一話 始まりと終わりを告げる花
1
板戸で仕切られた6畳の和室。
四隅には和紙灯台が置かれており、その明かりだけが部屋を灯していた。
部屋の中央には、白衣の上に千早を羽織り、緋袴を履いた松田陽葵と、顔を歪ませて咽び泣く羽村祥子がいる。
闇夜の中で救いを求め、胸臆の底から叫ぶ悲嘆。
心の穢れが涙を生み出し、感情の最果てで溺れていく少女。
悲しみが響く部屋で、陽葵は冷めた視線で苦しむ祥子を俯瞰していた。
犠牲を伴い、見ず知らずの他人を救わなければいけないから。
静かに息を吐いた後、左手の人差し指と中指を立て、祥子の額に置く。
「身魂蝕む悲しみを払い、固く結ばれた痛みを解こう。時は再び動き出す。消えゆく悲哀と共に」
陽葵が唱え、指を離すと、祥子の額から球体状の黒い小さな光が出てきた。
その瞬間、咽び泣く声と涙が止まり、部屋に静寂が佇む。
祥子は茫然とした顔で光を見ていた。
漆黒に染まる悲しき感情の塊を。
陽葵は人差し指と中指で黒い光に触れ、指先に纏わせた。
そのまま二本の指を胸に置いて目を瞑る。
「この悲しみを背負い、悲葬の力で葬り去ろう」
纏っていた黒い光が体内に入っていくと、陽葵はゆっくり目を開く。
そして四隅の和紙灯台が消灯し、部屋が闇に包まれた。
*
玄関を出ると初夏を彷彿とさせる陽光が顔に照りつけた。
肌に張り付く光がじわじわと熱を帯び、体内の水分を蒸発させていくように感じる。
まだ四月の頭だが、今にも蝉の声が聞こえてきそうだった。
陽葵は羽織っている千早を煩わしく思いながら、表情に苛立ちを描いていた。
暑さのせいもあるが理由は気温だけではない。
隣に視線を送ると、母の麻美と橋本家の当主である千代子が贋作のような笑顔を浮かべていた。
二人とも着物を着用しており、五家の当主としての気品を醸し出している。
千代子は皺一つ一つに威厳を感じるような、気高い風格を纏っていた。
隣に立つ母が、一層若く見えるほどに。
「本当に有難うございます」
目の前に立つ羽村雄二が頭を下げて言った。その隣にいる娘の祥子も倣って頭を下げる。
羽村は上から下まで皺一つない光沢のあるグレーのスーツに、青のネクタイを締めていた。フィット感を見ると、オーダーメイドかもしれない。
袖から見える銀の腕時計の文字盤には王冠が刻まれていた。
羽村は頭を上げると、切なさを宿した目で祥子を見る。
「この子がいじめにあったのは中学生の時でした。それから学校は疎か、家からも出られなくなってしまいました」
陽葵は祥子に視線を移した。
白いレースのリボンが首元に装飾された紺のワンピース。
大人しそうな雰囲気は、どこか温室育ちを感じさせる。
今年の二月に十六歳になったと聞いた。陽葵と同い年だ。
「祥子ちゃん、今はどう? いじめられた時のことを思い出しても辛くないかい?」
千代子が微笑みを向けて、祥子に尋ねた。
「ここに来るまでは辛かったです。だけど今は思い出しても何ともない。他人が怖かったのが嘘みたいです」
祥子が視線を合わせてきたが、陽葵は躱わすように目を背ける。
「知人から話を伺った時は耳を疑いました。悲しみを消せる人間がいるなんて言うから」
羽村は祥子の頭を撫でた。その手に愛情を感じる。
「消せるわけないじゃん」
陽葵が声を漏らすと、千代子が睨め付けてきた。
「何か気に障ることを言ってしまいましたか?」
ぼそっと零すように言ったからか、羽村は言葉を聞き取れていない様子だった。
「お気になさらずに」
千代子が笑顔で返し、話を続ける。
「悲しみを消し去り、心を生き返らせる。それがこの子の持つ力。私たちは悲葬と呼んでいます」
「陽葵さんには感謝しています。お礼はちゃんとさせて頂きますので」
「お気になさらずに。娘さんが救われればそれで……」
「そんなの綺麗事じゃん」
千代子の言葉に陽葵は口を挟んだ。視線を感じたが、それを無視する。
「私たちはこれから用事がありますので、今日はこれで」
険悪な空気を断ち切るかのように、麻美が言葉で繋いだ。
「本当に有難うございました。必ずお礼はさせて頂きますので。それでは」
羽村と祥子は頭を下げた後、玄関から二十メートルほど先にある門扉へと向かっていった。
「陽葵」
