第一章 Ⅰ
第一章〈起点の日 I 友との時間〉
「よぉ、アイク。お前の妹首席で卒業なんだな。」
背中に手形が残るほどの強烈な唐突すぎる張り手と共に、俺のルームメイトであるザットが声をかけてきた。何とかその衝撃に耐え、言葉を返す。
「ま、あいつは勤勉之印持ちだからな。そんなところだろ。」
俺の目の前にある卒業者一覧の大きな看板は1番上に妹の名前を称えていた。
今日はこの学園の卒業成績発表の日。
卒業時の最終順位が学園の正面門の横に掲示されるのだ。
生徒でごった返す前に見てしまおうと朝早くに来たと言うのに、ザットには追いつかれてしまった。
一学年600人を超える超巨大学園の成績掲示なので、掲示板も長大だ。
俺の妹の場合は上から数えられる順位なのですぐに名前は見つけられると思っていたが、まさか一番上に名前があるとは。
確かに学園最後の試験で一番だったとは聞いていたが…。
だが、ザットにとっては俺も妬みの対象だ。
「ふん、次席さんは余裕だねぇ。
持ってる印は怠惰之印なのに。
うちの次席卒業で上印の二大ステータスだったらどこからでも引く手数多だろ。
持ってる印は怠惰之印なのに。」
「そんなに怠惰之印を強調すんなって!」
確かに俺の名前も上から二番目にあった。
ザットの顔を見ると不満そうな悔しそうなそんな顔だった。
だがこの二人の順位には一般の生徒との相違点があるのだ。
妹が持つのは『勤勉之印』。俺が持つのは『怠惰之印』。
これらは上印と呼ばれる、大罪と美徳をその名に冠する強力な『印』だ。
通常の印が、『剣之印』のような職業や技能に関する単純な能力の印なのに対し、上印は大罪や美徳を連想させる多種多様な力や他者への強力な強制力を持つ。
さらに、上印の上に位置する『六大高印』は世界を統べる『印』と言われる。
その強大すぎる能力から、高印をもつ人物のいる国が世界で覇権を握るのが通例だ。
そんなわけで、大多数の人にとって高印や上印は雲の上の存在。
だから一般に知識があまり浸透していないのだ。
だからザットは俺の印も名前で判断して、『ダラダラと過ごしていても、頭が良くなる印』だと思っているようだ。
これほどの強力な印だからこそ、学習面においても力を発揮する。
だから俺たち兄弟はこれほど高い順位に位置することができるのだ。
実のところはこうだ。
怠惰之印の内的能力
所持者の休養、停滞、睡眠等によって所持者の基礎能力をその時間に比例して上昇させる。
上昇した能力値を貯蓄することができ、所持者の意思によって開放できる。
確かにザットの言っていることもあながち間違いではない。
だが、頭が良くなるのではなく理解力や記憶力が高まるだけなのでしっかりと勉強はしなければならないのだ。
断じて『だらけていれば頭が良くなる』と言うわけではない!
