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追憶の残花  作者: 最下真人
【二章】 夏の花
17/24

十六話 瞬刻に咲く夜空の花

 9

 

 陽葵は自室のスタンドミラーで全身を隈なく見終わった後、もう一度正面を向いて確認した。

 白のイベリスが散りばめられた水色の生地。帯は黄色を選んだ。

 この浴衣は母から譲り受けたもので、中学生の頃に着付けを習った。

 それ以来、一度も着用していなかったため、似合っているかどうか不安が残る。


「入っていい?」


 部屋のドアが叩かれた後、愛の声が聞こえた。


「うん」


 愛は入ってくるなり、浴衣姿の陽葵を見て目を見開いた。

 それがどっちの意味なのか分からず、妹の言葉を待った。


「お姉ちゃん、綺麗」


「そうかな」


「うん。隆二くんも喜ぶんじゃない?」


「別に喜んでほしいわけじゃ……」


 陽葵は細い指を毛先に絡ませながら答える。

 褒めてもらえたことで安心したが、次に出てきた言葉で別の緊張が走った。


「髪は私がやろうか?」


「お願い」


 ローテーブルに化粧鏡を置いた後、浴衣に皺が付かないようにゆっくりと腰を下ろす。


「どんな髪型がいい?」


「後ろでまとめてほしい」


「じゃあ三つ編みにして、まとめる?」


「うん」


 愛は後ろに着くとサイドの髪を取り、三つ編みを作り始めた。

 愛は昔から手先は器用だった。

 友達のいない陽葵は妹と過ごすことが多く、子供の頃は雑誌を見ながら、お互いの髪をアレンジして遊んでいた。

 だが愛が中学に上がると共有できる時間が減っていったため、いつの間にかすることもなくなった。

 久方ぶりの出来事に懐かしい気持ちを抱きながら、陽葵は思い出の中に身を寄せ、玉響に浸る。


「ねえ、お姉ちゃん」


「何?」


「楽しんできてね」


 鏡越しに愛と目が合った。

 清浄無垢を描いたような可愛らしい笑顔には優しさが施されている。


「うん」


「ずっと辛かったと思う。だから今日みたいな日がくることを望んでた。みんなと同じように楽しめる日を」


「愛がいなかったら、もっとやさぐれてたと思う。帰る場所がなかったと思うから」


「お姉ちゃんがグレて不良娘になってたら、それはそれで面白い」


 愛が片方の三つ編みを完成させる。


「不良にはならないと思うけど、家に帰らないとかはあったかも」


 陽葵はテーブルの上に置いてあるヘアゴムを愛に渡す。


「それを不良って言うんだよ」


「普通の子でも、それくらいはあるよ」


「そう? お姉ちゃん、すでに不良に染まってるんじゃない?」


「不良に染まるって何?」


 二人の顔に笑顔が零れる。

 時計の針を戻したような空間に心の温度が上がった。

 温かくて柔らかい、幼い頃の空気感が、今も変わらずに流れていることが嬉しかった。


「でも良かった、友達ができて。帰る場所が増えたね」


 愛はもう片方の髪を取り、三つ編みを作り始める。


「そうだね」


「後はお姉ちゃんに恋人ができれば完璧だね」


「そういうのは別に……」


 陽葵は自分の目が泳いでいることに気づいた。視線を鏡に固定させると、愛の笑ってる顔が映る。


「何?」


「めっちゃ泳いでたよ」


「泳いでないよ」


「泳いでた」


「泳いでない」


「できたら教えてよ」


 愛の言葉に陽葵は口を噤んだ。

 胸の中で彷徨っている迷いがそうさせたのかもしれない。


「え? もしかして教えないつもり?」


「いやそういうわけじゃないんだけど……」


「もしかしてもうできた?」


「できてはない」


「じゃあ内緒で楽しもうとしてるの?」


