十話 枯れない花
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図書委員の仕事が終わり、西陽の差す住宅街を一人歩いていた。
前には手を繋いだ親子がおり、男の子は森のくまさんを歌っている。
隆二はその光景を微笑ましく見ていた。
「そうだお母さん、公園行こうよ」
歌うのを突然止め、男の子が母の顔を見上げて言った。
「今から?」
「桜見たい」
母は不思議そうな顔で男の子を見下ろした。
「桜は春で散っちゃうの。また来年行こう」
男の子は大きく首を横に振る。
「だから行くんだよ。だってみんな、お花が咲いてる時にしか行かないんだもん。忘れられちゃったみたいで桜が可哀想」
「それじゃあ、明日行こうか」
「うん」
男の子は満面の笑みで頷いた。それに釣られてか、母も同様に笑顔を浮かべる。
二人のやりとりを聞いて、隆二は足を止めた。
そして踵を返し、忘れ去られた春の花に会いに行く。
*
十分ほどで公園に着いた。
広場では子供たちが遊んでおり、鈴のような高い声が響いていた。
春には広場を囲むように咲いていた桜も、今はその面影はない。
鮮やかな桃色の花を空に散らせた木々は、来年に備えて緑の葉に衣替えしている。
遊んでいる子供たちは、桜を忘れてしまったかのように見向きもしない。
隆二は切なさに近い感情で広場を見渡していると、桜の木を見上げる陽葵の姿が目に入った。
「だいぶ景色が変わるな」
静かに近づいたからか、陽葵は驚いた顔でこちらを見た。
「どうしたの?」
「夏だから見に来ようと思って」
「普通は春だから、でしょ」
陽葵はクスッと笑った。その顔に隆二の頬も緩む。
「何かあった?」
「どうして?」
隆二の問いに、陽葵は首を傾げて聞いてきた。
「夏なのに桜の木を見上げてるから」
陽葵は隆二を映した瞳を、桜の木へと向けた。
その目は何かを懐かしむかのように、遠い過去を見ているみたいだった。
「ここの桜を見てると、嫌なこととか全部忘れられるの。悲しみを優しく撫でてくれるみたいで」
「特別なんだ」
「うん」
陽葵は笑みを浮かべている。
だが先ほどとは違って、温かみや柔らかさを感じるような優しい微笑だった。
「桜ってさ、咲いてる時は見に来るけど、散った後はそこに何もなかったかのように忘れ去られていく。どんな気持ちなんだろう」
隆二は親子の会話を思い出し、ふと零した。
面影のなくなった桜は人々の足音だけを聞いて季節を過ごす。
すぐそばにいるのに、花が散れば忘れ去られる。
桜は姿を変えても桜なのに。
「だから花を咲かせるんじゃない? また思い出してほしくて。忘れ去られるのは辛いから、桜も覚えていてほしいんだと思う」
切なさに染まる陽葵の言の葉が、隆二の思い出に触れた。
「前にさ、『絵が好きなの』って聞いたでしょ?」
「うん。小学校の先生になりたいんだよね? 絵を通して色々教えるために」
「もう一つ理由がある。小学生の頃、ここで女の子に絵を褒められた。相手の子も同い年くらいだったんじゃないかな……」
隆二の頭の中に、広場に咲く満開の桜が映し出される。
花見客で賑わう四月の空には、桃色の花弁が舞っていた。
隆二は背負っていたランドセルを下ろし、中からスケッチブックと色鉛筆を取り出す。
広場に並ぶ桜を見上げながら、下書きしてあった桜に色を塗る。
一時間程で絵が完成し、帰ろうとした時だった。
体育座りで膝に顔を埋めている女の子が目に入る。
女の子は麦わら帽子を被り、白いワンピースを着ていた。
「どうしたの?」
隆二が声をかけると、女の子は顔を上げた。
表情はどこか暗い。
「大丈夫?」
そう聞くと、女の子は隆二が持っていたスケッチブックに視線を置いた。
「何それ?」
「さっきまで桜描いてた」
「見てもいい?」
「え……」
正直見せたくなかった。初めて描いた桜はとても拙い絵だったから。
下手と思われるのは嫌だし、人に見せられるようなものではない。
「ダメならいいや……」
女の子の表情が萎れていった。その顔に隆二は戸惑う。
「下手だよ。それでもいいなら見てもいいけど……」
女の子は隆二を見上げ、「見たい」と声を弾ませた。
恐る恐るスケッチブックの表紙を開き、先ほどまで描いていた絵を見せる。
自分が描いた絵を初めて人に見せるため、どういう反応が返ってくるか不安があった。
女の子はまじまじと絵を見ており、隆二は固唾を飲んで返答を待っている。
春風が吹いた時、女の子が顔を上げた。
隆二の鼓動が大きく跳ねる。
「上手だね」
女の子は満面の笑みを浮かべた。
冬の枯れた木々に春が訪れ、桜を咲かせるような。
「それあげる」
隆二は視線を逸らして言った。女の子の笑顔に心が揺らいだから。
「いいの?」
スケッチブックから切り離して渡すと、女の子は絵をじっと眺めていた。その顔に笑顔という花を添えて。
「また描いてくれる?」
日差しのせいか、女の子の目には光が纏っているように見える。
「来年はもっと上手なの描く」
「約束だよ」
「うん」
思い出を語り終え、陽葵に視線を送ると、こちらをじっと見ていた。
急に恥ずかしさが込み上げてきて、桜の木に視線を移す。
「それがもう一つの理由?」
「たった一枚の絵でも、誰かの悲しみに笑顔を灯せる。絵にそういう力があるって知った」
隆二は初めてこの思い出を語った。
――忘れ去られるのは辛いから、桜も覚えていてほしいんだと思う
先ほどの陽葵の言葉が引き金になったのかもしれない。
「でも、なんで教師なの?」
「たとえ一歩目が拙かったとしても、その先のすべてがダメになるわけじゃない。最初から美しい花がないように。絵を通してそれを子供たちに教えたい。どんな子でも種はあるから、それを芽吹かせるのが俺の夢なんだ」
視界の隅で陽葵が微笑んだのが分かった。
それが嬉しかった。自分の夢を肯定してもらえたようで。
「その子とはそれが最後だった。せめて名前ぐらいは聞いとけば良かったんだけど……」
隆二は追憶に咲く花を想い浮かべながら、話を続ける。
「もう来ないって分かってるけどさ、心の底ではもしかしたらって……今も思ってる」
「受賞した時のコメントって……」
中学の絵のコンテストで入賞したとき、隆二は受賞コメントで入学する高校を告げた。
その絵を桃花たちと一緒に観に行ったときのことを陽葵は思い出したのだろう。
「あの時のことがあったから、自分の進む道を見つけられた。だからお礼を言いたかったんだ。同い年くらいだったし、可能性としてはあるかなって……」
「フフッ」
「笑うなよ」
隆二は照れながら頭を掻く。
「会えるといいね。その女の子と」
「さすがにもう覚えてないだろうけど」
「覚えてるよ」
陽葵を見ると、「その子もきっと」と優しく微笑んだ。
「だといいけど」
二人は夏の夕日に照らされた桜を見上げた。
姿は変わっても、あの頃とは何一つ変わらない思い出を、隆二たちは静かに眺め続けた。




