いぬのおうち
ノストラダムスが、恐怖の大王が降ってくると迷惑な予言を残した1999年があけて、無事2000年になったその年の五月。
土曜の校庭開放の日、小五のイズミはいつもの遊び友達と校庭の銀杏の木に登って遊んでいた。
枝を掴んで登るたびに、視界が高くなり、景色が変わる。あの枝もつかめる、あの枝も。
風の音が変わってゆく。枝の間に巣をかけたハトがバタバタと邪魔をする。
上ばかり見上げて何も考えず登るうち、思いもかけず高い場所まで来てしまった。
「イズミちゃんもうおりなよ、怒られるよー」足の下から七海ちゃんと加奈ちゃんの声が聞こえる。
「あの煙突なんだろ」重なる屋根屋根のかなたを見てイズミは言った。
「え?」
「東のほうに高い煙突が見える。あんなところに工場あったっけ」
「イズミちゃん、先生来たよ!」
「こら! 銀杏の木に登ってる子、降りなさい!」校庭監視係の女性教師が走ってきた。
「はあい、いまおりまあす」
答えた途端、右手で掴んでいた細い枝が折れ、どすんと下の枝で腰を打ち、ざざざざと滑り落ちる途中で左手が太い枝を掴んだ。
ああああ、という先生の悲鳴を聞きながら、イズミはいくつかの枝でバウンドし、どうにか傷だらけになって着地していた。
「ああびっくりした、もうあなたって子は、これで何べん登ったと思ってるの」
木登り仲間はとうに怒られるのをおそれて逃げ帰ってしまった。
「先生、牟礼のほうに高い煙突のある工場ありますか?」
「人の言うこと全然きかないのね。あっちに大きな工場なんてないわよ、それよりけがはないの」
「ありません。ともだちもいなくなっちゃったし、もう帰りまーす」
「まっすぐ帰るのよ、イズミちゃん!」
当然、まっすぐは帰らなかった。目にしたものは確かめないと気が済まないたちなのだ。そのまま学校を出るとイズミは広い公園に入り、武蔵野の林の中を流れる玉川上水に沿ってどんどん東に進んだ。
方角から見たら、多分こっちだ。木や家が邪魔で煙突なんて見えない。あ、あれは大好きだった幼稚園の先生が住んでたおうちだ、前お父さんと散歩したとき来たことがある……
適当に住宅地を進むうち、東西南北がわからなくなってしまった。
「あれえ、ここどこだろ」
どっちを向いても知っている景色がない。きょろきょろしていたイズミの前に、赤い屋根の大邸宅が現れた。広い芝生の庭があり、全体が石垣の上に立っているような高さで、立派な蔦模様の白い鉄門までは階段を上がるようになっている。
芝生のほうから、ワンワンと犬の声が聞こえた。見上げると、芝生を取り囲む瀟洒な柵の内側にピンクのボールが現れ、ぽとりと道路側に落ちた。「わんわん物語」に出てくるような耳の長い子犬がそれを追って鼻先を突き出した。赤い首輪をしているが鎖はついていない。鼻づらどころか、顔全体が出そうだ。
「危ないよ、駄目だよ」と懸命に止めたが、ついに小さな犬は柵の下をすり抜けて、石垣を転げるように落ちてきてしまった。そしてイズミの腕の中にすっぱりとおさまった。
「どうしよう、……でてきちゃった」
イズミはボールを拾い、たれ耳の子犬は嬉しそうにボールを咥えてはまた落としている。そしてイズミのあごをぺろぺろ舐めまわしている。
ずっと犬が飼いたかった。こんな風にちっちゃくて長毛種で、耳の垂れているかわいい洋犬。かわいいけど、ものすごくかわいいけど、このおうちに戻さなくちゃ。
イズミは意を決して、ボールを拾うと子犬を抱いて階段を上り、門柱の呼び鈴を押した。
芝生の向こう、こでまりの揺れるポーチの影の大きなドアが開いて、上品そうな水色のワンピースを着てカスミソウのような模様のスカーフを首に巻いたおばさんが出てきた。
「何の御用?」
「あのね、おうちからね、柵の間から、ボールを追ってこのおうちのワンちゃんが出てきちゃったんです。だから、戻さなきゃと思って」
イズミが懸命に説明すると、おばさんは不思議そうな顔をして頬に手を当てた。
「あらあ、そうなの? おかしいわねえ。うちで犬はなんて飼ってはいないのよ、そんな子もボールも見たことないわ」
「でも、ちゃんと首輪があるし、ここ、ここから出てきたし」とイズミは柵を指差した。
「とにかくね、うちには犬なんていないのよ。よその犬が入り込んだんだわ。連れてってちょうだい」
「え、でも……」
おばさんはスカートのすそをひるがえして去って行くと、玄関のドアをばたんと閉めてしまった。
イズミは途方に暮れて、犬に話しかけた。
「ここ、あんたのおうちじゃないの?」
見上げれば芝生の端に、銀色に光る犬のエサ入れらしきものもある。これはいったい、どういうことなのだろう。
「あんたさ、映画の、えーと、わんわん物語で見たことある。あの犬かな?なんて種類だっけ」
とたんにイズミの服がすうっと温かく湿っぽく濡れた。
「うわあ」
びっくりして犬を取り落としてしまった。地面に落ちた子犬はキャン、と悲鳴を上げた。
生暖かい液体が、母の手作りのワンピースを通して下着までしみていった。子犬はクンクンと鼻を鳴らしてはいつくばっている。下腹部からはほやほやと湯気が立っていた。少しびっこを引いているようだ。イズミは半べそで犬を抱き上げた。
「ごめんね、ごめんね、落とすつもりはなかったの。足、痛い? 家まで抱っこしててあげるから、ほんとにごめんね」
そののち、通りがかった人に玉川上水の場所を聞いて帰り道を探し出すと、イズミは夕日に向かって重い足取りで家路をたどった。
その日は、イズミの母は社会教育会館で和裁を教える日だったので帰りは遅くなる予定だった。
門を閉めて、犬のおしっこでびしょびしょの服から子犬を下ろし、ゴムボールをもって飛び石を歩いて一人玄関に向かうと、子犬はぴょんぴょん跳ねながらイズミのあとをついてきた。どうやら、足は平気なようだ。
父親は一応大きな会社のお偉いさんをしているらしいので、イズミの家もわりと大きい。芝生の庭の広さはあの家の三分の二ぐらいだが、立派な藤棚と、石灯篭に、ひょうたん型の池もある。
服をどうしよう。犬のこと、なんて言おう。濡れた瞳と長い耳、つやつやした鼻づらを眺めながら、イズミは服の下に下げた鎖付きの鍵を取り出した。犬は鍵にじゃれた。そのとき、背後でかちゃんと門の開く音がした。
振り向くと、姉が立っていた。
姿を見るのは、三か月ぶりぐらいだ。
「マコ姉ちゃん!」思わず大声を出すと、姉は口元に指を立ててあたりを見渡した。
「お父さんは仕事よね。お母さんは?」
「和裁のお教室に行っていて、いない」
ほっと息をつくと、十歳年上の姉は犬を見てかがみこんだ。
「その犬どうしたの。うちで飼いはじめたの?」
「それがね……」
イズミは今までのことを手短に話した。
「変な話ねえ。そんなことがあるのかしら」姉は犬を抱き上げた。
「絶対飼い犬よ。ふむふむ、女の子ね。ほら、こんなに慣れてる。あははは」
