第3話: 「月の下の祈り」
神殿の夜は、とても静かだ。
日が落ちてからは、祈りの鐘も止まり、ただ風の音と星の瞬きだけが世界を満たす。
紗羽は眠れずに、ひとり中庭へと出ていた。
昼間は明るい光に包まれていたその場所も、今は銀色の月光がそっと降りている。
静かに息を吸い、空を見上げる。
ここに来る前には、こんな夜を迎える自分がいるなんて、想像もしなかった。
――それでも、今、私はここにいる。
「眠れない夜、ですか?」
聞き慣れた声に、驚いて振り向く。
レオナールが回廊の柱にもたれて、こちらを見ていた。
「……はい。なんだか、今日は心が落ち着かなくて」
「それはいい兆しですね」
「いい、兆し?」
「“感じる心”が戻ってきたということです」
そう言って彼は歩み寄り、紗羽の隣に立った。
「眠れない夜に、ただ静かに空を見上げる。
そういう時間が、心の傷を癒していくこともあるんです」
紗羽は少し笑った。
この人の言葉は、いつも胸の奥に静かに届いてくる。
「レオナールさんは……夜が好きですか?」
「ええ。昼よりも静かで、祈りがよく届く気がするから。
それに、月の光のほうが、誰かの心に寄り添える気がするんです。
太陽はまっすぐで強すぎるけれど、月はやわらかくて、見守る光だから」
その言葉に、紗羽の胸がきゅっと締めつけられる。
「レオナールさんも……誰かに、見守ってもらいたいって思ったこと、ありますか?」
レオナールは、少しだけ目を伏せた。
「……ありますよ。
私もかつて、“信じるもの”を失いかけた時がありました。
神に仕える者でも、迷うことはあります。
でも、そんなとき――誰かの静かな祈りが、私を支えてくれた」
「誰かの、祈り……」
「ええ。そして今、私がその“誰か”になりたいと思っている人がいます」
レオナールの視線が、まっすぐに紗羽に向けられる。
月明かりの下で、その瞳は湖のように静かで、揺れない。
「あなたがここに来てから、私は何度も心を揺らされました。
ただの“来訪者”としてではなく、一人の人間として……あなたに心を寄せている自分がいます」
一瞬、時が止まったように思えた。
言葉が出てこない。けれど、心が確かに、震えている。
「レオナールさん……」
「急がなくていいんです。
でも、もし少しでも……私のことを“信じてもいい”と思ってくれるのなら、
あなたのそばで、祈り続けさせてください」
そっと、彼が手を差し出す。
紗羽は、その手を見つめてから、ゆっくりと自分の手を重ねた。
「……はい。
私もまだ怖いけれど……
レオナールさんと一緒に、少しずつ進んでみたい」
指先が重なるだけなのに、心が深く繋がった気がした。
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夜の礼拝室で、紗羽はひとり祈る。
「神さま、あなたのことを信じてみたいと思ったように――
私は今、この人のことも、少しずつ信じようとしています。
それが、私の“新しい生き方”なら……どうか、見守っていてください」
その祈りは、静かに天に昇っていった。
隣には、もう、ひとりではないぬくもりがあった。