っている。
皆、七十代半ばくらいの年齢で、各家系の当主だ。
千代子の隣には男の子がおり、先ほどアーケード街ですれ違った子だった。
――来るなよ、バカ悠人
――追いつかれたら菌がうつるぞ
二人の男の子にそう言われていたことを、陽葵は思い出していた。
後ろではその子の母が正座しているが、どこか居心地が悪そうに見える。
陽葵と麻美は対面に座り、皆からの視線を浴びていた。
陽葵の母は松田家の当主だ。
昨年の春に祖父を亡くしたため、麻美だけ二回りほど若い。
「全員集まったな。では始めるか」
千代子はそう言って、話を始めた。
「松田家が悲葬の力を継いでもうすぐ十年が経つ。掟に従い、その力を次の世代に繋げる。次の十年は柴崎家当主の孫である柴崎悠人が引き継ぎ、使命を全うする。力の指南は掟に従い、前任者にあたる陽葵がするように」
悠人はキョトンとした顔で千代子を見ていた。
十年前の自分も、何も聞かされずに連れてこられたことを陽葵は思い出す。
「千代さん、悲葬の力を使った娘はどうだった? 確か羽村と言ったか」
岩崎が尋ねると、千代子は悠人の母に視線を送った。
「悠人、行こう」
彼女が悠人を連れ、居間を出ていくと、再び千代子は口を開く。
「借りができた今なら、見合いを申し入れても受け入れるだろう。岩崎、お前の孫は大学生だったな」
「ああ、そうだが」
「なら岩崎家に嫁いでもらおう」
陽葵は不快に思い岩崎を睨んでいると、隣に座る麻美が膝を叩いてきて、『やめなさい』という視線を送ってきた。
「父親は商社の役員だったな。なら悪くない」
「あんたの孫、恋人がいたろ」
悠人の祖母である弘子が岩崎に問いかける。
「そんなの別れさせればいい。どうせ身分の合わない相手だ。相応しい相手と結婚できるなら問題ないだろ」
岩崎は気色ばんで反論する。
「落ちぶれたもんだね、五家の歴史と伝統ってやつも。まあそれは昔からか」
弘子は呆れた様子でため息を吐いた。
「口を慎め、その歴史と伝統を守ためにやってることだろ」
岩崎は先ほどよりも顔を強張らせる。
「落ち着け岩崎、口争いをしても話が滞るだけだ。いつも通り決を取って決める。異論あるものは挙手を」
千代子の言葉に真っ先に手を挙げる陽葵。
「お前は当主じゃないだろ。出しゃばるな」
陽葵が岩崎を睨むと、「やめなさい」と麻美が叱声を飛ばした。
「麻美んとこのお嬢ちゃんも、いずれは当主になるんだ。二人とも青筋を立てるな」
「今は違うだろ」
「もうやめろ岩崎。埒が開かないから話を進める。異論がない者は手を挙げろ」
岩崎、千代子、麻美が挙手する。
挙げなかったのは柴崎家の当主である弘子と、前継承家である古賀家の当主だ。
古賀を見ると難儀しているのか、頭を抱えている。
「古賀、どちらだ」
千代子の声で古賀は渋々と手を挙げる。
「決まりだ。これもすべて五家の繁栄のため。皆、これからも尽力してくれ」
2
春を美しく装飾する桜。空に舞う花弁が季節を染めていた。
校門前の桜並木には、登校する生徒たちの喧騒が響いている。
桜の木を見上げながら、隆二は揺蕩う感情を抱きながら歩いていた。
思い出を振り返る時はいつもこの季節だ。
記憶は歳を重ねるたび霞んでいくが、あの日のことは今も鮮明に刻まれている。
「隆二」
追憶に浸っていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、目にかかる前髪を揺らしながら清水拓海が走ってくる。
「おっはよう」
声を弾ませながら肩を組んできた。今日も朝から元気が良い。
「おはよう」
少し温度差はあるが、拓海の明るさに釣られて声が一音上がる。
「桜を見ると元気が出るよな」
「拓海はたいてい元気だろ」
「それだけが取り柄だから」
拓海は腕を組んで、ドヤ顔を描いた。
「確かに」
「おい! 友達なら『そんなことはない』とか……『そんなことはない』とか色々かける言葉があるだろ」
「どっちも一緒だろ」
「全然違えよ」
「どこが違うんだよ」
「それは……あっ、そうだ。昨日サッカー見た?」
「話を逸らすなよ」
その後も何気ない会話をしながら、舞い散る桜の中を進み、昇降口へと辿り着く。
