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追憶の残花  作者: 最下真人
【四章】 冬の芽吹き
24/24

最終話 追憶の一輪

 3


 冬は地上の草木を眠りにつかせるが、空は澄んで見える。

 雪という白い花を降らせ、星という夜の宝石を一層美しく輝かせる。

 そういう意味では、冬は空の季節と言えるのかもしれない。

 そして季節を跨ぐと、春は陽光というアラームで草木を芽吹かせ、地上に色を付ける。

 剥落した景色を鮮やかに染め、始まりと終わりを一つの季節で表現する。

 隆二は高く澄んだ空を見上げて祈りを捧げた。

 陽葵が眠りから覚め、季節を超えて再び咲いてほしいと。


 駅から十五分ほど歩くと、アンティークショップが目に入った。

 以前、陽葵と一緒に来たお店だ。

 木製の扉を開け、店内に入る。

「いらっしゃいませ」と言う店員の挨拶に、隆二は会釈で返す。

 見渡しながら奥まで行くと、置き時計が視界に映った。

 あの時の記憶が鮮明に蘇り、目の前に陽葵の幻想を映し出す。


――この古い感じが好き。刻まれた時間が投影されているみたいで


 陽葵はこの時計を見て、そう言った。

 裏側についた傷を、慈愛を込めるように優しく撫でていた。

 まるで自分自身をこの時計に反映させるように。

 隆二は時計を手に取り、レジへ向かった。

 陽葵が笑顔を浮かべているところを想像しながら。


 *


 病院には十五時頃に着いた。

 寒さを羽織っていた朝とは一変し、正午すぎには小春日和のような暖かさに変わっていた。 

 来ることは事前に愛には伝えていた。

 その時、「両親もいるよ」と言われたため、少しばかり緊張が走る。

 お見舞いに行く時は桃花たちと来ていたため、一人で来るのは初めてだ。

 何度も大勢で押しかけるのは迷惑になりそうだったので、この日は一人で行くことにした。


 隆二は手に持った紙袋を見た。今日は陽葵の誕生日。

 桃花たちは目が覚めてから誕生日会をしようと言っていたが、隆二は今日渡したかった。

 陽葵と友達になってから初めて迎える日だったから。

 それと、もしかしたら目覚めるかもという希望も。

 病棟に着き、ナースステーションで名前を記入した後、個室へと足を向かわせた。


「いらっしゃい」


 愛が笑顔で出迎えてくれた。

 麻美と秀人がベット脇の椅子に座っており、会釈すると二人は揃えて返してきた。


「誕生日プレゼント」


 隆二は持っていた紙袋を愛に渡す。


「買ってきてくれたの?」


「うん」


「お姉ちゃん、隆二くんがプレゼント買ってきてくれたよ」


 愛は陽葵の顔を覗き込むように声をかけるが、部屋には静けさが漂った。

 陽葵はなんの反応もなく、穏やかな顔で眠っている。


「ダメか、いっそのことたたき起こすか」


「いつか起きてくれる。それまで待とう」


 隆二は、言葉に優しさを纏わせた。

 部屋の空気を温かく包むように。


「そうだね」


 愛の表情が柔らかく崩れる。


「ねえ、プレゼント何買ったの?」


「開けていいよ」


「いいの?」


「うん」


 愛はテーブルの上に紙袋を置き、中から黒い箱を取り出した。

 箱には金色のリボンが結ばれており、愛はそれを丁寧に解いて蓋を開ける。


「可愛い。手にとってもいい?」


「いいよ」


 愛はペーパーパッキンに埋もれた置き時計を慎重に持ち上げる。

 じっくりと全体を見渡した後、


「私が貰っていい?」


「ダメ」


「ケチ」


 愛が頬を膨らませながら言うと、秀人の笑った声が微かに鼓膜に触れた。


「それ、陽葵が好きって言ってたんだ」


「お姉ちゃんが?」


 隆二は裏側を指すと、愛は時計を反転させる。

 そこには小さな傷が見えた。


「『アンティークって、付いた傷が年月をかけて良さに変わっていく。人もそうあってほしい。悲しみや痛みが、その人にしかない強さに変われるように』。陽葵がそう言ってた」


