いつだって出来る事は限られていて
救急外来の点滴室前のソファ。その一つに腰掛けている姿も一つ。ここに座って、どれだけの時間が経ったのだろうか。受付口に設置されている時計の針は既に夕暮れ時を指している。
そこへ、看護師に連れられて一組の男女が姿を見せる。
「それでは、魅由は大丈夫なのですね」
「はい。検査を終えて今は点滴を受けています。検査の結果も問題無く、点滴が終わればそのまま帰宅できます」
「そうですか。ありがとうございます」
そう言って男性が頭を下げると、その後ろに控えていた女性も頭を下げる。
「いえ。ご無事で何よりでした。それでは、失礼します」
看護師が立ち去るのを見送ると、男性がこちらに顔を向ける。その顔に思わず緊張してしまう。この人は、おそらく魅由の父親だろう。いかにも真面目そうな雰囲気からは、魅由から聞いていた印象通りの人物だと感じられる。
「失礼。あなたは」
こちらに近づきながら訪ねてくる。
「山野辺優菜です。その、魅由さんの……」
そこで優菜の言葉が途切れる。魅由は……優菜にとってどのような存在なのだろう。
「ああ。あなたが優菜さんでしたか」
幸い、男性が話を繋げてくれたお陰で、不自然にならずに済んだ。
「私は魅由の父です。娘がいつもお世話になっております」
そう言いながら、先程の看護師にしたように頭を下げる。後ろに控えていた女性もそれに倣い、短く「母です」と頭を下げながら自己紹介をしてくれる。
「あ、いえ。私の方こそお世話になっていますので」
大人に頭を下げられる経験の少ない優菜は、思わず立ち上がり、焦ってしまう。
「そうですか。魅由は良い友人を得られた」
優菜のそんな様子を見て優しく微笑んでくれる。その姿に優菜の中で一致していた人物像がぶれる。
「あなた」
後ろに控えていた女性が魅由の父親に声をかける。
「ああ、そうだな。優菜さん、私たちは魅由に会ってきます」
もう一度頭を下げ、点滴室へ入室していく。
「優菜さん。魅由の事、これからもよろしくお願いします」
母親も優しげな表情で一礼して、後に続く。とても穏やかで、常に一歩引いた在り方は、自分の母親には無いものだと、つい比べてしまう。どちらが良いとか、そういう事は思わないが、魅由の母親の方が、なんだか母親って感じがする。
「って、何考えているんだろう」
妙な考えをしてしまい、思わず独り言ちる。その後は、時折遠くから響く足跡や話し声だけが、この世界の全てとなる。
その世界を否定するかのように、スマホのメッセージアプリを開く。歌劇同好会のグループメッセージを開くと、そこには今日起こった出来事の話題で溢れかえっていた。
そういえば、今朝から一度もスマホを見ていなかったなと思いながら、未読のメッセージを読み、頭の中で整理していく。
まず、あの強烈な揺れは、星ノ杜の校舎と、その中庭だけで発生したものらしい。校舎の外側は一切の揺れは無く、それ故に地震計や震度観測網には感知されなかったようだ。
優菜自身、地震の仕組みについてそれほど詳しくはないが、これが異常なことだという事は分かる。何故そんな事が起きたのか、今以って不明という事だ。星ノ杜の外にいた人達にとっては、本当にそんな事が起こったのか、眉唾物だろう。
だが、実際揺れは起きた。建物内の被害はかなりのものだったが、幸いにして怪我人は二名だけだった。その内の一名は、優菜の目の前の部屋で点滴を受けている。もう一名は、今も学院の緊急会議に出席している。
ルミの怪我は、その出血量に対して、大した事は無かった。頭の怪我はちょっとしたものでもたくさん血が出るらしく、保険の先生に診てもらった結果、かすり傷と診断された。
それでも、魅由と一緒に検査を受けるべきだとも思ったのだが、本人が大丈夫だと言い切ってしまい、生徒会長としての責務を行っている。
その会議では、今回の出来事の原因の究明と、今後の予定について話し合っているそうだ。
当初、犯人と疑われた逆那沙紗は、今回に関しては無罪らしい。何でも、例の揺れが起こった時に何か怪しげな実験をしていたわけではなく、その証人もちゃんといる。何より、学院側に今日行う実験の事前報告をしており、その内容もとてもあのような揺れを起こせるようなものではないという事だ。
【いや、だからね?何か起きたら私のせいって、大体合ってるけど酷くない?】
【でも、沙紗先輩は前科がたくさんありますし】
【どう考えても自業自得だよ】
【んー、沙紗は悪い奴だったのか?今度会ったら倒そうか?】
【いやいや夏奈ちゃん。どうして君はそうやってすぐ物理で解決しようとするのかね】