下駄箱から上履きを取り出した時、「おはよう」と拓海が言った。
誰に言ったのだろうと思い振り向くと、陽葵の姿が視界に入る。
陽葵は拓海の挨拶を無視して、下駄箱から上履きを取り出した。
別に拓海が嫌われているわけではない。
彼女はいつもこうだ。他の人が挨拶をしても返さない。でも……
「おはよう……」
陽葵と目が合うと、向こうから挨拶してきた。だが言った後、すぐに視線を伏せる。
「おはよう」
隆二が挨拶を返すと、陽葵は足早に去っていった。
名状し難い余韻を残して。
「おはようって言ったの俺だよな」
拓海が腑に落ちない様子で聞いてきた。
「うん」
「でも『おはよう』の返信は、お前にだよな」
「うん」
「これって、おはようの転売だよな」
「売ってはないだろ」
「俺、松田に嫌われてるのかな?」
「別に嫌われてるわけではないだろ。誰が挨拶しても無視してるし」
「でもお前にだけはするよな。一年の時から」
拓海の言うとおり、隆二にだけは挨拶をするし返してくる。
だが今まで交流もほとんどなく、会話もあまりしたことはない。
なぜ自分にだけ? と隆二も不思議に思っていた。
ぶつくさと呟く拓海と共に、生徒たちの喧騒を縫って教室に入ると、
「いいとこに来た。ちょっと来て」
と、森田智子が手招きしている。
教室の中央に向かうと、うつ伏せで座る藤原桃花の姿が目に入った。
栗色の長い髪を、腕の中に巻き込むようにして縮こまっている。
呻くように何かをブツブツ言ってるが、言葉は聞き取れない。
「二人も慰めてあげて」
「何があったの?」
「彼氏に浮気された挙句、『最初からお前のこと好きじゃなかった』っていうボディからのストレートを喰らい、最終的には向こうから別れようって言われ、とどめを刺された」
「もうヤダ、死にたい」
智子の説明の後、桃花がはっきりと言葉を口にした。
その声だけで荒んでるのが伝わる。
「そんな奴と別れられて良かったじゃねーか」
拓海が投げやりに言う。
「でも好きだった」
「もっと良い人いるから」
「どこに?」
拓海は一考してから「南米あたり」と言うと、桃花は顔を上げた。
「なんで海を跨ぐのよ。ああー、もう無理。裏切られるなら、初めから好きになんてならなければよかった」
声からは苛立ちを感じるが、表情からは傷心が見てとれる。感情が忙しない。
「バカみたい」
冷淡に囁いた声が耳に入った。
「今、なんて言った?」
桃花も聞こえたらしく、顔を顰めながら振り返る。
後ろの席には陽葵が座っており、無視するように本を読んでいる。
「聞いてんの?」
桃花は本を取り上げ、声を荒げた。
先ほどまで賑わっていた教室からは喧騒が消え、今は二人に視線が集まっている。
陽葵は呆れた顔で小さく息を吐いた。
「人なんて裏切るのが当たり前。なんで裏切られないと思ったの? バカみたいに赤の他人を信用するからそうなるんでしょ」
その言葉に、桃花は一層顔を顰めた。
「あんたに言われる筋合いはない。ていうか恋もしたことないんでしょ? その前に友達もいなそうだもんね。だから人の気持ちも分からないんだよ」
「一人になりたくないから友達を作ってるだけでしょ? ただの寄せ集めだから、都合が悪くなったら簡単に裏切る。人なんてそんなもの」
「二人ともやめなって」
智子が宥めるが、振り払うように桃花が反論する。
「いつも一人でいるから性格歪んでるね。友達がどうこう言ってるけど、欲しくても作れないんでしょ? きっと一生一人だよ。あんたみたいな奴は」
「桃花、言い過ぎだぞ」
「だって、こいつが悪いもん」
拓海が叱りつけるように言うと、桃花はむくれて答えた。
その隙をつくように陽葵は席から立ち上がり、廊下の方に向かっていく。
「ちょっと、まだ終わってない」
桃花の言葉で、陽葵は足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「私だって真っ直ぐ生きたかった。こんな風になりたくなかったよ」
悲しみを帯びた声だった。
心の底にある、見えない何かが滲むような。
一瞬だけ陽葵と目があったが、すぐに視線は外され、教室から去っていった。