「できたら言うから、髪の毛に集中して」


 愛は目を細めながら陽葵を見ている。


「その目やめて」


「できたら言ってよ」


「分かった」


 *


 駅前は浴衣を着た人たちで溢れていた。きっと花火大会に行くのだろう。

 人と人の間を視線で縫うように見渡すと、隆二の姿が見えた。

 隣には浴衣を着た悠人と茜もいる。


「お待たせ」


「お姉ちゃん可愛い」


 陽葵の浴衣姿を見た茜が、目を輝かせながら見上げてきた。


「ありがとう」


 茜にお礼を言った後、隆二を横目で見る。

 口を半分開けながら、瞬きもせずに陽葵を見ていた。

 隆二は紺の浴衣に黒の帯を巻いている。いつもと違う姿に心臓が大きく相槌を打つ。


「変……かな」


 最初は隆二の目を見ていたが、いつの間にか胸の辺りに目線が落ちていた。


「ううん、似合ってる」


 夏の西陽のせいか、頬が熱いと陽葵は思う。

 ありが……と言いかけた時、悠人が声を発した。


「茜ちゃんも可愛いよ」


「そうかな……」


「うん。世界一可愛い」


「それは言い過ぎだよ……」


「ううん。一番可愛い」


 悠人が褒めるたび、茜は肩を竦めていく。

 恥ずかしがっているのが一目で分かり、母のような気持ちで染まる頬を眺めていた。


「悠人も似合ってるよ……」


「ありがとう」


 隆二と目が合うと、微笑ましい光景にお互い笑みを浮かべた。


 会場の最寄り駅には、電車の乗り換えを含め三十分ほどで着いた。

 駅を出ると浴衣姿の人たちが列をなして歩いている。これだけでも雰囲気を感じた。

 観覧場所はいくつかあるが、有料席の予約を取っていた。

 お金は悠人の祖母である弘子が出してくれたらしい。

 土手を下りた先に運動場があり、そこが観覧場所になっている。

 土手と運動場の間には数えきれないほどの屋台が並んでおり、多くの人たちで賑わっていた。


「あれ食べたい」


 悠人が指差す方に視線を向けると『冷やしきゅうり』と書かれた看板があった。


「渋いね」


 隆二が苦笑いを浮かべると、「私も食べたい……」と陽葵が呟く。


 四人できゅうりを食べながら、他の屋台も覗いた。

 悠人と茜は仲睦まじそうに肩を並べて歩き、陽葵と隆二は逸れないように後を付いていく。

 なんだか家族で来ているようだなと陽葵は思った。

 悠人と茜の楽しそうに笑う顔を見て、陽葵は笑みを零す。

 だが、すぐに表情が戻った。

 いずれ笑えなくなる日が来るかもしれない。

 そう考えると何かが胸を締め付けるようだった。


 日が暮れてきたので、観覧場所に向かった。

 均等に並べられたブルーシートがいくつもあり、一番前が陽葵たちの席だった。


「さっき浴衣褒めてくれたから、私が食べさせてあげる」


「い、いいよ」


「なんで照れるの」


 悠人と茜は二人で一つのわたがしを食べている。

 隆二を見ると、二人の後ろ姿を見ながら微笑んでいた。


「今度ね、茜ちゃんと一緒に遊園地に行くんだよ」


 悠人が振り向いて言うと、「そうなんだ」と隆二は相槌を打つ。


「夏休みは、いっぱい遊んでいいって言われたんだ」


「宿題はやらないとダメだよ。去年だって、私が手伝わなかったら終わらなかったでしょ?」


「『力を継ぐまでにたくさん思い出は作った方がいい』っておばあちゃんに言われた。だから今年はしなくても……」


「力を受け継ぐって、なんの?」


 悠人は思わず口を塞いだ。

 悲葬の力は他言無用だ。悠人もきつく言われているはず。それを今思い出したのだろう。

 ねえなんの? と再度茜が聞くが、悠人は視線を宙に彷徨わせて困惑している。


「悠人くんのお父さんお医者さんでしょ? だからそのための勉強をするって意味じゃないかな? 受け継ぐっていうのは技術や知識を学ぶってことだよね」


