第35話 ムシュカの器
ふわ、と風が通り過ぎるのが分かった。
(ぼんやりしてるな、私……)
オルガはふわふわする意識の中、考える。
夢の中で「これは夢だ」と理解するかのような感覚。揺れていた地面が急に固くなって、地に足が付いているのを感じる。
分散していた意識が一か所に戻ってくるかのような。
「……えっ?」
パッと目を開ける。そして、目に映る光景に唖然とする。
目の前に立っているのは、直視することを躊躇われるほどに美しい造形の……さっき見た男性だとわかる。
彼の姿も驚きではあったが、その向こうに広がる光景が、オルガの心をざわつかせるのだ。
聖人であろう男性の後ろには、湖がある。そしてその透明な水の中一面に、つぼみのままの花園があった。
「……これが?」
願いの花、と言われているものがこれなのか。数えきれないほど群生している、花のつぼみが目の前にある。圧巻だ。
「チジリ族の娘」
涼やかな声で話し掛けられ、オルガの鼓動が早まる。緊張と、トキメキ。頭の片隅で、ラッシェルの気持ちが少しだけ理解できた気がした。聖人……こと、異性となれば尚更のこと、意識するなという方が難しいと知る。
「花を咲かせろ」
しかし、美しい造形とは対照的に、命令口調の言葉は荒い。
それに「咲かせろ」と言われたのはいいが、オルガは花の咲かせ方など知らなかった。
どうすればいい?
触れればいいのだろうか?
そう考え、湖に手を伸ばす。そこに花が揺れていなければ、湖だと気付かないかもしれないほどに透き通っていた。
ちゃぽ
水は冷たく、透明に近い。ゆらゆらと揺蕩う、その花のつぼみに、そっと触れてみる。だが……
「……あれ?」
咲かない。触れるだけでは何も起きないようだ。
では、水から出せばいいのか?
オルガはそっと根元の方へ手を伸ばし、一輪だけを手折る。湖から取り出し、目の前まで持ってくると、目を閉じ、念じてみる。
(咲け!)
しかしこれでも花が咲くことはなかった。
お手上げだった。呪文でもあるというのだろうか? 少なくとも、一族にそんな伝承はない。自分がチジリ族……花を咲かせる特別な一族であることは知っているが、花の咲かせ方など聞いたこともない。そもそもチジリ族は、どこに花が咲くかも知らなかったのだ。
「……あの、これってどうすれば咲くんですか?」
仕方なく、傍らの男性に訊ねてしまう。
「なんだ、ふざけているわけではなく、知らなかったのか」
一切の感情を出さず、男はそう口にした。怒っているのか、呆れているのか、何もわからない口調だ。それが見た目の美しさと相俟って、オルガには大層恐ろしいもののように見える。作り物の人形のように見えたからだ。
「あの、はい。知りません」
素直にそう答えると、男はおもむろに懐から……ナイフを取り出した。
「へっ?」
鞘を抜き、切っ先をオルガに向ける。
殺される! そう思った瞬間、
「ムシュカ!」
叫び声が聞こえ、オルガが顔を向ける。そこには、肩で息するエリスがいた。
「……ああ……ああ、ムシュカ!」
涙を流しながら、一歩、また一歩と二人に向かい歩く。オルガは男の顔を見た。ナイフを手にしたまま、顔だけをエリスに向けている。だが、表情はない。懐かしむでも喜ぶでもなく、無だ。
「やっぱりあなたなのね! でも、どうしてっ? 一体ここは何? 魚の人に選ばれた他のみんなはどこにいるの?」
矢継ぎ早に質問を投げかけるエリスに、ムシュカ、と呼ばれた男はほんの少し首を傾げてみせた。
「何故聖人がここにいる? 祭りはまだ先のはずだが?」
疑問を投げかけてくる男に、エリスが戸惑う。
「ムシュカ……? どうしたの? 私が分からないの?」
オルガは他の皆と一緒に、船でエリスの話を聞いた。聖人の島で恋人だった、ムシュカという男の人の話を。選ばれた者だけが神の元に行けるという、魚の祭りについても。今、ここにいるこの男がムシュカなのだとしたら、何故彼はエリスを見てあんなに無表情なのか。離れ離れになった恋人だと聞いていたのだが?