子犬に顔じゅう舐められて、姉は笑い声をあげた。
麻子姉は、色白で目は一重で、和風美人だ。どんぐり目のイズミとはあまり似てはいない。隣の県の大学に通いながら、学生マンションで一人暮らししている。
同じゼミの彼氏と付き合い始めたが、大樹とかいった彼は家の事情があって中退し、今飲食店でバイトしていると聞いた。たまたま姉が家に帰った週末、その彼のことが話題に出ると、父の目つきが変わった。父親は男女間のことに関しては昔かたぎで、結婚相手は親が定めるものと決めてかかっている。
「なんで四年にもなって大学をやめたりしたんだ」
「お父さんが肺の病に倒れて、闘病中って聞いたわ。それで学費がままならなくなったって」姉は夕食の鯵の塩焼きを口に運びながら言った。
「実家はどういう職業なんだ」
「確か沖縄の……石垣島で漁師してるって」
「漁師? 親はどこの大学を出てるんだ?」
「大学なんて出てないわ、海人だもの。お母さんは看護学校かな、看護師さんしてるそうだから」
父は怒りを含んだ口調で言った。
「早い話がその日暮らしの肉体労働者だな。ちょっと目を離すとすぐ育ちの悪い男と付き合う。第一バイト風情で現役の学生に手を出すとは何ごとだ」
父は、大河ドラマの主人公にもなった戦国武将を先祖に持つ代々の血筋を誇りにしている人だった。
「手を出されたんじゃないわよ、お互い気が合っただけよ。どうして育ちが悪いってわかるの、ついこの間まで同じ大学に通ってたのよ。お父さんもあそこに私が入ったの、自慢にしてたじゃない。そういう差別、一番嫌い。一度旅行がてら会いに行ったけど、素敵な優しいご両親だったわよ」
「なんだと? 旅行だ? 両親に会った?」父は気色ばんだ。
「わたしたち、将来のことまで考えて真剣にお付き合いしてるの。それでね、急に籍を入れたり結婚したりとかしないで、その前にちゃんとお付き合いして、できれば同棲して、お互いの……」
「同棲とは何だ!」父は卓上のライターを投げつけた。ライターは樫のテーブルの上の小皿を割って畳の上に飛んだ。「お前はまだ学生だろう。相手の男を連れてこい、育ちが悪い上にまるで泥棒じゃないか!」姉は割れた皿の横で、服についた陶器のかけらを払って、乾いた声で言った。
「こんなじゃ連れてこれないわ。もういい」そして箸をおいた。
イズミは食事どころではなく、座布団の端で石のように体を固まらせていた。
母が割って入った。
「ねえ、麻子ちゃん。順番がおかしいわよね。うちのお父さんには何も話さないで、相手のご両親にはお会いしたの? まだ学生なのに、旅行ってどういうこと? あなたたち、まさか、もう同棲したりしてないわよね?」
「もういいって言ってるでしょ。自分の学費は私がバイト掛け持ちして何とかする、何ともならなかったら大学辞めるわ。家は頼らないから、同意も必要ありません。あと三か月でハタチだしね」
「いつからそんな娘になった! 何もかも一人で決めて話にならん。そんな態度なら親などいらないだろう。もう家に帰らんでいい、親不孝者。大学をやめるならなら勘当だ!」
「あなた、ねえ、短気を起こさないで。麻子ちゃん、お父さんに一応謝って。時間をかけて話しましょ」
「謝らない。必要なものは後で取りに来るわ。じゃあね、お父さんお母さん、お世話になりました」
「出ていけ!」
売り言葉に買い言葉であっという間にそんなことになってしまった。それ以来、父のいない時間を見計らっては、姉は母のとめるのもきかず、服や日用品をスーツケースで持ち出しにきた。そしてぴたりと来なくなって三か月、連絡も絶えた。父の酒量は増え、愚痴といえば姉のことになった。
「何を間違ってあんな娘にしてしまったか、だいたい母親のお前がきちんと見ていなかったからだ、二人でわしに隠れて男の話をしていたんじゃないのか」
「私は知りませんよ、第一あの子はあなたの連れ子だったじゃないの。五歳のころからどんなに苦労して育てたか。血のつながっているあなたのほうが性格はよくわかるでしょうに」
夜中の喧嘩で、イズミはそれまで知らなかったことまで聞かされる羽目になった。
お父さんの連れ子…… 母親が違うんだ……
だから、母親とマコ姉の間には、お互い遠慮し合っているような薄い壁があったのか……
「今日は何しに来たの? あ、用がなければ来ちゃいけないわけじゃないよ」イズミは姉にじゃれつく子犬を見ながら言った。
「ああ、私の小さい頃の写真、彼が見たいって言うから、何枚か持って行こうと思って。あと、イズミの顔も見たかったし」そう言うと犬の頭を撫で、
「お父さん、怒ってる? ずっと?」目を上げて尋ねてきた。
「最近はあまりマコ姉のこと、話さないよ。でも心配してるのわかる。お酒の飲み方が前より乱暴になったし、大事な娘をとられた、とられたって、許せんって、酔っぱらうとぶつぶつ言ってる。怒ってるというより、悲しそう。なんか、やつれちゃって……」
「……そっか」
クーンクーン、と子犬が鳴いた。それからくるくる、あちこち匂いを嗅いでは回り始めた。
「おしっこかな」というマコ姉に
「もうされた」とイズミは濡れたスカートを広げた。
「あーあ。早く洗わなくちゃ」
子犬は父が大事にしているオリーブの大きな鉢植えにごそごそ上って腰を下ろした。
「あんたそこで何してんの」
尋ねるイズミの鼻先に、おしっこではない方の匂いがぷーんと漂ってきた。子犬は尻を下ろしたまま後ろ脚を踏ん張っている。
「あ、うんこだ! だめだよ、そんなところで!」
子犬は後ろ足で鉢植えの土をざっざとかけて飛び降りた。
「割りばしもってくる、うんこ捨てなきゃ。家のキーちょうだい」姉はイズミから鎖ごと玄関のかぎを預かり、家に走り込んで、小さなゴミ袋と牛乳パックを持ってきた。
「出すものだしたらお腹すくわよねえ」
平皿にあけたミルクを、子犬は嬉しそうに音を立てて飲んだ。真白いミルクに水紋が広がった。
糞掃除をしながら、姉は言った。
「この犬ね、たぶん、アメリカン・コッカ―スパニエルだと思うよ」
「あ、わんわん物語に出てた犬だね。いいとこのお嬢様じゃん」
「友達で、飼っている人がいるの。耳の垂れ具合とか色あいとか、まず間違いない。頭が良くて人懐こくて、穏やかな犬種よ」
「た、高いよね?」
「まあそりゃ、純血種だったらねえ」
「何食べさせたらいいんだろ」
「あんたが三歳ぐらいのころまで、お父さん雑種の犬飼ってたのよ。でも、餌はご飯に残りのおかずぶっかけたものだった。今でも、飼うなら残飯しかやらないでしょうね」
「飼ってくれれば、だけどね……」
そのときふたたび、慌ただしく門を開ける音がした。
「麻子ちゃん!」
母だった。
姉は無言で他人行儀に頭を下げた。
