第5話 魚の祭り
魚の祭りに向け、島は俄かに忙しくなりはじめていた。
神殿には色とりどりの花が飾られ、神に献上する為の果物が祭壇に並べられる。今年、神の国へと旅立つことになったのはムシュカ。彼は選ばれた。それは島に住む者にとってこの上なく喜ばしいことだ。
「どうして? どうしてよっ」
しかし、たった一人、どうしても彼の旅立ちを喜べない者がいた。何故なら彼女は、彼を愛していたから。
「とても光栄なことだよ? そんなに悲しまなくていい。来年もし君が選ばれたなら、僕達は神の国でまた出会えるじゃないか」
そう微笑むムシュカを見上げる彼女の瞳からは大粒の涙。
「違う……。違うわっ」
通称「魚の人」と呼ばれる選ばれし者は、天より泳ぎ来る魚に乗って島を去る。そしてそれきり、戻ってくることはない。島の住人は、天には神の国があり、選ばれし魚の人は神のお側で一生を過ごすのだと信じていた。
「神の国を実際に見た者がいて? そんなもの、ありはしないのよ! あなたは生贄になるんだわっ! そんなの私はいや!」
「なんてことを! そんなことを言っては駄目だっ。大神官様の耳にでも入ったら、追放されてしまうぞ?」
「それでもいい! ねえムシュカ、二人で逃げましょう? 島を出るのよっ」
ムシュカは彼女の言葉に驚き、戸惑った。神に仕えること。それだけが島の住人に課せられた使命。幼い頃から神の偉大さ、この島に住まうことの素晴らしさ、なすべき仕事の大切さを教えられて育ってきたのだ。島を出る、などという行為がムシュカに出来るはずもなかった。しかも彼は今年、魚の人に選ばれた。この上なく光栄な命を受けたというのに、どうして逃げ出せよう?
「……僕は『魚の人』に選ばれたんだよ?」
「ムシュカ……?」
「君はそれが気に入らないの?」
ムシュカの言葉に、彼女が息を飲む。自分の想いを、嫉妬から来る醜い感情と思われていると知ったからだ。
「そんなっ!」
「さよなら。僕は神の国で君を待ってるよ」
笑顔でサヨナラを告げ、ムシュカは彼女に背を向けた。
しかし、彼女はどうしてもムシュカのことが諦められなかった。祭りの当日、天空より舞い降りたる魚の背に乗り込んだ彼を取り戻さんと、神殿へ足を踏み入れ祭りを中断させてしまったのだ。彼女は魚の祭りを汚したとしてその名を取り上げられ島から追放された……。
*****
「だから私には名前がない」
彼女は一通り話を終えた後、そう呟いた。
「……とても言いづらいのですが、その、ムシュカ……という人を探すのは無理ですね」
ナハスは手を組み、目を閉じてそう言った。
「……どう、して?」
彼女が声を震わせ、尋ねる。
「彼の気配は、もうないんです」
何も感じない。ムシュカ、という男の存在を示すものが、どこにも感じられない。
「……そん……な……。そんなこと……嫌よ、絶対に信じない! 信じないわっ!」
ガタンッ、椅子を倒し、感情の高ぶりを抑えられなくなる彼女。ナハスは何とか落ち着かせようと彼女をなだめるが、暴れ出した彼女を抑えらずに狼狽えていた。
「落ち着いてください! ねぇっ」
「認めない! そんなの認めないから!」
喚き散らし暴れる彼女を、ナハスは抑えられない。
「どうかしたのかっ?」
騒ぎを聞きつけ部屋に入ってきたのは意外な人物。
「いやぁぁぁっ!」
「あ、ロェイ! お願いっ、手を貸してっ」
暴れる彼女を何とか押さえ込もうと必死のナハスを見、ロェイはただ黙って彼女に手をかざした。ふわっ、と風が吹く。
「……あ」
彼女の体から力が抜けていく。まるで魔法にでもかけられたかのように、彼女はその場に倒れたのだった。
「あ、ありが……と」
ふぅ、と息を吐き出し、ナハス。目の前で見せられたのは初めてだが、これが「凪」の力。怒り、悲しみ、喜び、全ての感情を一瞬にして無にしてしまうことが出来るという不思議な力……。
「……彼女は?」
心配そうに、ロェイ。
「あ、お客さんなの。ちょっと興奮させちゃったみたいで」
占いのことは黙っておく。結果、ナハスに見えた未来も。
「彼女を運ぶの手伝ってもらっていい?」
彼女は旅に出る。この、宿場アルブールに集まる幾人かの面々と一緒に。だけどまだ足りない。もう一組、事情を抱えた者達が迷い込んでくるはずだ。
ナハスにはそれが、見えた。
「部屋、どこ?」
ロェイが彼女を抱き上げる。
「一番奥。そこしか空いてないから。あ、それとロェイって確か二人部屋だったわよね?」
「……そうだけど?」
「相部屋、お願いしてもいいかしら?」
にっこりと、ナハス。
「この人とか?」
まさか、という顔でロェイ。さすがに若い女性と同室はまずいだろうと思ったのだ。
「違うわよ。今日は部屋が一杯なんだけど、相部屋でもいいからどうしても泊まりたいっていう人がいるの」
「まさかあいつじゃないだろうな?」
怪訝な顔つきで、ロェイ。
「あいつって……ラッシェル? 違うわよ」
ナハスの答えを聞き、肩を撫で下ろす。
「……どうせ寝るだけだ。相手が嫌がっていないなら構わないが」
「ありがと。じゃあフラッフィーにはそう言っておくわね」
ポン、と肩を叩きナハスは笑った。
「そっちかよ、おい!」
抗議の声をあげるロェイ。
彼を追いかけて来たフラッフィー。彼女もまた旅の参加者であることを、ナハスは既に知っていたのだ。