「ムシュカとは……? ああ、もしかしてこの器のことか?」
男が無表情のまま、言った。
エリスの顔が、曇る。
「……なん、て?」
「この器の話か、と言ったのだ。まだ私は新しい器を必要としてはいないが?」
エリスが、真っ青な顔でよろける。オルガも、どうしていいかわからず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「器……ですって? あそこに書いてあったことは本当なのっ? ムシュカは……ムシュカはっ」
あの家に置いてあった日記のようなもの。
そこに書かれていたことが本当だというのなら、ムシュカはもう……いないことになる。
「器の主のことなら、とうに花が喰った。スヴェラ神の一部となったのだ。これから大切な儀式を行う。声を荒げるな。邪魔をするなら排除するぞ」
冷たい、目だった。
それは、かつての恋人の目ではない。エリスにもわかる。彼はムシュカの姿をしているが、ムシュカではない。気が弱く、優しかった彼では、ない。
「あ……あ、ああ……」
頭を抱える。
その場に膝をつき、視線を彷徨わせ、ただ、声にならない声を上げる。
「あなた、ムシュカ……さん、じゃないの?」
オルガが訊ねる。と、男はオルガを見下ろし、美しい顔を一瞬歪ませる。
「私は神に仕える者。名前などない。そして彼女がムシュカと呼ぶこの器は、ただの聖人だろう?」
「……ただの、聖人? じゃ、あなたはなんなのっ?」
オルガが訊ねると、男は
「私はずっと昔から、ここで神に仕えている者だ。だが私には器がない。ただの『意識』だから」
「……じゃあ、魚の祭りって……ムシュカはっ」
座り込んだまま、エリスが声だけを投げる。
「ああ。祭りは私の『器』を調達するためのものだ。年に一度、私は依り代を変えなければならないのでね」
ハッキリと、そう答える。
それはいわば、生贄……。
だから、魚の人に選ばれた聖人は、誰一人として戻らない……いや、戻ることなど出来やしなかったのだ。
「私たちは……そのためだけに、あの島に?」
器となる体を提供するためだけに、生きていたと言われているようなものだ。家畜のように。いや、それ以下かもしれない。
「もともとお前たち聖人は、スヴェラ神が作った木偶だ。今更何を言っているのか、意味が分からない」
「そん……な」
「まぁいい。お前は幸運だ。これからスヴェラ神の復活を見られるのだから」
「……え?」
どういう意味なのか、分からなかった。スヴェラ神は、エリスたち聖人が祀っている神の名だ。それは間違いない。この島が神の島で、目の前の男が神に仕える身分だというところまでは、謎も多いが理解出来ないこともない。だが、復活?
「復活とは、どういう意味なんですか?」
オルガが思い切って、訊ねる。男は器用に片方の眉だけを上げ、完結に述べた。
「シンフェリアがスヴェラ神に還り、元の姿に戻るのだ」
「……シンフェリア?」
エリスが繰り返す。
初めて聞く言葉だった。島にいた頃も、そのような言葉を聞いたことはない。
「シンフェリアはスヴェラ神の花。化身と言ってもいい。花が咲きさえすれば、分散されていた力はすべて元に戻る。聖人たちに渡していた命も、もはや無用だ。すべて回収し、スヴェラ神は復活する!」
男が、初めて笑みらしきものを浮かべる。
「あの、聖人に命を渡してた……って、どういうことですか?」
震える手を胸の前でグッと握りしめ、オルガが訊ねる。だが、男はその質問に答えない。
「シンフェリアは命を喰らい、スヴェラ神の生きる糧となる。生きとし生けるモノはすべて、その命をスヴェラ神に捧げるがいい」
淡々と繰り返す男は、やはり感情を感じさせない人形のように見えた。
「さぁ、始めよう。復活の儀式を!」
そう言って、手にしたナイフを高く掲げた。
その切先は、オルガに向いている。




