第32話 花の香
あの日、花を持って帰ってきた息子……ルピは全身に傷を負っていた。
裏家業の仲間から、息子が大変なことになっていると聞き、ゼンは海上に漂流しているルピの船に急いで駆け付けた。沢山いたはずの乗員は一人もおらず、ルピだけが大怪我をした状態で海を彷徨っていたのだ。
ゼンは、船の上で傷だらけになり、倒れていた息子を抱き上げた。一体何があったのかと訊ねると、懐から一輪の花を取り出し、ルピはこう言った。
「とうとう俺は、水の中に咲く花を見つけたんだぜ」
と。
それは伝説と言われた、なんでも願いを叶えてくれるという不思議な花。ルピはその花を、探し当てたのだ。
ルピは当時、願いの花を探して方々の海を渡り歩く生活をしていた。そんな夢物語を追うなと何度も止めたが、聞かなかった。だが、彼は突き止めたのだ。花の生息地を。それは大発見であり、ゼンの心を揺さぶった。
しかし花が咲くことはなく、息子は死んでしまう。
どこに咲いていたのか、どうやって採ってきたのか、なにも聞き出すことはできなかった。無残にも、全身に負った傷によって息子の命は潰えた。願いを叶えることもなく。
それでも、確かに願いの花は実在するとわかった。息子の死は無駄ではなかったのだと、ゼンは思った。
それからというもの、ゼンは息子の仇とばかり、願いの花を求め幾度となく海を渡った。同じような海上の荒くれ者たちから情報を集め、地上では文献を漁り、核心へと迫る手ごたえを感じた。命の危険は幾度となくあったが、諦めることはしなかった。ゼンだけではない。あの花を求め、大勢の船乗りが花を求め、海を渡った。
そんな航海の中、ある日、海の上で青い霧に囲まれた。
まるで花を探す人間に罰を与えるかのように、心を狂わせる「なにか」が放たれる。仲間内での小競り合いが、いつの間にか殺し合いへと変わる。些細なことがキッカケで、なぜこうも酷い争いに発展したのか理解出来ないほど、負の感情が爆発するのだ。
青い霧は人を狂わせる。死への恐怖をこれでもかというほど見せつけ、命など惜しくはないと息巻いていたゼンの心を、簡単にへし折ってきた。
今の状態は、あの時と酷似している。
目の前で言い争うロェイとラッシェル。サントワもだが、船上での彼らを見る限り、こんなつまらないことでここまで衝突するなど考えづらい。青の霧には反応しなかった、エリスやロェイまで殺気立っている。それは、この香りのせいではないのか? 青の霧に似た、強い何かが花を探すことを拒んでいるのではないのか?
このまま殺し合いにでもなったら、願いの花どころではない。武人であるサントワとラッシェルに加え、ロェイは「凪」だ。
ルピは花を手に入れたが、咲かせることはできなかった。それはチジリ族のことを知らなかったせいもある。だがそれだけではない。仲間内で、彼らと同じように小競り合いになり、そこから殺し合いに発展したからなのではないか? ルピの体に残された無数の傷と、仲間を捨て、たった一人で船に乗り逃げ帰ったことがその証拠だろうと、ゼンは思っていた。
「おい、ちょっと来い!」
ゼンはオルガの手を引いて、皆に気付かれないようにその場を離れようとした。
「え? な、なんですかっ?」
オルガはこの匂いを嗅いでも平気なようで、ただ心配そうに皆を眺めているだけだった。急にゼンに手を引かれ、慌てる。
「ここは危険だ。離れた方がいいっ」
「え? 危険って?」
「匂いだよ。青の霧と同じ現象だ。この匂いが、アイツらをおかしくしてるんだ」
言いながら、オルガの手をぐいぐいと引いていく。
「でも、じゃあ何とかしないと!」
ゼンの手を振り払おうとするオルガに、声を荒げる。
「花だよ!」
「え?」
「花を探して咲かせるんだっ。そうすりゃあいつらをなんとかすることだって出来るだろうがっ」
口から出まかせだった。ただ、この場から立ち去りたかっただけ。ゼンは惨状に巻き込まれたくなどなかった。自分だけではない。オルガにもしものことがあれば、花は咲かなくなってしまう。それは避けなければならなかった。
「花……」
オルガが繰り返す。今にも殴り合いを始めそうなサントワたちを止めるだけの力など、オルガにはない。それならゼンの言うように、花を見つけ、願うのが早道かもしれないと思い始めていた。
「でも、花がどこにあるのか……」
「だから探すんだよっ」
ゼンは当たり前のようにそう口にすると、口元の襤褸切れをぎゅっと縛り直す。正気を失ってしまえば、願いもへったくれもない。充分気を付けて臨む必要がある。
仲間たちを置き去りに、先へ急ぐ。最初は戸惑いながら歩いていたオルガが、しばらくすると、木々の隙間をスイスイと進んでいく。まるで見えないなにかに、導かれているかのように。
「おい、本当にそっちなのかよっ」
あとを追うゼンが訊ねるも、オルガからの返事はない。今にも走り出しそうな歩幅で、どんどん進んでいく。焦ったゼンが回り込んでオルガを見ると、焦点の合わない目で遠くを見つめていた。
「……おい、お前大丈夫なのかっ?」
オルガの腕を掴むと、ハッとしたようにゼンを見て立ち止まる。
「え? なに?」
「なにって、お前……」
ガサガサッ、と木々の揺れる音がし、二人が肩を震わせる。見ると、視線の先には、男が立っていた。白いローブに身を包み、深く、フードを被っている。
「なんだ、お前たちは」
凜、と澄んだ声が響き、ゼンとオルガは不覚にもその声に聞き惚れてしまう。
無言のままの二人に、白いローブの男が再び訊ねる。
「お前たちは何故、こんなところにいるのだ?」
男が右手でフードを少し上げた。目に飛び込んできたその顔に、ゼンとオルガが息を飲む。
……美しい。
そんな単純な言葉で言い表すことなど出来ない程に、見えた造形は衝撃そのものだった。
男がゼンとオルガを交互に見る。そしてオルガの顔を見た瞬間、声を荒げた。
「お前……まさか、チジリ族かっ?」
男の美しい顔、その眉間に皺が寄る。そんな苦悶に満ちた表情ですら、この世のものとは思えないほどの輝きを放っていた。
「──そうか。やっと……やっと願いが叶うのか!」
一転して歓喜に打ち震える男を前に、ゼンがやっとの思いで口を開いた。
「あんた、一体何者だっ」
男は、そんなゼンを横目でチラリと確認すると、
「お前は、いい」
と右手を伸ばす。すると、土の下から幾本もの蔓のようなものが伸び、ゼンの足に絡まりつき、一切身動きが取れなくなる。
「うわっ、なんだこりゃっ。おい!」
ゼンはなんとか解こうと、もがいた。だが、びくともしない。
「チジリ族の娘、お前だけ来い」
「……でも」
オルガが躊躇いを見せると、男はオルガの前に手を出し、ゆっくりと開いた。そこにはオレンジ色の花が咲いており、オルガはその花の香りを嗅いだ。ふわんと体が軽くなり、思考を止める。
「さぁ、こっちだ」
男は花を手にしたまま歩き出す。その花の香りに付き従うかのように、オルガが後に続く。
「おい! 嬢ちゃんをどこに連れて行くんだっ、おい!」
いくらゼンが騒いでも、二人が足を止めることはなかった。




