婚約破棄騒動には関係ないと思った令嬢の顛末~ユリアの場合
とある会場での、とある婚約破棄騒動。関係ないと思ったのは、ユリア・フォン・ハシュテットだけだった。
「エミーリア・フォン・クラウスナー!貴女との婚約はここで破棄する」
途端、あれだけ盛り上がっていた人々のさざめきが止む。卵とハムを挟んだサンドイッチを頬張っていたユリアも、突然訪れた沈黙につられて、顔を上げた。
悲しいかな、折角のパーティーなのに、ユリアにはエスコートしてくれる男性がいない。縁もなかった隣にいるだけの同級生カップルに事情を訊こうにも、相手方も顔を見合わせて首を傾げるのみだ。
壇上には挨拶をした我が国の第一王子。そして、その傍らにいたのは男爵令嬢だ。二人の向かいには、公爵令嬢エミーリア・フォン・クラウスナーがいる。二人を見上げる彼女の後ろ姿は、こんな時ですら美しい。
「そして、新たにリーゼロッテ・フォン・コンツ嬢を婚約者として迎える!」
あまりにも無謀で無茶な宣言に、大衆は俄かにざわつく。礼儀すら失する行為だが、そんな事は気にするレベルではない。
「そんな…。王子は筆頭公爵の令嬢より、成金男爵の娘を選んだというの!?」
「どう見たって、あんな子よりエミーリア様の方が美しいわ!何故、あのような子を…」
「ついに気でも触れてしまったのか」
口々に上がる彼女の評価は、いずれも芳しくはない。それもそうだ。だって、エミーリア・フォン・クラウスナーといえば当代の令嬢の中では一番と噂されている。
公爵家の長女で頭脳も明晰。マナーも完璧で、社交的な性格で友人も多いという。何より、『ローゼンハイン王国の薔薇』とまで謳われる程の美貌なのだ。
そんな彼女を捨ててまで選んだのが、二代前までは庶民だった家の男爵令嬢。目立った功績もない、平凡な少女。
公爵令嬢との婚約を破棄するなんて一国の王子がする選択ではないし、公爵令嬢と男爵令嬢なんてそもそも比較する対象ですらない。男爵令嬢には男性の庇護欲をくすぐるような雰囲気はあるが、容姿が特段優れているような気もしなかった。
「私達の婚姻は貴方様の父の…、国王の命令です。それを破棄するというのですか?」
「私は真実の愛に目覚めたのだ!父上だって分かってくれる!」
つまり、王には未だ何も言っていないという事で、これから言うという事らしい。ここでぶちまける前に、根回しくらいしても良かったのではないかと、不肖ながらもユリアは思った。
パーティーを中断させた茶番劇はまだまだ続く。すっかり飽きたユリアは、誰にも気付かれないようにスイーツが並ぶテーブルへと向かった。
ユリア・フォン・ハシュテット。
ユリアは現当主の娘であり、ハシュテット家次期後継者だ。そのため、幼い頃から貴族女性としての作法以外にも外国語やら経営学を学んできた。茶会に出ずっぱりの妹とは違い、ずっと勉学に勤しんで来たのだ。普通の女性なら、その生活に嫌気が差すだろう。しかし、ユリア自身はそんな生活を殊の外気に入っていた。
『紅茶片手に駆け引きするくらいなら、部屋に籠って隣国の古典を読んでる方が楽しいです』
愛娘の境遇を憐れんだ父へ返したユリアの言葉はおよそ年頃の娘のものではなかった。
そんな性格や子爵家の跡継ぎという立場が災いしたのだろう。デビュタントもとっくに終え、学園卒業を来年に控えているというのに、ユリアは未だに婚約者がいない。貴族の女性ならデビュタントを終えた二年以内、有力貴族や高位貴族の子女であれば十代前半のうちに婚約者が出来る。しかし、共に領地経営を頑張ってくれる伴侶をじっくりと見極めたかったユリアは、あえて時機を遅らせていた。そしてそれを、家族は見守って来たのだ。
今となってみれば、それがユリアの運命の分岐だった。
「突然、すまないな」
「いえ、お気になさらず。火急の予定はありませんでしたから、寮で読書するだけでした」
父からの突然の呼び出しは、昨日の夕方にユリアへ知らされた。学園の事務員から手紙を受け取ったユリアは、今朝早くから王都にあるタウンハウスへと馬車を走らせたのだ。ユリアの予想を違えて、目の下のくまは気になるが、父の顔色は異常ない。取りあえず、家族や親戚の病絡みではないのだろうと、安心したユリアはソファーへと座った。
「ユリア、第一王子が廃嫡された件は知っているな」
