二十話 冬隣《ふゆどなり》
4
麻美は秀人と肩を並べ、客間の縁側に座っていた。
太陽が沈み、散乱された青が茜に染まる。どこか切なさを漂わす雰囲気に、麻美は空虚感を感じていた。
陽葵が部屋を出て行った数分後、愛も部屋を出た。
夫婦だけとなったこの部屋には哀愁が立ち込める。
「なんで止めなかったの?」
秀人が空に言葉を吐き出した。
「もちろん止めた。許可できることではないから」
「じゃあなんで?」
昨夜、陽葵に公園に呼び出され、継承を破棄することを告げられた。
重苦しい空気から何かあると察したが、予想だにしない言葉が鼓膜に舞った。
最初は自分の耳を疑ったが、陽葵の真剣な顔つきを見て、すぐに整理し言葉を発した。
「そんなこと許せるわけないでしょ」
開口一番に出た言葉だった。これは五家の当主としてというより、母として出た言葉だ。
「でも終わらせなければいけない。この力を持ってから人を信用できなくなった。心を壊された人間だっている。いずれ私の子供も同じ運命を辿るかもしれない。親である私が子供の未来を奪うことはしたくないの」
麻美の胸に、陽葵の声が重くのしかかる。
「この十年の苦しみは力を持った者にしか分からない。長く続く負の歴史で子供たちの芽は摘み取らせない。だから私が終わらせる。大きな犠牲を払ってでも」
「悲しみだけではないでしょ? 大切な思い出も無くなるのよ」
「失ってもまた作ればいい。今の私には大切なものをくれる人たちがいる。だから怖くない。信用してるから」
麻美は言葉を探したが、まるで蜃気楼を彷徨っているかのように、何一つ掴むことができなかった。
自分が言える立場ではない。ずっと子供らに押し付け、恩恵だけを受けてきた。
麻美はそんな想いをずっと抱いていたが、見ないように背を向けてきたのだ。それを陽葵に気づかされた。
だからこそ、言葉が紡げない。
同じことを繰り返し、まだ幼い悠人に他人の悲しみを背負わせようとしている。
止めなければいけない。
誰かが。
でも誰が。
私に関係ない誰かが。
いつかきっと現れるはず。
その人が負の連鎖を止めればいい。
私の関係ない場所で。
それが自分の娘になるなんて、麻美は想像していなかった。
いや、したくなかった。
「なんで陽葵なの……」
自然と涙が零れる。
なんて都合がいいのだろうと、麻美は思った。
子供たちはずっと悲しみの中で涙を流し、もがき続けてきた。
前任者が人を信用できなくなり、外に出られなくなっていることも知っている。
それなのに……
「記憶を無くしたら、私は家族を他人のように思ってしまうかもしれない。でもお母さんで居続けて。そしたら、また家族になれるから」
麻美は口元に手を当て声を押し殺した。だが、降り止まない雨は指の隙間から悲しみを漏らした。
「今度会う時はなんのしがらみもなく、普通の母と娘でいたい。これが私からの最後のお願い」
麻美が昨夜のことを語り終えると、秀人は俯いた。
「親ならば止めなければいけない。でも、親として止めることができなかった。陽葵が継承者に決まった時、いつか心が壊れると覚悟した。悲葬とはそういう力だから。本来ならば反対して子を守るのが親としての務め。だけど歴史と伝統という重い縛りと、恩恵を受けてきたという事実で、自分の娘に枷を付けてしまった。それがまた繰り返される、別の幼い子に」
秀人は何も言えない様子だった。
きっと胸の中には、言いたいことがいくつもあるだろう。
だがその言葉は、他の家系の子らに苦行を強いることになる。
自分の娘を救いたいという想いは麻美も一緒だ。
だからこそ止めることができない。一人の親として。
「すべてのものは変わっていく。花も空も時代も。一番変わらなければいけないのは私たちだった」
空を見上げると、ゆっくりと風に流されていく雲が目に映った。
「記憶を失ったら、もうお父さんて呼ばれなくなるのかな」
秀人は不安を零す。表情にもそれは浮かんでいた。
「それでもお父さんで居続けて。そしたら、また家族になれるから」
そうだね、と秀人は呟いた。
5
陽葵は継承の間で庭園を眺めていた。
赤い絨毯の敷かれた縁側に座り、風に揺れる紅葉を見ながら一人佇んでいた。
「いいの? 隆二くんたちに言わなくて」
振り返ると愛だった。そのまま隣に座る。
「言ったら止められる。それに迷ってしまうから」
隆二たちとの思い出が頭をよぎる。
たった数ヶ月だが、心から楽しいと思える瞬間をいくつも共有した。
走馬灯のように流れる記憶には笑顔が溢れている。
「説明しないといけないんだけど」
「お願いね」
記憶を無くせば、隆二たちはどう思うのだろう。
また友達になってくれるんだろうか、と少しだけ不安が湧く。
「怒るんじゃない? 何も言わずに記憶から消されたら」
陽葵は膝下に置いていたスマホを取り、愛に渡す。
「私の記憶が消えた後、みんなに伝えてほしいの。友達になってくれてありがとうって。あと隆二には、あの日の思い出があったから心を壊さずにいられた。あなたのおかげで救われたって」
「自分で言ったほうがいいよ」
「いいの。もう終わらせると決めたから」