「帰ってきたのね、ああよかった。ああ見えてお父さん、胃をやられちゃっててね、あれから五キロも体重が減ったのよ。ね、このまま帰らないで。御夕飯、食べていってちょうだい。お父さん、勘当なんてしてないから。あなたの顔を見たら、きっと内心喜ぶわ」
「……話すことなんてないんだけど」
「マコ姉ちゃん、いてよ。子犬のこと、協力してよ。それに、このまま家族じゃなくなるなんて、わたし、いやだもん」イズミは涙ぐんだ声で訴えた。その足もとで空のミルク皿を舐めまわしている犬に気づいた母は、驚いた様子で尋ねた。
「まあ麻子ちゃん、あなた、こんな高そうな犬を飼い始めたの?」
「学生マンションじゃ犬は飼えないわ」
「え、だって、同棲って……」
「その犬はイズミが拾ってきた子。同棲は今のところ、棚上げ」
「……」
言葉に詰まった母に代わって、イズミは言った。
「ねえ、お母さん。こんなに高そうな犬が、ただで付いてきちゃったんだよ。お店だといくらするかわからないよ。うちで飼ってもいいでしょ?」
「付いてきたって、どこから」
「お金持ちそうな家の芝生から、柵をくぐって出てきたの」
「じゃあそこのおうちの犬じゃない。返してらっしゃい」
「うちの犬じゃないから連れて行って、っておうちの人に言われたもん」
母は怪訝そうな顔をして、イズミを見つめた。
「それにしても、随分乱暴そうな犬なのね。あなたの腕と足、ひっかき傷だらけじゃない」
「そんな高い木に登って、落ちたらどうなると思ってるんだ。学校にも迷惑がかかるし、頭を打ったら死ぬぞ」
玄関の外に繋がれた子犬の吠え声を聞きながら、父は食前のビールをあおっていた。
「じゃあ、二度のとぼらないって約束したら、犬飼ってくれる?」
「それとこれとは別だろう」
姉は母の隣でだし巻き卵を作っている。
「手慣れたものなのね」
「一人暮らしで、ちょっと上達したからね」
母と姉の会話を聞いていると、なんだか以前の日常が戻った気がして、イズミはうきうきしていた。
帰宅して姉の顔を見た時、父は明らかに驚いた顔をしたが、怒るでも責めるでも、柔らかい言葉をかけるでもなく、「お」とひとこと言ったきり部屋に入ってしまった。
着替えて出てくると、今度は居間のソファーに鎮座している犬を見て声を上げた。
「なんだこの犬は。どこから拾ってきた」
イズミはまた同じ説明をしなければならなかった。
「ねえお父さん、この子飼ってもいいでしょ。名前ももう付けたの、レディって」
「誰がそんなことを許した、家から出しなさい」
「外でなら飼ってくれるの」
「番犬にならない犬なら用はない。この気取ったチビのメス犬じゃ無理だ」
「その子、多分アメリカンコッカ―スパニエルよ、お父さん」姉が台所から煮魚を運びながら言った。「多分血統書付きね」
「ねえお父さん、買うとすごく高い犬だよ、ただで飼えるなんてお得だってば」イズミはずれた主張を繰り返した。
「だめだ。元の場所に戻してきなさい」
「どこだかわからないもん。それにやたら犬を捨てちゃダメだって学校の先生が言ってた」
「お前がやたら拾うからだろう」
「付いてきちゃったんだもん、連れて行ってってあそこの家のおばさんに言われたんだもん。今捨てたら、捨て犬をする悪い人になるよ」
父はため息をついてまたビールをあおった。肝心の姉の同棲話には全然行きつかないまま、話題は犬のレディに集中した。
「はい、レディもご飯よ」
姉はみぞった魚と鰹節をかけたご飯を皿に盛ってレディの前においた。レディはソファから降りてクンクンと臭いをかいだが、悲しそうにクーンと言ってその場に座り込んでしまった。
「こら、餌なら玄関でやりなさい。部屋で飼うとは言ってない」
「ごはんぜんぜん食べないね」イズミが言うと
「ミルクは飲んだのにね。やっぱり高い犬は、厳選したドッグフードとかでないと駄目なのよ」姉が続けた。
「贅沢言う犬は飼わんでいい。何で飼う義理があるんだ」父は主張を曲げない。
「ちょっと待って、これどうかしら」
母がお菓子入れからバタークッキーを持ってきた。
「そんなものが犬の餌になるか」
「でもこういうのが好きそうな顔してるじゃない」
母がクッキーを目の前に数枚置くと、レディは嬉しそうにカリカリと食べた。
「ほら、やっぱり」
「面倒な犬だな。とにかく、玄関の外につなぎなさい」
しかたなく首輪にひもをつないでイズミは玄関の外のベランダの柱にレディをつないだ。レディは悲しそうにキャンキャン吠えた後、またぐるぐる回り出し、再びオリーブの鉢植えにのぼった。
「あっ、こら!」
今度はおしっこだった。出てきた父が怒声を上げた。
「こらっ!なんでそんなところでする。木が枯れるじゃないか」そしてレディを抱き下ろすと、その尻を叩いた。レディはびっくりして飛び上がった。
「叩かないでよ!」イズミが大声を上げた。
「お父さん、その子、トイレで用を足すようにしつけられてたんだと思う。芝生や地面の上ではできないのよ。掘れる場所をつくってあげないと、叩いても何にもならないわ」と姉。
「上等な子なのね、どうして捨てられたのかしら。わんちゃんは悪くないわよねえ」と母。
四面楚歌になって、父は酔いと苛々で顔を赤くしたまま家に入ってしまった。
外では、レディの悲しそうな鳴き声が続いている。
「一晩中吠えるつもりか。これじゃ近所迷惑だ」父がベランダから外をのぞきながら言った。
「だから家に入れてって」
「どこに糞を垂れるかわからない犬をか」
「あなた、もう少しましな言葉はないの」母が悲しそうに言った。深層の令嬢として大地主のもとで育った母は、父の乱暴な物言いをいつも嘆いていた。
「あした、犬用トイレとかトイレシーツ買いに行こうよ」
「誰も犬を飼うとは言ってないぞ」
「わたしとお姉ちゃんは言ってるよ」
「屁理屈を言うな」
姉が静かに言葉を挟んだ。
「預け先なら、あるかもしれないわ。まだ、聞いてみないとわからないけど」
「どこ?」母が尋ねると
「彼の家」
瞬間、空気が固まった。沈黙を破ったのは、父だった。
「彼の家って、……お前たちがその、住んでいる家か」
「わたしたち、今一緒には住んでない。やめようって言ったのは彼」
父の目が大きくなった。
「そんなにご家族に反対されているなら押し切るのは良くないって。時間をかけてわかってもらうよう、僕もちゃんとした正業に就けるよう、努力するって。そうしたらお父さんにお会いしたいって。お父さん、あの時は勢いで私も言い過ぎたわ。ごめんなさい」
やっと聞きたいことが聞けた、というような安堵で、父の表情がほぐれていくのがわかった。父は吸いかけていたタバコをもみ消し、ふーと息を吐いて腕を組んだ。
「で、お前は今学生マンションにいるのか。ひとりで」
「うん、大学にもちゃんと行ってる」
「相手のその、大樹……とかいう男はどこに住んでるんだ」
