第2話 凪の人
席に座ると身を乗り出して、言った。
「あの……揉め事ですか?」
ド直球である。
もちろん、ロェイが嫌な顔の一つでもしたらすぐに引くつもりでいた。だがロェイは嫌な顔どころか小さく微笑むとナハスにこう言ったのだ。
「聞いていただけますか?」
と。
これにはナハスの方が面食らってしまった。だが驚きよりも好奇心の方が先にくる質であり、お節介でもある。
「私でお役に立てることがあればおっしゃってください。……さっきの……ラッシェルさんって言ったかしら? 彼も当分帰ってこないみたいだし」
コポコポとアルブール自慢の果実酒をグラスに注ぐ。レイバの実を発酵させて作ったレイバ酒で、三年ほど寝かせてある。アルコール度数はさほど高くなく、口当たりがいいことで男女問わず、人気だった。
「すまないね、……変なところを見せてしまったな」
グラスを掲げながら、ロェイ。
「いえ、それは」
なんだかとても繊細な……そう、ルカというものがありながらこんな事を思うのもなんだけど、とても魅力的な人だわ、とナハスは思っていた。やわらかな物腰も、よく見ると長めの睫毛も、形のいい唇も。近くにいるだけで気持ちが凪いでゆくかのような……。
「ラッシェルは少し勘違いをしているようなんだ」
ロェイの言葉にはっと我に返る。飲み込まれそうになっていた。
(……もしかしたらこの人)
「あなた、もしかして凪の人?」
唐突なナハスの質問に、ロェイが面食らう。そのものズバリの真実を、こうも簡単に見破られたのか。
「なんでわかるんだっ?」
慌てる、ロェイ。
凪の人、と呼ばれる存在は一般的には知られていない。が、知っているものにとってはあまりいい印象ではないはずだ。煙たがられたり恐れられたりすることはあれど、歓迎されることなど、ない。
「ああ、私ちょっとそういう特技があって……あはは」
しかし目の前のナハスは、悪びれることもなくあっけらかんと笑って言った。
ナハスはナハスで、人に知られたくないことを抱えて生きている。世間にバレるとまずい、という意味では二人は同じ悩みを持つ者同士ということになる。
ロェイは、正体を知られたことで宿を追われるのでは、という考えが脳裏をかすめたが、ナハスが大して気に止めていない素振りで話してくれることに安堵した。同時に、なぜわかったのか、そしてなぜ自分を恐れないのかに考えを巡らせ、目の前の人物を見る。年齢は自分より少し下くらいに見える。薄茶の巻き毛を頭の高い位置で結び、快活そうな瞳は紫水晶のごとくキラキラと輝く。
二人はしばしお互いを伺うように見つめて合っていたが、そんな腹の探り合いがおかしくなり、どちらともなく顔を歪ませ、笑う。
「凪の人ってもっと怖いのかと思ってたのに、全然いい人じゃない」
「……そんなことは」
ロェイの顔が薄い紅に染まる。何故か彼女には警戒心を持たずに接することが出来る。
「あ、照れてる」
クスリ、ナハスが口元を押さえた。
(本当に凪の人なのかしら?)
凪の人に対する一般的な噂は、どれもひどいものである。人殺し、冷酷非道、無感情人間、など。それもそのはず、凪の人間というのはいわば戦の道具であり、戦略の手段だというイメージが強いからだ。だが、ロェイにはそんな雰囲気がない。もちろん、ルカが感じていたように武人ではあるのだろう。それも超一級であり、そう思わせないところが不気味でもあるのは確かなのだが。
「で、どういう関係なんです? あの人と。まさか本当にその……迫られてるってわけじゃないんでしょう?」
男同士の愛を否定する気はないが。
「まさかっ」
身を乗り出し、強調した後でしばしの沈黙。
「……俺が凪であると知ったならわかるだろう? あいつは俺の力が欲しいのさ。馬鹿らしい」
凪である人間はその力を最大限発揮できるように幼い頃からそれ相当の教えを学ぶ。教えとはつまり、人の殺し方だ。生れながらにして殺戮者であるといっても過言ではない。だから今のロェイの発言というのは凪にとっては失言であり、自らの誇りを踏み付けたようなものだ。本来、凪の人間は自分に絶対的自信を持っており、国の中枢で大事に囲われて生きている……というのが一般常識だ。
「ロェイ、あなた本当に凪の人?」
ナハスは今までにも何人か、凪の人間に出会ったことがある。だが、異例も異例、珍種と言ってもいいだろう。こんなに穏やかで、戦いに嫌悪感を見せるタイプなど見たことがない。そもそも港町の宿屋に凪の人間が一人でいることなど、聞いたこともない。
「ラッシェルにも言われる。……実は自分ではわからないんだよ。本当に俺が凪の人間かどうか」
「どういうこと?」
「……記憶がね、いい加減なんだ」
「いい加減?」
記憶がない、というなら理解できるが、いい加減な記憶というのはどういうことか。
「所々、抜けてる。特に凪に関する部分は」
「へぇ……」
記憶喪失。もしくは思い出すのが嫌で、故意的に押し込めているのかもしれない。
「ラッシェルは俺の知らない俺を知っているらしい。で、付き纏われてる」
なるほど、武人であるラッシェルにとっては、ロェイは名器というわけだ。個人的にではないだろう。きっとどこかの争いに彼を巻き込みたいのだ。凪の人間が一人いれば、軍の小隊くらいなら、あっという間に制圧可能なのだから。
「さっき突き付けられてた紙は何?」
「ああ、あれは借用書」
「へっ?」
「俺の、さ。どうやら俺はラッシェルと知り合いらしくて、昔、俺が書いたと思われる借用書を持ってるんだ」
「いくら?」
「金貨十枚」
ひょい、と肩をすくめる。
「きっ、金貨十枚ってそれって大金じゃない! それがあなたのだって証拠は?」
相手は凪の人である。記憶を失っているのをいいことに、偽の借用書で力を手に入れようしている輩がいたとしても不思議ではないはず。
「間違いなく俺の筆跡だ。俺から預かったという短剣も持っていた。それに……」
「それに?」
「あいつのおかげで思い出したんだ。記憶の半分をな」
何も覚えていなかった。あの日、雨の中で立ちつくしていたロェイに声を掛けてきた男。ラッシェルの話を聞くうちにロェイは記憶の半分を思い出したのだ。
きっかり半分だけを……。