第40話 天上人
スヴェラは、かつて人として生きていた日のことを、思い出していた。
人間は天上界とは違う、不思議な関わり方をする。
自己完結していない彼らは、互いに依存し合ったり、干渉し合う機会が多かった。強き者が弱き者を助け、守る。その関係性は、天上界しか知らないスヴェラにとって、興味深いものだった。
天上界では、皆が自己完結している。誰かの力を借りたり、誰かに頼るようなことはない。よほどのことがない限り、他者との関りは持たずに生きている。
それは同時に、他者への興味がない、ということでもある。
そういう意味では、人間などに興味を持ったスヴェラは、異端だったのかもしれない。
「地上に降りるだと? 何をバカげたことを!」
唯一、関係を持っているヴァルドが呆れたように声を荒げる。
「あのような下等生物の住む場所に、一体何をしに行こうというんだ?」
「言いたいことはわかる。童もそう思わんこともない。じゃが、これは純粋なる好奇心と、興味。……のぅ、一緒にどうじゃ?」
スヴェラの好奇心旺盛さはヴァルドもよく知っていた。何にでも興味を持ち、天上界では名の知れた変わり種だ。だから一緒にいる。退屈とは無縁の、面白い人材ではある。だが、地上に降りるというのは、正直いただけない。人間の愚かさは誰もが知るところであり、わざわざ近付こうなどと思う対象ではない。
「俺を……誘うな」
心底迷惑そうな顔で答えるヴァルド。
「そうか。残念じゃのぅ。お前とならば楽しいと思うたのに」
クス、と含みのある笑顔を向け、踵を返す。
そう言われると、逆に気になるもの。ヴァルドは去ってゆくスヴェラの後を追い、結局、一緒に地上へと降りてきたのだ。
地上での生活は、不便極まりなかった。
ヴァルドは、すべて自分で行おうとするスヴェラを説得し、木偶を作らせることに成功した。遠くから人間を観察するだけなら、天上界からでもよかったはずだ。それをわざわざ不毛の地まで足を運び、そこで生活するなど、理解しがたい。
だが、スヴェラは地上に降り、人間を面白おかしく分析して見せた。
「感情の流れが単一でないところがいい。なぜそうなるのか、複雑すぎて理解に苦しむぞ。のぅ、好きな相手につれない態度を取る意味が分かるか?」
スヴェラが楽しそうに問いを投げる。ヴァルドは、黙って首を振る。
「そうであろう? あれはな、気を引こうとしているのじゃ。何故、気を引きたいのにわざわざ悪態を突いたり、冷たい態度を取るのであろうな? 意味が分からぬ」
そう言ってケラケラ笑う。
「童は、里に下りてみたい。ヴァルド、どうじゃ?」
いよいよもって酔狂なことを口にされ、さすがに断った。
「俺にそこまでの興味はない。行くならひとりで行け」
「そうか。残念じゃ。では、童は少しの間、野蛮な者たちの中で過ごしてみることにしよう」
そう言うと、愚かで醜い人間の姿に化けまでして、人里へと下りてしまった。
「馬鹿なことを……」
ヴァルドには先を見通す力があった。
それによると、これからスヴェラはくだらない好奇心のせいで痛い目に遭うようだ。だからといって、そんなことはヴァルドに関係ない。自分でそうしたいと選んだ道なのだから、責任も自分で取ればいいだけの話。
「……まったく」
そうはいっても、永久に会えなくなることは避けたかった。
仕方がない、とばかり、地上に種を蒔く。自分の持つ力をほんの少し地上に残して去ることにした。千年の後、この力が間抜けなスヴェラの助けになるように。
勿論、スヴェラ本人に知られることがあってはならないと思いながら。
そうして、ヴァルドの読み通り、スヴェラは淡い恋心を楽しむ傍ら、裏切りというしっぺ返しを受け、千年の時をこの地で過ごしてきた……。
*****
「私の好きな人を、これ以上取らないでよ!」
――眼下の小さな生き物は、自分に対し、文句を言ってきた。
それは人間に化け、人里で暮らしたころを容易に思い出させる。
生き物というのは、弱肉強食が基本であり、弱き者は強き者に歯向かったりはしない。自らの命を一番に考え、同胞を差し出すことも厭わない。そうして命を守り、繋いでゆくものだ。それを無視し、強き者に歯向かってもなお、誰かを守ろうとする心。人間には、生物でありながらそんな矛盾した考えを持つきらいがある。
母親が自分の子を守ろうとするような本能的なものではなく、赤の他人である第三者を故意的に庇い立て、守ろうとするその姿勢は、「正義」というものなのだろうか。それともただの独占欲か……。
スヴェラ神は、その理解不能な「欲」が嫌いではなかった。
「……ふむ。小さき者の意見はもっともじゃな」
気が変わる。
木偶はもう用なしだ。本来ならば無に還すべきだろう。だが、与えた命を繋ぎながら、今まで自力で生き延びてきたのも確か。それをわざわざ摘み取る必要はないのかもしれない、と思い直す。
そして不死を持っていた男は……。
これも、スヴェラ神から命を盗んだ当人ではない。
不死は人間にとって、過ぎたる力であったに違いない。だからこそ、最初の男は不死を放棄した。更に何人かの体を経て、今日という日まで繋がれてきたということだ。人間如きの度量では、不死であり続けることなど出来やしない。いわば、この男は不死の犠牲者でもある。そう思えば、同情の余地がないわけでもない。
パチン、と指を鳴らす。これで、すべてを終わりにしよう。
「……あとは好きにするといい。童は去る」
スッと空を見上げ、両手を広げた。それを見た傍らの男が、慌てたように声を張る。
「スヴェラ神! 私はあなたの守り人です! 是非私をお連れください!」
跪いたまま、懇願する。
男は「意識」の塊。いつどのようにして生まれたのかもわからない。ただ、ずっとここでスヴェラ神を思い、焦がれていた存在。
スヴェラ神は考えた。
連れ帰るのは容易だ。しかし、あいつにバカにされそうだな、と友の顔を思い浮かべた。
「……まぁ、それもよかろう」
掌を男に向けると、男の体から光の珠がふわりと浮き上がる。抜け殻となった器はその場に崩れ落ち、光の球だけがそのまま宙を漂うと、スヴェラ神の掌の中へ吸い込まれて、消えた。
「ここにいるすべての者たちを、生かそう。別の島にいる木偶にも、相当の寿命を与える。短い命だ。好きに生きるがいい」
そう言い放つと、その体がゆっくり空に向かって上がってゆく。
闇夜となった空には、満天の星空が広がっている。スヴェラ神は、まるで星に還るかのように空へ向かう。水中に咲いた無数のシンフェリアが、水に溶け泡となり、空へと連なる光の帯を作る。
川が流れていくように、糸が昇っていくように、光の尾をなびかせながら行くスヴェラ神の姿は、まるで空を泳ぐ魚のように見えた。
ゆらゆらと揺れながら、天へ。
本来あるべき場所へと、戻っていったのだ。
その様子を、皆が地上でぼんやり眺めていた。まるで夢の中のようだった。スヴェラ神の復活も、その神々しさも傲慢も、去り行く姿も。
すべてが未知の夢のようだった――。