「大浜大樹くんは、親戚が引き払った古民家に一人で住んでるの。湘南の、鵠沼海岸駅の近くでね。多少荒れてるけど庭もあるし、もともと犬好きで、実家でも飼っていたって話してた。でね、私達一緒に棲んだら犬を飼いたいねって、そんな話をしたことがあるの。だから頼めば、なんとかなるかもしれない」
「……しかしな、飲食店でバイトしている間留守番ができる犬じゃないだろう。仕事が深夜になれば鳴き声で近所に迷惑がかかるぞ」
「ううん、今はそっちのバイトはしてないの。大学でプログラミングを勉強したのを生かして、今は自宅で企業のホームページを作ったりしてる。結構評判なのよ。あと、なんか、海洋生物学の研究始めたみたい」
「……」
「一応聞いてみるね。すぐには無理かもしれないけど、ちゃんとした答えがもらえて準備ができるまでは、レディをここに置いてあげてくれない?」
レディの悲鳴に似た鳴き声は続いていた。
「とにかく、ご近所に迷惑だから玄関に入れよう。玄関までだぞ」
「うん、ありがとお父さん!」
イズミは叫ぶように言って、外に走り出た。そして紐を絡ませてぐるぐる走り回っているレディを抱き上げると、苦労して紐をほどいた。
「おうちの中で寝られるよ。そしたらもう、吠えないんだよ。よかったねレディ」
そしてダンボール箱を見つけ出して中に新聞紙を敷き、そのとなりには古毛布をおいた。靴はみんな靴箱に入れた。イズミの家の玄関は、居間に通じるドアと廊下に通じるドアを締めれば閉じられた空間になる。
「いい? どっちが寝床でトイレでもいいけど、そこ以外でおもらしは駄目だよ。吠えても駄目。ここにミルクおいとくね、あしたはドッグフード買ってくるから」
家の中に入れてもらえてぴょんぴょん跳ねまわっていたレディは、イズミが廊下に通じるドアを開けるとクンクン鳴き始めた。
「うるさくしたらダメ、お父さんに追い出されちゃうよ。わかった、わたしがしばらくここにいてあげるから、ほら、ねんね」
イズミは玄関に座ってレディを膝に乗せて頭を撫でた。父はウィスキー片手に早々と寝室に入り、居間で母と姉がぎこちない雰囲気でお茶を飲んでいる。イズミはうとうととレディの上に頭を垂れた。
夢を見た。
家の中で皆がレディを囲んであれこれ言いあっている。
すると屋根がぱかっと開いて青空が見えた。
突然レディの背中に翼が生え、ふわりとはばたきながら浮き上がった。
イズミの背中にも大きな翼が生えた。背中の筋肉で自由に動かせる。ゆっくりはばたきながら、イズミもレディの後を追って浮き上がった。マコ姉も、翼をはばたかせながらついてくる。いつの間にか庭の真ん中に銀杏の木が生えている。父と母は木の下で皆を見上げながら、「危ないわよ」と叫んで、どういう訳かたくさんの風船を持ってきて手放した。白と、ピンクの風船。沢山の風船に囲まれながら銀杏の木のてっぺんにのぼる、でも枝に引っかかった風船はぱんぱんと音をたてながら割れてゆく。
「御二人の門出を祝って、いま祝砲が上がりました」
どこかで司会者みたいな声がする。遠くに煙突が見える。ああ、翼のある人がてっぺんに乗っている。いま、こちらに向かってゆっくり羽ばたいた……あれは…
マコ姉はその夜ひと晩家に泊まり、日曜の昼、学生マンションに帰って行った。
その日の午後、レディのあれこれを買いに父と西友に出かけた。
缶詰にリードとかトイレシーツ、犬用のケージに、小さな犬小屋。
「ありがとう、お父さん。レディ、きっと喜ぶね」
「ずっと飼うとは言ってないぞ。貰い先が決まるまでの間だからな」カードで支払いしながら父は苦々しく言った。
「うん、マコ姉ちゃんの彼氏がもらってくれるといいねえ」
父はふと黙った。そして、言いにくそうに言った。
「お前はその、見たことがあるのか、彼氏とやらを」
「会ったことなんてないもん」
「そうか……」
「でもきっといい人だよ、マコ姉が結婚したいっていうぐらいだし、話聞いてるとちゃんとした人っぽいし。一度会ってみたいな」
帰宅して、玄関先で(日中はベランダで飼うと決めている)買ってきた缶詰をエサ皿にあけると、ブンブンしっぽを振り始めたレディの前で父は制止するように手を上げて言った。
「お座り!」
レディは一瞬戸惑った目で父親を見たが、ストンと尻を落として座った。
「わあ、かしこい」
「お手!そのまま、待て!」
レディはおそるおそる、といった調子で父親の掌に手を乗せた。
「ふむ、よし」
レディはカタカタとお皿を鳴らしながら嬉しそうに餌を食べた。
「鑑札もついてるし、お前は一応いいところの犬だな。食事が終わったら散歩に行くか」
「お散歩! わたしもいく!」
その日、レディはリードを引っ張るでもなく、父の右横について、上品にとことこと歩いた。
「ねえ、お父さん。ここからずっと東に行くと高い高い煙突のある工場、ある?」
「煙突だけじゃわからない。何だいきなり」
「銀杏の木の上の方から見えたの。でね、てっぺんがぴかっぴかって光ってた」
「学校から見えるぐらいなら、高井戸の焼却施設の煙突だろう。どこまで登ったんだ、まったく」
「えへへ」
家から程近い公園の草原に着くと、シロツメクサやクローバーの繁みに跳ねる虫を見つけて、レディは鼻面を突っ込んではぴょんぴょん跳ねた。嬉しそうにしっぽをパタパタ振りながら。
「かわいいね」としゃがみこんでレディの視線になってみるイズミの横で、
「犬が嫌いというわけではないんだ。昔飼っていたしな」父親はぽつりと言った。
この草原で、イズミたち一家は昔よくご飯を食べた。ランチではなく、夕食だ。夏の暑い夜、ピクニックテーブルを持ち込んで、灯りの下で夕食をとる。風が心地よく、頭の上には星空。蝙蝠が舞うのも見える。ビールに酔った父が、今考えたというくだらないなぞなぞを繰り出してくる。母はうんざりして、答えが答えになってないと父の考えた正解にケチをつける。寄ってきたカナブンをイズミが掴んで、姉の服にくっつけ、姉が悲鳴を上げる。楽しい夕餉だった。
「どこから来たんだ、お前は。こら、チビ助」濡れたような瞳でこちらを見つめるレディに、父は声をかけた。イズミはなんだかうれしくなった。
「いつか煙突のあるところまでお散歩に行こうよ」
「なんでお前はそんなに煙突が好きなんだ」
「あのピカピカしてるてっぺんまで登ったら何でも見えそうなんだもん、マコ姉のマンションも、彼氏のおうちも」
五月の風は、甘い花のにおいを幾つか含んで、ふわりと膨らんでいるようだった。父親は空を見て目を細めた。
レディを飼い始めてから二週間後、マコ姉が彼氏と一緒にレディを迎えに来た。
乗ってきたのは、箱のような形の緑色のミニカーだった。
「初めまして、大浜大樹です」
庭で出迎えた母に向かってぺこりと頭を下げた彼は、ほんの少し茶色に染めた髪を長めに下ろしていたが、濃い眉毛の下は睫毛の長いきれいな目をしていて、背はすんなりと高かった。
「イケメンじゃん」
「これ」
