十九話 継承の儀
継承の間は三十畳ほどの広々とした和室で、縁側には赤い絨毯が敷かれている。
庭園側の襖とガラス戸は開かれており、紅く染まるイロハモミジが秋を幻想的に彩っていた。
床の間の前で、陽葵と悠人が横並びで正座している。
悠人は白衣纏い、浅葱色の袴を履いている。落ち着かないのか、視線を四方に散らしていた。
二人の前には和紙が敷かれた三方が置かれており、上には白い盃。陽葵の方にだけ針も添えられていた。
対面には黒の着物を着用した千代子がいる。背筋の伸びた美しい正座が気品と威厳を感じさせた。
陽葵の後ろ、庭園側には五家の当主が並ぶ。
松田家当主・松田麻美
柴崎家当主・柴崎弘子
岩崎家当主・岩崎豊
古賀家当主・古賀和彦
四人は黒の和装姿で正座している。
「継承の儀を執り行うにあたり、まずは後継の魂を清める」
千代子は膝下に置いてある菊模様の入った黒の銚子を手に取った。
悠人が盃を両手で持つと、千代子は清酒を注ぎ、銚子を膝下に戻す。
「飲み干せ」
千代子が囁くように言うと、悠人は勢いよく清酒を口に含んだ。
飲み干すと、「ゔっ」と顔を顰め、盃を三方に戻す。
「続いて、現継承者の背負った悲しみを浄化し、後継にその力を引き継がせる」
千代子は再び銚子を手に取り、注ぎ口を陽葵に向ける。
陽葵は盃を取ると、裏返しにして叩くように置いた。
「何をしてる?」
「継承はしない。私で終わらせる」
陽葵が力強く言葉を吐くと、千代子は鋭い視線で刺してきた。
「それがどういうことか分かってるのか?」
「犠牲の上に成り立つ発展など終わらせるべき。支えている者が朽ちていき、その他の者が潤いを得る。過去が未来を奪い、自分たちが望む桃源郷を築き上げてきた。でもそこにあるのは悲しみで萎れ、咲くことを知らない蕾だけ。根があるからこそ花は美しく灯る。そして涙の数だけ光は消えてゆく」
陽葵も鋭い視線で返した。
決意は揺るがない、という意思表示でもある。
「伝統があるんだ。数百年の歴史をたった一人の子供が変えるなんて許されない」
岩崎が立ち上がって叫んだ。ひび割れた声が鼓膜を引っ掻く。
「掟では、力を持つ者が継承の要否を選択する権利がある。五家の数百年の歴史は、たった一人の継承者によって変わるの。未来に傷は残さない。悲しみを背負わせないためにも」
陽葵は視線をさらに鋭くさせ、岩崎の目に突き刺す。
「継承を拒んだ場合、お前の記憶が消えることになる。それも分かっているのか?」
岩崎が何かを言おうとしたが、先に千代子が口を開いた。
陽葵は千代子に視線を戻す。
「分かってる。その上で決めたから」
「お前も力によって恩恵を受けてるだろ。ならば伝統に従うべきだ」
岩崎のしゃがれた声が継承の間に響く。
「先祖や親が受けていようが、子にそれは関係ない。これから生まれてくる子もだ。私らは与えられてはいけない恩恵を受けすぎた。悪しき伝統はここで終わらせるのが妥当だろう」
弘子が場を均すように、落ち着いた声を岩崎に向けた。
「歴史や伝統というものは時代と共に変わってゆく。もう私たちが舵を取るべきではない。いつからか間違った道に進んでしまった。それを正すのは、後の時代を見据えた者だ。これ以上傷を負う者を出してはならない。ここで終わりにしよう」
古賀の声に力強さを感じた。
前継承者である孫の洋子が今も力の副作用で苦しんでいる。
その想いが滲み出たのだろう。
五家の当主としてではなく、一人の祖父として言葉を編んだように思えた。
「お前らは五家の当主だろ。そんなことが言える立場か。どうせ孫が継承するから言ってるだけだろ。伝統に私情を挟むべきではない」
「ごちゃごちゃうるさいね。なら五家の当主で決を採ろうじゃないか」
弘子が苛立ちを含んだ声で言うと、岩崎は麻美を見た。
そしてほくそ笑むように、片方の口角を上げる。
「いいだろう」
「結果に文句は言うなよ」
「分かってるわ」
ここまでは陽葵が予想した通りだった。
弘子と古賀に頼み、多数決の流れを作ってもらう。
もしここで陽葵が意見を押し通せば、その皺寄せを家族が担うことになる。
両親や愛が他の五家から虐げられ、生き辛くなる可能性を考慮してのことだ。
だが弘子や古賀も賛成となれば、三つの家系の意見となり、批判を分散することができる。
その憎まれ役を二人にお願いした。
最初は二人に反対された。それは自分の立場が悪くなるからではなく、記憶が失われるというリスクを看過できないと言われたから。
だが何度も頭を下げ、了承を得ることができた。
その時の二人は、悲しみを帯びた苦悶を表情に描いていた。
「では決を採る。悲葬の力をここで終わらせるべきだという者は挙手を」
弘子の声の後、古賀が手を上げる。そして弘子自身も。
陽葵は麻美に視線を送った。
一点を見つめたまま、表情を変えずに正座している。
その顔からは麻美の考えを読むことはできなかった。
「決まりだな。今まで通り悲葬の力の継承を続ける」
岩崎は勝ち誇った顔を浮かべ、腰を下ろす。
「では反対の者は」
弘子は岩崎の言葉を無視するように問う。
「おい、もう決まっただろ」