*
暖かな春陽が差し、青い空には綿雲が泳いでいる。
隆二たちはサッカーゴール裏の芝生が生えた斜面で昼食をとっていた。
平穏な景色に心地よさを感じていたが、隣で響く怒声が快い気分を阻害する。
「ほんと最悪。こっちは死にたいくらい落ち込んでるんだよ。傷口に塩と豆板醤塗られた気分」
「味付けしないで」
桃花の比喩に智子がツッコミを入れる。
「まあ、少しは気が紛れて良かったんじゃねーの」
拓海が購買で買ったサンドイッチを食べながら、投げやりに言う。
「紛れるどころか、悲しさが名刺持って挨拶しにきた」
「学校終わったらどこか行く? すっきりするまで愚痴聞くから」
そう言われると、桃花はじっと智子を見つめた。
「何?」
「優しさを見せないで、泣くから」
隆二はポケットからハンカチを取り出し、桃花に差し出す。
「使って」
桃花の目が潤み、徐々に顔が歪んでくる。
「拓海、私を罵倒して。涙腺が決壊する」
「アホ、バカ、酢豚のパイナップル」
「子供か。それと酢豚のパイナップルは好きだからやめて」
智子がすかさずツッコミを添える。
「てかさ、何で松田っていつも一人でいるんだろう? コミュ障っていうより、自分から人を避けてるって感じがするんだよな」
「それをコミュ障って言うの。挨拶すらまともに出来ないじゃん」
拓海の問いに、桃花が怒りを含ませて答える。
「でも隆二には挨拶するよな」
「隆二、あんな女に引っかかちゃダメだからね。絶対後悔するから」
「松田は俺のことなんとも思ってないだろ。ほとんど話したことないし」
「とにかく、関わっちゃダメ。私たちは松田陽葵を断じて許さないんだから」
桃花は強く握り締めた拳を顔の前に掲げた。
「別に関わるのはいいんじゃない」
「俺たちは松田に怒ってないし」
智子と拓海がそう言うと、桃花は眉根を寄せる。
「お前たち、松田陽葵の回し者だろ。もういい、二人とは今日で友達をやめる」
「じゃあ桃花の代わりに松田呼ぶか」
「そうだね、これからはその四人で学校生活を送ろう」
「拓海のクソ野郎。お前なんかハゲてしまえ。そして……ハゲてしまえ」
「何で俺だけなんだよ、智子も言ったろ。しかも二回もハゲさすな」
隆二は三人のやりとりを静かに見ていた。
桃花は感情で突っ走るタイプだが、拓海や智子が上手く手綱を握って落ち着かせる。
この関係性が好きだった。
一人だけでは埋められないものを、みんなで補っているようだったから。
*
昼休みが終わり、教室へと戻るため渡り廊下を歩いていた。
「ティッシュ」
智子がポケットティッシュを取り出して桃花の鼻に当てると、「ズズッー」という音を響かせ、勢いよく鼻をかんだ。
桃花の両手には丸められたティッシュが溢れており、智子はそこにティッシュを追加する。
「鬼の子、人でなし、悪魔」
「もういいわ」
拓海の罵声を智子が止める。
一度、元気を取り戻した桃花だったが、
「まあ、男なんていくらでもいるよ」
と拓海が言うと、再び失意の底に落ちていった。
そこから涙が止まらなくなり、今に至る。
「げっ」
桃花が表情を歪めた。
視線の先を辿ると、前から陽葵が歩いてくるのが見える。
「何も言うなよ」
拓海がそう言うと、「それはあっち次第」と顔を強張らせながら桃花は返す。
緊張感が漂う中、陽葵はすれ違いざまに桃花の両手に溢れたティッシュを一瞥した。
「泣いちゃ悪い」
桃花が睨みを利かせると、陽葵は立ち止まる。
「何も言ってないけど」
「そういう目してるじゃん」
「やめなって」
智子が腕を掴むが、それを振り払い、桃花はさらに不満を盛り付ける。
「あんたには分からないよ、この辛さが。本気で恋したこともないでしょ? だったら何も言わないで」
「桃花! もう行くよ」
智子は桃花の腕を脇に挟み、無理やり歩かせた。
「だって……」
「だってじゃないの」
二人の背中が遠ざかっていくと、「悪いな」と隆二が零す。
「別に……気にしてない」
「あいつもさ……」と拓海が口を開く。
「ああ見えて結構落ち込んでるんだよね。分かってやってとは言わないけど……」
「人の痛みは誰よりも知ってる」
拓海の言葉を遮り、陽葵はそう言い残して去っていった。