母親に脇をつつかれても、イズミは上機嫌だった。レディとの別れは寂しいけれど、会えなくなるわけじゃない。
日曜だというのに、父は仲間と碁を打ちに学士会館に出かけてしまっていた。まだ顔を合わせる時期じゃない、とかなんとか言って、結局、逃げたのだ。
お母さんはベランダのテーブルにチェックのクロスをかけて、ラナンキュラスの花を飾って、ボーンチャイナのティーカップでお茶を出した。足元にじゃれつくレディを撫でながら、「よーしよし。人懐っこいですね。これから仲よくしような」と大樹くんは笑った。マコ姉も笑っていた。
「どうやら相性は良さそうね」
「海洋生物学のお勉強をしてるんですって?」ミルクを勧めながら母が尋ねた。一番気になった部分だったようだ。
「はあ、そういうと堅苦しいんですけど、いま興味を持っているのは沖縄の珊瑚の再生なんです」
「珊瑚……。白化現象が激しいんですってね」
「はい」熱いミルクティーを啜ると、彼は目を幾分目を細めて続けた。
「本音では、いずれ沖縄に帰って漁業を継ぎたいんです。がその前に、海が死にかけている、とオヤジが繰り返し言っていたのが気になって。でも、生き返らせる方法はあるんだって言うんです。お前がそれを手伝ってくれたらと」
「まあ。どんな方法なんですか」
「専門的な話になるんですが」と前置きして、彼は語り出した。
「まず、サンゴ礁は、海の生き物にすみかや産卵場所を提供する、海の命の源なんです。
サンゴが死ぬと、海の生き物のうち、4分の1の種類が生きていけなくなるといわれています」
「そんなに?」思わずイズミは聞き返した。
「そうだよ。そして、サンゴはサンゴだけで生きてるわけじゃない。サンゴが褐色に見えるのは、サンゴの色ではなく、サンゴの体内にすむ『褐虫藻』という小さな生き物の色なんだ」
彼はメモ帳を取り出して、ペンで褐虫藻、と書いて見せた。その字にぐるっと丸をして、丸の外側に器用につんつんしたサンゴの絵を描いた。そしてそこから出ていく→と、入っていく←を書いた。
「この褐虫藻は、サンゴがはき出す二酸化炭素やアンモニアを取り込んで、太陽の光を使って光合成する。酸素や脂質、アミノ酸に変えるんだ。そして、作った酸素やエネルギーを利用して成長する。自分に不要な物を相手に必要な物にリサイクルして共生してるんだ。サンゴが元気でいるためには、褐虫藻が元気でないとだめなんだ」
「ふうん」
「でも、僕の実家がある石垣島の、国内最大のサンゴ礁、石西珊瑚礁では、海水温が上がったせいで、サンゴの90%以上が白化してる。白化っていうのは、もともと透明なサンゴの外郭から褐虫藻が抜けた状態なんだ」
「つまり、サンゴとしては死んでるってこと?」
「そう。外側があるだけ。これでは命のゆりかごにはなれない。
その海で、これまでの常識を覆すサンゴが誕生した。そう、父親は言うんだ。
高い海水温でも白化しないサンゴ。もともと沖縄の海に生息する『ウスエダミドリイシ』というごく普通の種類なんだけどね。深いところに生息しているこれを、浅い海に移植して、太陽の光に耐えられるか実験してみたらしい。すると、白化した部分もあったけれど、ある部分は耐えた。褐虫藻が抜けなかったんだ]
彼は、ウスエダミドリイシ、と新たに書いたその字の周りにまたつんつんしたサンゴの絵を描き、力こぶを盛り上がらした腕と、強そうな眼を描いた。
「凄い生命力を持つ、がっつり強いサンゴを見つけたぞと。これをサンゴの死んだ海に移植していって、いずれはサンゴ礁を再生したいというんだよ」
「壮大な話でしょ。どう、イズミちゃん」マコ姉は得意そうに言った。イズミは正直に言った。
「勿体なーい」
「もったいない?」母と姉は同時に声を上げた。
「かっこいいじゃん。いまここに、お父さんがいたらよかったのに。聞いたのがわたしたちだけなんてもったいない!」
「あははは」明るい声で大樹君は笑った。
イズミは思った。ああ、ホントにどうしてここにお父さんがいないんだろう。この人は、お父さんの言ってたような、育ちの悪いところなんて、何にもないじゃない。彼のお父さんだって、立派なことをしようとしている人じゃない!海を生き返らせようだなんて、なんてすごい!
「それで、沖縄に帰って研究なさるの?」母は先を急いだ。
「いやあ、まずは食っていかなければならないですから。ホムペ作成の仕事と、ゲームのプログラミングは、こっちでモノにしていこうと思ってます。顧客が増えて仕事が安定すれば、沖縄に行ってからも続けられますし。オヤジも、急ぐ仕事じゃないが大事な大事な事業だと言ってます。なんとか両立できればと」
「できるわよ、パソコンがあればできる仕事だもの」姉が言った。
「そしたら、レディはどうするの」イズミが聞くと
「沖縄に帰ると決めたら、当然連れてくよ」彼は答えた。
「お姉ちゃんは?」
「当然連れてってよね」
軽い調子で姉は言った。彼は困ったように笑った。母は紅茶を啜って胡麻化したが、目は笑っていた。やはりここにお父さんがいなくてよかったと、イズミは思った。
その日の夕方、犬小屋もマットもケージも全部、四角い車に乗せた。最後にレディも。
窓から顔を出して吠えるレディの首を抱きしめて、イズミは存分に顔を舐めさせた。涙がにじんできたけれど、これでお別れじゃないもん、と心の中で繰り返した。
「いつでも会いに来ていいからね。すぐそばに鵠沼海岸があるよ、レディも好きなだけ砂が掘れる」
大樹くんは優しい声でそう言ってくれた。
「ほんとに行っていいの」
「嘘なんか言わないよ。レディもきっと待ってる」
車が遠ざかって行っても、クンクンキャンキャン、という声はずっと聞こえていた。イズミは家の中に駆け込んで、ソファに顔を埋めた。
幸せになれるんだからね、レディ。みんなで、幸せになるんだからね。
それからの日々は、一見初夏の清流のように流れた。表面を見れば波立たず穏やかなのだが、その下の方では瀬を速み岩にぶつかる急流が小魚を舞い散らせ、水草を躍らせている、イズミにはそう思えた。
マコ姉と彼氏は、レディと一緒にそのうち古民家に棲むようになるのだろう。父にいちいち許しを得ずに。父の怒りが正面衝突すれば、二人と一匹は沖縄へ、石垣島へ去ってしまう。そして、あと一週間でハタチの誕生日を迎えるマコ姉を止めるものはもう何もない。
姉からは数日後、鵠沼海岸で二人と散歩するレディの写真、家の中でひっくり返ってお腹を見せるへそ天のレディの写真、その横でピースをする彼氏の写真が何枚も送られてきた。この家にいた時と同じように、いやそれ以上に、レディはしあわせそうだった。それを見終わると、夕餉の席で、父は何気なく言った。
「一度鵠沼海岸から茅ケ崎あたりに散歩に行くか」
「本当? ほんとうに? レディにもあうんだよね?」イズミは大声を出した。
「う、うむ、たまたま会えればな。あさっての日曜あたりに」