 愛は言葉を聞いた後、傷を優しく撫でた。


「もう一つあると思う」


「もう一つ?」


 愛は時計を反転させ、文字盤の方を表にする。


「時計の針って同じところをずっと回ってるでしょ? 離れたとしてもまた会うことができる。何度でも。そんな理由もあったんじゃないかな」


 先日、学校帰りにたまたま愛と出会し、家まで一緒に帰った。

 その帰路で陽葵と初めて出会った時のことを話すと、愛は嬉しそうな顔を見せながら、耳を傾けてくれていた。

 きっと、そのことを言ってくれたのだと思う。

 あの頃の思い出をお互いに追いかけ、再び出会うことができた。

 そしてまた離れていく。

 だけど時計の針のように、季節に咲く花のように、何度だって会える。

 そんな想いを抱きながら、隆二は陽葵の顔を見下ろした。


「隆二くん、ありがとね」


 秀人が穏やかな表情を浮かべて言った。


「いえ」


「陽葵はずっと友達を作らなかったから心配してたんだ。でも一緒に遊んだり、花火大会に行く人ができて嬉しかった。僕は力のことをほとんど知らない、五家の人間ではないから。支えたくてもどうしていいか分からないし、学校に付き添う訳にもいかない。だから隆二くんたちがいてくれて本当に良かった。家族だから見えることもあれば、家族だから見えない部分もある。その支えになってくれて感謝してる」


 それと……と、秀人は言葉を繋げる。


「陽葵は隆二くんのことを好きだったのかもしれない。これは本人に聞いたことじゃないから憶測だけど、なんとなくそんな気がする。陽葵には心の底から好きになった人と結ばれてほしい。それが僕の願いだった」