上印の力を使うには、その印に対する理解力や意志の力も必要になってくる。
ぶっちゃけ通常印よりも使いこなすのは格段に難しいのだ。
さらに言えば、印の力は説明があるわけではないので所持者が自力でその能力を見定める必要がある。
通常の印は過去の多くの所持者による文献が各地の図書館や伝承で引き継がれているから、その能力を知ることは容易。だが、俺の持つ上印などは伝説として語り継がれるもの以外は自力でその力を検証して知らなければならない。
子供の頃に明確な意識ができた時点で、自分の持つ印が何かを感覚的に知ることができる。
だが、それが何の能力を有するかまでは分からない。
また、印はそれぞれ模様が違うことを利用し中央都市にある石碑でその印は何かを照合することもできる。
「ザット、お前はこれからどうするんだ?」
この街では俺たちの卒業する学園が一番上の教育機関なので、卒業と同時に社会人の仲間入りとなる。
「僕は親父の道場を継ぐ。印も同じだし、最近は親父にも勝てるようになってきてるんだ。」
「なるほど、やっぱりそうだよな。お前の家の道場主になれば、学園の武術の授業で非常勤講師になれるし。」
やはりザットの返事は予想通りだ。
「他の奴らはなんて言ってた?」
さらに聞くと、ザットは教室で話していたようで、すらすらとそれぞれの進路を話して聞かせてくれた。
「店継ぐやつ、街出て行くやつ、自分の店立ち上げるやつ…バラバラだが、概ね予想通りだな。」
ザットはわざわざ教室から俺の進路を聞くためにここに来たらしい。
「で?貴様の方こそ進路どうするんだよ?リーティについて中央都市に行くのか?」
リーティ、リーティアンナ・ロフトは俺がここに入学してからずっと思いを寄せているクラスメイトの女子だ。聖騎士之印の印を持つ優等生で、とても美人。
だが、想いはずっと伝えられずにいる。ザット達男友達はみんなこれを知っているのでいつも揶揄われている。
「いや、俺はまだまだ中央都市に行けるほど強くないから、冒険者になることにするよ。高ランクになったら中央都市のギルド本部にいく。」
俺は用意していた答えを言った。
冒険者、それは数多の阿呆と、一握りの上位者がなれると言われる男子たちにとって花形の職業。
言うなれば、特定の主人を持たない騎士のような立場で、貴族の城の防衛、戦争への参加、魔獣の討伐などを報酬と引き換えに行う。国から認可を受けた冒険者ギルドを中心に動いており、高ランクの冒険者ともなれば、国のお抱えとなったり、一個騎士師団が出張るような魔獣をたった数人で討伐したりとその武力、影響力共に計り知れない。
それを聞くとザットはたいそう驚愕した様子を見せた。
「え、お前冒険者になるの!?怠惰之印なのに!?」
「おい、怠惰之印をなんだと思ってるんだよ。上印だぞ?一般の奴らよりは戦えるって。」
「お?じゃあ僕と闘ってみる?」
ザットが持つ印は代々家系として受け継がれてきた『拳闘之印』だ。通常印の中でクロスレンジ最強格と言われており、一般人なら叩きのめされて終わるだろう。
だが、俺には秘策がある。
「いいぜ。怠惰之印が受けてたつ。」
ザットに話したことはないが、上印には周囲への強い影響力を与える能力がある。怠惰之印の外的能力だ。
「よし、じゃあ夕方うちに来いよ。久しぶりに一戦やろうぜ。ついでに飯も食ってく?」
「いや、今晩は妹がいる最後の夜だからな。飯は家で食うよ。」
「お、そうだったな。了解〜。」
ザットは俺を久しぶりに正面から叩きのめせると、ニヤニヤと悪い顔を浮かべて校舎の方に向かっていった。昔はお互い取っ組み合いの模擬戦をしたりしたものだが、学園に入学してからはそのような機会も少なくなっていった。そう考えると久しぶりのザットとの模擬戦だ。お互い印の力込みで鍛錬しているので、レベルの高い戦いになりそうだ。
ふと周りを見渡す。通い慣れた学園の、見慣れた景色。今まで毎日の色。
商店が入り乱れる道の上に遠くの教会の尖塔が見える。
成績の掲示板の後ろに目を向ければ、学園がその存在感を放つ。
白濁色の岩石で構成された砦のような学園。
「今日で最後なのか…。」
聞く人も周りにはいないが、気付かぬうちに声が漏れ出てしまっていたようだ。