「はい、存じています」
件のパーティーは、本来第一王子の生誕を祝したものだった。それを、とうの本人がぶっ潰したのだから手に負えない。あの後、第一王子は廃嫡され、男爵令嬢もろとも学園を去った。そして、男爵令嬢の家に転がりこんだと風の噂で聞いた。
「なら、話は早い。それなら、次の王太子候補については?」
「いえ、そこまでは…。現国王に一番近い王弟殿下か、あるいは王弟殿下の御子息かと思っておりましたが」
今の学園内は、王子―、王太子あるいは次の国王の話題でもちきりだ。ローゼンハイン王国は複数の王子の中から国王の資質たる者だけが王太子になる。そして、時機が来たら王太子が王になるのだ。追放された彼は現国王の唯一の息子だったのに、しかし王子という肩書しかなかった。
「まあ、本来であれば、そこが妥当だ。しかしな、どうやら、ミュラー家のアルトゥール様が王家に入るらしい」
「ミュラー家、ですか。元は王家の一員でしたが、随分と遠縁からになりますね」
ミュラー家は伯爵ながらも古豪として名を馳せる家門だ。現王家とも縁深いミュラー家は幾人もの妃を輩出しており、また王族の令嬢が降嫁している。事実、順位こそは低いがミュラー家当主も息子達にも王位継承権はあった。
「王弟殿下は病弱だし、その息子達は資質に問題があるとの判断だったらしい。そこでな、ユリア、」
妙なところで口ごもる父に、ユリアは眉をひそめる。視線だけで先を促せば、思い至ったように父は続けた。
「ユリアにミュラー家からアルトゥール様との婚約の打診があった」
思いがけない続きに、ユリアは目を丸くした。その展開は想定外すぎて、全く想像してなかったのだ。
「こ、婚約ですか?」
「ああ、アルトゥール様は、確か、クラーラと同学年だな。面識は?」
「ございません。顔と名前くらいしか…。でも、それらも一致しているかどうか曖昧です」
アルトゥール・グラーフ・フォン・ミュラー。
アルトゥールはミュラー家の長男で、ユリアの二つ下の学年だった。学年の違うユリアは彼と話した事はない。また、妹のクラーラからも彼の話は聞いた事はなかった。そして、ミュラー家とハシュテット家はこれといった交流もない。初見のまま結婚なんてよくあるが、事が事なのだからせめて顔合わせしてからでも遅くはないのだろうか。
「アルトゥール様の学園卒業後、彼が王太子になり国王になる可能性が高い。故にユリアが王妃になる可能性もある事も胆に銘じておくように」
「な、何をおっしゃっているの!? 私が王妃なんて無理でしょう!?」
淑女のマナーに反して、ユリアは大声を出す。この場に母やメイド長がいれば、きっと叱りの言葉が飛んだであろう。
「あまり人前では言わないように。一応は国家機密だからな」
「なら、どうして、そんな重責をこんな子爵令嬢なんかに…」
第一王子が断罪された今、王家には適齢期で適性のある男子がいない。だからこそ、傍系の傍系のミュラー家の息子が王子候補となり、ゆくゆくは立太子するという。そこは分かるが、どうしてユリアが王妃にならなければいけないか。その疑問に、父は人差し指を口元で立てて答えた。
「仕方ないだろう。婚約者がおらず、かつ旧王家の血をひいた娘がお前しかいないんだから」
この国が今の名前になる以前、この土地は現王家とは違う王家が治めていた。既に名前は消えてしまっているものの、血脈は途絶えずにいる。ハシュテット家は遠い昔に高位貴族の兄弟が複数ある爵位を分け合った時に生まれており、朝露程度ではあるがユリアの血には旧王家のそれが流れているのだ。貴い血が、今回のこの婚約の理由だった。
「なら、クラーラはどうですか?エミーリア様程ではありませんが、彼女も美人で有名だし、何より伯爵令息と年齢が釣り合います」
此度の件のせいで王家の信頼がぐらついた今、純正の血統でイメージ回復を狙いたいといったところか。血統が条件なら、同父同母の妹がいた。妹―、クラーラはユリアの実妹とは思えないくらいに美しい。姉妹は共に両親譲りの金髪碧眼だが、風合いが全く違うのだ。クラーラの目は夏の青空のように深く澄んでいるが、ユリアのそれは灰がかっている。髪の色もユリアは麦の穂のように豊かなのに、ユリアのは何だか色抜けていた。美人のクラーラを推そうとしたユリアの言葉は、しかし、あっさりと潰された。