「まだ分からんだろ。黙って手を上げろ」
岩崎が不愉快そうに手を上げると、それに続いて千代子も挙手した。
そして一同の視線が一点に集まると、麻美が目を瞑った。
瞬間、息の詰まるような静けさが場を支配した。
葉擦れが深閑を装飾し、緊張感が張り詰める。
誰かの鳴らした喉が、鮮明に鼓膜に響く。
「おい、早く上げろ」
その空気に耐えられなかったのか、岩崎が声を上げた。
麻美はゆっくりと目を開くと、「私は……」と静寂に言の葉を落とす。
「伝統を終わらせるべきだと思う」
その一言は刹那の時を止めた。
空間には名状し難い空気が漂い、一同は言葉を失っているように感じた。
「娘の記憶が消えるんだぞ」
岩崎の雷声が沈黙に落ちた。業を煮やす顔には焦燥も窺える。
「この力は人を救うためにあったはず。私利私欲に溺れ、神の目を欺き、子供たちの心を壊した。本来なら孫や子の未来のため、我々が尽くさなければならない。だが五家の繁栄と宣い、子らを蝕んで恩恵に肖かっている。道を外した者に未来を選ぶ権利などない。よってこの力の放棄に賛成する。それが松田家当主である、私の答えです」
麻美の放つ威厳に一同は再び沈黙した。
陽葵の瞳には一人の母が映る。五家の当主として、未来を見据えた一人の母が。
「決まりだな」
「ダメだ」
弘子の言葉に岩崎が立ち上がった。
「我々や先祖が五家を守ってきたんだぞ。ここまで繁栄させてきたものを、たかだか十七歳の娘が変えてはいけない。私は絶対に認め……」
「見苦しいぞ、岩崎」
千代子が強い口調で言葉を絡めとる。
「決を採った結果だ。五家の恥になりたくなければ受け入れろ。そういう約束だったはずだ」
「だがな千代さ……」
千代子が睨め付けると、岩崎は肩をすぼめて座り込んだ。
「継承の儀は一旦中断し、再度夜に執り行う。その際に現継承者が力を放棄することを宣言し、歴史に幕を下ろす」
千代子はそう言った後、陽葵を見た。
「想いを伝える相手もいるだろう」
「ありがとう千代子さん。もっと粘られると思った」
「これでも五家の当主だ。みっともない縋り方はしない」
そう言い残し、千代子は部屋を出ていった。
「お姉ちゃん……」
隣にいる悠人が不安そうな表情を浮かべていた。
「力は継がなくていい、だから自由に生きて。それと、自分が大好きだと思う人と一緒になって」
陽葵は優しさ滲ませた笑顔を向けた。
*
「どういうことか分かってるの?」
「知ったうえで選んだこと」
継承の儀が中断し、客間に戻ってきた。
麻美が愛と秀人に事情を説明すると、愛は青筋を立てて陽葵に詰め寄った。
「なんで言ってくれなかったの?」
「陽葵が覚悟して決めたこと。尊重してあげなさい」
口を噤んだ陽葵の代わりに、麻美が言葉を発した。
「お母さんはなんで止めないの? 継承を破棄したらどうなるか知ってるよね」
「ちょっと待って、状況が分からないんだけど。継承しないとどうなるの?」
秀人が困惑した様子で愛に聞いた。
「代償として、お姉ちゃんは記憶を失う」
「え?……記憶を失う?」
時が止まったかのように秀人の表情が固まる。
「今まで会ってきた人との記憶が消えるの。五家の人間も、学校の友達も……私たち家族も」
「千代子さんに言ってくる。やっぱり継承するって」
秀人が部屋を出ようとすると、「お父さん」と陽葵が強く呼び止めた。
「もう決めたことなの。この力は大きな傷と痛みを伴う。誰かが止めなければいけない。これ以上の犠牲を出さないためにも」
「ぜんぶ忘れちゃうんだよ? 愛のことも麻美のことも僕のことも。それに、隆二くんのことだって。陽葵はまだ十七歳なんだよ。これから楽しいことだってたくさんある。家族で旅行に行ったり、友達と思い出を作ったり、好きな人と一緒に過ごしたり……まだしないといけないことが山ほどあるじゃないか。もう何も背負わなくていいんでしょ? なんでまた背負おうとするの? そんなの陽葵がすることじゃないよ。自分だけが犠牲になる生き方なんてしなくていい。お願いだから……もう一度考え直して」
秀人の目から涙が零れた。
悲しみの滲む一雫が、陽葵の心を締め付ける。
「お父さんの言うとおりだよ。お姉ちゃんじゃなきゃダメなの?」
静まった部屋に愛の言葉が響く。
「枝に咲いた花が散ったとしても、再び咲かせてくれる人がいる。きっと私じゃなきゃダメなんだと思う。だから神様は、私のそばに良い人たちを置いてくれた」
「忘れるんじゃなくて、消えるんだよ。今まで話したことも、一緒に桜を見たことも、隆二くんたちのことも、全部無くなっちゃうんだよ。そしたら赤の他人と変わらないじゃん」
愛の表情には想いが見て取れる。今まで一緒に過ごしてきた十数年が刻まれているように感じ、一瞬だけ心が揺らいだ。
「それは違う。記憶が消えても愛は私にとって大切な家族。お父さんもお母さんも。思い出は無くなるけど、それだけは忘れないで」
「ずるいよ。お姉ちゃんはそんな大事なことも思い出せなくなるのに」
「……ごめんね」
「お姉ちゃんのバカ」
愛は背を向けて言った。その声は震えながら潤んでいた。