 陽葵のフォローに、悠人は赤べこのように何度も首を縦に振った。


「そ、そう。パパの仕事を受け継ぐの」


「じゃあ悠人、お医者さんになるの?」


「え……いや……」


「じゃあもっと勉強しないと。お医者さんていうのは人の命を救うお仕事なんだから。これからは私がつきっきりで教える」


「毎日遊べるってこと?」


 悠人は目を輝かせながら茜に視線を向けた。


「遊ぶんじゃない。勉強するの」


「でも茜ちゃんと一緒にいられるなら頑張れるかも。幸せにしないといけないし」


「幸せにって、何を?」


「茜ちゃん」


 隆二の問いに、悠人は間髪入れずに口にした。平然と言う姿に三人は一瞬固まる。


「ちょ……何言ってるの?」


「僕は茜ちゃんと結婚したいから、お医者さんになって生活を楽させてあげたい。ダメかな?」


 陽葵と隆二は思わず顔を見合わした。お互いの口が半開きになっている。


「ダメじゃないけど……まだ小学生だし……それにもっと勉強しないとなれないよ? 悠人できるの?」


「茜ちゃんのためなら頑張る」


「じゃあ……お医者さんになれたら考えてあげる」


 恥ずかしそうに俯く茜に、「絶対になる」と悠人は言った。

 両手で顔を仰ぐ茜は、「なんか熱いね」と話を逸らす。


「お礼にわたがし食べさせてあげる」


 悠人はわたがしを千切って口元まで運ぼうとするが、茜は顔を正面に向ける。


「い、いいよ。それに、まだ結婚するって決まったわけじゃない……」


「なんで照れるの?」


「照れてない」


 陽葵は二人の姿を静かに眺めていた。

 その目には羨望と哀情が混ざり合う。

 自分にも茜のような存在がいたらという後悔と、二人の関係がこのまま永遠に続いてほしいという希望。

 五家の宿命は繁栄であり、個人の自由は許されない。

 もし悠人が力を継承すれば、他人の悲しみを背負って苦しむだろう。

 そして好きな人との恋すら結べなくなる。

 一人で抱えるようになり、守ってくれる人がいなくなったら、きっと悠人は心を枯らせてしまう。

 そうなれば世界から逸れ、孤独の中で生きていかなければならない。

 陽葵は狭間で揺れながら神様を嫌悪した。

 

「人が多いところはあまり好きじゃないけど、たまにはこういうのもいいな」


 隆二は周りを見渡しながら言った。

 家族連れ、カップル、友達同士など、百花の景色が陽葵の目に映る。


「お祭りが嫌いだった。みんな友達や恋人と一緒に来るでしょ? 楽しそうにしてる姿を見たくなかったの。自分は赤の他人の悲しみを背負ってるのに、どうしてこの人たちはヘラヘラ笑って生きてるんだろうって」


 五家の伝統に向けられた憎悪が、いつからか他人にも向かっていた。

 人の幸せは自分の不幸。幼い頃から悲しみを見てきた陽葵はそう思っていた。


「人って記憶でできてるんだと思う。どんな思い出を持つかでその人が決まる。花と一緒。水をやれば美しく咲くけど、なければ枯れていく。私の場合、咲くはずだった花が他人の悲しみで朽ちていった」


 悲葬の力を継がなければ、どういう生き方をしていたのだろうと陽葵はよく想像していた。

 笑顔が咲く平穏な日々を頭に浮かべるが、現実に戻るたびに妄想すら辛くなっていく。

 周りに嫉妬を抱き、『どうせ人なんて……』と思う方が楽だった。

 期待すれば、苦しむだけだから。

 だけど今は想像していたものが目の前にある。

 この日々は手放したくない。手放したくないが……


「たとえ散ったとしても、季節がきたら再び咲き誇る。だから咲くか枯れるかじゃなく、美しく咲ける場所にいるかどうかだと思うんだ。俺は花より土のようになりたい。その人が一番綺麗に咲けるように」