思い出してみれば、7年間をこの学園で過ごしていた。
ゆっくりと校舎のほうに歩き出す。
端から何が植わっているのかを諳んじることができるほどになった植物園。
低学年の頃はお化けが出ると本気で思っていた天文塔。
校舎に併設された時計塔の鐘が朝の登校時間を唄う。急に門の方が騒がしくなってきた。
低学年の小さい子供たちが、走りながら傍を抜けていく。
自分にもこんな時があったのだろうか。
『おはようございます!』
防犯の検査門の横に立つ管理人に挨拶をする声が響く。
登校する生徒たちの雑踏に呑まれながら廊下を歩く。
階段を上がり、渡り廊下を行った先が最上級学年の教室棟だ。
「おはよう〜」
いつものテンションで声をかけながら教室の中に入る。
『おはよう〜!』
今日が最終日だと言うのにクラスメイトたちは至って平常だ。
教室の前の方ではザットや妹たちが雑談を展開していた。
妹は本来二つ下の学年なので、周りと比べるとまだ背が低くあどけなさが残る…かもしれない。
周りから見ると大人っぽく映るようだが、兄の俺から見るとまだ手を繋いでいた頃の子供のように思えてしまう。
俺は時計を確認し、担任が教室に入ってくるまでにまだ半刻以上あることを確認すると、机に突っ伏して寝る準備をする。
怠惰之印にとって、半刻の時間はかなり大切。
半刻の睡眠をとるだけで、通常の三倍から四倍の能力を上乗せできるようになるのだ。
この一連の流れも毎朝のもの。周囲はもはや俺が何をしようと気にしない。
印の能力を知っていると言うこともあるが、何かとさぼりがちな俺に愛想を尽かしていると言うのもこうなった原因の一つだろう。
顔を伏せるその一瞬で見えた斜め前の空席。
リーティの席はこの一週間人を座らせたことがない。
今日も来ないのだろうか…。そんなことを考えながら俺は能力上昇のための活動を始めた。
どれくらいの時間が経っただろうか、周囲の音が急激に小さくなる。
担任の入室で号令を待つ瞬間だ。
寸分違わず上体を起こす。
『おはようございます。』
「今日でみなさんがこの学園に来るのは最後です。
悲しくもありますが、私にとってみなさんがここから旅立っていくことは喜びでもあります。」
発展理数学の担当でもあるこの担任は、予想通りの典型的な挨拶で最後の話を始めた。
常套文の話をよそに、俺の注意は完全に斜め前の空席に注がれていた。
少しだけ印の力を使って思考力を上昇させながら、リーティが来ていない理由を探る。
記憶では俺たちがこの学園に入学すると同時にこの街に来たはずだ。
入学前に貴族街の方まで行ったことはあるが、彼女を見ることはできなかったから。
印は『聖騎士之印』。中央都市にいるようなエリートの持つ印だ。
父親のロフト伯爵ともあまり仲がいいと言うわけではそうだ。
その前に見かけた時は無条件に従っているように見えた。
強力な印にこの町への転向、伯爵への服従度…なるほど、加速させた思考が一つの可能性を示す。
そして能力の上掛けによる記憶の逆行によって、一つの場面を思い出した。
初めて教室で話した時、彼女は両手首を庇っていた。
その記憶が決定打となった。彼女は奴隷階級だったのだろう。
強力な印を持つことで伯爵に買われて養子となったか。
今までリーティの生い立ちは考えないようにしていたが…。
「それでは卒業式の時間になりますから、大講堂に移動しましょう。」
全学年の生徒が集まった大講堂はグワングワンと音が響いて劇場のような様相。
学園長の話…やはりこちらも定型文。もう少し面白い話はできないのだろうか。
在校生代表のあいさつ…ほう、あの印は『語之印』か。やはり聞いていて面白い。
卒業生のあいさつ…これは主席で卒業の妹が前に出て行く。
家で散々悩んでいたのはこのせいか。
短く要点だけ言って済ませたのは素晴らしい。最後に俺に向かってウインクをするのは不要だが。
ここからは街の権力者の話が続く。
ロフト伯爵は来ているようだが、リーティの姿は見えない。
ふと殺気や悪寒に似たような何かを感じて反射的に窓の外を見る。
誰だあれは?
マントを纏って顔もよく見えない。だが確実にこちらに目線を向けている。
学園は防犯の魔術式があるから侵入は不可能なはず!
“怠惰之印”!