 隆二は陽葵との思い出を振り返り、穏やかに眠る顔を見下ろした。


「陽葵は目を覚ましても記憶はない。でも一番大切な思い出だけは残るの」


 麻美は陽葵に視線を向けながら言った。


「弘子さんから聞きました」


「その思い出は家族ではなく、あなたかもしれない。その時は隆二くんが陽葵のそばにいてほしい。お願いできる?」


 麻美の真っ直ぐ見据えた目が、隆二に向けられた。


「はい。もちろんです」


 隆二が力強く答えると、「ありがとう」と麻美は笑みを零した。


 *


 家に帰った後、公園に来た。

 広場には葉が枯れ落ちた木々が並んでいる。

 鞄からスケッチブックを取り出し、白紙のページを開いた。

 鉛筆を乗せ、薄らと下書きを始める。


 陽葵が目を覚ました時、二人でこの絵を完成させたい。

 一つの思い出だけを抱えた君と、一緒になって迷えるように。

 悲しみが溢れる世界で散ってしまっても、花のようにまた咲けると知ってほしい。

 そんな想いを白紙に込めて、二人の始まりを描いた。


 4


 昼休み、隆二たちは校庭のゴール裏で昼食をとっていた。

 この日は十二月にしては暖かく、何かが起こりそう――そんな希望を携えた日差しが校庭に降り注いでいた。


「早く起きないかな、陽葵」


 桃花は箸で掴んだ卵焼きを眺めている。


「卵焼きと話してるの? それとも独り言?」


 拓海が購買で買ったカツサンドを頬張りながら言った。


「卵焼き」


「陽葵、早く起きないと桃花が卵焼きと友達になるぞ」


 拓海がカツサンドに向かって叫ぶ。


「それは陽葵じゃない、カツサンド」


 智子は冷静にツッコむ。

 たぶん拓海なりに桃花に気を遣っているのだろう。

 陽葵が眠りについてから、空気が澱む瞬間が増えた。

 ぽっかりと空いた穴から、寂しさが湧き出るような感じだ。

 大体は拓海が言葉を投げて、別の会話へと誘導する。それがありがたかったし、救いにもなっていた。特に桃花には。


「でもさ、起きても記憶がないわけじゃん? 最初になんて言えばいいんだ?」


 拓海は智子に向かって聞いた。


「クラスメイトの清水拓海です」


「それだとパンチないだろ」


「パンチ要らないから」


「最初の一言で印象が決まるだろうが。そんな考えじゃ、温暖化は止められないぞ」


「温暖化関係ないから。何を結び付けたら地球に繋がるの」


「あっ、これどう?」


 桃花が急に声を上げた。


「幼少期はナポリタンに育てられました。清水拓海です」


「いいなそれ。パンチあるぞ」


「やめろ。混乱するわ」


 寂しさはまだ横たわっているが、普段の空気感に戻った。


「隆二はどうしたらいいと思う?」


 拓海が問いかけてきたため、隆二は一考してから答える。


「今まで通りでいいんじゃない? 陽葵が居た時のままで」


「そうだな」


 三人に笑顔が灯り、冬の隙間に暖かな空気が流れた。


 5


 愛が病室に入ると、麻美がベッドの布団を直していた。

 疲れきっているのがはっきりと分かる顔で。


「お母さん、ちょっと休みなよ」


「大丈夫」


 麻美は愛の顔を見ると表情を明るくした。だが少し影がかかっているようにも見える。


「無理しなくていいよ。お姉ちゃんが眠ってから毎日付きっきりでしょ? 今日は私が見るから帰っていいよ」


「じゃあ、少しだけ外を歩いてくる」


 麻美は少しだけ腰を丸めながら、病室を出ていった。

 いつも姿勢を正して歩き、気品を携えていた母が、最近は老いたように小さく見える。

 それでも人前では気丈に振る舞うため、きっと他人には分からないだろう。

 心の中で疲弊する一人の母を。

 愛が陽葵の顔を覗くと、まるで幼子のような寝顔で、ぐっすりと眠っていた。


「早く起きてよ、お姉ちゃん」


 愛は悲しくため息漏らした。

