第9話 鍵
その客が店を訪れたのは、夜も深けてからの事だった。
「こんな時間に、申し訳ない」
大きな体には似つかわしくないような紳士的態度で、男は何度も頭を下げた。全身黒の服で固めた大男。しかし、顔を覆っていた布をスルスルと脱ぎ去ると、印象は大分変わって来る。無精髭を取って髪を短く切ったらかなりの色男になるのではないかという感じだ。
「いいんですよ。さ、どうぞ召し上がってくださいな」
そう言いながら厨房と食堂を往復しているのはナハス。
テーブルには温かい食事。夜中だというのに、まるで来る事を最初から知っていたかのようなもてなしに、男は少なからず驚いている様子だった。
「私の名はサントワ。こっちがオルガです。ここにはよく当たる占者がいると聞いて来たのですが、」
「ええ」
ルカが「占者」という言葉を聞き、厨房から顔を出し食堂の方を見遣る。
ナハスはスープを配膳すると。
「まずは食べちゃってくださいな。ね?」
サントワの隣でじっと思い詰めたような顔をしている少女。彼女が全ての鍵を握る者。ナハスは無意識のうちに、オルガの先見をしてしまっていた。そしてあまりの光景に思わず眉をひそめてしまった。
(……いいえ、まだよ)
心の中で否定する。
自分が読む未来はあくまでも可能性の延長上であり、確定されたものとは限らない。これから起こることは、彼らが作り上げてゆく過程の中で、形を変えるかもしれないのだ。だからまだ、希望は捨てなくてもいい筈。
「食事が終わったら、二人とも湯浴みをしてくださいね。そのままではベッドをお貸しできませんから」
ニッコリ笑いながら、客商売とは思えないような一言を発するナハス。しかし二人は気を悪くした風でもなく、黙って頷き食事に手をつけていた。よっぽどお腹が空いていたのだろう、用意していた料理は瞬く間にその姿を消していった。
「おい、ちょっと」
食べている二人をそのままに、ルカがナハスを厨房へと連れ込んだ。
「なぁに?」
「なぁに、じゃないだろ。これから何がおっ始まるってんだ? お前、変なことに首突っ込むつもりじゃないだろうな?」
歳の離れたこの嫁は、とにかくお節介を焼きたがる。……いや、お節介と言うより、好奇心なのかもしれないが。
そもそも「先見」のことが世間に知れたら大問題なのだ。それなのに、やめろというルカの意見など丸で無視で、人に手を差し伸べてしまう。
「大丈夫よ。私は何もしないんだから」
「……はぁ?」
ルカの心配を他所に、あっけらかんと答えを投げてくるナハスにルカが眉を寄せる。
「……ねぇルカ。今、叶えたい願いって何かある?」
「へ? なに言ってんだ? 藪から棒に」
「えと、『水の中に咲く花』って聞いたことあるでしょ?」
そう、投げかけると、
「ああ、御伽噺だろ?」
と即答する。
ルカは現実主義であり、その手の話は頭ごなしに否定する。
「そう。御伽噺よ。あの子がいなければ、ね」
ちら、と視線をくべる。そこにはお腹一杯になって少し眠そうな少女の姿。
「……あの子が、なんなんだ?」
「あの子が鍵なの」
話の本筋を何も言わないナハス。
サッパリわからない、と言った風に首を捻るルカ。
「で、そのお伽噺が何だってんだ?」
「まー、いいじゃない」
ニコ、と笑みを一つ返し、ナハスは席へと戻ってしまった。相変わらずの秘密主義。ルカはひょい、と肩をすくめると諦めてあとを追った。
「美味かったよ、主人。あんた、若いのになかなかの腕だね」
本当に満足だったのだ。サントワは満面の笑みで、本心からそう言った。
「そりゃどうも」
ルカが複雑そうな顔で答えた。
というのも、彼は童顔なのである。ナハスと一緒にいると若夫婦に見られがちなのだが、実は十ほど歳が離れている。ナハスとてすでに二十代半ばだ。つまり、ルカは「若いのに」と言われるような年齢ではない。
「さぁ、じゃあ湯浴みを済ませて休んでくださいな。お部屋の準備はできてますからね」
トントンと仕切り、ナハスはテーブルの上の皿を片付けはじめる。あまりにも事がスムーズに運ぶことに不思議そうなサントワではあったが、旅の疲れには勝てそうもない。疑問より欲求を優先させ、ナハスの言う通りに湯場へと向かった。オルガもまた、それに従う。
「部屋は、一緒でいいのかしら?」
さらっと尋ねる。
よく、宿に二人で泊まると店の者たちに好機の目で見られることが多かったサントワにとって、今のナハスの発言はなんとも自然で嫌味のないものだった。
「一緒で構わない。よろしく頼む」
サントワは長身で、いかつい男、というイメージがあるのに対し、オルガは小柄で少年のようにも見える。この二人が一緒にいる姿は親子とも、兄弟とも、恋人とも、師弟とも取りづらい。好機の目で見られる、というのはつまり、愛妾だと思われているからなのだろう。そしてその多くは、オルガを少年だと思っている。だから好機の目を向けられているのだ。
「オルガ、着るものは持ってる?」
サントワが先に席を外したのを見計って、声を掛ける。
「あの、……ええ、一応は」
「でも、その格好を見る限り、あまりいい服ではないわよね。いいわ、私のをあげるから使ってくれる?」
「え? でも、」
「もう使わないものだから、遠慮はいらないの。ね?」
無理気味に言い放つと、奥から用意していた洋服を持ち出し、オルガに手渡した。
「こんなに沢山?」
「そ。今持ってるものはここで捨てていっちゃいなさい。その汚れじゃ、もう洗っても落ちないわよ」
長い旅の中、確かに身につけているものはほとんどが擦り切れや汚れで見るも無残な有様。オルガは押し付けられた服を受け取ると、小さく「ありがとう」と告げた。
「さっ、湯浴みにいってらっしゃいな」
トン、と背を押し湯場まで案内する。
「ごゆっくり」
そう言うと、ナハスは湯場を後にした。残されたオルガはしばし呆然とその場に立っていたが、手にした服をかごの中に入れると服を脱ぎ、湯の中に身を沈めた。
「……温かい」
髪を洗い、体を洗い、久しぶりに汚れを落とすと、最後にまた湯に浸かり、のんびりと体を温める。こんな風に穏やかな気持ちでいられるのはもう何年ぶりだろう。あまりの気持ちよさに、オルガはそのままウトウトと眠りに誘われてしまったのである。
ふわり。
ふわり。
オルガは夢を見ていた。
それは幸せな夢だった。
有り得ないような、溢れる幸せ。
このまま、ずっとこうしていられたらいいのに……。
このまま……