声に出さぬよう意志で印の力を使う。
気配を限りなくゼロにして、身体能力を強化。
スッとしゃがんで卒業生の列から離れ、大講堂の門に向かう。
外に出るとそのままの勢いで学園の壁を走って大講堂の窓の方へ。
久しぶりの怠惰之印の全力行使で朝の半刻分の力はもう切れてしまった。
今までの蓄積を解放し、全速力で走る。
視覚強化!
いた。風に揺られながら暗青色のマントを着た奴が佇んでいる。
手に力を集めて攻撃の用意もしながら素早く接近するが…
「気づかれた!?」
ほぼ完全な気配遮断を見破られて俺は驚きの声を上げる。
濃藍のマントは逃げるように一歩後ろに蹴り出した。スローモーションのようにその動きが見えた。
と、気づく。走っても走っても空中にいるマントに追いつけない!
すでに学園の敷地を越え、街の屋根の上を走っていた。
「また会おう、疾風なる怠惰な少年よ。」
低く響きのある老人の声が聞こえると、刹那何かに身体が弾かれた。
「ぐっっ…!?」
咄嗟に正面を守りながら受け身を取る。
地面に叩きつけられて何度も転がりながら衝撃を逃す。
立ち上がって周りを見ると学園の壁のすぐ外にいた。
屋根の上を走っている時、教会の尖塔を超えた記憶がある。
『そこから弾き戻されたと言うことか!?』距離にして300エーターほど。
しかもあの老人に俺が怠惰之印だと言うことがバレた?
解析系の印だったのだろうか。だがそれではあのような逃げる動きができないはず…
まさか二つ印持ちなのか!
二つ印持ち
ごくたまに、印を利き手だけでなく両手に持って生まれる場合がある。
歴史上で数えるほどしかいない希少な例だが、印同士が相乗効果を生み出しその力は常人をはるかに上回る。
全身を叩いて服の汚れを落としながら学園の壁に触る。
防犯の魔術式が反応…しない!?
ならば、とそのまま跳躍し学園内部に入る。壁を越えると同時に魔術式が復活した。
なんなんだこれは…!
まるで俺が学園内に入るのを待っていたかのような…。
“怠惰之印”
再び気配を遮断し、ゆっくりと大講堂に入る。
ちょうど国歌を歌い終わったところなのか、割れんばかりの拍手が鳴り響いていた。
その音に紛れて自分の列に戻る。
周りが気づく頃にはすでに自分の椅子に座ってうつらうつらと眠そうにしていた。
卒業式が終わると家族と合流して話をするのが一般的だが、父親は休めるような仕事でもないし、母も病弱なので外に出てくることはできない。
妹を探すと何人かの教師と何やら話をしていた。
「あー、これはなかなか終わりそうにないな。」
しょうがない、一人でうろつくか…
最後の学園だが、することもなく喋る相手もいなかったのでそのまま門をくぐって外に出る。
「さて…。」
俺は歩く先を街の門の方に向ける。
俺は暇を持て余す…もとい、怠惰之印に能力値を蓄積しつつ街の門を越え、ぶらぶらと近くの森の方に向かった。
ゆっくり歩いて何も考えないようにすれば、なんと怠惰之印に力を蓄積することができるのだ。
何とも曖昧な基準だとは思うが、先程今までの蓄積の一部まで能力を使ってしまったのですぐにでも能力を蓄積しておきたい俺にとっては好都合な解釈だった。
街道からそれて森に入り、四半刻ほど歩くと危険区域と書かれた柵がある。
それを乗り越え、さらにしばらく歩くと開けた場所に出る。
直径5エーターほどの土の大地。周りには木々や草が生い茂るが、ここだけは何も生えていない。
大きなクレーターや掘削痕があるだけだ。
ここは俺が怠惰之印などを検証したり戦闘の模擬練習したりするのに使っている場所。
動く気にもなれなかったので、大きな木の下に座ってぽけーっとしていることにした。
そういえば朝ポケットに突っ込んできたなぁと母の作ったクッキーを取り出し、小さく齧りながら静寂な森と陽の光を楽しんだ。
これから夕方まで何をしようかなどと考えていると、突然怠惰之印で強化していた感覚の索敵網に何かが引っかかった。
急いで身を潜めると、俺の通ってきた道からなんとリーティが歩いてきているではないか!