 窓の外に視線を向けると、冬枯れの木々が見える。

 すべてを失ったようにも見えるが、これから始まりを迎えるようにも見える。

 桜の始まりはどこからかと聞かれたら、多くの人は春と答えるかもしれない。

 でも愛は冬からだと思っていた。

 葉が枯れ落ち、何もないところから蕾をつけて花を咲かせる。

 人は何も持たずに産まれ、白紙に涙を綴り、愛情という色を知って、人生の一ページ目を描く。

 だから季節の始まりは冬なのでは、と愛は考えていた。


 人は記憶という物語を増やしていき、その経験から今を見る。

 悲しい記憶が多ければ悲観的になるだろうし、楽しい思い出が多ければ楽観的になる。

 生きるのが難しいのは、その両方が必要だから。

 一度偏れば、反対の思考を持つことは難しくなる。まさに陽葵がそうだったように。

 目を覚ました時、姉が背負ってきた悲しみは消えている。

 大切な思い出だけを抱え、この世界で再び蕾を付ける。

 良い思い出だけでは人は生きていけないが、今までのことを考えると楽しいことをたくさん経験してほしい。

 笑っていることが普通と思えるような人生に。

 窓に映る冬を眺めながら、愛はそう思った。


 ガタッ


 後ろで物音が聞こえたため、何かと思い振り向く。


「うそ……」


 愛は口を両手で押さえた。そして目に涙が浮かぶ。

 遠い過去が蘇るように、目の前の景色に色が付く。

 この世界でたった一つしかない思い出の色が。


 6


 放課後、隆二は図書室で本の整理をしていた。

 窓から入る日差しと、喧騒の消えた静けさが隆二は好きだった。

 学習コーナーの隣には小説が置かれた一角がある。

 一冊、一冊に目を通しながら、返却された本を戻していく。

 その時、ある一冊の本が目に入った。

 窮屈そうに並べられ、本と本の間に埋もれているようだ。

 撫でるように埃を払ってから、表紙に目をやる。

 隆二もこの本を読んでおり、陽葵が返却してきた際に感想を聞かれた。

 あの時はまだ友達ではない。ただのクラスメイト。

 何気なく話したことさえ、今では大切な思い出だ。


 隆二は小説を手にカウンターに向かった。

 ペン立てからボールペンを取り、貸し出しカードに日付と自分の名前を記入する。

 その際、『松田陽葵』と書かれた文字が目に入った。

 瞬間、思い出が頭の中を駆け巡る。

 みんなで笑い合ったこと。

 手を繋いだ時のこと。

 夏の夜空に咲いた花火。

 そして、色褪せない桜。

 その時の感情や表情、すべてが鮮明に蘇ると目から涙が落ちた。


 貸し出しカードに降る雨が、陽葵の名前を滲ませる。

 触れることのできない思い出たちが、きつく縛っていたはずの感情を解いた。

 何気ない日常がこんなにも大切なものだとは知らなかった。

 当たり前にあったものが無くなってしまうなんて想像もしていなかった。

 もう一度会って、また一緒に笑いたい。

 隆二の目から零れる一滴、一滴に思いが滲んでいた。


「先輩、大丈夫ですか?」


 同じ図書委員の一年が声をかけてきた。隆二は急いで涙を拭う。


「うん。花粉症で」


「まだ十二月ですよ。早くないですか?」


「毎年これくらいから症状出るから」


「大変ですね。てか、早く終わらせて帰りましょうよ」


「そうだね」


 後輩は本の整理に戻っていく。

 隆二も一度心を落ち着かせ、仕事を再開させた。

 

 *


 図書委員の業務が終わり家路に就く。

 中央通りの交差点で信号を待っていると、着信が入った。

 ポケットからスマホを取り出すと、『愛』と表示されている。


「どうした?」


――隆二くん、今どこにいる?


 慌ただしい声で聞いてきた。


「帰ってる途中」


――古墳の公園に来てもらっていい。


「何かあった?」


――実はね……

 