羽村たちの姿が見えなくなると、千代子が怒りを露わにして声を投げつけてきた。
「だってそうでしょ?」
陽葵は睨みつけながら言い返すと、千代子は呆れたように息を吐く。
「午後は次の後継者を紹介する。お前もちゃんと来い」
その言葉を無視するように、陽葵は家に戻っていく。
「麻美、お前は松田家の当主なんだ。娘の躾はちゃんとしておけ」
「後で陽葵には言っておきます」
背中から二人のやり取りが聞こえると、陽葵の表情は一層強張った。
*
居間に入ると、縁側に座る愛の後ろ姿が目に入った。
縁側の先には、塀よりも高い松の木が植えれており、筧や手水鉢、石灯籠など、和が敷き詰められた庭園が広がっている。
「お姉ちゃん、終わった?」
愛がこちらを振り向いて言う。
「うん」
「悲葬の力を使うのは一ヶ月に一度でしょ? 今月で二度目じゃん」
愛はムッとした表情で問いかけてきた。
「私も今日知ったの。商社の偉い人なんだって」
「また金持ちとの縁結びだ。そんなの断ればいいのに」
「悲葬の掟があるから、頼まれたら断れない」
「そんなの千代さんが勝手に取り次いだことじゃん。他人の娘をだしに使うなんておかしいよ」
愛はむくれた顔で言った後、陽葵に背を向けた。
「桜を見に行く約束してたよね。今から行こう」
陽葵が宥めるように言うと、愛は再度振り向く。
「フラッシュバックは?」
「今日の子はいじめにあったって言ってた。だぶん学校に行ったらフラッシュバックする。だから愛がいる時に起こってくれた方がいい」
「……分かった」
「じゃあ着替えてくる」
陽葵が居間を出ようとすると、麻美が入ってきた。
「依頼者の前であんな態度を取るのはやめなさい」
「断りもなく勝手に連れてきたのはそっちでしょ。直接頼まれたら私は断れないの。掟に反すれば記憶が消えるから」
「知ってる」
「じゃあ何で?」
こんなことを聞いても無駄だと知っている。だけど陽葵は感情に逆らえなかった。
「もうすぐ悲葬を継承して力を失くす。それまでは我慢して」
「もういい。これから愛と公園に行くから」
「午後から後継者と顔合わせがあるから、それまでには帰って……」
麻美の言葉遮るように、陽葵は居間を出ていった。
*
この公園は九基の大型古墳からなる古墳群だ。
円墳では日本一大きい丸墓山古墳があり、頂上には桜の木が植えられている。
春になると花見客で賑わう観光名所になっており、今日もたくさんの人が公園に来ていた。
陽葵と愛は、墳頂に続く階段を上っている。
「相変わらず人が多いね」
「うん」
「ねえ、頂上に着いたら一緒に写真撮ろうよ」
「私はそういうのいい」
「ケチ」
愛は不機嫌そうに口を尖らせた。
妹の可愛らしい表情が、陽葵の口元を緩める。
墳頂に着くと、ふわりと舞う花びらが瞳を染めた。
春の片隅に降る、桃色の花弁を散らした桜の雨。
始まりと終わりを告げる花が視界の隅々で咲き誇る。
この瞬間だけは時が止まったかのように目を奪われてしまう。
毎年愛と来ているが、いつみてもこの美しさは変わらない。
それは陽葵にとって嬉しいことでもあった。
「お姉ちゃん」
声の方に視線を移すと愛が柵の前で手招きしている。
近くまで行くと、「見て」と下を指した。
墳頂から広場が見え、囲むように桜が並んでいる。
見上げる桜も綺麗だが、見下ろす桜もまた美しい。
愛はスマホを取り出し、写真を撮り始めた。
「お姉ちゃんも撮りなよ」
「私はいい」
「いつも撮らないよね」
「枯れない桜が私の部屋にあるから」
「え? 桜育ててたの?」
愛は写真を撮る手を止めて、陽葵を見る。
「育ててはない。でもその桜は何があっても色褪せないの」
「何それ? 家に帰ったら見せてよ」
「ダメ」
「いじわる」
愛が数枚写真を撮った後、階段を降りて広場に向かった。
花見をする家族や、はしゃぎながら桜を撮る女の子たちで賑わっている。
「あの人、毎年あそこで絵を描いてるよね」
愛の視線を辿ると、広場に並んだ桜の前で、スケッチブックに何かを描いている村田隆二の姿が映った。
「お姉ちゃんと同い年くらいじゃない」
「同い年だよ」
「知ってる人?」
「同じクラス」
「うそ? 手振ってみれば」
「あまり話したことないから」
「同じクラスなのに?」
「うん」