聖騎士之印持ちで帯剣しているとはいえ、慣れない人が一人で歩くのは危険。
なぜならここはBランク以上の魔物も出現する危険地帯。
だから俺も柵を越えて森の奥まで入っていることは誰にも言っていない。
「おい…ここで何やってんだ!!」
思わず飛び出してしまった。
「ア、アイク君…ごめんなさい、話したいことがあって、森行くのが見えたから後をつけてきちゃった…」
リーティは突然の俺の声に飛び上がって驚いた。だが驚いたのはこちらも同じだ。
「話したいこと!?」
この危険地帯を俺の速度について追いかけてきたことも驚くべきことだったが、それよりも自分の好きな人の『話したいこと』に全ての興味をさらわれてしまった。
「そう、アイク君に頼みたいことがあって…」
リーティは一言おいてポツリポツリと話し始めた。
「私ね…今の親は本当の親じゃないの。
元々アゼンダに住んでいたんだけど、借金がかさんで私が売られることになったの。
でも私は聖騎士之印を持っていたから、この町のロフト伯爵に買われて…
この後も中央都市の神殿で聖騎士になる訓練を受けることになって、すぐに出立しないといけないの。
ほんとはお父さんお母さんに会いたいの。でも…
それで、ザット君からアイク君が冒険者になるって話を聞いて…手紙を書いたの。
写真と手紙があるんだけど、アイク君がアゼンダに依頼に出た時に私の親に届けて欲しいんだ。
もう多分、一生会えないから、元気だっていう報告とお別れの手紙。
お願いできないかな…。」
半分泣きながらなんとか笑顔を作って一息で話すリーティ。
俺に言葉を発することも許さなかった。
朝の予想と全く同じだったが、リーティから直接話を聞くと、俺も居た堪れなくなってしまうほどだった。
渇いた口を動かしてなんとか声を振り絞る。
「ああ、もちろん。リーティに代わって手紙を届けるよ。俺に任せてほしい!」
これは、肯定するしかなかった。必ず届けなければ。冒険者としての初依頼にして、最重要任務だ。
「ありがとう…ありがとう!!」
何度も必死に頭を下げるリーティを、近寄って恐る恐る抱きしめた。
リーティが、小さな声で言う。
「こんな時に言うことじゃないかもしれないけど…
アイク、私ね、アイクのことが大好きだよ。入学した時からずっと。
冒険者って依頼は報酬がないと受けないんでしょ?
報酬は私。私も頑張って聖騎士になるから!そしたら中央都市に迎えに来てよ。」
俺は更なる驚きとともに、何か暖かなものが胸の中いっぱいに広がった。
リーティを見ると、目が合った。その目は灼熱の色をしていた。
その目の中に俺は、義務として示された将来に対する決意と、なんとかして呪縛から逃れようと逃げ道を探す恐怖を見た気がした。
しばらくお互いが動かなかったが、リーティはすぐに街を出立しなければいけないということを思い出し、ゆっくりとリーティを引き離す。
もう一度、ゆっくりはっきりと伝わるように声を発する。
「わかった。その依頼受けるよ。そのかわり、リーティも中央都市で待っててほしい!」
「うん、必ず、必ずね。」
リーティは手紙を俺に渡すとパッと踵を返し、何度もこちらを振り返りながら元来た道を走って行った。
俺はその場に立ち尽くしながら手元の手紙に目を落とす。
細く整った字で『お父さん、お母さんへ』と書かれているのを見た。
『強くならなければ。誰よりも。』
今あった出来事を思い返し、そう心に誓った。
アゼンダは北方の魔領に近い鉱山都市。半数以上が奴隷階級として労働に従事している。
確かに、依頼で行くことは多くなりそうだ。
リーティの手紙をしっかりと懐にいれ、落ちないことを確認した。
まだ夕方までには時間がある。
俺は静かに円形の広場の中央まで進む。
左手の手のひらにある怠惰之印に神経を集中させ、今まで蓄積してきた力を感じる。
“怠惰之印”
栓を開けるように能力を開放すると、全身が熱くなり、感覚が広がる。意識もはっきりして、この森の全てが手に取るようにわかる。
森の外に続く足跡から、リーティは無事に森を脱出したようだ。
意識を自分の周りに戻すと、前方から高速で迫る生体反応がある。
その形状と速度からしてB+ランクの魔物、鎧猪だろう。
大抵の印の能力を弾く重鎧を持ち、下手な城門すら破壊する突進力もある。
「よし、そのまま来い来い。」
だが俺にとってやつは敵ではない。
この広場で最も多く狩ったことのある魔物だからだ。
鎧猪が広場に入った時点で跳躍。腕と拳に力を集め、その脳天に向けて振り下ろす。
ガッ!ベギッッ!!