「うん! わたしと、お父さんで行くんだね?」
「あさっては麻子の誕生日だわ。麻子たちにも予定があるかもしれませんよ」と言いかけた母を制して、イズミは小声で言った。
「おかあさん。お父さん、やっと認めようとしてくれてるかもしれないんだよ。水差しちゃダメ!」
勿論丸聞こえだったが、父親は知らぬ顔でテレビの音を大きくした。
寄せては返す波の音。
イズミには大好きな音だった。
毎回同じようなのに、一つとして同じ波がない。しかもそれらは、外洋のはるかなかなたから知らない物質と水の匂いを運んでくる。
砂にいちいち訪れの跡を残して。
「突然来るなんてメールしてくるから、お迎えの用意も何もしてないわ。家もごちゃごちゃだし」
風になぶられるセミロングの髪をかき上げながら姉が言う。
「家ってお前のマンションか」父が尋ねる。
「見たかったのは彼の済む古民家じゃないの? わたしのマンションはここから三駅先よ」
大樹くんが手にしていたピンク色のゴムボールを投げた。飛び上がるようにして、レディは一直線に追いかけた。咥えて戻るその足元で引き波がしぶきを上げる。
レディはボールを咥えたままとことことイズミの父親のそばに来ると足元に体を擦り付け、それからイズミに向かって勢いよく飛びづいた。
「わたしが先じゃないんだな、こら」
「誰がボスか、犬は犬なりにその家での支配権の順を学んでいるんだよ」と大樹くんが言う。そしてボールを受け取ると、イズミの父親に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「ご挨拶が遅くなりました。麻子さんとお付き合いさせていただいています。大浜大樹です」
「娘がご迷惑をおかけしてませんか。その、不躾に押しかけたりして」父が微妙な物言いをした。
「いやあ全然。家は沖縄風に開けっぱなしの和風建築で、誰が来ても大歓迎ですよ、犬でも猫でも、近所のちびちゃんでも」続けて彼は言った。
「実はまた近々、そちらに伺おうかと思っていたんです。というか、そちらのご近所に」
「ご近所?」父が怪訝な顔をした。
「麻子さんが、この子の出自をちゃんと知りたいと言うんです。長い付き合いになりますから、最初の出会いだけでもはっきりさせようと」
「うむ、それはわからないでもない」父は言った。「一応飼い主がいたはずだからな」
それからおほん、と咳をして、父親は言った。
「つまりその、お前たちまだ、一緒には住んでいないんだな」
「住んでおりません、約束通り」姉はすました顔をしてレディの頭を撫で、またボールを投げた。レディは一目散に走って行った。
「まだ午前中でしょう。みんな揃ってることだし、最初にイズミちゃんがレディを拾った場所に、行ってみない? もしかしたらご近所で、もとの飼い主が迷子犬を探しているかもしれないわ。それがずっと気になっていたの」
え~、と声を上げそうになって、イズミは押しとどめた。ここにいるみんなは大人だ。みんな自分よりずっと大人だ。自分たちがレディをかわいがりたいという事よりも、レディをかわいがっていたはずの人たちのことをちゃんと気にしているんだ。だって自分と合う前に、レディにはレディのおうちがあったはずなんだから。
「その前に僕の家でお茶でも召し上がりますか?」彼が遠慮深げに言った。父は少し考えてから答えた。
「うん、まあ、上げては頂かなくてもいい。だが、外からちらりとでも家を見せてもらえれば。古民家には興味がある」
「本当に古いんですよ、築六十年は越えてます」
表通りから階段を上がった先の路地の突き当りに、その家はあった。いくつも屋根が重なる、完成当時は風格があったであろうという家だ。全体に、蔦が絡まっている。
「叔父が長期入院して、家族ごと病院の近くのマンションに越して、空き家状態だったのを借りてるんです。中は壁が漆喰で、柱も黒光りしてなかなかきれいですよ」
家の外には飾りのように漁業に使うガラスの浮き球がつるしてあった。縁側は古びてはいたがしっかり磨き上げられていた。南に向いたガラス戸には涼しげにすだれが下がり、短めのゴーヤの蔓が絡まっている。
「これで結構収穫できるんですよ。アバシゴーヤが主なんですけどね、オリーブオイルとだし醤油で漬けると美味しいんですよ。もちろんゴーヤチャンプルも作ります」
「彼が作るゴーヤのオリーブ漬けは絶品なのよ、今度おうちにももっていくわ」姉が言うと、父は庭のしだれに触れながら言った。
「うん。なかなか手入れされていい家だ。さて、日が暮れないうちに、レディの実家捜索に行くか」それから静かに言った。
「麻子。きょうで二十歳だな、おめでとう」
「あ……。ありがとう」姉は頬を染めてぎこちなく答えた。
「お姉ちゃん、これ。枯れないうちに、どこかに飾って」
イズミは大きな紙袋に隠していたフラワーアレンジメントを、ごそごそと手渡した。オレンジの薔薇やカラー、ガーベラがカスミソウに埋もれるように咲き誇る、愛らしいアレンジメントだった。
「ありがとう! イズミちゃんにこんな素敵なもの貰うなんて、感激だわ」
「ひとまずうちに置いておこうか。後から取りに来たらいい」彼が言う。
「そうね」
そんな必要ないじゃん、きっとこの二人もうここの家で週の半分は暮らしてる。玄関に飾りにいく彼を見ながら、イズミはそう勘づいていた。
家までの道、みな不思議に無言だった。父をほっといて、ハンドルを握る大樹くんと姉二人で話しこむのははばかられ、そして父が後ろから話しかけるのは唐突過ぎる雰囲気だった。気の利いた話を持ち出すのはイズミには早すぎた。イズミはただ、横に座るレディを撫で、湿った鼻に鼻をくっつけて話し掛けた。
「大丈夫? レディ、車酔いしない?」
「実はするんだよ」運転しながら大樹君が笑った。
「車に乗ってるのがストレスなのか、以前おいてあったほしイモを一袋、乗ってる間にほとんど食べちゃってね。そのあと全部リバースした」
「犬もお芋食べるの」
「最初はクッキーとミルクと高いドッグフードしか食べないお嬢様だったけどね。うちで飼った結果、下賤のおやつをお好みなのがわかったよ」
レディはクンクン言いながら前の座席に移ろうとした。その彼女を、姉が抱き上げて膝に乗せる。するとレディはずっと体をねじってこちらを見続けるのだ。
「わからなくなっちゃってるかもしれないね、自分が誰の、どこの子か」
「そうねえ」
姉は短く答えた。
「イズミちゃん、最初にこの子が出てきた場所のこと、覚えてる?」
「うーん。上水沿いに歩いて、牟礼のあたりで畑を右に曲がって、赤い屋根の大きなおうち。そのぐらいしか覚えてない」
「うちで飼うことに決めるとね、犬の飼い主として登録しなけりゃいけないんだよ。基本的に生涯一回だけどね、引っ越しした場合等には移転先の市区町村窓口への届出が必要になるんだ。狂犬病の注射も年に一回はしなくちゃならない」大樹くんは言った。