陽葵は周りの景色をぼやかすように隆二の姿を眺めた。
追憶に触れるその光景が、胸を優しく撫でる。
ふと視線を感じたため愛の方を見ると、じっとこちらを見ていた。
「何?」
「友達作れば。もう少しで終わるんだし、迷惑もかからないでしょ」
「私はいい。辛くなるだけだから」
「悪い人ばかりじゃないよ。この世界にはね、良い人もいるの」
「知ってる」
陽葵は隆二の姿を目に焼き付けて、踵を返す。
「いいの? 声かけなくて」
後を付いてくる愛に「いいの」とだけ返した。
*
空から降り注ぐ太陽の光を浴びながら、陽葵と愛はアーケード街を歩いていた。
観光客もいるからか、いつもより人が多い。
「来年も桜見に行こうね」
陽葵は「うん」と微笑んで返す。
妹以外と出かけることはなかった。悲葬の力には”副作用“があるからだ。
愛は毎年、友達からの誘いを断って姉と桜を見に来ていた。
そのことを陽葵は知っている。
それが嬉しくもあったが、同時に心苦しかった。
「愛、ありがとね。毎年一緒に行ってくれて」
「私が行きたいって言って誘ったんじゃん。感謝するのは私でしょ?」
愛の優しさに心が洗われるようだった。
数多くの悲しみに触れてきた陽葵にとって、些細な言葉が生きる糧になる。
「でもありがとう」
「まあ、どうしても感謝したいなら、されてやるか」
愛がそう言うと、陽葵は穏やかな笑みを零した。
「待ってよ」
目の前から小学生くらいの男の子たちが走ってきた。
先頭を走る二人の後を、一人の男の子が追いかけている。
「来るなよ、バカ悠人」
「追いつかれたら箘がうつるぞ」
陽葵と愛の間を割るように、三人は駆けていった。
その瞬間、急な立ちくらみが襲い、陽葵は頭を抑える。
体がよろけ地面に膝をつきそうになったが、愛が咄嗟に反応し、体を支えてくれた。
「大丈夫?」
愛の不安気な声が耳に入ってくるが、段々と周りの音が遠ざかっていく。
そして視界に靄がかかり始め、景色が歪み始めた。
ーーフラッシュバック
悲葬の力を使うと起こる副作用で、悲しみを消した相手の悲痛な過去を体験する。
視界を澱ませていた靄が徐々に晴れると、体育倉庫と思われる場所に陽葵はいた。
目の前には学生服を来ている数名の生徒。
たぶん中学生だろう。
その中の一人は水を張ったバケツを持っている。
「祥子、先生に私たちのこと言ったでしょ?」
苛立った様子で女が話しかけてきた。
祥子は先ほど悲しみを消した相手だ。今は彼女の視点で目の前の出来事を見ている。
「お願い……許して」
祥子の口が開き、震えた声が体育倉庫に零れた。
今は祥子の精神と繋がっているため、彼女の心の内が陽葵にも伝わってくる。
恐怖が全身を這いずり回るようだった。
指先は震え、心臓を鷲掴みされているみたいだ。
苦しい――鼓動が胸を殴りつけ、表情が歪んでいくのが分かる。
「お前、汚れてるから洗ってやるよ」
男が嘲笑いながら目の前に立つと、バケツに入った水をかけてきた。
冷水が全身を濡らし、恐怖と冷たさで震えが増長される。
「あんたなんか生きてる価値ないから」
女が声を弾ませて言う。
――死にたい
祥子の声が陽葵の頭の中に響く。
「行こうぜ」
生徒たちは笑いながら体育倉庫を後にする。
姿が消えると、膝から落ちるようにして泣き崩れた。
取り残された空間には慟哭の雨が降る。
悲しみが蝕み、絶望が心を支配して、死を希望に変える。そんな感情だった。
「お姉ちゃん!」
頭の中に愛の声が入ってくると、視界に靄がかかり景色が歪み始める。
徐々に晴れてくると、心配そうな顔をした愛が目に映った。
「大丈夫?」
愛は陽葵の震えた体を優しくさすっていた。
行き交う人たちが怪訝な視線を陽葵に向けている。
それが余計に辛さを増幅させた。
胸が苦しい。現実に戻ってきても恐怖が纏わりつく。
死にたいという想いが頭の中に溢れ、陽葵の心が闇へと落ちていく。
頬に何かを感じたため指先でそっと触れると、涙を流しているのが分かった。
「フラッシュバック?」
愛の質問に陽葵は小さく頷く。
「祥子って言われてたから、今朝の女の子だと思う」
小刻みに息を吐く。その度に心臓を握られているような苦しさが陽葵を襲った。
「家に帰って、少し休もう」
「うん」