鈍い音を立てて鎧猪の頭の装甲が割れる。そのまま強烈な振動と衝撃が脳に伝わり、鎧猪は絶命した。
ゆっくりと陽が傾いている。
夕方で時間がないので、爆速で手持ちのナイフで皮を剥いで鎧を外す。
肉はその場に置いておく。広間の縁でこちらを見ている角狼の子供たちの食糧になるだろう。ビクついてはいるが、こちらには来ない。毎度の光景だ。
胴体部分の一番大きな装甲部分だけを持って帰ることにした。
街に帰ると、リーティが馬車で出立した直後だったようで何人かが門の前に残っていた。
ザットがこちらに駆け寄ってきて
「お前、いいのかよ。リーティが行っちゃったぞ。呑気に森の方に行ってんじゃねぇ。」
と怒ってこちらを問いただすが、
「いや、いいんだ。大丈夫。」
俺はそう言って取り合わなかった。
ザットが、なんだこいつと言った目でこちらを見ていたが気にせず素通りし、街の防具屋に行く。
「おっちゃん、今回も頼むよ。」
「おう、坊主、また鎧猪の装甲拾ったのか。」
このやりとりも毎度のことだ。
「ああ、しかも今回は一番でかい。」
「ほっほー、こりゃすげえや。
全身分持ってきてくれたら買取額ははずむんだけどなぁ。
流石に拾っただけじゃそうはいかねえか。
ま、今回はでかいから銀貨五枚だ。」
よし、取引成立だ。
うちは決して裕福ではないので、いつもこうやって小遣いを溜めている。
流石に鎧猪を倒したなどというわけにはいかないので、拾った体にしているのだ。
銀貨五枚を受け取って財布に入れ、ザットの家兼道場に向かう。そろそろ約束の時間だ。
「よぉ、リーティを見送らなかったアホめ。待っていたぞ。」
既にザットは道着に着替え、ナックルダスターを着けている。
本当に本気で闘り合うようだ。蔑むように吐き出したその言葉と格好でわかる。
「いいだろう、俺も本気で行くからな。」
ここでザットに念を押しておく。
「始めよう。」
両者が構える。
“拳闘之印”
ザットの拳が光を帯びると同時に、正面から突っ込んでくる。まさに神速。
正面からの突き。鳩尾を狙った一撃必殺の動きだ。
“怠惰之印”
ザットの拳を左手で受け止めるその瞬間に、俺は力を行使する。
上印に備わる『周囲に影響を及ぼす力』。
怠惰之印の場合は大罪系であるので相手にデバフ効果を与える。
刹那、ザットの全身の力と勢いが消える。
同時に自身にザットの力が自身のものとして流れ込むのを感じた。
怠惰之印の外的能力
この印は、触れた相手の積極的な活動や意志の力を吸収し自身の力に変換する能力を持つ。
相手が剣などの武器であったとしても、触れた瞬間から能力が発動し、攻撃してきた相手の体からも力を奪えるという破格の能力。
物理的な攻撃であった場合、相手の力を吸収して、相手の力を己に上乗せした状態で一方的に殴れるのだ。
「うそ…だろ…っっっ…!」
その場に卒倒したザットを見おろし、予想通りの結果になってくれたことを安堵しつつ声をかける。
「な?言っただろ?