いま首輪についている登録票を見ると、犬の足跡の形で、武蔵野市、と書いてあった。狂犬病注射済みのプレートのほうは、骨に似た形で、年号と番号が書いてある。平成十二年、今年だ。
「近所なのは間違いないね。ちゃんと育てられたのも」
「問題はこの子犬がどうして迷子になったかだ」父は言った。
玉川上水が近づいてきた。上水沿いの道は、狭くて、車では通れない。
「できるだけイズミの記憶にある景色の近くのコインパーキングで止めて、あとは足で探すか。あるいは、レディが覚えているかもしれないな」父は言った。
ちょうど目の前に現れたコインパーキングで車を止め、家で待つ母親に今までの事情をメールし、姉は首輪にリードをつないでレディを車から降ろした。
それでも、ひどい目にあわされて、あるいは事情で飼えなくなって、得手勝手に捨てられたかもしれないじゃない。むしろその可能性のほうを、イズミは信じたい気持ちだった。今レディを取り囲む人間の中に、この子をひどい目に遭わせようなんて思ってる人は一人もいないんだから。それだけじゃない。レディはばらばらになりかけた家庭を、その愛らしいしぐさでひとつにしようとしてくれている。今さら、誰かに返したくなんてない……
「キャベツ畑が見えたところで、イズミは「あ!!」と言った。
「何?」と姉。
「ここ、ここを通って、左に曲がった。間違いない!」
言ってからしまった、と思ったが、もう遅い。
レデイの尻尾がぶんぶんと勢いよく振られ、クーンクーンから、鳴き声がワンワン、に変わった。古い記憶を思い出したのだ。リードを引っ張るように、レディは走り出した。皆一斉にそのあとを追いかけた。しんがりは父だった。
この道は、とイズミは思った。あの家に向かう道だ。間違いない。うちの子じゃないわ、と断言した女性のいる、あの家。しばらく走ると、行先に赤い屋根が見えてきた。その途端、何かのはずみでリードが首輪から外れた。
「あ!」
レディは一目散に赤い屋根の家に向かって走って行った。
すると、レディが最初這い出てきた柵の内側に、ひょいと男の子の顔がのぞいた。年齢は、イズミと同じぐらいだろうか。その子は、うわ、というような叫び声をあげると、レディがぴょんぴょんしている白い門のところに走って行って、大急ぎで内側からあけた。レディは飛び込むようにして、その男の子の胸に抱かれた。
「お父さん、お父さん、マリリンが帰って来たよ!」
キャンキャン、キャンキャンと、悲鳴のような声を上げるレディを見て、イズミは呆然とした。
マリリン……。あの喜び方。やっぱり、ここの家の犬だったんだ……
「マリリン、マリリン、探してたんだぞ。一体どこへ行ってたんだよ」
芝生の上を一緒に転げまわるようにしながら、少年は子犬を抱きしめた。その後ろに、背の高い、白の半そでシャツを着た男性が現れた。そして、「おお、お前、帰ってきたか!」といい、しゃがみこもうとして、門の前の一団に気づいた。
「あの、あなた方がこの子を連れてきてくださったんですか」
父はとまどうように言った。
「あいや、そう……そういえば、そうなんですが。こちらのワンちゃんでしたか」
「貼り紙を見てくださったんですか」
「貼り紙?」
「動物病院やペットショップや町の掲示板に貼り紙をしたんですよ、息子と手分けして」
「そうでしたか。いや、貼り紙を見たわけじゃないんです。イズミ」
呼ばれてイズミは、おずおずと前に出た。少年の顔を舐めまわす子犬は、もうこちらを見ようともしない。
「あの」言いかけて唾を飲み、イズミは角の立たない説明の言葉を考えた。見たままを言えば、角は立つ。これはもう、仕方ない。
門に続く階段の下で、イズミは白いシャツのおじさんを見上げた。品の良さそうな、優しい顔をした人だ。
「その犬レディ……マリリンちゃんは、わたしがここをお散歩してたら、柵の下からボールと一緒に出てきちゃったんです」
「出てきた?」
「可愛かったので見ていたら、鼻先からずるずるって。そのとき、リードはなかったので、そのままお庭から落ちてきちゃったんです」
「離れてお話しするのもなんだし、どうぞ上がってきてください」
そう言われて、イズミと父と大樹くんとマコ姉ちゃんは、広い芝生の庭に招き入れられた。庭には銀色のエサ入れがあり、犬のおもちゃのボールがあちこちに転がっていて、すみには子どもの隠れ家のような小さな木の家があった。そして庭の中央には、瀟洒な白いテラステーブルを囲んで椅子が並んでいた。
「どうぞこちらへ」
「いや、そんなわざわざ」
「いや、もう、どうお礼申し上げていいかわからないぐらいなんですよ。この子が、息子があれからすっかり元気をなくして、ほとんど食事もしなくなりましてね。圭祐、お母さんにマリリンが戻ったことを伝えて、お茶の用意してもらって」
とたんに大樹くんが制するように手を上げてとどめた。彼もまた事情を知る一人なのだ。
「それはいいので、どうかこの子の話を最後まで聞いてあげてください」
おじさんは怪訝な表情で頷いた。イズミは続けた。
「あの、そのとき、出てきちゃったレディ……じゃなくてマリリンちゃんを、抱っこして門まで上がって、呼び鈴押して、おうちの人を呼んだんです。そしたら女の人が出て来て、……その子はうちの犬じゃないから、うちは犬を飼ってないから、連れて行ってちょうだいって、そう……言ったんです」
「は?」おじさんは口をぽかんと開けて、絶句した。
「この子を? 知らないから、連れて行ってくれと? そう言ったんですか?」
「はい。あの、わたし、嘘は言っていません。ほんとなんです。それで困っちゃって、家まで抱っこして連れて帰ったんです」
ふと見ると、玄関から女性が出て来て、その場に立ち尽くしていた。そう、あの日犬は飼っていないと言ったあの人だ。
「お母さん!」圭祐、と呼ばれた子が声を上げた。「そんなこと言ったの? まさか言ってないよね?」
「知らないわ」
「知らないって……」
「その子もその方たちも知らないわ。マリリンは知らないうちにいなくなったのよ」
イズミの頭にカッと血が上った。それでは、自分が誘拐したことになってしまう。
「わたし、ちゃんと会いました。お話もしました!」
「知らないものは知らないのよ、これ以上説明のしようがないわ」それだけ言うと、バタンとドアを閉めて家の中に入ってしまった。全員が言葉を失った。
「お嬢ちゃん」おじさんが優しい声で言った。「疑ってなんていないから。そのとき、おばさんはどんな服を着ていたかな。覚えていたら、教えてくれないか」
イズミはくるりと大きな目で空を見上げて、言った。
「確か…… 水色のワンピースで、首のまわりにスカーフをしてた。カスミソウの模様だったと思う」
男の子が目を大きくした。
「お母さんのお気に入りのスカーフだ。ね、お父さん」