陽葵は立ち上がり、「スマホのロックは私の誕生日」と言い残して部屋を去った。
これ以上、愛といると迷いが生まれそうだった。
こんなときにだけ、好きな思い出が脳裏に纏わり付いてくる。
陽葵は揺れる感情を鎮めるように、大きく息を吸って記憶を頭の片隅に沈めた。
「これで良かったのかい?」
廊下を歩いていると、弘子と古賀に出会した。
弘子の問いかけに一瞬だけ躊躇ったが、頭の中を白紙に戻し、言葉を返す。
「誰かが終わらせなければいけない。その誰かが私だっただけ」
「洋子はずっと罪悪感を抱いていた。継承をしなければお前に背負わせなくて済んだと」
古賀の目にも罪悪感を感じた。
それは孫の継承を止められなかったことなのか、それとも陽葵にすべて背負わせてしまったことなのか、そのどちらかは分からない。
でも後悔していることは表情から読み取れた。
「なら伝えて。継承したことで私は大切のものを知ることができた。だからこれで良かったと思ってる。それと、外の世界には優しい人たちもいる。全員が悪人ではない。極端な線引きで人を分けないで。自分の景色を歪めてしまうから」
わかった、と古賀は頷いた。
「悠人くん、茜ちゃんと結婚するって言ってた。子供の約束かもしれないけど、その想いは大切にしてほしい。あと、絶対に女の子は泣かせちゃダメって伝えて」
「ああ」と、弘子が言った後、陽葵は二人の間を通り抜けていった。
6
夕日が瞼を閉じ、夜の始まりを告げる。
隆二たちはファミレスで陽葵の連絡を待っていた。
「遅いね」
テーブルでうつ伏せになっている桃花が、口を尖らせながら零した。
「何かあったのかな?」
智子が心配そうに言うと、拓海はメニュー表から顔を上げて「何かって?」と聞く。
「それは分からないけど」
隆二はテーブルの上に置いたスマホを見た。
智子の言うとおり何かあったのかもしれない。
力を継承する際に何もリスクはないと陽葵は言っていたが、本当にそうなのだろうか?
そんな疑念が頭をよぎると、スマホのバイブがテーブルを揺らした。
「陽葵からだ」
不安が安堵に変わり、一呼吸置いた後に電話に出る。
「もしもし」
――愛だけど
「どうしたの? 陽葵は?」
と聞くが、愛は何も返してこない。
「何かあったの?」
隆二の言葉に、桃花たちの顔色が変わる。
――あのね、お姉ちゃんが……
*
「旭町のガストです。お願いします」
隆二は電話を切った後、桃花たちの方に視線を向けた。
「五分くらいでタクシー来るって」
「ねえ、本当に陽葵は記憶を無くすの?」
桃花の声には困惑を滲んでいる。
愛の電話を切った後、四人はファミレスを出た。
駅まで走ろうと思ったが、タクシーを呼んだ方が早いと思い、隆二が電話をかけた。
今はファミレスの駐車場で待機している。
「愛ちゃんはそう言ってた。継承を断る代償として記憶を無くすらしい」
「なんで陽葵は断ったんだよ」
拓海に言葉を投げかけられると、悠人の顔が浮かんだ。
「たぶん……自分と同じ道を辿らせないため」
「次に継承する人に、悲しみを背負わせないようにってこと?」
智子の問いかけに隆二は頷いた。
「もし記憶が消えたら、私たちのことも忘れちゃうの?」
桃花の不安げな声が駐車場に響く。
「五人の思い出も、家族のことも、全部消えるって言ってた」
桃花は両手で顔を覆い、その場に座り込んだ。
「嫌だよ、そんなの」
四人の間に沈黙が落ちる。
誰も目を合わそうとしなかった。そして言葉すらも失った。
ただ虚しく、隆二はその場に立ち尽くした。
数分後、タクシーが来て四人は乗車した。
助手席に座ると、愛から送られてきた住所を運転手に伝え、千代子の家に向かった。
車内でも同様、四人は言葉を枯らしていた。
7
愛は門扉の前を忙しなく歩き回り、スマホを何度も確認した。
隆二がタクシーに乗ったとの連絡から十五分が経過する。
陽葵と麻美は千代子に呼ばれ、継承の間に向かった。
少しだけ待ってほしいと頼んだが、千代子に振り払われる。
隆二たちの名前を言おうと思ったが、陽葵が断れば会うことすら叶わなくなる。だから名前は伏せた。
だけど最後に会うべきだと、愛は思った。さよならは直接言うべきだから。
想いを抱えながら、陽が沈む空を見上げる。
映えた青や照りつける太陽、それらが夜を前にして消えてゆく。
すべてを呑み込むように、何もなかったかのように、夜は景色の色彩を奪う。
どんなに美しいものでも光がなければ見えはしない。
目の前にあったとしても知ることができない。
何もかも失った世界に、夜が落ちた世界に、希望はあるんだろうか。
愛はこの先のことを案じながら、薄らと浮かぶ星を眺めた。
すると左の道からタクシーが来た。
目の前で止まり、後部座席から桃花たちが降りてくる。
「陽葵は?」
助手席から降りた隆二が言った。
「中にいる。急いで」
門扉をくぐり、玄関に向かおうとすると、
「記憶が無くなるって本当なの?」と桃花が尋ねてきた。
愛は振り返り、四人の方に視線を向ける。
「本当だよ。家族も、みんなのことも……お姉ちゃんは思い出せなくなる」