怠惰之印は上印なんだって。」
「くっそッ…!」
“拳闘之印”!
ザットは無理やり印の力で身体を跳ね起こすと、距離を取った。
「その手に触れられないように攻撃すればいいんだな?」
「ほう…?それはどうかな?」
「いいさ、試してみるだけだ。」
そう言ってザットは再び構えの姿勢をとる。
残念なことに…いや、幸運にも、というべきか、ザットの言っていることは正しい。
この能力の行使は印で触れることが条件だからだ。
だから、今回は正面から殴り合ってやることにした。
“怠惰之印”
自身の反応速度、筋力、思考力を上昇させる。
身体をずらして、飛んでくる右手をそのまま左手で弾き、肘から回して鳩尾に拳を叩き込む。
拳闘之印の力でザットの体は鋼のように硬質化されているが、怠惰之印の身体強化力はそれをも上回る。
「う゛っ……っっ…!!」
俺の攻撃とザット自身の勢いで相乗された拳の威力によって、ザットは身体をくの字に曲げて道場の壁まで吹っ飛んだ。
ドゴッ!『カーン…』
そんな効果音がふさわしいだろう現状が出来上がった。
大きな物音が聞こえたのだろう、バタバタと足音が聞こえた。
やりすぎた…!そう思ったがもう遅い。
顔を出したのはザットの父。この道場主だ。
俺たちの状況を一目見て、俺が怠惰之印持ちだということを思い出したのだろう。
「ふっはっはっはっはっーーっ!!!」
大笑いを始めた。
「ふぃーっ、はっはっはっ…ゲホ、ゲホッ…!」
俺は…謝るべきなのか心配するべきなのかよくわからなくなってしまった。
「アイク、やはりワシの息子を吹き飛ばしたか!」
「え!?、どっどういうことですか?」
「ワシの息子はな、拳闘之印を持って自分は最強だと錯覚しておった節がある。最近はワシからも数本取るようになっているからな。
だが、通常印は上印に勝つことは決してできん!
なぜなら…印の強度が違うからな。
それで、とうとう勝負を挑んで負けたかと思って面白かった次第よ。
はっはっはっはっはーーー!!」
印の強度…!?いや、それよりも…
「ザットは、大丈夫なんですか?思いっきり鳩尾に入ったんですけど…。」
「ああ、問題ない問題ない。
拳闘之印の印を持つものは打撃に対する高い耐性がある。流石に今回は内部に浸透しているだろうが、訓練をしているので問題ないぞ。」
よかった…
安堵と同時にザットが動き出した。
「っ!くそ、いってぇぇ…。」
「どうだ、ザットよ、散々今まで言ってきたことがわかったか。」
「親父…!…何されたか分からなかった…。」
うおぉ、自分でもさっきの攻撃は早いと思ったが、拳闘之印でも判断できないほどの攻撃だったのか。
「よいか、上には上がいるのだ。勝ちたいのならばこれからも抜け出したりせずに稽古に参加せい!」
すかさずザットの父から喝が入る。
「う、わかったよ…。」
「返事ぃ!!」
「はいっ!!!」
一件落着のようだ。
「オメェ、あとで俺の部屋に来い。」
ザットの父はそう言い残して奥の方に行ってしまった。
「結局僕が甘かったか。怠惰之印相手でも…。」
「だから、印の名前で判断するなって!」
ここで、もう復活したらしいザットが起き上がってきた。
「次に戦うときは絶対勝つ。」
「じゃ、俺もそれ以上に強くなっておくことにするよ。」
お互いニヤついた顔を浮かべながら、次戦の約束を交わす。
日が暮れて窓から差す光が闇と混ざりはじめた。
ザットとお互い背中を叩き合ったあと、俺は足早に道場を後にした。