「無理だ。クラーラには婿をとってもらって、この家を継いでもらう。幸い、クラーラに来る釣書には貴族の次男やら三男もいたからな」
「そんな…、私がこの家を継ぐ話ではありませんでしたか」
ハシュテット家には後継の男子がいない。だからこそ、ユリアは幼い頃からハシュテット女子爵になるよう育てられてきたのだ。そして、クラーラは高位の貴族に嫁ぐようにと社交術を学んで来た。それぞれの適性に合った方法で、ハシュテット家を盛り立てて欲しい。それが、ユリアとクラーラの両親の願いの一つだった筈だ。しかし、それはもう叶わないものとなった。
「それこそ仕方ないんだ。何しろ、向こうが『ユリア・フォン・ハシュテットを嫁にしたい』と言ってきたんだからな」
「嘘でしょう…。私が王太子候補と結婚なんて…」
名は男に。血は女に。
政略結婚なんて、社交界ではよくある事。寧ろ、庶民のような自由恋愛結婚の方が珍しい。
「私だって信じられないがな…。しかし、貴族である以上、政略結婚はつきものだ」
ユリアの婚約は、父にとっても想定外の事だった。しかし、貴族令嬢にとっては誉れ高い事でもある。何より、娘が王妃になるなんて、望外の喜びだ。だからこそ、ユリアの父親は然程の抵抗もなく婚約話を受け入れたに違いない。ユリアを王妃に据えて、クラーラを介して優秀な男性を跡継ぎにさえ出来れば、この家も安泰だ。父の、当主としての判断は決して間違いではない。それはユリアにだって理解出来るからこそ、これ以上の反論は出来なかった。
「幸い、お前には惣領娘としての教育を施してきた。それが王妃としての素養に全く役立たないという事はないだろう」
砂粒程度の貴重な血が。当主になるべくとして得てきた教養や知識が。婚約者問題を先送りにしてきたつけが。
ユリア・フォン・ハシュテットの運命を決定づけてしまった。
久しぶりに着たアフタヌーンドレスは、淡い黄色のものを選んでみた。とても似合っているとは思えなかったが、相手との年齢差を気にしたくなくて、あえて子どもっぽい色とデザインにしたのだ。男性の方が二歳上なら寧ろバランスが良いのだが、ユリアの場合はアルトゥールの方が二歳下。相手のためにも、あどけなさを前面に出してみた。
父と共に訪れた屋敷は、ハシュテット家のタウンハウスよりも更に王宮に近い場所にあった。公爵家の屋敷よりは広くはないだろうが、しかし由緒ある家門らしい落ち着いた雰囲気が漂っている。
執事長と思しき男性を先導にして、応接室へと招かれる。廊下の壁に飾られていたのは、歴代の当主夫妻だろうか。いずれは自分もここに付け加えられると思うと、ぼんやりとした未来が鮮明になっていく。
執事長が扉を叩いて、ユリア達の来訪を告げる。部屋内には既にミュラー伯爵が待っていたようだ。入室の許可が下りて、ユリアと父は部屋へと入った。
「ようこそ、我がミュラー家の屋敷へ。さあ、かけてくれたまえ」
応接室で待っていたのはミュラー伯爵と、彼の息子だった。榛色の髪と紫色の瞳を持つ伯爵親子はよく似ている。今回の婚約が伯爵家からの申し出だったとはいえ、ミュラー家はハシュテット家より家格は上。父の挨拶と共にユリアは片足を引いて軽く膝を曲げた。
「こちらこそ、このように歓迎して頂き、誠にありがとうございます。それでは御前を失礼します」
「家族になるのだから、堅苦しい挨拶は止めてくれ。なあ、アルトゥール」
固くなるユリアの緊張を解すように、ミュラー伯爵は自分の息子へと同意を促す。首肯するアルトゥールの顔立ちは派手な容姿だった第一王子とは違って、やや地味だ。しかし、垂れ気味な目尻は好印象だった。
「初めまして、アルトゥール・グラーフ・フォン・ミュラーです。本日はようこそおいでくださいました」
「初めまして、ユリア・フォン・ハシュテットです。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
先日中に当主同士の顔合わせを終えた今日は、ユリアとアルトゥールの引き合わせがメインだ。この後はアルトゥールとユリアだけの茶会が東屋で開催される。親族以外の男性と二人きりの茶会。それでも必要以上に不安にならないのは、ひとえに彼が年下だからだ。
「ユリア嬢、息子をよろしくお願いするよ。こいつは穏やかな気性なんだが、それ故に押しにも弱い。君のように芯の強そうな女性なら安心だ」