 *


 隆二は息を切らしながら、公園の広場に辿り着いた。

 辺りを見渡し、愛の姿を探す。


「隆二くん」


 桜の木の前に愛の姿を見つけた。隣には麻美がいる。


「さっき言ってたことって……」


 二人の前に来ると、隆二は肩で息をしながら聞いた。


「お姉ちゃん」


 愛がそう言うと、麻美の後ろから陽葵が出てきた。

 病衣の上にコートを羽織っている。

 隆二は言葉を失い立ち尽くしていた。

 今が現実なのか、夢なのか分からなかったから。


「さっき目を覚ましたの。それでね、隆二くんに会いたいって」


「覚えてるの?」


 俯いた陽葵に視線を送る。表情には陰りが見えた。


「誰のことも覚えてない。私のこともお母さんのことも。それと……隆二くんのことも」


 希望を含ませた言葉に、愛は首を振って答えた。


「じゃあなんで?」


「一つだけ残っていた記憶に男の子がいたみたい。ここでその人に会いたいって。たぶん隆二くんだと思う」


 隆二はいくつもある記憶から、一つの思い出を取り出す。


「お姉ちゃん、クラスメイトの村田隆二くん」


 陽葵は顔を上げ、隆二を見た。


「俺のこと覚えてる?」


 沈黙を挟んだ後、陽葵は首を振った。

 その言葉に落胆し、隆二の表情は萎れていく。


「幼い頃、ここで一緒に桜を見た男の子がいます。泣いている時に手を握ってくれて、桜の絵を私にくれました。目を覚ました時、その記憶だけが残ってた」


 初めて陽葵と出会った日だ。

 あの時の思い出を一番大切だと思っていてくれたことに、涙腺が緩んでいく。


「隆二くんで合ってるよね?」


 愛の言葉に隆二は頷く。


「目を覚ました時、知らない世界が広がって怖かったんです。でも、その思い出の中にいると安心できた。手を繋いだ感触が今も残ってる。その温かさも、その時の感情も」


 陽葵は自分の右手を眺めていた。

 先ほどまでの不安げな顔に小さな蕾を携えて。

 麻美は愛の肩を叩いた。察したように「私たちは外すね」と二人は去っていく。

 隆二は陽葵の隣に腰を下ろすと、鞄からスケッチブックを取り出した。


「見て」


 そう言うと、陽葵も腰を下ろす。

 スケッチブックには拙い桜の絵が描かれていた。

 一枚、一枚、捲っていくと、だんだんと桜の絵が上達していく。


「その思い出の絵は下手だったでしょ? だからもっと上手になって陽葵に渡したかった。喜んでる顔が見たくて」


「上手です」


「ありがとう」


 隆二は、あの頃を重ねながら言った。


「あれから何年経ったんですか?」


「約十年くらいかな」


「その間に、私たちは会っているんですか?」


「また出会ったのは、その思い出から八年くらい経ってから。お互い同じ高校に入ったんだ」


「約束から大分経ちましたね」


「でもまた会うことができた。今もこうして」


 あの……と、照れ臭そうに陽葵は声を発する。


「私と隆二くんは友達だったんですか?」


「うん」


「そうですか……」


「それがどうかした?」


「あっ、いえ。なんでもないです」


 陽葵は抱えていた膝に顔を埋める。


「春になったら一緒に見に来ようか」


 隆二は冬枯れの木々を見上げながら言った。


「まだ思い出だけでしか見てないでしょ? 桜が咲いてるの」


「はい。見てみたいです」


 陽葵はスケッチブックに描かれた桜の絵に視線を向ける。

 その後、周りを見渡した。


「どうした?」


「思い出の中では桜を見てる人がたくさんいました。でも今はいないなって」


 広場には数組の家族連れしかいない。


「満開の時だけだからね。人が来るのは」


「咲いてる時は人が集まるけど、散ってしまったらそこに何も無かったように忘れ去られる。どんな気持ちなんでしょう」


 隆二は陽葵との会話を思い出した。

 この場所で、夏の生い茂った桜を二人で見上げた時のことを。


――桜ってさ、咲いてる時は見に来るけど、散った後はそこに何もなかったかのように忘れ去られていく。どんな気持ちなんだろう


――だから花を咲かすんじゃない? また思い出してほしくて。忘れ去られるのは辛いから、桜も覚えていてほしいんだと思う


 その記憶は無いはずなのに、まるで覚えているかのように陽葵は言った。

 失ったものを追い求めることはしない。

 だけど今も思い出の中にいるような気がして、思わず涙を零した。

 すると、左手に温かな感触を感じる。

 目を向けると、陽葵が隆二の手を握っていた。


「泣いている時に手を繋がれると心が穏やかになります。私はそうでした」


 陽葵は恥ずかしそうに顔を赤らめながら言った。


「確かにそうかも」


 四度結んだ手。

 幼い頃、春に舞う桜の下。

 電車の中で悲しみの底に放り込まれた時。

 記憶を散らす前。

 大切な思い出だけを残した二度目の再開。

 シュチュエーションは違うが、そのどれもが悲しみから救うものだった。


「桜も忘れられるのは辛いと思う。自分はここにいるのに離れていく。もう二度と会えないかもしれないって。でも、枯れてしまっても花は咲くことができる」


 隆二は陽葵の手を離し、スケッチブックを一枚捲った。

 そこには、枝がいくつも伸びた一本の木が描かれており、寂しげに佇んでいる。

 鞄から水彩ペンの入ったペンケースを取り出し、ピンクを取って陽葵に渡した。


「枝の部分に塗って」


「私が塗るんですか?」


「うん」


 陽葵は枝の一箇所に色を付けた。

 別の部分も塗ろうとした時、「あっ、そこまで」と隆二が止める。


「ここだけでいいんですか?」


「思い出ができるたびに少しずつ塗っていく。そしていつか、散る前よりも綺麗な桜をここに咲かせたい」


 陽葵は葉が落ち切った桜の木を見上げた。


「咲きますかね、綺麗な花が」


「咲くよ、絶対」


 晩春の桜のように思い出は散っていった。

 だが神はたった一つの花だけは摘み取らなかった。

 悲しみが降り続けても色褪せなかった記憶。

 幾度の夜を灯し、解けた糸を結び直した。

 これから描いていく白紙の世界で、失ったものを振り返るより、色付く未来に目を向けたい。

 あの時の言葉を冬の桜に誓い、今日という一輪を思い出に咲かせた。









【追憶の残花】完


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