なんてやり取りを見て、少し心が和む。
結局、原因は分からないまま、明日、明後日は休校となった。その後は未定だ。明日、業者が入り、揺れの被害がないか、校舎を調べるらしい。
寮生も、実家が近い生徒は帰省している。優菜も帰ろうと思えば帰れたのだが、それよりも魅由の事が心配で残ることにした。
やがて、点滴室のドアが開き、両親に付き添われた魅由が姿を見せる。その表情は冴えないが、顔色は随分と良くなっている。
「魅由」
優菜は立ち上がり、だがその場に立ち尽くす。魅由の顔を見て安心したと同時に、何て声を掛けたらいいのか分からなくなってしまったのだ。
そんな優菜を見て、ようやく魅由が笑みを見せる。本当に……久しぶりに見る顔だと、優菜は改めて思い知る。
「優菜ちゃん……待っていてくれたのですね」
そう言いながら優菜へと近づいてくる。
「うん。その、大丈夫?」
その表情は、もっと見ていたいはずなのに、どうしてか、直視できないでいる。
「はい。もうすっかりこの通り」
目の前まで来ると、優菜の手を取り、自身の頬に宛がう。優菜の手のひらが燃えるような熱さに包まれる。
というか、両親の前でこんな事して、変に思われないかな。でも、元気になってよかった。大事に至らなくて、本当に良かった。でも、やっぱり何だか恥ずかしい。
何とも言えない気持ちを感じていると、
「では、私たちは清算に行ってくるよ」
そう告げ、この場を離れていく魅由の両親。その背中を見送ると、二人きりとなる。魅由は未だに優菜の手に頬を預け、安心した表情を浮かべている。
何だろう……すごく気恥ずかしい。別に魅由とこういう触れ合いをするのは初めてではないし、何なら照れる事も無く、していたのに。
「優菜ちゃん?」
動揺が伝わったのだろうか。魅由が優菜を不思議そうに見つめてくる。
「あ、えーっと。と、とりあえず座ろうか」
と、先程まで座っていたソファに魅由を誘導する。触れたその背はとても熱い。いや、もしかしたら優菜の手が熱くなっているのかもしれない。でも、どうして……今までだって、そんな事はいくらでもあったのに。
ソファに二人並んで座る。だが、先程までの静寂はどこにもなく、ただ高鳴る鼓動だけが嫌に耳につく。
「あの、優菜ちゃん?」
「ひゃい!?」
突然魅由から話しかけられて、思わず声が裏返ってしまう。いや、別に突然ではないか。こうやって隣にいるんだし、普通に話しかけるよね。というか、変な返事をしてしまって、ますます恥ずかしいんだけど……
「ふふっ。何です、それ?」
どうやら今の優菜の反応が面白かったようで、魅由がくすくすと笑いだす。ああ、魅由もこんな風に笑う事もあるんだ、と。新しい一面を見られて、その事が嬉しくて、優菜の心が温かさに包まれる。
「あ、あははっ。変な声出ちゃった」
「はい。でも、そんな優菜ちゃんも好きですよ」
そんな無邪気な告白に、優菜の思考が止まる。え、今、魅由は、何て、言ったのだろう。
「あ、それって……」
「魅由」
だが、優菜の問いかけが発せられる前に、後ろから声がかかる。
「あ、お父様。お母様」
途端に、緊張した表情になり、魅由が立ち上がる。そして、
「この度はご心配をお掛けして、ごめんなさい」
深々と頭を下げる。その姿は、先程、優菜に頭を下げた大人たちと全く同じで。
「ああ、いや」
その大人たちも、そんな魅由に困惑しているように見えた。
何か、言った方がいいのだろうか。でも何を。一瞬の逡巡。いつだって出来る事は限られていて、あの時ああしていれば、なんて、有りもしない可能性に囚われる。
「では、私たちは帰るが、魅由はどうする?」
「学院は明日、明後日と休校になったみたいだし、一度家に帰る?」
両親がそれぞれ声をかける。その口調からは、本当に魅由の事を心配していることが伺える。
「私は……」
だが、魅由は言い淀む。その事に、思い当たる事が一つ。だから、
「私は一度、実家に帰るつもり。だから、魅由も一緒に帰ろうよ」
思い切って誘ってみる。いつだって出来る事は限られていて、だから、思いついたのなら行動するのみだ。
「……優菜ちゃん?」
この提案が意外だったのか、魅由がきょとんとした表情で優菜を見つめてくる。その視線を真っ直ぐに受け止めて一度だけ頷く。
「そうですね。優菜ちゃんがこちらに残らないのであれば、私も残る意味はありませんし……」
さらっととんでもない事を口にする。いやだから、そういう事を両親の前で言うのはどうかと思うよ。
そんな優菜の心配を他所に、二人は季節外れの帰省を行う事となる。