「いえ、こちらこそ、このように素敵な男性と婚約出来て嬉しいです。アルトゥール様となら、どんな困難も乗り越えられそうですわ」
アルトゥールとは、やがて国王夫妻として並び立つ。そんな将来像を幼さが抜けきらない少年は苦く笑うだけだった。
流線型のレリーフが施されたテーブルに、シルバー製のケーキスタンドが中央で鎮座する。並ぶ焼き菓子は、概ね人気のパティスリーのものだろう。カラフルなマカロンや、一口サイズのフルーツタルト。きらきら輝くそれらは、年頃の令嬢なら好むだろうと用意されたものに違いない。
そういった菓子も好きではあるが、ユリアが一番好きなものは様々な木の実が混ぜ込まれたクッキーだった。反して、妹のクラーラは外見によく似合ったイチゴのケーキだ。
「どうして、私と婚約しようと思われたのですか?」
手の込んだデコレーションが踊るムースタルトを配膳され、ユリアはフォークとナイフを手にする。色味からしてベリーの類だろう。やはり、こういった可愛らしい場はユリアよりクラーラの方が似合っていた。
「貴女は学園屈指の才媛だと伺っています。そんな貴女となら、どんな苦労も手を携えて乗り越えられるのではないかと思いました」
そう言った少年は、擽ったそうに笑う。身長はユリアより高いが、表情のせいか威圧感はない。この少年が青年になった時。きっと彼は、良き王になるだろう。そんな予感がした。
「クラーラも決して馬鹿な子ではありません。あの容姿と社交的な性格は、きっと様々な場面で役立ちます。何より、アルトゥール様の癒しになりますわ」
だからこそ、王妃という立場に自身は相応しくない。ユリアよりクラーラの方が王妃に向いている。ユリアはそう感じた。
「クラーラという女性は貴女の妹、でしたね」
「ええ、アルトゥール様とは同学年になります」
アルトゥールとクラーラは同じ学年だが、面識はないという。けれども、相性は悪くなさそうだ。クラーラにはやや奔放な部分があるが、この少年はそれも上手くこなせるだろう。優し気な面立ちの少年と、天真爛漫な美しい少女。並び立つ姿は初々しく、きっと誰もが憧れる夫妻になる筈だ。
「貴女の妹も、きっと、貴女のように美しい方なのでしょうね」
「……え?」
思考にふけるユリアの耳に、思いがけない言葉が刺さる。口にした少年の瞳は、しかしどこまでも深く澄んでいた。
「貴女の瞳は綺麗です。まるで曇天の隙間から覗く青空のようだ」
まるで恋愛小説に出てくるような、使い古された口説き文句なのに。笑みもなく、真面目に少年は続けた。
「今日初めて貴女にお会いして、一目で恋に落ちました。それが貴女を選んだ理由では駄目ですか?」
きっとアルトゥールは、女性の美醜にはそこまで興味はないのだろう。令嬢としての知性と気品と誇り。それさえ備わっていれば、合格点をつけるのだ。
「一目ぼれ、ですか」
「はい」
熱烈に口説かれている筈なのに、甘い熱を感じない台詞に思わず笑えてくる。食べる手を止めたユリアは、今日初めてアルトゥールの顔をちゃんと見た。
「随分と直情的な方ですね」
「そういうのはお嫌いですか?」
アルトゥールが好きかどうかは知らないが、きっと彼ならユリアの好きな木の実のクッキーを一緒に食べてくれるだろう。華々しい場で苦心するユリアを、そっと見守ってくれるだろう。
「どちらにしろ、私達の婚姻は絶対で背けるものではありません。それに、きっかけはどうあれ、アルトゥール様とは上手くやっていきたいとは思っています。―大切なのは伴侶を選ぶ事ではなく、選んだ伴侶とどうやって共に生きていくかだと思っておりますから」
貴族の婚姻に、個人の感情は後回しになる。一時期読み漁った恋愛小説のような派手な恋にはならなくても、アルトゥール相手なら穏やかな愛でお互いを支え合える。そんな確信がユリアの脳裏を過った。
「ならば、僕の生涯をかけて証明してみせます。貴女はこの国に相応しい王妃になると。そして、ミュラーの名を冠した王朝が栄光と共に語られるようになると」
アルトゥールの両手が、ユリアの両手を掴む。少年が青年に変わる前の手は、しかし骨張っていて温かい。少しだけ感じた強さに、ユリアは輝かしい未来を感じた。
初めての投稿でした。不備があったら申し訳なかったです。楽しんで頂けたのなら幸いです。