 喧騒の中に落ちる言の葉が揺らぐ心をそっと鎮める。

 その瞬間、夜の帳が下りた空に夏の花が蕾を開かせた。

 歓声が上がり、花火玉の破裂音が河川敷に轟く。

 次々と打ち上げられる花々は、夜を幻想的に彩った。

 菊が舞い、牡丹が崩れ、柳が枯れる。

 白煙が空に彷徨い、残像すらも美しい。

 悠人と茜は「すごい」と拍手を送っている。


「ねえ隆二」


「何?」


「今日のことは忘れないで。思い出として残してほしい」


「忘れない」


「ありがとう」


 一夏に咲き、一夏に散る、花火のような日々だった。

 泡沫に染められた想いは、花屑のように落ちてゆくだろう。

 でもこの美しさだけはきっと永遠に残る。

 私は空白の中を彷徨うことになるけど、あなたがいるから怖くない。

 瞬刻を灯す夏の花や、地上を染める春の雨。

 傷を癒す笑い声や、たった一人に向けられる穢れのない純白な感情。

 色彩を失った世界で、また咲かせてほしい。

 幾度の季節を超えても枯れることのなかった、追憶で揺れる桜のような日々を。


 *


 花火大会を終え、陽葵たちは帰路に就いていた。

 茜は悠人の家に泊まるらしく、陽葵と隆二は二人を家まで送っていた。


「人がいっぱいで大変だったね」


「電車の中で押しつぶしされるかと思った」


 悠人と茜は手を繋ぎながら、陽葵たちの前を歩いている。

 会場を少し早めに出たのだが、それでも人混みがすごく、電車の中で茜が押し流されそうになった。

 悠人は茜の手を掴み、逸れないように駅まで持ち堪える。

 そして改札を出てからも、二人は優しさを解かなかった。

 まるで約束を結ぶように。


 陽葵は繋がれた手をじっと眺めながら思い出に焦がれた。

 目の前を歩く二人に自分を重ねて。


「花火って一瞬で消えちゃうでしょ? その場所に残ってたらずっと綺麗なのに」


 茜が夜空を見上げた。その視線の先には花火が映っているのかもしれない。


「一瞬で消えるからまた見たいと思うんだよ。ずっと残ってたら色褪せていくけど、その時だけのものだからより綺麗に映る。美しさを飾りつけて、それが思い出に変わっていく」


 そう言った後、陽葵も夜空を見上げた。

 彩られた花たちが散り、星が咲いて夜を照らしている。


「じゃあ今日も、いい思い出に変わるね」


「……そうだね」


 陽葵は茜の言葉を一度飲み込んでから、そう答えた。


「来年もまた四人で来ようね」


 悠人が振り向いて言うと、隆二は優しい笑みを零し「うん。行こう」と返した。


「お姉ちゃんは?」 


 陽葵は小さく頷き、ぎこちなく微笑んだ。


 家の前に着き、門扉の前で二人とお別れをする。

 悠人と茜は角を曲がるまでずっと手を振っており、陽葵は最後に小さく手を振り返し、「さよなら」と夜の底に囁いた。


 星が見下ろす住宅街は、どこか寂しさを纏っているように感じる。

 無邪気な声がなくなったからなのか、今の心情がそう思わせているのかは分からない。

 でもこの瞬間すらも大切にしたいと、陽葵は味わうように噛み締めた。


「悠人くんを支えていかないとね」


 足音だけの凪いだ空間に、隆二の言葉が響く。


「悲しい記憶を一つ見るたび、楽しい思い出を一つ作る。俺はそうやって悠人くんに寄り添いたい。悪い人間ばかりじゃないってことを知れば、生き方が変わると思うから」


 陽葵には愛がいたが、外の世界に茜のような存在はいなかった。

 もしそんな人が自分のそばにいたなら、きっと違う人生を送っていたのかもしれない。

 思い出を辿りながら、陽葵は妄想で隙間を埋める。


「誰といるかで、考え方や生き方が変わるんだと思う。人生にはいろんな道があって、その選択は環境や周りの人たちによって決まってくる。自分だけでは、自分を作れないから」


 今までを振り返った時に、陽葵はそう感じた。

 力の副作用で見た他人の悲しみや、五家に生まれたことで発生するしがらみ。

 その全てが陽葵の思考を導いてきた。


「私は自分でコントロールできないことがたくさんあった。その影響で、決められた道を知らないうちに歩かされていた。他人を避けるということも自分で選んだのではなく、環境の支配で選択したこと。この力を継ぐと決まってから私に自由なんてなかった」


 でもね……と陽葵は続ける。


「そのおかげで隆二と出会えた。この力を継いで、唯一良かったと思えること」


「力を継いだから出会えたってこと?」


 隆二は不思議そうな面持ちで聞いてきた。

 陽葵は数秒の空白を置いた後、思い出に視線を向ける。


「隆二、うちに寄ってかない?」

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