「あの細かい模様は近くに寄らないと見えないはずだ。そうだね、きみはちゃんとこの子のお母さんとお話をしたんだね」そして大きくため息をついた。
「そうか。それで、今まできみがお世話をしてくれていたのか…… 本当にありがとう」
「うん、うちにいたのは二週間ぐらいで、玄関で飼ってたの。次の十日は、マコ姉の……」
「友人の僕が、譲り受けて鵠沼海岸近くの家で飼っていました」大樹くんが後を引き取った。
父が口を開いた。
「番犬として日本犬しか飼ったことがないので、家の中で飼うことに抵抗がありましてね。玄関に毛布を敷いて、窮屈な思いをさせてしまった。でもとても行儀のいい子でしたよ」
「僕と一緒に海岸でキャッチボールもしたんです。名前はレディと呼んでいました。楽しかったな、レディ」大樹くんは少年の腕の中の子犬の頭を撫でた。子犬はぴんぴんと尻尾を振りながら大樹くんの顔を舐めた。
一人だけ、納得のいかない顔をしているのはマコ姉だった。
「お聞きしていいですか。どうしてうちの犬じゃないなどと、奥様は言ったんでしょうか。大事に飼われていたのなら」
「お母さん! 出て来てよ!」マリリンを父親に預けると、少年は赤い顔をして、断固とした足取りで家に入っていった。
おじさんは申し訳なさそうに身を縮めるようにして言った。
「実は…… 妻とは昨年の夏子連れ再婚したばかりでして。圭祐とキャッチボールしたりするのは父として楽しみでした。三人で、うまくやっていたんです。で、ペットを飼おうという話が出た時、もめましてね。妻が犬嫌いで、昔噛まれたことがある、絶対猫がいいと。結局僕と圭祐の主張で犬に決定したんです。でも、鳴き声がうるさいとか散歩が面倒とか、文句ばかりいっていたんですが、まさか、まさかこんなことをするとは……」
家の中からは少年と母親の争う声が聞こえていた。
「本当に、皆さんにはご迷惑をかけて、ここまで連れてきていただいて……」
「わたしたち、まだお渡しするとは言っていません」いきなりマコ姉が言った。「おい」と父親が遮ったが、マコ姉は言葉を続けた。
「妹も、服におしっこを引っかけられても我慢して、父の大事な鉢植えにおしっこされても玄関に招き入れて、皆で大事にしたんです。可愛くて素直で、妹はとくにこの子をかわいがっていました。大樹くんに引き取ってもらった後、妹が泣き続けていたと父から聞きました。彼も一生自分の犬にするつもりでお世話したんです」
「……」
「それを、いらないとかうちの子じゃないと放り出してしまう人が家族にいらっしゃるのに、お返しする気になれません。また同じことが起きたらどうするんですか」
「麻子」大樹くんが、頬を赤らめているマコ姉の手を握った。「もういいから」
「いいってどうしてあなたが決められるの」
「決めるのはレディ、いや、マリリンだよ」
家に入ったままの少年を追って、マリリンはワンワンと吠えながら玄関を入っていった。そのあとから、俯き加減の母の手を引っ張って、少年が出てきた。
「大人でしょ。ちゃんと謝ってよ!」少年は怒りで顔を紅潮させていた。
皆の前に発つと、母親は深く頭を下げた。
「後悔、していたんです。息子が何も食べなくなって、泣き続けて、マリリンを探すポスターを毎日手書きしているのを見て、わたし……」
「マリリンに悪いと思ってないの?」少年は追い打ちをかけるように言った。
「だから、あとから、かわいそうなことをしたと思ったわ。でもあの日、お嬢ちゃんの顔を舐めて喜んでいるのを見て、この子はどこでもやっていけるだろうと……」
「そんなの勝手じゃないか! マリリンはいま、誰に一番かわいがられてたか、わからなくなってるかもしれないじゃないか、お母さんのせいで!」
「そんなことはないよ」大樹くんが言って、しゃがみこんだ。
「きみはそっちでしゃがんで。イズミちゃんはこっち。さあ、マリリン。好きな方へ走っておいで」
「おいでおいで」双方から呼ばれてきょろきょろしたのち、マリリンはまっすぐに少年のほうに走っていくと、全身でぶつかって彼を後ろにひっくり返した。
「あはは、あはははは」顔じゅう舐められて、少年は泣き笑いしながら子犬を抱きしめた。
「決まりだね」大樹くんは言って、マコ姉の肩を抱き寄せた。
「ここが、この子の家だ」
おじさんは両手を握りしめてその様子を見ていたが、厳しい目で妻を見ると、言った。
「本当に心から反省しているのか。皆さんに迷惑をかけたんだぞ」
「はい」俯いたまま、彼女は答えた。
「マリリンが我が家を失っている間、皆さんでこの子を愛し、守ってくれたんだ。次に同じことをしたら、マリリンと僕と圭祐があの子を追って家を出るからな。きみはここで一人で暮らしなさい」
「……」
母親は真っ青になると、再び深々とお辞儀をした。
「本当にすみませんでした、この家の家族でいたいの。二度とこんなことはしないわ。どうぞ、許してください」と言って、涙を浮かべて家に入っていった。
額に手を当ててため息をつくおじさんに近寄って父は言った。
「いろいろありますよ、ねえ。夫婦ってものは」そして小声で続けた。
「うちも再婚なんですがね。本当の夫婦になるためには、むしろ波風が必要かもしれません。いい風が吹いたなら、みなでそっちを向かないと」
広い庭では、もうイズミと圭祐君がマリリンを挟んでボールを投げ合ってはキャッキャとはしゃいでいた。
「ぼくもう、お母さんって呼ばない」少年の小声が、風に乗って聞こえてきた。
「せっかくのバースデーが波乱万丈な一日になったな」車の中で父が言った。「おかあさんが家ですき焼きの用意をしてるそうだ。それでお祝いといこうじゃないか」
「お父さん、それじゃ、大樹くんからサンゴの話聞いて!」イズミは勢い込んだ。
「サンゴの話?」
「大樹くんと漁師のお父さんね、石垣島の、白化したサンゴを再生させる研究してるんだって、そして、死にかけてる海をよみがえらせるんだって。凄いじゃない!」
「海人をやめて、か?」
「父はもう肺をやられていて、潜るのは無理みたいなんです。でも、死にかけたサンゴ礁を再生させることのできる新しいサンゴを見つけたので、その研究と移植を手伝ってほしいと、僕に」
「ほう」父は感心したような声を出した。
「どうやって再生させるんだね」
「それはですね。どんどん白化していくサンゴの中に、凄く強い……」
「ウスエダミドリイシ!」とイズミは言った。
「そうだよ、凄いな。そういう名前のサンゴがあって、それを移植させていければと」
「ウ、スエダドリ?」
「お父さん、ウスエダミドリイシ」
「ウスダミドリシイ?」
これをお父さんがちゃんと言えるようになるには、まずあのサンゴの図から自分が丁寧に描かなくちゃ、とイズミは思った。
実は半分ほど実話です。いろいろあって、ワンコは姉の嫁ぎ先の親せきの家で幸せな一生を終えました。